16.誕生日 &『海の見える街(『魔女の宅急便』より)』

 シェアハウスに引っ越してから二週間がたった。


 三田村さんと私は、同じ会社に勤めているとは思えないほど生活サイクルが違い、ほとんど顔を合わせることがない。


 三田村さんは、朝七時には家を出る。私は三田村さんがドアを閉めてカギをかける音を聞いてから、キッチンに降りて朝食をとる。

 夜は、三田村さんが十一時ごろ帰宅して二階に上がってくる気配がしたら、スタンドの灯りを消して眠る。


 もっと積極的に交流した方が良いのかも知れないが、私は地味女子の常で三田村さんに気後れしていた。三田村さんは、色が白く細身で整っている。まだ三十歳なのにずいぶん落ち着いていて、その容貌と身のこなしは、「端正」という言葉がぴったりだった。

 それに三田村さんは素っ気ないので、今の距離感がちょうど良い気がする。



 シェアハウスに入居して一か月後の土曜日。


 気持ちのいい陽射しを感じて目覚めた。梅雨の晴れ間の快晴。誕生日がいいお天気なのは嬉しい。今日、私は二十九歳になる。生まれて初めて、家族と離れて過ごす誕生日だ。


 母から連絡があるかと思ったが、何も言ってこない。シェアハウスで暮らすと決めてから、母は私と口をきかなくなってしまった。家を出る三日前からは寝込んだ。その態度に苛立ちつつも、私が出て行ったら母はどうなるのだろう――と不安になり、決意は揺らぎかけた。


 そんな私の背中を押してくれたのは、父だった。


「一人で生活してみるのはいいことだと思う。頑張りなさい。何かあったらお父さんに連絡しなさい。お母さんのことは気にしなくていいから」


 いつも母の尻に敷かれているように見えた父がこんなふうに言ってくれるとは、意外だった。


 今日一日を楽しく過ごすことは、とても大切なことのように思う。落ち込まず前向きに過ごせますように。



 朝食を作ろうと階段を降りてキッチンに行くと、ごくかすかにピアノの音が聞こえた。ラウンジにつながるドアを開けると、三田村さんがソファでタブレット端末に見入っていて、音はそこからだ。


 この曲を私は知っている。でもタイトルが思い出せない。気になる。


「おはようございます」


「……おはよう」


 三田村さんは、タブレットから目を上げて私を見た。


「素敵なアレンジですね。何の曲でしたっけ」


『海の見える街』


 ああそうか、『魔女の宅急便』の曲だ。ずいぶんおしゃれなジャズに変えてあるな。


「観る?」


 三田村さんがタブレットを差し出したので、そばまで行って受け取った。


 画面では外国人の男性が一人で演奏している。でもアレンジは連弾で、もう一人分はピアノの自動演奏になっていた。勝手に鍵盤が動いている。


「面白いなと思って」


「ほんとだ、すごいですね」


 三分ちょっとの演奏で、大部分は、指と鍵盤の動きが映っている。


 いいな、このアレンジ。弾いてみたい。頑張れば書き取れるかな……。でも五線譜を持ってないし、連弾相手もいない……。


 そう思った時。


「弾いてみたいな」


 三田村さんがつぶやいた。


「……五線譜、持ってます?」


「あるよ」


「書き取ってみませんか?」


 突然の提案に三田村さんは驚いた様子だった。だがすぐに、「よし、やってみよう」と賛成してくれた。


 二人で並んでグランドピアノの前に座り、譜面台にタブレットを置く。何度も再生と一時停止、巻き戻しを繰り返し、時々実際に弾いてみながら、音符を書きとっていく。一部、動画に指や鍵盤が映っていないところは根性で聴き取った。


「絶対音感があったらいいのに」


「ほんとですよね。あったらこういう時、楽……。それにしても三田村さん、ピアノお上手ですよね」


 鍵盤に置かれた手の形や指の動かし方を見れば、相当弾けるのが分かる。


「高校まで習ってたから。でもKSJCでピアノを担当するほどじゃない。由香さんはもっと上手い」



 二時間がたった頃、『海の見える街』の楽譜は完成した。動画の男性は自動ピアノと連弾だが、こちらは人間二人が並んで弾くので、そのへんは弾きやすいようにアレンジした。


「よし、合わせてみよう。せーの」


 三田村さんが左側、私が右側に座って、演奏は始まった。

 午前九時をまわり、ラウンジには大きな窓から入る光が満ちている。そしてグランドピアノから紡ぎだされる軽やかな音色。すごく気持ちがいい。そして楽しい。


 曲の途中で、低音部の右手が高音部を弾く箇所がある。このままの態勢では三田村さんの右手は届かない。(どうするつもりなのかな)と思っていたら、三田村さんは「ごめん」と言って、私の背中から向こうに手をぐっと伸ばして、何とか弾ききった。


「ごめん」の意味は「身体が密着しちゃってごめん」だ。三田村さんは、ふわっと石鹸の匂いがした。



 その日、三田村さんに二度目に会ったのは、駅前のケーキ屋さんでだった。三田村さんは、私がどのケーキにしようか迷っているところに入ってきて、速やかにアイスクリームを四つ選んだ。

 私はようやくイチゴのホールケーキ(小さいサイズ)に決め、会計を済ませた。そして店を出て、シェアハウスまでの道を三田村さんと一緒に歩いた。


「今日はよく会うね。これまで一か月、ほとんど会わなかったのに」


「ほんとですね」


「……」


 私たちの会話は続かない。すぐに気まずい沈黙が訪れる。何か話題はと、必死に頭を回転させる。そうだ!


「三田村さんもKSJCの編曲、担当してるんですか?」


「……なんで?」


「五線譜、持っていたから」


「ああ、たまにね。あとは、KSJCのオリジナルを作れないか、っていう話が出てて、それで。才能ないから大した曲はできないけど」


 そうなんだ。あれだけ上手なメンバーだったら、オリジナルをやってみたくなるのは当然だろうな。


 また沈黙がしばらく続いた。次に口を開いたのは三田村さんだった。


「いつかは、冷たい言い方してごめん」


 私がKSJCに入るのを躊躇した時のことだ。気にしていたのか。意外。


「いえ。あの時は本当に煮え切らなくて、すみませんでした」


「また謝らせるために言ったんじゃない」


 三田村さんがむっとした。こういうところが、冷たい感じなんだよな……。萩岡係長と違って、話しづらい。そしてまた沈黙。シェアハウスまでの道のりが、いつもの倍以上に感じられた。



 三田村さんに三度目に会ったのは、夕食後だった。ケーキを食べようと、私がキッチンで紅茶を入れていたら、三田村さんがアイスクリームを取りに来た。


「それ、全部一人で食べるの?」


 小さいサイズとはいえ、1ホールは大きい。三田村さんの質問はごもっともだ。


「はい。誕生日なので」


 つい、言い訳がましく誕生日と口に出してしまったが、言わない方が良かったかもしれない。朝から一人で過ごしているのを見られている。誕生日なのに寂しい女だ、と思われたんじゃないだろうか。


「そうなんだ」


 相変わらず、三田村さんの表情からは何も読み取れない。


「はい」


「……」


 三田村さんは、何か思いついた様子で戸棚の引き出しを開けた。少しの間、中をごそごそやっていたが、「あった」と何かを取り出した。


「はい、プレゼント」


 手渡してくれたのは、小さなろうそく一本。


「ありがとうございます」


 すごく嬉しかった。


「マッチもあるから、立てたら?」


 言われるまま、ケーキの真ん中にろうそくを立てた。三田村さんが火をつけてくれ、私はそれを吹き消した。願い事は心の中で唱えた――恋をして、あわよくば結婚できますように。


 ケーキは四分の一を三田村さんにおすそ分けし、お返しに私はアイスクリームを一つもらった。あのケーキ屋さんは、アイスクリームで有名なのだそうだ。



(続く)


―――――――――――――――――――

A Town With An Ocean View - a one man duet (from Kiki's Delivery Service)

https://youtu.be/wG8jfptkPI4?list=PL0-g9V4B-03ILHnkX1Jm-sGp745f4m5Aw

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る