外道魔術師と蒼海の花園

橙色の王女

 オレンジが博士の実験体として空中施設にやってきて、一年が経った。

 外道魔術師の壮大な計画の元、様々な出会いと別れを繰り返してきた彼女だが、未だ彼女自身については何もわかっていない。

 ただし彼女がただの幼気な少女ではないということだけはわかる。

 龍の血を受け入れた体は命の危険を察すれば数人の大人をも皆殺しにし、その心は災禍と呼ばれた怪物の一体に見初められて、彼と仲睦まじい様子で話せるのは彼女だけだ。

 しかし果たして彼女は何者で、どうしてあの森の中で倒れていたのか、それら一切は不明のままだ。それに関しては博士もほとんど調べていないが、しかし興味の対象ではある。

 これまで何度か実験をしたが、ホムンクルスでも龍族の血を受け入れられた個体はなかった。人間にしたってあり得ない。

 龍族などという世界で最も野蛮で血塗られた種族の血を得ても人格を失うことなく、平静のままあり続ける彼女という存在が特殊な事例なのだ。

 ならばその正体を知りたいものだが、調べようにも手段がない。こんなことなら、輸血する前にオレンジの純血を回収しておくんだったと、博士は貴重な個体に関しての手がかりを自ら失ったことに後悔していた。

 オレンジ自身、時折自分が何者なのか不安になるときがある。

 今や体に流れる半分が龍族の血で、本来ならば自爆必至の状況で何事もなく平然と生きていられる自分と言う存在が、特殊だということは博士の反応でわかる。

 自分が何者なのかわからない。誰かによって作られたのか、それともちゃんとした両親の愛の下に生まれてきたのか、何もかもが不明なままだ。

 一体自分は何者で、どこから生まれどこで育って来たのか、今の今まで何をしてきたのか、一切わからない。この一年、結局何もわからないままだ。

 青髪含めて、ホムンクルスのみんなは「ずっといてもいいんだよ」と言ってくれるけれど、しかし自分が何者かわからないことにとてつもなく不安を感じる。

 それを表現しようとしても語彙が足りないのだけれども、とにかく不安で仕方ない時間はあって、一緒の部屋で寝ている青髪が時折心配して側にいてくれるときもある。

 そんな不安な夜をいくつか重ねたときだったか。この国への来訪は、果たして博士なりに気を使ってくれたからなのかそれともただの気まぐれが生んだ偶然か。

 次に向かったのは大陸本土から離れた島国。

 多くの国の金持ち貴族が別荘を構える、年間常夏の国。いわゆる、リゾート地と呼ぶべき場所だった。

「やっほぉぉぉ!!!」

 まるで世界の空と海の縮図したかのような青い髪の青年が、帰るかのように真っ青な蒼海へと飛び込んでいく。

 美しく真っすぐ伸びる水飛沫を立てた青髪は、浮き上がってくると妹たちに手を振った。

「おぉい! みんなもおいでよぉ!」

「あんたバカ?! どこから飛び込んでるのよ!」

 赤髪は訴える。

 青髪が飛び込んだのは十メートル近い断崖絶壁。そんなスポーツ感覚で飛び込むような場所ではない。人生の路頭に迷った人間が、最後を迎えるのに選ぶようなそんな場所だ。

 無論、彼女達はホムンクルス。人間よりはずっと頑丈だし、海は波も穏やかで水深もあり、飛び込んでぶつかる危険のある岩もない。だがこれまで長い時間をかけて今の崖になるまで削って来たのだろう波の打ち付ける様が、赤髪に躊躇させていた。

「なんだ、恐いのか? おまえにも恐いものがあるのだな」

「う、うるさいわね! あんたこそ、獣の癖に泳げるのかしら?!」

「なら見ているがいい。私の華麗な飛び込みをな」

 と、緑髪は尻尾を片脚に巻きつけて軽快に飛び込む。

 空中で体を捻り、数度回転を加えた緑髪は、まるで吸い込まれるように海の中へ消えて、小さな水柱だけを立てて潜っていく。

 浮かんでくると、彼女の頭についている獣の耳が、ブルブルと震えて水けを弾いた。

「どうだ」と言わんばかりの、緑髪にしては珍しいどや顔は赤髪を焚きつけるのには充分だった。やってやるわよと、赤髪は飛び込む一歩手前まで進むが、そこからどうしても飛び込めない。

 と、躊躇を繰り返していた赤髪は突然浮遊感に襲われる。

 気付くと、赤髪は黒髪に背中を押されて海へと真っ逆さまに落ちていた。青髪や緑髪と違って、激しく大きな水飛沫が上がってから、赤髪は浮上してくる。

「く、黒ぉぉぉっ! あんた覚えてなさいよぉ?!」

 黒髪は崖の上から、ケタケタと笑っている。彼女は今回この島に来て、一番テンションが高かった。

 皮膚が猛毒を発する体だったため泳ぐことを許されず、また肌を露出する格好も許されなかったので水着にもなれず、こういう場所に来ても人を避けて遊ぶこともできなかったが、ついに遊べるのだ。それはテンションも上がる。

 厳密に言えば彼女は猛毒を発していた個体ではない、同じ体の別物なのだが、裁縫の都にて青年と結ばれる以前までの記憶は受け継いでいるので、本人と同じ気持ちで舞い上がっていた。

 そういえば、クオンと名付けられた黒髪は今頃どうしているだろうか。

 オレンジはあれから、裁縫の都には行っていない。行く必要もないだろうと、博士もそちらに進路を向けることはないし、ホムンクルスらも行こうとしないため、行くことができなかった。

 だが何も知らせが無いということは、無事であるという便りかもしれない。

 そうあって欲しいと、願うばかりだ。

「黒髪も来なよぉ!」

「ウム、いざ参るでござる!」

 黒髪は意気揚々と助走までつけて飛び込んでいく。

 赤髪以上の激しい水飛沫を上げて飛び込んだ彼女は浮き上がってくると満面の笑みで笑っていた。皆と一緒の海で泳げることが嬉しいのだろう。

 今、愛しい人と一緒の彼女も今や毒の無い体。もしも新たな家族ができたなら、そのときはこの黒髪のホムンクルスと同じように笑えるだろうか。

「オレンジぃ! おいでぇ!」

 と、遂にオレンジの番が来た。

 紫髪は泳げないらしく近くの浅瀬で浮き輪で浮いており、銀髪は彼女の監視役として付き添っている。

 金髪は言わずもがな、甲冑を脱ごうとしないため水着にすらならず、皆の荷物番としてパラソルの下にいた。

 故に飛び込むのはもう自分だけである。

 そしてオレンジは未だ、初めての水着を恥じらっていた。

 普段の服装より圧倒的に薄い生地と狭い面積。ワンピーススタイルなのでビキニ姿のホムンクルスらよりも露出は少ないかもしれないが、しかしそれでも恥ずかしい。今なら金髪の気持ちもわかる。

 だが呼ばれたからにはいかないと。

 勇気をもっていざ――と構えたそのときだった。

「王女様?」

 一体どこをどうみれば、そんな高貴な存在に見えたのだろう。

 背後を振り返ると、綺麗な意匠に身を包んだ老紳士がこちらを見つめていたのだが、その目はまるで死んだはずの死者を見るかのような驚愕の目で、状況が理解できなかった。

「王女様! 生きておられたのですか?!」

 驚愕から一転、今度は喜びの表情でこちらに近付いて来る老紳士。だがこちらが怖気づくと、また困ったような顔をして一歩引き、様子を窺って来た。

 色々とせわしない人だ。

「オレンジ? どしたのぉ?」

「オレンジ……?」

 老紳士は首を傾げる。

 オレンジはその一瞬を見逃さなかった。

「すみません。家族に呼ばれていますので、私はこれにて失礼します」

 と、逃げる口実にして勢いよく飛び込んだ。

「王女様?!」と突然のことで驚く老紳士の声が遠ざかっていきながら聞こえたが、すぐさま水飛沫と海中で泡立つ気泡の音とで掻き消えて、体は初めて冷たい蒼海に抱き留められる。

 初めての海は冷たくて、しょっぱくて、息苦しかったけれど、それらを忘れるくらいの別世界が、目を開ければ広がっていた。

 色鮮やかなサンゴ礁と、その中を泳ぐ魚の群れが青色の世界の中で自らの色彩を湛えて輝いている。屈折して届く日の光は、森の木漏れ日と違って海と言う青の世界を全体的に、満遍なく照らしていた。

「上でなんかあった?」

 遅れて浮上して来たオレンジに、青髪は問いかける。

 オレンジは首を横に振って、そのまま海という別の世界を堪能した。

 自分を王女様などと呼ぶ謎の老紳士の存在など忘却するほどに、それはもう存分に。

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