11.花音、母親に文句を言われる。そして一人暮らしについて妄想する
KSJCに加入してから、私の帰宅時間は毎日午後八時を過ぎるようになった。
母には、「会社のサークルに入ったから帰りが遅くなる」と、ほぼ正直に伝えていたが、二週間くらいたった頃から徐々に不満を口にし始めた。
「ねえ。サークルがあるのはわかるけど、早く帰って来られる日もあるんじゃない?」
ごはん茶碗を差し出した母の顔に、不満の色が見て取れた。確かに合同練習がある木曜日以外は早く帰ることもできるのだが、私は久しぶりのドラムに夢中になっていた。もっと練習して、もっとうまくなりたい。他のメンバーの足を引っ張りたくない。それに、入社以来ほぼ六年続いた規則正しい生活に飽きていたのもあった。
「ごめんなさい。まだサークルに入ったばかりで、練習が必要なの」
「そう。でもあなた、今年二十九歳でしょ。今さらドラムに夢中になって大丈夫なの。お母さん心配だわ」。
出たな。「お母さん心配」。
これは母の得意なセリフで、私を従わせたいときによく使う。この言葉で私の罪悪感をあおるのだ。
「何が心配なの」
「……結婚できなくなるんじゃないか、って」
「サークルと結婚は、関係ないよ」
社会人になってからずっと,「彼」はいないんだから。
その日の夕食は、味がしなかった。
「またお母さん?」
瑠璃が眉をひそめた。
四月末。月一の音楽鑑賞会の後、バーでワインとチーズをつまみながら、私は母のことを愚痴ったのだ。
「お母さん、花音が何かに夢中になると、しゃしゃり出てくるよね」
「そうかな」
「そうだよ。大学のサークル入った時も同じような話を聞いたし、合宿に行くのも反対だったよね。花音、毎晩決まった時間に電話させられてたじゃない」
そういえば、そうだった。
「須藤君とのデートは、門限八時だった」
「よく覚えてるね」
「そりゃあね」
母は潔癖なところがあって、あの頃は、私を須藤君から守ろうと必死だった。
おかげで私は変な罪悪感を持ってしまって、須藤君とはキスまでしかできなかった。それが原因で半年ほどで別れた。それ以来、誰とも付き合っていない。
「家、出た方がいいんじゃない?」
思いがけない意見だった。
「貯金、ある?」
「……あんまりない……」
実家暮らしで余裕があるはずなのに、私のお給料は、いつの間にか消えていく。
「このまま実家にいたら、花音、結婚しそびれちゃうかもよ」
「……」
それは自分でもわかっている。
けれど、母への反発を感じつつ、なんだかんだいって居心地の良い実家を出られない、というのが私の現状だ。それに、実家を出たからと言って結婚できるとは限らないのだし。
瑠璃に愚痴れは少しはストレスを発散できるかと思ったが、なんだか余計に疲れた気がする。
「あーあ」
私は帰宅後、着替えもせずにベッドにごろんと寝ころび、お気に入りのサイトにアクセスした。
「横峯不動産」。ちょっと変わった物件情報が載っている。私はたまにこのサイトの物件情報を見ながら、ひとり暮らしのあれこれについて妄想するのだ。
2DK・木に囲まれた平屋、月十五万円――素敵だけど、二部屋もいらないな。
1K・天井高三メートル、月十八万円――外国のアパートみたいにおしゃれだけど、家賃が高すぎ。
1DK・畳の気持ちいい部屋、九万円――これなら手が届く。でも和室か……。
いくつか見ていくと、「シェアハウス、月六万円」というタイトルが目を引いた。安い。「詳細」をクリックする。
「トイレ共同・風呂なし(近くに銭湯あり)・シャワーあり」――安さには理由があったか。
専門商社の一般職OL二十八歳のお給料では、都心で理想の一人暮らしを実現するのは、かなり難しいのだった。もう何年も、このサイトを見ては同じ考えを繰り返していて、自分でも呆れてしまう。
トップページに戻り、何の気なしに、「横峯不動産」の「会社情報」をクリックしてみた。実店舗の所在地が書いてある。
〒×××―△△△△ 東京都……。
会社の近くだ。今度行ってみようかな。
(続く)
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