8.だし巻き卵と漬物のランチを食べながら、花音は自分の生活について萩岡係長と語らう
「?」というみんなの視線の中、瑠璃は堂々ときいた。
「フルートじゃ駄目ですか? 私、吹けるんですけど」
「申し訳ないのですが、今必要なのはドラムなのです。フルートは今のところ不要ですし、そもそも他社の方は入部できないのです」
黒田社長が丁重に断った。さすが紳士。
「そうですか……」
瑠璃は残念そうに肩を落とし、私の方を向いた。
「ちょっと花音、入れてもらいなさいよ。こんなに面白いこと、人生でそうそうないから!」
「え……でも、私……」
決められない。やってみたいけど。地味で内向的な私が、このメンバーとうまくやっていけるんだろうか。
その時、三田村さんが口を開いた。
「煮え切らないなあ。なに、その態度? 興味あるから来たんでしょ?」
「ちょっと、三田村君」
夏目先生が場を取りなそうとした。
「俺、苦手です。こういう、はっきりしないタイプ。入ってからも面倒くさそう」
三田村さんは、冷たい視線で私を見据えた。練習室に気まずい沈黙が流れる。
どうしよう。
「花音、大丈夫?」
「うん、あの、帰るね。すみません、失礼します」
私はみんなに頭を下げ、急いで練習室から出た。
ワクワクする演奏だったのに。楽しい夜だったのに。何でこんな結末に?
いや、理由はわかっている。
ぐずぐずしていた私が悪いのだ。
土日は、鬱々と自宅で過ごした。
いつもより元気がなかったはずだが、母は全く気付かなかった。細々と干渉してくる割に、娘の内面の変化には鈍い。
月曜日。
重い気持ちを引きずったまま出社。瑠璃からは、「大丈夫? そんなに嫌なら入る必要はないよ。もったいないけど」とメールが届いていた。
瑠璃はいいな。いつも何でもすぐ決められて。自分に自信があるからだろうな。
私たちが出会ったのは、大学の入学式だった。たまたま隣に座ったのが瑠璃で、初対面だというのに、「フルートをやっていてブラスバンドに入るつもりなの。この大学を選んだ理由の一つなんだ」とか、「実家は遠方で一人暮らし」とか、あれこれ自分のことを話してくれた。瑠璃は大学生生活への希望一杯で、キラキラしていた。
私といえば、「自宅から通える範囲の国立にしなさい」という親の勧めに従って受験した大学で、だから生活もほとんど変わらず、大した思い入れのない学生生活のスタートだった。
「へえ。じゃ、大学のブラスバンドには瑠璃さんに誘われて?」
萩岡係長が興味深そうにきいた。私たちはランチの最中だ。金曜日のことを気にしたのだろう、係長が誘ってくれた。
「だし巻き卵セット」が評判のお店。メインの大きなだし巻き卵(大根おろしたっぷり添え)、小鉢、お味噌汁。そしてテーブルごとに、大皿に盛られた五種類のお漬物(柴漬け、沢庵、菜の花、ウドの味噌漬け、春キャベツの浅漬け)。ご飯はお
「まあ、そんな感じです。『サークル見学に一緒に行こう』と誘われて、ついていったら『今、打楽器が足りてない』と先輩方が」
「そうなんだ。じゃ、大学でも今みたいな感じで入部したんだ」
「そうなりますね」
ほんとだ。その時から私、自分の意志で加入してなかったんだ。
「で、上手くなったの?」
「はあ。そこそこ」
打楽器は楽しかった。
三歳の頃からピアノを習わされていたが、指先であれこれ細かい動きが要求されるピアノと違い、打楽器で使うのは腕だ。シンプルで気持ち良かった。
最初はシンバルやタンバリンから初め、さほど時間が立たないうちに、「ドラムを叩きたい」という野望を持った。
「それで?」
「ドラム担当の先輩に弟子入りして、教えてもらいました」
「じゃあドラム、好きなんだ」
「はい」
そうだった。私はドラムが好きなのだ。
自宅では叩けないし、社会人になってまでやるものではないだろう、という思い込みで止めてしまったのだけれど。
「飯倉さんは、趣味ってある?」
係長は二杯目のご飯をよそい、私も続く。
「音楽鑑賞です」
瑠璃と月一でライブやコンサートに行くし、自宅や通勤電車でも、なにかしら聴いている。
「毎日どんな生活してるの?」
「平日は、残業がなければ七時には帰宅、家族と夕食です」
公務員の父と専業主婦の母、そして私という家族構成だ。母は、必ず夕食をみんなで取りたがる。遅れたり、父か私のどちらかがいないと嫌味を言う癖がある。
「土日は」
「土曜日は母とランチ、お買い物。日曜日はジムに行った後、部屋を掃除してビデオ鑑賞です。あとたまに友達(というのは瑠璃のことだが)と会ったり」
私が答えると係長は、ふう、とため息をついた。
「お母さんと一緒に過ごす時間、けっこう長いんだね」
「……。母は、私と一緒に過ごしたがるんです。専業主婦だからですかね」
学生だった頃は、私にもサークルやゼミの人間関係があり、程々に忙しかった。帰宅が遅くなると必ず小言をいう母を、鬱陶しく思ったものだ。
だが社会人になってみると、友人たちは仕事や家庭で忙しくなり、私の内向的な性格もあり、親しい付き合いが続いているのは瑠璃だけだ。そんな状態なので、母は一緒に外出する相手としてちょうど良かった。
「飯倉さんの生活を変えるチャンスかもしれないよ」
係長は三杯目のご飯をよそい、その上に菜の花の漬物をのせ、お茶をかけた。
またそんな大げさな、と思ったが、よく考えてみればそうかもしれない。KSJCに入ったら、少なくとも家と会社の往復だけの日々ではなくなりそうだ。
生活を変える。
そうだ、変化が欲しい。
私は箸を置いた。
「あの……。一度お断りしておきながら、大変恐縮なんですけれども」
「うん?」
さらさらとお茶漬けをかきこむ係長の手が止まる。
「やっぱり私、入部させて頂けますか?」
「本当?」
係長の目がきらりと輝いた。
「はい」
「もし皆さんがよろしければ、ですけれど」
三田村さんに冷たく言われたことが、気になっていた。彼は私の加入に反対かも知れない。
「ああ、三田村君のこと? 気にしなくていいよ。『飯倉さんがちゃんとドラム叩けて加入後にぐずぐずしなければ、文句は言いません』って言質を取ってあるから。会社に戻ったら、課題曲渡すね!」
萩岡係長は嬉しそうに笑った。
……課題曲?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます