6.セッションその1.パッヘルベルのカノン

 私たちは、自社ビルのところまで戻ってきた。前を歩く五人は、ビルの裏に向かって行く。守衛さんに挨拶をし、萩岡係長を先頭に、地下の駐車場へ。


「これから行く場所はメンバー以外入れないことになってるんだけど、今日は特別ね。飯倉さん、これから行く場所のことは口外禁止だよ」


「はあ」


 みんなでぞろぞろと駐車場の奥へ進む。午後九時半。静かだ。突き当りまで行くと、小さなドアがあった。通用門のような。でも随分しっかりした作り。萩岡係長がカギを開けた。


「さあ、どうぞ」



 そこはスタジオだった。二十畳ほどの広さ。オレンジ色のやわらかな照明が、ピアノ、ドラム、譜面台、棚に置かれた楽器ケースを浮かび上がらせている。私たちが大学で使っていた部室とは全く違う、大人の空間がそこにあった。


「あっ、黒田さん。早かったですね。すみません、これから連絡しようと」


 係長が話しかけたのは、壁際の椅子に腰かけていた男性だ。見覚えがある。チューバの人だ。


「夏目先生がつばめを出るときにメールをくれた。本来なら、社員の君たちが連絡すべきだろう」


「すみません」


 黒田さん、という男性にたしなめられ、萩岡係長と瀬戸さんはちょっとバツが悪そうだ。


「飯倉さんですね。ようこそ、KSJCへ」


 黒田さんはすっと席を立つと、こちらにやってきた。


(KSJC? このバントの名前? あれ? この人、ライブ以外にもどこかで見たことが……)


 落ち着いた物腰、少しグレーがかった整えられた髪、それに三つ揃いのダークグレーのスーツ。この「紳士」を絵に描いたような装いの彼はもしや。「三代目なのに有能」と財界で評判の。


「社長……ですか?」


「そうです。社長の黒田です。ここでは社長は不要ですよ。それと、『KSJC』というのは」


「黒田食品ジャズクラブ」


 瑠璃が答え、社長はかすかな笑みを浮かべた。


「その通りです。創部五十年を超える、わが社で最長の歴史を誇るクラブ活動です。私の祖父が創りました。ここ十年ほどは、ひっそり活動しています」


 うちの会社にクラブ活動なんてあったんだ。しかも、社長もクラブ活動するんだ。


「他にもクラブってあるんですか?」


 また瑠璃。


「チェス部があります。これは会長、つまり私の父が部長です。あとは香道、編み物、ゴルフにテニス」


 なんだか渋いクラブばかりだな。


「クラブって誰でも作れるんですか?」


 瑠璃は好奇心旺盛で、何でも詳しく知りたがる。


「いいえ。部員が六人以上、週一回の活動実績が一年以上必要です。社則で定めてあります。まあ、細かい話はともかく。演りましょう。高林君は今日で最後だし。萩岡君、三田村君を呼んでくれる? 残業中」


「はい」


 社長の指示に、係長は携帯をかけた。


「……うん、そう。……わかった、それじゃ一曲目、始めちゃうよ」


「遅れるって?」


「これから向かうので一曲目はよろしくお願いします、と」


「ま、いいでしょう。元はバリサクなしのアレンジだから。由香さん、ピアノ弾いてくれますか」


「もちろんです」


「七年前まで、うちの妻もメンバーだったんだよ。ピアノ。由香が抜けた後ピアノが見つからなくて、バリサクの三田村君を入れて編成を変えたんだ。それ以来、ややハードより」


 社長がチューバ、萩岡係長がトランペット、瀬戸さんがテナーサックス、そして夏目先生がトロンボーンを持って位置に着いた。


 萩岡係長以外の三人は、系統は違うが端正なルックスだ。楽器を持つと、それがさらに映える。みんなスーツの上着を脱いで、無造作に袖をまくって。夏目先生、瀬戸さん、係長はネクタイも外してしまった。そして高林さんがドラム、由香さんがピアノの前に座り、演奏が始まった。

 

 社長のチューバが、低い音で、ゆっくり奏でる単調な旋律。


 カノンだ。パッヘルベルの。


 二回目の繰り返しで、夏目先生のトロンボーンが重なる。次はテナーサックスで、最後に萩岡係長のトランペット。


「いいよね、係長のトランペット」


 瑠璃がため息をつく。私もそう思う。係長のトランペットは、澄んだ音色を響かせる。


 曲は二つ目のメロディーに差しかかり、テナーサックスが前面に出てきた。瀬戸さんのサックスは、軽やかだ。

 そしてサビは、やっぱり係長。右奥の定位置から、ちょっと前に出て準備中。

 たっぷり息を吸い込んで。他の楽器は一斉に演奏を止めて。係長のトランペットだけが高らかに響いた。


 上手いんだよなあ。例えるならそう、天使の音色だ。おじさんだけど。由香さんが好きになってしまったのもわかる。昔は痩せていて、かっこ良かっただろうし。


 今度はドラムとピアノが入り、全員が音を出している状態に。それと同時に曲調は、すごい速さのジャズへと変化した。


 そしていよいよ最期の部分に差しかかろうというとき。背後のドアが、カチャリと開いた。



(続く)


 ――――――――――――――――

 ◇パッヘルベルのカノン

 https://www.youtube.com/playlist?list=PL0-g9V4B-03KVnU9ioD2772iLDcaj63MO


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