見えぬ未来、見知らぬ世界
オレンジは本を読んでいた。
いつも魔術の指導書や歴史の記録、偉人の伝記などを読み漁っている彼女には珍しく、架空の世界で繰り広げられる戦いの様を描いた小説である。
どんな願いも叶える万能とされる魔法を巡り、魔術師同士が殺し合いに興じるという内容で、博士が横にいようものなら「そんな物を読んだところで、おまえの願いは叶わないヨ」と皮肉を言っただろう展開が繰り広げられていたが、オレンジは全十三巻ある小説を一日で読破しそうな勢いで読み
ただし興味があったのは、小説の内容そのものではない。
小説に登場する人物らが、戦いに臨むに当たって抱く物にこそ興味があった。
大望。野望。陰謀。画策。夢。希望。衝動――各々の胸に、各々の形に歪み変形した願望を抱いて、命を賭した戦いに臨む姿。
理解出来ない、とは言わない。ただ、難しい。
オレンジにはどうしても、そこまでして叶えたい願いと言うのが、夢と言うのがわからなかった。
研究所のホムンクルスは皆、輝かしい夢を持っている。
作られた際に与えられたわけではなく、自分自身で見つけた、希望に満ち満ちた願いと夢。
では、エスタティード・オレンジには? ――何もない。何も、何一つとして。
羨望もなければ、幻想さえも。浅慮さえもない。
読んでいる小説の登場人物らのように、命を賭してまで叶えたい大望を抱きたいとは思わないが、眠ると見てしまうくらいの小さな夢くらいは、抱きたいと思う。
魔女の秘術、“オープン・マイ・ユートピア”会得のため――いや、そのような大層な代物はいらない。
白紙にされて無垢と無知だった少女から、エスタティード・オレンジという魔女族の一人へと至るために、夢、これからの自分の指針を示す方向が欲しかった。
「固有心象領域開放魔術、“オープン・マイ・ユートピア”、ね……魔女族の秘術。オレンジも、大変そうね」
そう語るアザミも、今の世に出回っている
もしも実現すれば、今後の
が、薬品の錬成ならまだしも、薬草の栽培となると勝手が違うらしく、かなり苦戦しているとの事だった。
何せ、幾代前の先輩から引き継がれているのかわからない研究だ。彼女一人の裁量で、失敗以外の結果がそう簡単に出るものでもない。
「そこの可愛いお二人さん、私達と遊んで行かない?」
と、背後から二人揃って肩を抱かれる。
声で最初からディマーナであることはわかっていたのだが、抱き締める力が強くて結局驚かされる。アザミは不服そうに振り返り、俗にジト目と呼ばれる目でディマーナを睨んだ。
「ディマーナ、おふざけにしても加減をして。私はともかく、オレンジの肩が外れちゃうわ」
「あぁっとと、ごめんごめん。つい、いつもの調子でやっちゃった。痛かった?」
「大丈夫……ディマーナも、ワルツェも、自分の種族の授業……どう、だった?」
「あぁぁ……まぁ、ねぇ?」
「うん、そう……だね」
二人共、歯切れの悪い返事を返す。
改めて聞いてみると、二人もそれぞれ大きな課題にぶつかり、苦労しているらしかった。
天使族のワルツェは状況としてはオレンジと同じで、天使族の秘術会得に苦戦しているのだが、元々魔術の才に溢れているため、周囲から更に先を期待されているらしく、期待が重圧に変わって感じられて辛い、と漏らした。
オレンジとアザミも現状を打ち明け、四人並んで座り、溜め息を吐く。
魔術学園の門を叩いておきながら、魔術の先である魔法の域には何の興味もない変人四人。他の同級生や教師に相談したところで、「そんな事か」と言われるのは目に見えている。
出来る事なら同族からのアドバイスないし、何かヒントになり得る取っ掛かりだけでも貰えないかとも思ったが、全員が全員をライバル視していて、とても訊けるような雰囲気ではなかった。
特にオレンジに関しては、他の魔女より羨望から転じた嫉妬を買っており、訊いたところで教えてくれる人など、誰もいなかったのである。
「これ、四人の中じゃオレンジが一番キツくない? いや、難易度は無視して、状況的に」
「そんな……みんなだって、凄い、大変じゃ……」
「でもさ。こんなの、将来も何も決まってないのにこの先どうしたいですかって要望だけ訊かれてさ。じゃあ叶えて下さいって丸投げされてるんでしょ? 本当じゃないにしたって、そんな他人任せな秘技、ある?」
ディマーナの言い分は、オレンジの問題の芯を見事に食っていた。
望みはなければ夢もない。今を生きる事に精一杯で、将来の事なんてわからないし、どう考えていいかもわからない。
夢も妄想も誰もが抱く物だろうと、皆が当たり前と認める物すらない人に、夢を描けとは。
この先エスタティード・オレンジはどうなりたくて、どんな人間になりたいのか。
むしろ空白にされたからこそ、考えなければならないのかもしれない。自分はどんな色に染まりたいのか。自分自身を、どんな色に染めるのか。
自分の名前にあるオレンジとは、自分にとってどんな色を差して言うのか。
考えなければいけない事は多く、見出さなければいけない課題は山積みで、自分に向かって倒壊してきたそれらにいつ生き埋めにされるのか。
恐怖はない。が、恐怖に酷似した困惑ばかりがある。
スライムのように流動的で掴み難く、掴めたと思っても天使のように浮遊しているかと思えば、鬼や龍に重く、硬い。
掴みどころがあるようで無く、掴めたと思えば痛くて、重くて、熱くて、離してしまう。
自分の求める理想像を求めるという行為が、とてつもなく難しい。
「私もあまり
「まぁ……うん。正直、私もそう。将来の事とか、正直あまり考えられてないや。今まで勉強して来たことが全部活かせる仕事なんてないし、それが自分のしたい事かって言われるとそうじゃないかもだし、ね」
「……何か、このままだと私だけ省かれそうね」
「何言ってんのぉ! 可愛い可愛いアザミちゃんは誰にも渡さないかんなぁ!」
ディマーナが脇に抱えて適度に締めるアザミが、四人で唯一、明確な将来を見据えている。
が、別に明るい未来が確約されているわけではなく、彼女に不安がないわけでもない。むしろなりたい理想像を追い求めるからこそ、生じる不満や不安があるのだろう。
アザミは強気な性格なので口にこそ出さないが、進捗の無い研究に不安を吐露した彼女の表情には、将来に対する不安と不満も入り混じっているように見えた。
「オレンジはさ。その……良い人、いるんでしょ?」
ワルツェの問いに、オレンジは少し考えてから頷く。
さすがに災禍レキエムだとは言えてないが、付き合いが長引くとその手の話に対する嗅覚が発達する様で、見抜かれたディマーナの問い詰めに負けて、三人に話した事があった。
ごく最近の話であるが、オレンジは俗に言う良い人を、ただ善良な人を差す言葉として認識している節があり、若干のズレが生じている事は否めなかった。
「じゃあ、その人と一緒にどんな場所に行きたいとか、どんな事をしたいとか、そういうところから考えてみたらどうかな」
「……それも、夢になるのですか?」
「直接は繋がらないかもしれないけれど、手掛かり……足掛かりにはなるんじゃないかな。それこそ……そう。何かしらのヒントにはなると思うよ?」
「あの人と、何を、したいか……」
それは、彼に聞けばいい。
だけどそれだと彼のしたい事であり、オレンジのしたい事ではなく、夢ではない。
彼としたい事。彼と描きたい、理想の光景。その、色は――
* * * * *
夢を見るのだ。
憧れだった世界へと、羽ばたく夢を。
外の世界は常に夢に満ち満ちて、未知の物事で溢れかえっている。
なのに自分の世界は、古い風習が根強く残る小さな村の中で、比較的大きい家の中に限られて、そこから外へ出たことはない。
一度だけ、出ようとした。
外への憧れを捨てきれず、母の言いつけを破って外へ出ようとして――見つけてしまった。
見過ごす事は出来た。見ていないフリをする事も出来た。だが見つけてしまった事実が足を止め、戻し、彼女の下へと運んでいった。
酷く弱り切っていて、今にでも死んでしまいそうな彼女。そのまま放置すれば、確実に死ぬことは明白で、明瞭で、火を見るよりも明らか。
母が見つけたらその場で殺してしまうか、良くても魔術の実験体にされて死ぬかの二択。どんな経緯でそこに辿り着いたのかは知らないが、とにかく、助けねばと思った。
最初は母にも使用人にも内緒で、その場で手当てするために薬とタオルとを持っていこうとしたのだが、途中で使用人に彼女が見つかってしまって、結局母との論争の果てに彼女を迎え入れる事となった。
「……ねぇ、君は一体、どこから来たんだい」
彼女がどこから来たのか。何を見てきたのかを知ることはなかった。
だけど追及も言及もしなかった。真っ直ぐとこちらを射抜くが如く見つめる目が、自分の夢を膨らませて、それで満足してしまったからだ。
彼女はきっと、美しい物を見てきたのだ。
彼女が見た世界は美しく、醜く、汚く、綺麗で、儚く、痛々しく、清々しく、青青しく、色彩と音と光と熱と、自分の知らない語彙で表現する他ない様々な物で構成されていただろう事が、彼女の目から察せられたからだ。
彼女とは結局、一度も言葉を交わさなかった。けれど彼女の目はいつでもお喋りで、いつも話しかけて来る。彼女とは、たくさん話した。
だから、もう未練なんてないと思っていたのに――彼女が死んで、自分も死ぬとなった時、話したくなったのだ。言葉を交わしたかった。
彼女が知っていて、自分が知らない言葉の意味を問いかけたくなった。
自分が知らない、彼女が知っている未知の世界。自分にとって溢れかえる夢で満ち満ちた外を知る彼女と、言葉を交わしたくなった。
それが、自分――いや、僕、ダーナマット・ディルオルナの夢。
最期に叶えたい、願いだったのだ。
* * * * *
「……やぁ、来たね」
もう、目は見えていなかった。
だけどもはや、彼女を認識するのに、視力は要らない。聴覚も、多分嗅覚さえも必要ないかもしれない。
そう自負するダーナマットの期待に応えるかの如く、彼女はダーナマットの寝るベッドに座り、頬を、舐めた。
「……ご主人様。私、来ました」
「あぁ……リム。わかるよ。君がそこにいるんだね。僕の目はもう見えないけれど……綺麗になった君が、そこにいるんだね。あぁ、君と話せればいいと思っていたのに……君の姿が見たいよ、リム……僕の
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