「この世にいるのは馬鹿と変態と外道の三種類」
ご主人様と私があったのは、夕立が降りしきる夏でした。
私はそこが、ご主人様のお母様の邸宅の敷地内だとは知らぬ間に入り込んでしまい、使用人に見つかった私は、その身をお母様とご主人様の前へと差し出されました。
「何て汚らしい……すぐに始末をして頂戴」
私は、お母様が恐ろしくて溜まりませんでした。
私は後で、お母様の真の恐ろしさを知ることとなるのですが、迷うどころか当然とばかりに私を始末しようとする当時のお母様も、私にとっては充分に怖かったのです。
だからこそ、後に私のご主人様となるあの方が、お母様を止めて私を居候させて下さった事に、とてつもなく大きな恩を感じております。
ご主人様は、どこの誰とも知らない私に対して、とても優しくして下さいました。
お金もないのに、毎日温かい食事を与えて下さり、毎日温かいベッドで眠らせて下さった。挙げ句、私をついに家族として迎え入れて下さった。
感謝しても、し切れるものではありません。
私はご主人様のために尽くし、ご主人様のために何でもしようと頑張りました。
私には学も技術もお金も――とにかく何もありませんでしたが、とにかく頑張って、ご主人様の役に立とうと走りました。
馬鹿な私には、馬鹿のように走り回る事しか出来なかったのもありますし、私が元気に走っていると、ご主人様はとても嬉しそうに笑って下さるから、私は一生懸命走りました。
だけど私は馬鹿です。
馬鹿だったから、後になって気付きました。ご主人様は私が走る姿を見て、走る事さえ出来ない体になってしまった自身を慰めていた事に、ずっと後で気付きました。
気付いた時には、もう手遅れでした。
ご主人様の病は、ご主人様の命を着実に蝕み、奪い去ろうとしていました。
私には何も出来ません。私には、ご主人様を治す事も、術を用意することはもちろん、見つけ出す事さえ出来ません。
私は無能で、馬鹿で、結局、走ることしか出来なかったのです。
それでもご主人様は、私を褒めて下さいました。私を認めて下さいました。本当は慰める立場にある私を、慰めて下さいました。
私は馬鹿正直に喜んで、舞い上がって、いつものように走りました。走ることしか出来ませんでした。走ることが、私にとって唯一ご主人様に返せる恩でした。
だからこそ、私がお母様から見限られるのは、時間の問題だったのです。
「あなたの
私の選択は、二つに一つでした。
屋敷を出て野垂れ死ぬか、お母様と従者たる魔女に殺されるかです。
ですがこのときでさえ、ご主人様は身を挺して、私を助けて抱き締めて下さいました。
「母上! 何をしておいでです! 弱き者を身一つで追い出すなど、世界が誇る高貴な魔女は、一体何処へ消えたと言うのですか!」
「母に対して何という口の利き方を……腹を痛めて生んだ我が子と、情けを掛けてやれば図に乗って……! 魔女にもなれない男風情が!」
「その言葉、返上させて頂きます母上……私は確かに魔女にはなれません。が、紛れもなく魔女の一族であり、あなたの息子だ! 魔女であることに
「黙りなさい!!!」
天変地異。
そう、天変地異が起こりました。
山の上の小さな村の長たる魔女と、その息子の親子喧嘩。
たかが喧嘩。されど、そのたかが喧嘩が天変地異を引き起こしました――天変地異さえ起こったのだと、私は思わされました。
「如何です、母上」
だけど、私は馬鹿です。
私には、ご主人様が何をしたのかわかりませんでした。私はご主人様に抱きかかえられて、呆然としていただけでした。
私の目の前で起こったはずの天変地異はどこにも起こっておらず、むしろその場は静寂に包まれて、吹かれると心地良く感じられるだけの風が吹いているだけ。
変わった事と言えば、天変地異があったと誤認するより前と後で、お母様の表情が怒りから絶望に変わっていた事だけでした。
「何故、何故あなたに……こんな、こんな……!?」
「魔導の深淵を正しく理解すれば、魔術は誰の心にも応えるのです。母上」
「――!?」
「あ、あの……」
「こ、今回の事は誰にも他言しないこと! 良いですね!? 絶対に、家族にも、恋人にも、誰であろうと他言しないことです!!!」
そう言って足早に、そそくさとその場を去って行くお母様が、何を恥ずかしがっているのか、何を怒っているのかわかりませんでした。
わかったのは、ずっと後になってからです。
私があのとき見た天変地異を、お母様も見せられていたのです。
魔女が魔術によって、一介の魔術師たる男子に負けたのです。例え我が子であろうと、お母様は許し難かったのでしょう。
使用人や従者、弟子の魔女の前で恥を掻くまいと、その場にいる全員に他言するなとキツく言い聞かせて、行ってしまったのです。
そしてその後、ご主人様が他言する事を恐れてか、私に関して咎める事はありませんでした。
「もう、大丈夫。君の事は、僕が護るから」
私はそのとき、初めてご主人様に対して、今までと違う感情を抱いていたのかもしれません。
だけど私は馬鹿だから、最後の最後まで気付けませんでした。知ろうともしませんでした。考える事が出来ませんでした。だから私はないたのです。
気付いてしまった時にはもう遅く、知ってしまった時には何も出来ず、走ることさえ出来ず、ただでさえ弱い体を弱らせて、死んで逝くことしか出来なかったのです。
でも、それで良かったのです。その方が良かったのです。
私が死ぬ代わりに、ご主人様は生きながらえる。ご主人様のため、私は死ぬ。ただ、それだけの事だったのですから――
「自己犠牲、かネ。しょうもナイ。そんなもの、おまえを邪険にしてきた女の復讐でしかないだろうニ。どうしてソー馬鹿正直に、命など差し出すのカ。私にはわからないヨ」
話を聞き終えたその人は言いました。
キッパリと、何の躊躇も遠慮もせずに言い切りました。
私は何も言い返せず、是か否かも返せません。カルテを書き記すその人の背中を、ジッと無言で見つめ続ける事しか出来なかったのです。
「私からしてみればネ、自己犠牲と自己満足は似て非なる物ダ。人は命を賭して他人を救う話にこそ憧れるのであり、人を助けて命を落とす話に感動こそすれ、憧れはしナイ。おまえは人の真似事をしただけで、真に助けたかったのは愛するご主人様じゃあナイ――オマエ自身だヨ。おまえは命を賭して主人を助ける象形に陶酔し、自分自身の命を
そこまで言われる事なのでしょうか。
私にはわかりません。馬鹿の私には、まだわかりません。
馬鹿は死んだら治ると聞いていたのに、まだ治っていません。生き返って、しまったからでしょうか――
「天変地異が起きた、そう言ったネ。おまえの主人は確かに、天変地異さえ起こしたのだろうサ。何せ男が弱い立場の魔女の村で、最も発言権が強い様子ダッタ。そんな主人に愛されていたおまえはまさしく、強運の持ち主だヨ。こうして、おまえに改める機会さえ与えてくれタ」
「でも私――」
わかりません。
わからないのです。
蘇ったからと言って、私には何も出来ません。何が出来るか思い付きません。
もう死んでしまいそうなご主人様に、何をしてあげられるかわからないのです。何も考えられないのです。
私には、何も――
「思い上がるナ」
私の頭を押さえて言いました。
その人は私の耳の端をつまみ上げ、きゅいと捻ります。痛くはなかったけれど、くすぐったくて、私はつい「ひゃん!」と、幼い頃に戻ったかのような声で鳴いてしまいました。
「この世には天才もイル。万能と呼ばれる者、それに相応しい才能に恵まれた者もイル。だがネ、基本的にこの世には馬鹿と変態と外道と、この三種類しかいナイ。それらを良い響きで飾った者こそ、天才と呼ばれル」
大きな手でした。
ご主人様より大きな手で、私は頭を掴まれます。
でも可笑しいです。嫌な気分も良い気分もしないですが、何だか妙な感覚がしました。何だか少し、ズレているような。
「おまえは馬鹿で無知だが、その程度いくらでもいる。ならば学べば良い。この世には残念ながら、学んでも後の役にも立たない学問しかナイが、それでも無知よりはマシだ。そして今のおまえの頭には、より多くを学習し、無知を改善する術が備わっていル。そうだな……まずはそこらにある本でも、読んでみ給えヨ。何も学べやしないが、感じるものくらいはあるだろうサ」
私は言われるがまま、適当に選び取った本を開いてみました。
本に並んだ列を認識し、それを文字と呼び、文字を読み、意味を理解する。ただそれだけの事を延々とやり続けて、結果一冊の本を読み切るのに、およそ三〇分。普通に比べて早いのか、遅いのかさえわかりません。
ですが、私の目には涙がありました。涙で濡れていました。
何せ初めて、私は本を読むことが出来たのですから。
ご主人様がやっていた事と、同じ事が出来たのです。前には出来なかった事が出来たのです。感動しないわけはありません。
「サァ、泣いている暇はないヨ。早くご主人様に追いつきたいなら、天才級の馬鹿に追いつきたいなら、食らいつきナ。食らい付くのは、前から得意だったロウ?」
私は本を読みました。
それ以外にも色々と、ご主人様がやっていた事を真似して色々やってみました。やろうとしてみました。やり遂げてみせました。
それだけの事だったのに嬉しかったり、辛かったり、泣きたくなったりしましたが、でも私は結局感動していました。
何せ私は無知で何も出来なかった馬鹿から、人並みの馬鹿へとなりつつあったのですから。
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