5.高林さんの壮行会。花音、秘密のお店で美味しい和食をごちそうになる。
大人になったら、当たり前に経験するんだろうな。
そう思っていたことを未経験のまま通り過ぎていくことは、私の人生に意外と多い。
例えば、ハイヒールを履きこなすこと。
就職したら、スーツにハイヒールで通勤するものだと思い込んでいたが、そうはならなかった。最初は五センチヒールを試してみたが、激混みの地下鉄、さらに階段の昇り降りが多い駅構内を慣れないヒールで移動するのは苦痛以外の何物でもなく、三日で挫折した。
正直に言えば、自分の長身がヒールによってさらに目立つことも嫌だった。百六十七センチ、大きすぎるというほどではないが、成長期の頃、どんどん背が伸びる私をクラスの男子が「デカ女」とからかったことや、母に「大きくなりすぎると男の人に敬遠されるから、心配ねえ」と言われたことが、何気にトラウマになっている。背の高さで悪目立ちしたくなかった。
例えば、処女じゃなくなること。
若いころは、若い頃は、「あんなことを好きな人とするなんて信じられない」と思いつつ(これは今でもそうだが)、二十五歳を過ぎる頃には自分は経験済みなのだろうなと、漠然と思っていた。それがどうだろう。見事に未経験のままだ。
そんな私と対照的に、瑠璃はあっというまにハイヒールを履きこなすようになった。「七センチヒール以下は靴じゃない」と豪語するほどだ。今も、私の隣でカッカッと小気味良い音をアスファルトに響かせ、颯爽と歩いている。
もちろん、処女もとっくの昔に卒業済みで、経験人数はどんどん増えている。ふしだらというわけではない。瑠璃は熱しやすく冷めやすい。美人なので、別れてもすぐに新しい恋人ができる。
金曜日、午後七時。私と瑠璃は、萩岡係長に指定された「つばめ」という和食店に向かっているところだ。
「看板が出ていないお店なんだ。入り口につばめの描かれた暖簾がかかっているのが目印。着いたら中に入ってて」
係長がくれた地図に書かれたメモ。大人の隠れ家、という感じだろうか。そういうお店に行くのは初めてだ。緊張する。でも瑠璃は全然平気。私と正反対で、物おじするということがない。
「花音、メンバー全員来るの?」
「さあ。それは聞いてない。萩岡係長の奥さんは来るらしいけど」
「……なんで奥さん?」
「元同僚で、バンドのメンバーとも顔見知りだから、って」
「つばめ」は、会社から徒歩五分ほどの場所にあった。雑居ビルのエレベーターを七階で降りると、すぐ目の前に引き戸があって、そこが入口。小さく貼り紙がしてあり、達筆で「本日貸切」と書かれていた。
引き戸を開けると、「いらっしゃいませ」と張りのある声に迎えられる。声の主は、六十代くらいの男性。白木のカウンターの中から、感じの良い笑顔を向けてくれていた。濃紺の作務衣が似合ってダンディだ。店主に違いない。
少しして、高林さん、夏目先生、萩岡係長夫妻が合流し、宴は始まった。係長の奥さんは由香さんといい、すごい美人だった。二人が出会ったのは十七年前の新入社員研修で、その三年後に結婚したそうだ。ちなみに当時の萩岡係長は痩せており、かなりイケていたらしい。
料理はお任せで、季節の食材を生かしたお皿が次々に運ばれてきた。
ふき味噌、菜の花の辛し和え、うどの葉の天ぷら、はまぐりの酒蒸し、豚の角煮、春わかめとタコの酢の物。〆に小柱と玉ねぎのかき揚げのお茶漬け。デザートに杏仁豆腐(桜の花のジュレがけ)。
どれもこれも美味しくて、「ああ、思い切って来てみて良かった!」と私は思った。
「このお店は『知る人ぞ知る名店』なんだよ。黒田さんが常連で、そのおかげで僕たちも来られるってわけ。会社の人には教えちゃだめだよ」
萩岡係長がヒソヒソと囁く。
「黒田さん?」
瑠璃がきくと、高林さんが
「チューバ担当」
と教えてくれた。ああ、あの渋い人か。瑠璃の質問は続く。
「あとは、テナーサックスとバリサックスの方で全員ですか?」
「うん、そう。テナーサックスは瀬戸君といって」
係長が言いかけた時、入り口の引き戸が開いた。
「遅くなってすみません! ……あれ、もうデザートいっちゃってます?」
元気な声と明るい笑顔であいさつしたその人が、瀬戸さんだった。身長はそんなに高くない。百七十センチくらいかな。でも華があるというか、整った顔立ちに溌溂とした雰囲気で、クラスにいたら絶対一番モテるタイプだ。
「皆さん、ライブの時とずいぶん感じが違うんですね。あっ、萩岡係長はそれほど変わらないですかね」
瑠璃は思ったことをはっきり言う。
食後のお茶を頂きながら、会話は続いていた。お腹を空かせた瀬戸さんは、じゃこ山椒ごはんを食べているところだ。
今、一緒のテーブルを囲むメンバー四人――萩岡係長(トランペット・編曲)、高林さん(ドラム)、夏目先生(トロンボーン)、瀬戸さん(テナーサックス)――は、全員スーツ姿だ。みんな行儀のよい社会人で、夏目先生にいたってはお医者さんで、とてもステージで飛び跳ねていた人たちと同一人物とは思えない。
「会社であれだったら、まずいでしょ」
瀬戸さんが笑った。
「昔はもっと大人しかったのよね。普通のジャズバンドだった時期も長かったわ」
「そうそう。三年前だっけ? 瀬戸君が突然、演奏しながら踊り始めて、お客さんにウケたんだよね。瀬戸君かっこいいし。それで黒田さんが気に入って、『お前たちもやれ!』と。僕は動きが鈍いっていうので、結局免除されたんだけど」
「三田村君は――バリサックス担当なんだけど――『俺は踊りたくないんです。普通に演奏してたいです』と言ってましたよ」
「あいつ、夏目先生にそんなこと言ったんですか? まあ、バリは重いから大変だよね。三田村君は性格的にも踊りって感じじゃないし。よくやってくれてるけど」
瀬戸さんのコメントに、私と瑠璃以外のみんなは「うんうん」と頷いた。
「じゃあ、振り付けは事前に決めてあるんですか?」
瑠璃は興味津々だ。
「ざっくりとだけ。ここは一緒に楽器を動かそうとか。あとは適当」
こんな感じで、高林さんの壮行会は終始、和やかだった。
みんなが私に気を遣って、それとなくバンドのことを教えてくれているのがわかる。この人たちは、優しい。そう思ったら、ついに私も質問してしまった。
「あの、他の二人……黒田さんと三田村?さんは、どんな方ですか?」
「気になる!?」
萩岡係長が嬉々として反応した。しまった。今日はお断りしようと思って来たのに余計なことをきいてしまった。でも気になる。
「……はい」
「よし、じゃそろそろ出よう」
「あの、代金は」
「気にしないで。ライブのバイト代から出せるから。はい、コート」
夏目先生が、壁のハンガーにかかっていた瑠璃と私のコートを取って差し出してくれた。
雑居ビルを出たところで解散するのかと思いきや、みんなが会社の方に向かって歩き出す。
「まだ時間ありますよね?」
夏目先生がきくと、
「あります!」
瑠璃が即答。
「どこに行くんですか? 二次会?」
「もっと面白い場所」
少し前を歩く萩岡係長と由香さんが、私たちを見て笑った。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます