本物を超える偽物、本物と寄り添える偽物

「“闢曲プレリュード音心不通ワルツ・オブ・デュエット”」

 燦燦と降り注ぐ日光を受け、青々と生い茂る森。

 川を泳ぐ魚が見える程度に綺麗で、それでいて魚が肥え太るだけの養分を蓄えた水を溜める池と、美しさと清々しさが集約された世界の中に一つ、見逃せない腐敗があった。

 もしもそれが、対象の死骸などであったなら、対象に対する精神攻撃と断ずる事が出来る。

 しかし、池に半ば沈む形で獣に食い殺されていたのは紛れもなく術者オレンジの死骸であり、腐りかけた双眸が人形を介してオルドローズを見つめていた。

 魔力による影響ではなく、魔術による影響でもなく、純粋に腹の奥底から生じる吐き気。魔術師ならば幼い頃より耐性を獲得しているだろう死骸に対する嫌悪感が、ここに来て一挙に込み上げて来る。

 すでに消化し切ったはずの夕餉さえ吐き出そうとする体が、内側から酷く膨張し、人形シトラスを操っていたオルドローズはその場で胃液を嘔吐した。

「何だ……何を、こんな……! シトラス越しに、俺に干渉を……!」

 あり得ない事ではない。

 間接的にでも魔術に干渉している以上、対象者は不完全でも影響を受ける。

 だが、今のオルドローズは具現化された心象風景の外側におり、人形越しでは影響の少ない場所にいたはずだった。

 にも関わらず、胃液を嘔吐する程の吐き気を促したこの心象は、すでに魔術学園に通う一人の生徒が繰り広げる物から、逸脱した領域にあった。

「シトラス……!」

 これ以上侵蝕されるより前にオレンジを見つけ出し、秘術を止めさせる。

 そのためにもまず、具現化された心象の中に潜むオレンジを見つけ出さなければとシトラスに搭載された魔力探知機関を開いた時、沈んでいたオレンジの半身が腕だけで這い寄って来て、シトラスに覆い被さる。

 自分がされたわけでもないにも関わらずその場で尻餅を突いたオルドローズは、新たに構築された世界の中に立つシトラスを見た。

 前後左右。どこまでも広がる赤い水平線。空と呼ぶには低い頭上にも、足首まで満たしているのと同じ赤い水が広がっており、上からシトラスの頭頂部を映している。

 舞台は三つ目の心象へ。

 しかし最初の暗黒から、ようやく他の魔女さえ具現しそうな自然の心象に変わったかと思えば、また、現実離れした世界が構築された。

 足首まで浸す赤い液体の奥底で、心臓の鼓動らしき震動が、一定の間隔で揺れている。

 すると頭上の赤い液体から、何かがズルリと粘着質な音を立てて降りて来て、オルドローズではなく、見ていたシトラスさえも一歩引いた。

 頭上の赤い液体から垂れ下がって来る死体、死骸、遺骸、亡骸、骸の数々。

 死産された子供から、寿命を迎えた老体。その他、病死。圧死。窒息死。失血死。溺死。感電死。焼死。中毒死――あらゆる死の形を迎えて死んだあらゆる種族のあらゆる個体が、上から垂れ下がって来る。

 すると足元を満たす水から、何やら薄い膜のような物が蛇のように鎌首もたげて現れて、垂れ下がって来た骸の数々を丸呑みにした。

 シトラスもとい、オルドローズは理解する。

 膜は人の肌だ。その中で骸が蠢き、新たな生命として――否、元の姿を取り戻しつつ、新たな種族として、ホムンクルスとして改めて生を受けて行く。

「“継曲インテルメッツォ輪音転生スケルツォ・オブ・トリオ”」

 上から降り注ぐ死を、下から生えて来る新たな肌が包み込み、新たな命として昇華する。

 生まれた命の全てが発する声が音波となって、人形の全身を微塵に揺らす。小さな震動が十、五十、百と重なると全身を震動させて破壊を促す衝撃波に変わり、彼女と繋がっているオルドローズにまで届いて、脳を激しく揺さぶった。

 下顎を打ち上げられたような震動によって、思考回路が恐ろしいまでに鈍らされる。

 まさか声の一つ一つが音階となっており、正しく受け取り、受け入れさえすれば、一つの音楽として成立する事など、混乱した今の頭では気付く事さえ叶わない。

 スケルツォ――激しいリズムにて曲調を一挙に変化させる諧謔曲。死、蘇生、転生の三つによって奏でられる急速な曲調は、シトラスとオルドローズを未知の世界に引っ張り、混乱と混沌の坩堝の中に圧し込める。

 オルドローズはもちろん、シトラスさえも立っている事さえ出来ず、格納されていた武器を命令もなしに展開して、打ち出す事無くその場に落とす。

「“譚曲オラトリア音鼓血心ファンタジア・オブ・カルテット”」

 躍動する鼓動。

 声音は高々と震え上がり、己が生を世界へと宣言し、力強く生きる事を宣誓する。

 体を流れる血。体を構築する細胞の原型たる昔の自分へと向けられる歌は、苦しみ悶えていた人形と術者に、再び立ち上がる力を与えた。

 が、何も出来ない。立ち上がる事こそ出来たものの、出来たのは立つ事だけで、それ以外は指先一つ、指の関節一つとして動かす事が出来なかった。

 降り注ぐ太陽の眩さに圧し潰されそうで、吹き付ける風に斬り刻まれて死んでしまいそう。

 生きると宣誓したばかりなのに、体が生きると言う重労働に殺されてしまいそうになる。

 煮られる。焼かれる。死を予感する。生きようと必死にもがくほど沼に嵌って、深く、死に近しい場所へと引きずり込まれて沈んでいく。

 生きると言う簡単な言語の体現の際、発生する苦悶が重く両肩に圧し掛かって来て、体がまったく動かない。

 言動の根源たる欲求、本能まで遡っても、生に対する畏怖と恐怖とで体が動かず、先程までとは違う息苦しさで、体が言動の一切を拒絶する。

 魔術も攻撃も防御も、すべてを放棄した人形へと、オレンジが最後の曲を捧げようとしたそのとき、教室のドアが勢いよく開けられ、オレンジに秘術の中断を余儀なくさせた。

「そこまで! エスタティード・オレンジ! この件は不問に処す! 疾く、寮に戻るがいい!」

 静かに頭を下げたオレンジは、その場から退散していく。

 代わりに膝を突いて屈するオルドローズへと、彼の曾祖母の右腕にして“暁の魔女”、フィローティルクが歩み寄った。

「魔女教室の私的使用。生徒を呼び出しての強制決闘。“魔婆”様は、ひ孫と言えどキツく処罰するよう所望しておいでだ。覚悟はいいな!」

 圧倒的だった。何もさせて貰えなかった。

 あれが本物。偽物が届くには、未だ遠すぎる距離。

 しかし、だからこそ奮起せねばならない。立ち上がり、再起しなければならない。

 いつしか超えて見せる。本物を、偽物が――魔女すら超える傀儡を作り上げて、一族を見返してみせるのだ。

 そのためにも、彼女といつしか再戦を。

 偽物とて幾度でも挑めば、本物を超えられる。そう、信じているからだ。


  *  *  *  *  *


 自室に戻ったオレンジは、ゆっくりとベッドに腰を据える。

 一拍置いて、そっと横に寝たオレンジは、わずかに切れた毛先を呆然と見つめながら、たった今まで自分が繰り広げた心象を思い返していた。

 一から四まで。

 今回は五番目に入る前に止められたが、おそらく五番目に移行したところで、人形を仕留めるには至らなかっただろう。

 しかし元々、敵を仕留めるために作り上げた心象ではない。そう言った戦闘に役立つのはあくまで応用した場合であり、本来の在り方は音、音楽にある。

 全ての心象に共通するのは音楽。一から五、そして未だ未完成の六までの六つの心象で、ようやく一つの音楽が完成する。つまり、オレンジの秘術は未だ未完であり、彼女の求める理想には、未だ届かない位置にあった。

 理想は一つ。

 人どころか動物も、植物も存在しないかの霊峰の頂に、一人身を潜める心優しき災禍へと捧ぐ純恋曲こいごころ

 彼の美しき歌声に捧ぐ音楽を、寂しき霊峰を飾る心象と共に。

 例え一時的にしか保てない偽物であろうとも、本当に美しい歌声には不釣り合いと罵られようと、目指す事に意味がある。

 必ずや、あの災禍ひとも認め、喜んで歌を添えてくれるような世界を。本物の横にある事を許される偽物を、必ず――

 秘術の発動による魔力の大量消費と精神的疲労とが重なり、オレンジはそのまま眠りに付く。

 本物を超える偽物を作る事を目指す青年と、本物と寄り添う世界を目指す青年の静寂な戦いは、以上の経緯で以て、幕引きと相成ったのだった。

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