「頑張ってくれて、ありがとう」

 あの日、ダーナマット・ディルオルナは一匹の子犬を拾った。

 一体どこからやって来たのか。親や兄弟は何処へ行ってしまったのか。神獣の子ならまだしも、ただの子犬がやって来れるはずもないような山の頂にある村の、彼の家にその子犬はやって来て、彼の相棒となった。

 リムと名付けられたその犬は常に主たる彼の側にいて、いつでも彼の話し相手となって、彼の訓練する魔術を見届けて来た。

 使用人や母親が嫌な顔をすると、ダーナマットは決まって「この子は皆さんより物知りですよ」と彼女を庇って、常に傍に置き続けた。

 彼女を追い出そうとした母親とついに対峙までして、魔女の秘術まで使って母を黙らせた。

「もう、大丈夫……君の事は、僕が護るから」

 そう、約束したはずだった。

 そう、約束されたはずだった。

 だが、暗殺はなされた。母の手先が放った毒針が、ダーナマットへと飛んで行ったのを庇う事を見越されて、読み通りに動かされ、毒の魔術を受けたリムは毒に侵され、半年の闘病の後に死んで逝った。

 結果、ダーナマットの逆鱗によって母は半殺しに遭い、暗殺を実行した使用人は殺された。まだ若く、母を慕う子供だったが、当時のダーナマットには関係ない。

 が、時間が経つと徐々に芽生えて来た罪悪感に負け、母にも、彼女の肉親にも内緒で彼女の墓を密かに移し、一つの計画を思いついた。

 外道魔術師への連絡手段を獲得するのに一年以上の時間を要したものの、今この瞬間、この時の実現に至る。

 まともではない、と人は言うだろう。皮肉、とも言うかもしれない。

 よりにもよって、殺された愛犬の記憶と知識を、愛犬を殺した使用人の体に与えてホムンクルスにしようなどと、誰が思い付くだろう。

 ましてや思い付いた方も方だが、引き受ける方も方だ。異常としか言えない。

 何より引き受けて、一週間と経たずに成功させてしまえるのだから、まさに外道の所業と言えるだろう。

 外道は外道らしく仕事を終え、報酬を受け取るとそそくさとその場から去って行く。もはや用件はなく、見届けてやる義務も責任もない。

 何よりこれ以上の時間は外道にとっても依頼者にとっても浪費するほど多くはなく、時間を的確に処理し、消費するためには、これ以上会話を交わさない事こそ最良であった。

 故にダーナマットは去り行く足音に一瞥だけ配り、手を握る少女へと視線を配る。

 もう目は見えないはずなのに、握ってくれる手の感覚すらもほとんどないと言うのに、彼女の存在を確かに感じられる。

 彼女の手にもはや肉球はなく、彼女の口に牙はない。そうしてくれ、と頼んだのは自分自身だと言うのに、どこか寂寥に似た虚しさがある事を否めない。

 彼女を人間にした結果、救われる物があると思っていた。少なくとも、自分自身が救われると信じていた。

 だが実際に彼女と出会い、手を取り、話し合ってみて感じる背徳感と罪悪感。

 母の命令とはいえ、愛犬を殺した使用人である彼女を許すつもりはないが、自分が殺した彼女の肉で生きる愛犬の鼓動を感じる度、生じる複雑な感情を言い表す言葉が見つからず、モヤモヤと胸の中で渦巻いている。

「あ……」

 もう残された時間は少ないと言うのに、言葉が見つからない。

 彼女に一体、何と言うべきなのだろう。彼女に一体、何を言いたかったのだろう。

 色々と言葉を用意していたはず。伝えたい気持ちがあったはずなのに。どうした事か、今になって何も出て来ない。

 緊張か。動揺か。まるで頭が白紙化されたように、何も思い付かない。

「ご主人様……ずっと、私、考えていました」

 彼女は手を離す。

 肉球のついた犬の足では叶わぬ形で両手を組み、結んで作り上げるいんの中心に、魔力を溜めているのが感じられる。

 明暗がわかる程度の視力しかない今のダーナマットには、暗闇の中突如現れた眩い光が、鼓動を打つように輝いているように見えていた。

「もうすぐ眠ってしまうご主人様に、私、何が出来るのか。私は馬鹿だから、犬だったから、出来る事なんて何もないって思ってました。ご主人様がよく言っていた御外の話も、私では上手く出来ないし、絵も、文章も、出来ないから……何も出来ないって、思ってました」

「リム、もしかして、君は……」

「だから、たくさん勉強しました。たくさんたくさん、頑張りました。ご主人様が、かつて私とお母様とに見せた技なら、きっと……だから……」

 本来、それは秀でた才能を持った者だけが入れる領域だ。

 秀でた才能を持っていたとしても、魔術に対する深い理解がなければ、こじ開ける事の出来ない領域にある秘術である。

 努力は結果を裏切らないとは言うけれど、は酷なくらいに裏切って、永き努力も研鑽も鍛錬も、すべて水の中の泡沫に変わる。

 たくさん勉強しても、たくさん努力しても、本来届くはずのない領域にあるはずなのに。彼女は今、こじ開けようとしている。かの領域に手を伸ばし、押し開けようとしている。

 そんなことは、本来あり得ない。故にこれは奇跡であり、彼女が常人ならざる努力と研鑽を成し遂げたが故に見せた成果と言えた。

 敢えて、彼が何を見たのか。彼女が見せたのかは語るまい。

 彼女が彼に見せた光景、情景は第三者の介入を許す事なく、仮に介入出来たとしても、他者の理解の外側にあり、表現する言葉を与えない。

 ただ一つ、言える事があるとするならば、それは外の世界を知らず、病床に沈む事が決まった青年の涙腺を決壊させ、大粒の涙を流させる光景であった事だけだ。

 文字通りの感涙がベッドにシミを作るほどに、大人と呼ぶに相違ない歳の青年が泣きじゃくるような、そんな光景が広がっていただけだ。

 それは、他の人々の理解を得られない。

 何故なら他の人達にとってはそれが当たり前であり、美しさも醜さも華々しさも汚さも、本来感じられるはずなのに、感じるための機能を喪失してしまったからだ。

 暗闇に生きる生き物が目を失ったように、環境に適応するためにその機能と感覚を捨てた人々に、彼が何に感動し、何故涙しているかなど理解出来ない。

 故に、語る必要はない。

 彼が見て、彼女が見せた光景とは、情景とは、当たり前の環境下にある人にとって、わざわざ見せる物でもなければ、語る物でもない。ただただ当たり前が凝縮された世界だったからだ。

「ご主人様」

「……あぁ。あぁ。見たよ、見たとも。頑張ったんだね、リム」

 彼女を強く抱き締める。それくらいしか返せる物がないことに、唇を強く噛み締める。

 彼女にここまでの事をして欲しいなんて願っていなかった。彼女に恩返しして欲しくて、魔術師に頼んだのではないのだから。

 ただ不当に殺された彼女に、もっと生きて欲しかった。自分では生きられない分だけ、生きて欲しかった。

 自分のような家に置いてしまったことで、本来もっと生きられる彼女を巻き込む形で死なせてしまった罪滅ぼしだったのに――

「ありがとう。僕なんかのために、頑張ってくれて……ありがとう。ありがとう、リム」

「お礼を、言うのは私です……私を拾って下さって、育てて下って、私を傍らに置いて下さって、それだけで、私は……幸せだったのですから」

「幸せだったのは、僕の方さ……愛しているよ、僕のリム」

「はい。お慕いしております、ご主人様」

 人は彼を、異質と言うだろう。

 人は彼らを、異常とさえ罵るかもしれない。

 だがこれもまた、一つの愛の形と言われてしまえば、もはや返す言葉はない。

 病床の青年は夢を見た。

 愛犬と共に、見知らぬ世界を歩いて回る。用件などない。目的もない。ただの放浪を続けるだけで良かった。

 けれど、それは叶わない。自分は最早、生きる事さえ叶わない。だから託したかったのだ。

 もう死してしまった愛犬に、より広い見聞を持って生きて欲しかった。自分ではない誰かと添い遂げて、幸せになって欲しかった。

 ただひたすらに、彼女の――愛犬リムの幸せを願ったののだ。

 ただ彼女を、愛していただけなのだから。

「ご主人様……ご主人、様? ……眠って、しまわれたのですね。お休みなさい、ご主人様。どうか、良い夢を」


  *  *  *  *  *


 三日後、ダーナマット・ディルオルナは息を引き取った。

 存命していれば、確実に偉大なる魔術師として名を馳せただろうにと、魔女は彼が男であるために心にもない事を言いながら嫉妬の炎を燃やし、ざまぁみろとさえ思っていた。

 結局彼の墓に添えられた花束は一つだけ。それも、誰が添えたのかわからず、一時は噂にもなったが、真相はわからぬまま、噂も途切れて幕を閉じる。

 騒動が落ち着き、村に平穏が戻った頃、村の門が開けられた。一人の魔女が、数年ぶりに下界に下りるためだ。

 しかし、実際に彼女は魔女ではない。

 愛しき主人の葬儀から騒動が治まるまでの間、絶えず彼の墓にいて、涙ながらに語っていた彼女の事を、誰も知らない。

 彼女が人除けの魔術を駆使し、人の認識を操る魔術を使っていたからである事も、今後一生、知られることはないだろう。

 山の頂にある閉鎖的魔女の村は、わずか数日の間に偉大なる魔術師を二人も失い、二人共が魔女ではなかったという事実を知らぬまま、誰にも知られることなく生活を続ける。

 犬から獣人のホムンクルスへと生まれ変わり、下界へと飛び出した彼女のように、知ることはない。

 この世界が一体何で構築されているのか。

 本物の美と、本物の醜悪とは一体何なのか。

 ダーナマット・ディルオルナが、死ぬ前に見た世界とは一体何なのか。

 世界とは、一体どんなものなのか。

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