「先生との思い出は私の宝物だった」
ヴェティ・ガルナンドは現在、小学校で教師を務めていた。
リグレット・ネバーランド時代のそれとは打って変わって、子供達に文学を教える傍ら自らの創作活動に励んでいる。
教務に執筆にと毎日を忙しくしている彼女だが、偶に訪れる休日にはのんびりと、日差しの下で読書と紅茶を嗜む。
リグレットのままではあり得なかった平凡で、平和な日常。
外道魔術師よりヴェティ・ガルナンドの名を貰い受けていなければ、こんなにも穏やかな日常を手に入れることはなかっただろう。
軍にとってリグレットの存在はそれだけ大きく、重要な存在。
軍の最高機密すら知り得ている彼女を、みすみす軍が逃すことなどない。記憶を失っているかどうかなど、確かな確証がない限り信じられない話だ。
ヴェティ・ガルナンドがリグレット・ネバーランドであるとバレるまで、時間の問題なのかもしれない。
彼女が過ごす平穏は、限りがあるのかもしれない。
だからこそ、彼女は今の時間をとても大事に過ごす。
しかしいい人は側におらず、子供の姿もない。
過去の記憶はほとんど残っていないというのに、彼女はどれだけ言い寄られても首を縦に振ろうとしなかった。
誰の誘いも断って来た。
今の彼女ですら知らない心根の奥深くで、何か感じる存在がいたからである。
それがどんな人かはわからないし、ましてや女性だなんて思ってもいないし、リグレット時代の自分が教えていた生徒なのだとは思いもしない。
故に外道魔術師より連絡があったとき、まさか彼女が来るなどとは思っていなかった。
とても淑やかで、落ち着きのある雰囲気をまとった人だと思った。
年齢は自分より五つ下だというが、自分より大人びているので驚いた。
老けているという意味合いではない。彼女の方がいい形で歳を重ねている気がして、羨ましく感じられた。
ヴェティがヴェティとして生きている年数はまだ、年端もいかないからかもしれない。
見た目だけが大人なのではなく、中身もちゃんと成長した人間である感じがして、ヴェティは彼女の登場に驚いたのであった。
「突然、このような場を設けて頂きありがとうございます」
「いえ……こちらこそ、会えて嬉しいです。ごめんなさい、会いに行くことができなくて」
「いえ……どうぞ、つまらないものですが」
「これはどうも、ありがとうございます」
互いに、ぎこちない。
初対面ならざる初対面。
片方は確かに憶えているのに、その顔が初めての対応と記憶にない言葉遣いをしてくるので、わずかながらに気持ち悪さを感じて仕方ない。
対して片方は相手にどんな対応をしていいのかわからず、他人行儀になってしまうのは否めない。
自分にとってはこれが初対面で、彼女と話すのも初めてにしか感じない。
どれだけ自分が彼女のことを思っていて、どれだけ彼女が自分のことを思ってくれているのか、彼女に関する情報のすべてが、明らかに欠如していて、正直怖い。
自分が知らない自分を知っている人と会うのは、何かしら得体の知れない恐怖をまとっている。
彼女が買ってきてくれた赤いリンゴでさえ、童話の毒リンゴに思えてしまう瞬間がある。
自分の知らない自分など、自分だけでは最も知り得ない存在だろう。
それを知っている彼女は一体、今よりも前の自分にどんな思いを馳せていたのか。
得体の知れない自分が、自分も知らない自分の存在が、怖い。
「……夏の林間学校。思えばあれが始まりだった。海辺で特訓をするからと、皆が水着姿に着替えたときに男子が見惚れていたのは、先生の水着姿だった。思春期の男子には、女性の美しい肢体は刺激的だったでしょう。ですが、その中に私もいた」
「思えばそれからおかしかった。私は先生と意図的に視線を逸らすようになって、会話もままならなくなっていった。服の下に隠れている先生の肢体を思い起こすと恥ずかしくて、直視なんてできなかった」
「ですが直視できない分、先生を声で聞き分けるようになった。そうしたら今度は、凛々しくも女性的で、優しい声音に惹かれ始めた。とても優しい声で、聞き入ってしまって、私はとても授業中に寝られなかった」
「そのうち、先生は私を気にかけてくれるようになった。まさか、私が恋をしているだなんて知らなかっただろうから、私の瞳をジッと覗き込むようにして――次は、目に惚れる番だった。あなたの優しさと強さの入り混じった目は、私を瞬く間に虜にした」
「気付いたときには――いえ、気付くまえより、私は先生に恋をしていたのです。それに気付いてからの私は、とても、とても幸せだった。私はそれだけ、先生が好きだったんです。だから私の気持ちに応えてくれたとき、嬉しかった」
彼女の頬を涙が伝う。
笑みを湛える口元を濡らし、拭う袖に染み込んでいく。
彼女を見るヴェティもまた、笑みを湛えていた。
得体の知れない者と出会う恐怖は、彼女の優しい口調で語られる話が少しずつ解いて行く。
涙で濡れる彼女の口から発せられる言の葉は、それだけの温もりをまとっていた。
「最後に先生がしてくれた口づけの優しさを、私は忘れません。あの日してくれた約束を、私は忘れません。あの日までの先生との思い出は、私の宝物だった」
彼女があくまで彼女の先生の思い出を話しているのは、目の前の女性を先生ではない誰かとして置いている証拠か。
だとしても、彼女には酷く辛いのだろう。
彼女は辛さ故に、子供のように泣きじゃくって、言葉も紡げなくなってしまった。
ヴェティはさりげなく、彼女にハンカチを渡して涙を拭うように促す。
「……とても、とてもよく伝わります。あなたの気持ち。あなたの心。あなたは、その先生のことが、とても好きなのですね」
彼女もまた、自分を彼女の先生だとは思わない。
本当は自分のことなのに、やはり他人の思い出を聞かされている気分で、同じ思いを抱くことはとても難しい。
しかしながら、どこか彼女が泣く姿には見覚えがあった。
恥ずかしさに耐え切れず、すぐに涙してしまう子供の存在は、どこか既視感がある。
今見ている子供達の中に、そんな子がいるだけの話なのかもしれないが。
「ありがとうございます。お話しに来てくれて。そしてごめんなさい。私はやっぱり、あなたの先生にはなれないみたい」
「大丈夫です。信じています。あの人は、約束を必ず守ってくれる。帰って来ると、信じているんです。だから待ちます、いつまでも。この胸の宝物を胸に」
「――そうですか」
待っていてくれる。
その言葉にどこか安堵した自分がいた。
時間は有限かもしれないし、一生会えないのかもしれないけれど、でも待ってくれる。
いつかリグレット・ネバーランドが帰ってくることを信じて、その日まで。
「今日は、どうもありがとうございました。とても、とても楽しかった」
「えぇ、私も」
その後少しの談笑を交えて、時間が来てしまった。
会話は弾み、時間などあっという間だった。
彼女もヴェティも、別れを惜しみながらも互いの時間に戻ろうとしていた。
「では、またいつか会えたら……また」
「えぇ、また」
と、彼女が扉を開けようとしたときだった。
「メルクリウス」
不意に、ヴェティは呼び止める。
そして振り返った彼女の唇を、優しく食んだ。
「先生の愛は、あなたと共にあり続けます。帰って来たら、続きをしましょう」
瞬間、彼女は耳の端まで真っ赤になって恥じる。
その様はまさに、茹で上がった
同時にボロボロと崩れる涙は、滝のように溢れて止まらない。
「――先生……!」
彼女を強く抱き止める。
ずっとこうして抱き着きたかった。
ずっと先生の温もりを求めていた。
ずっと「先生」と呼びたかった。他でもない、あなたのことを――
「もう少しだけ、もう少しだけ待っていて。必ず帰ってくるから。必ず、必ず……」
魔導図書館には一人の司書がいる。
彼女はとても天才で優秀、才色兼備の女性だが、言い寄る男は一人もいない。
天才に過ぎて、彼女を扱える自信など誰も持てないからだ。
だがもしもそんな自信に溢れた男が現れたとしても、彼女は一切靡かないだろう。
彼女には帰りを待つ人がいる。
必ず帰ると約束をして、待ち続けている人がいる。
その証に、彼女の右手の薬指には、銀色の指輪が光っている。
必ず帰ると約束をしてくれた、大切な人からの贈り物。
バレンタインデー――恋人たちの日々を共に過ごした人からの、大切な贈り物。
だがもしも彼女が帰って来たとき、この贈り物はきっと意味合いが変わることだろう。もしくはこの指輪となる対の代物が、彼女の左手に嵌まる日が来るのかもしれない。
淡い期待と知りつつも、今日も彼女は待ち続ける。
愛する人の履歴を追って、愛する人が帰ってくる日を、いつまでも――
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