15.花音、一人暮らしを開始する
「で? 決めちゃったの? 三田村君物件に?」
「はい」
六月初旬の月曜日。
萩岡係長と私は、カウンターに並んで刀削麺をすすっている。辛さと酸味のある独特のスープ。そこにパクチーたっぷりのせ。病みつきになる味だ。
この頃、週イチで係長とランチするのがすっかり習慣になってしまった。ふっくら系の萩岡係長は見かけを裏切らずグルメで、会社近くのランチ事情に詳しい。おいしいものを食べながらKSJCや音楽の話もでき、楽しいひと時だ。
「思い切ったことしたねえ」
係長は、額に吹き出た汗をハンカチで抑えた。
「はい。あまりに魅力的なお部屋だったものですから」
私は鼻をかんだ。熱いものと辛いものってどうして鼻水が出るんだろう。
「どんなふうに?」
「二階建ての洋館で、広い敷地に建っています。門を入ったところから玄関までのアプローチでは、もう少しでアナベルという真っ白なアジサイが満開になります。お部屋は八畳と専用のバスルーム。三田村さんのお部屋にも付いている、と言っていました。住人が多ければ何人かで共用するそうなんですが、二人だけなので、お互い専用で使えるんです。外国人のご夫妻が作らせた物件なので、元からバスルームが多いそうです」
「えー、いいなあ。それで五万円? あり得ない家賃だよ~」
「二階にはバルコニーがあって、すぐそばに桜の大木が。高台にあるので眺望が開けていて、近くの公園と池が見えます。一階にはラウンジがあり、壁一面が大きな窓で、庭の緑が綺麗です。そしてラウンジには、自由に使っていいグランドピアノが」
「すごいじゃない! ピアノまであるの⁉ いいなあ、僕もそこ、住みたいなあ!」
そうでしょうそうでしょう。
KSJCで一番そっけない三田村さんと同居、というのは引っかかった。でも家賃の安さに加え、この物件の魅力ときたら! こんな素敵なお屋敷に住めるチャンスは、もう一生ないだろう。三田村さんを気にしている場合ではない。私は即決したのだった。
「引越しはいつ?」
「もう済ませました」
「ええっ⁉ っごふっ!」
萩岡係長がむせた。
「内見したのが先々週の土曜日で、先週の土曜日――つまり一昨日――に引っ越したんです。それで、急で申し訳ないんですが、水曜の午後にお休みを頂いてよろしいでしょうか? 手続きがいくつかあって」
「いいよ、今週は暇だと思うし」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。最近の飯倉さんは、変化に富んでいるね」
いいことだ、と萩岡係長はにっこり笑うと、麦茶を一気に飲んだ。
この日、私は久しぶりにドラムの練習をせず家路についた。早く自分の部屋に帰ってみたかったのだ。
はじめて利用する路線、まだ知らないお店ばかりの駅前商店街、行きかう人々。
梅雨入りしたばかりでじめじめした空模様とは対照的に、私の気持ちは晴れやかだった。
駅前のスーパーでメンチカツと野菜を買って帰宅し、共用のキッチンで、昨日冷凍しておいたご飯を温めた。そして胡瓜とミニトマトを洗い適当な大きさに切り、すべてを大きめの平皿に乗った。ワンプレートディナーだ。私だって、やればこのくらいできるのだ。
だが、キッチン横の小さな部屋(「朝食室として作られたものです」と山際さんが教えてくれた)のテーブルに食事を運び、いざ食べようという時になって、ソースを買い忘れたことに気付いた。マヨネーズとドレッシングもない。
家ではいつも当たり前にそろっていた調味料を、すべて自分で買わなくてはならない――一人暮らしの洗礼を受けた気がした。
食事の後はシャワーを浴び、日曜日に駅前の図書館で借りた本を自室で読み、しっかり戸締りをして、十時にベッドに入った。サイドテーブルの電灯を消して目を閉じる。
一日ちゃんと暮らせた。きっと大丈夫。
この家は静かで心地良い。朝までぐっすり眠れそうだ。私はあっという間に眠りに落ちた。
……インターホンが鳴っている。
今何時? ……枕もとの時計を見ると、十一時だった。
寝ぼけたまま階段を降りると、玄関のドアが五センチほど空いていた。なんだろう。どうしたんだろう。
「飯倉さん? チェーン外して」
私はようやく気付いた。カギだけでなくチェーンまでかけていたことに。しまった。三田村さんを締め出してしまった。
「すみませんでした」
平謝りするしかない。
「今度から気を付けて。なかなか起きないから、どうしようかと思った」
三田村さんは靴を脱ぎ、スリッパをはいてキッチンに向かう。私は謝り足りない気がして、後をついていった。
キッチンに入ると三田村さんは冷蔵庫をのぞいたが、
「何もないや」
とぼそりと言ってバタンと扉を閉めた。
お腹が空いているのだろうか。ちょっと離れたところから、息を詰めて様子をうかがう。三田村さんが振り返った。
「なに?」
「いえ。本当にすみませんでした。今度から気を付けます」
「もういいよ、俺もなにかやるかも知れないし」
無表情。感情が読み取れない。ほんとにもう怒っていないのかしら。
「はい……ところで三田村さん、お腹空いてます?」
「うん。でも作るのは面倒だから、このまま寝る」
「メンチカツ、食べます?」
夕食用に買ったのを、朝食用に一つ余らせておいたのだ。さっきの失敗を取り返すチャンスかもしれない。
「ほんと? いいの?」
三田村さんが、少し嬉しそうな顔をした。やった。
「どうぞ。冷蔵庫に、お皿にのせてラップをかけて入れてあります。そのまま温めて食べちゃってください」
私はそれだけ伝えると、寝室に引き上げた。
ああ、びっくりした。明日からもっと気を付けて暮らそう。
(続く)
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