「もしもおまえが誰かを愛する時が来たら」
バレンタインデー。
愛する人と共に過ごす日。
愛する人に、愛を伝える日。
戦時中はそれこそ愛する人と共にいれた者は少なく、皆が戦いに駆り出されていた。
リグレットもまた、愛していると言ってくれた一人の生徒を置いて来てしまったことを心残りにしながら、戦争の最中にいた。
「未練でもあるのかネ?」
周囲にいる人の中で、まさか彼が話しかけてくるなどとは思っていなかった。
リグレットは一拍、返答に遅れる。
「なんだネ、そんなあからさまに話しかけて欲しそうな雰囲気を醸し出しておいて。私では不満なのかネ?」
「いや、まさか。ただあなたが話しかけてくれるとは、思っていなかっただけです」
彼女の手には今、一枚の写真が握られている。
彼女が教えていた教室の生徒達との集合写真。中央に座るリグレットの隣には、最愛の生徒が座っている。
「ここに来る前に、生徒の一人から告白されまして。その子に最後まで教えられなかったことが、少し心残りなのです」
「そんなことかネ。なんだったらその生徒も連れて来ればよかったのではないのかネ? おまえの教え子だ。戦闘経験はそれなりに積ませているのだろう?」
「愛していると言ってくれた生徒を、死地に招くことなどできませんよ。何より、私もあの子のことを愛しているのです。生徒として、そして一人の人間として」
「そうかい。だが、今回は諦めた方がいいヨ。この国は軍事力こそあるが、それを動かす頭がバカだ。ここでは有能な兵士も無駄死にするヨ。私は近々ここを抜ける」
「貴方らしいな、魔術師殿。まぁ私も、無駄死にで終わる気は毛頭ない。足掻くだけ足掻いて、生き残ってやりましょう……だが、魔術師殿。もしも私が死んだときには、私のホムンクルスを作って故郷へと送ってはくれませんか」
「なんのためだネ。言っておくが、おまえの代わりになどなりはしないヨ。確かにおまえと同じ姿。同じ声。同じ仕草を取るだろう。だがそれだけダ。それだけで、そいつと一緒にいたおまえではないのだヨ。それでも、送ってくれと言うのかネ?」
「……そうまでしてでも、会いたいのですよ。あの子にまだ、私も伝えていないですから。ちゃんと、私の気持ちを」
博士の胸に押し込まれる紙切れ。
書かれているのは、彼女の住所と金庫の番号。
それが彼女がこのとき支払える、全財産ということだった。
「頼んだぞ、魔術師殿」
「……まだ受けるとは言ってないんだがネェ」
これがリグレット・ネバーランドと博士の最後の会話。
戦争終結から数年後、彼女とまた再会するのだが、そのときはすでに彼女は記憶を失っており、天才リグレット・ネバーランドの姿はすでになくなっていた。
面倒ごとに巻き込まれるのも面倒だろうと、ヴェティ・ガルナンドという名前を与えたのだが、彼女自身もまったく変わってしまっていた。
男装の麗人だった彼女がドレスワンピースに身を包み、髪を結んで大人しい雰囲気を醸し出す彼女のことを、博士はもうリグレットだとは思えなかった。
だからこそ、彼女をリグレットと呼ぶのはなんかイヤで、あの天才は戦争で死んだのだという意味合いで、名前を与えたのだが。
まさか彼女がその後、書き手になるなどとはまったく思っていなかった。
かすかに憶えている戦争の記憶を呼び起こし、書かれた彼女の本は実にリアリティーがあって、世界的にも有名な作品となった。
かつての友人として、もしくは知人としてなのか、単純に面白いと思っているからなのか、博士の施設にある書物の中の数少ない小説コーナーの中に、彼女の作品も並んでいる。
世間にまったく出ないので、書き手ヴェティがかの天才だとは誰も思うまい。
それはメルクリウスも同様で、だからこそ気付けなかった。
もしもその小説が、リグレットが軍人時代に残した報告書と同じ書き方で、手書きだったのならすぐにわかったかもしれないが、彼女が保護された国にはすでに、タイプライターが普及されていた。
結果、今日までメルクリウスが彼女の存在に気付くことはなく、彼女が生きていることを知ったのが唐突になってしまったのは仕方ないと言えば仕方ない。
彼女は後悔していた。
もっと詳しく調べれば、先生の下へ辿り着けるのではなかったのかと。
図書館に籠らずに探そうとしていれば、もっと早く先生に会えたのではないのかと。
だが今会ったとしても、先生はもう自分の先生ではない。
リグレット・ネバーランドとは別の人生を歩んでいる、彼女の肉と声を持つまったくの別人。
だとすれば、偽物だとしても、リグレットとしての記憶を持つその一個体を愛することはできるのだろうか――
* * * * *
博士の空中施設。
約二週間半もの間、図書館にて本と言う本と向き合って来たホムンクルス達は、若干の体調不良に見舞われていた。
特に本が苦手だった赤髪は知恵熱が出てしまったくらいで、精霊の王子への贈り物を用意する気もなかなか起きず、寝入っていた。
約二週間半の成果として、博士が指定したものは紫髪とオレンジが見つけてきた。
これで博士の研究がある程度進むのかとも思ったが、博士曰く――
「これはただの前例に過ぎないヨ。古い記録だからネェ。ここから応用を利かせてこそ、真の研究さネ」
とのこと。
しかしある程度の指針はできたようで、それ以降研究室に籠りっきりである。
そんな博士に、オレンジは飲み物を持って行き始めた。
博士お好みの、熱々のブラック珈琲だ。
博士は特に文句も言わず、持って来られれば黙って飲む。
味に文句はなく、どれだけ熱い珈琲でも「熱い」と言わずに飲む。
オレンジも何も文句を言うことなく、時折思い出したように珈琲を淹れる。
ただそれだけ。
互いに文句もなければ注文もない。
片方は淹れ、片方は飲む。
ただそれだけが、ずっと続いた。
「メルクリウス様は……司書様は、どうされたのでしょうか」
「さぁネェ。だが、徒歩では長い道のりだ。やっとこさ、国に着いた頃じゃあないかネ?」
会話をしたのは久し振りだった。
博士は上機嫌らしく、どうやら研究が順調に、前向きに進んでいるらしいことが窺える。
珈琲を飲む博士はどこか、若干口角が持ち上がっているようにもオレンジには見えた。
「しかし物好きだネェ。自分を憶えていない女の下へ行く、か」
「博士は、この結末をわかっていたのではないのですか?」
「人の考えることなど何もかもわかるものかネ。だからこそ人は書物を記し、自分の考えを他者へと繋げようとするのだヨ。人は、他人の考えを真っ直ぐには理解できない。だからこそ必要なのダ。伝えるための手段が」
「ではそれは、贈り物もそうですか?」
「贈り物? あぁ、バレンタインデーのことかネ。そうだネェ……」
博士は一瞬、カレンダーを探す。
博士は普段、カレンダーなど見ていない。
暦も月日も構わず、研究を続けているからだ。
仕事には当然期限を設けるが、それを遅らせたことは一度もない。
だがカレンダーだけは見ない。
博士は追い込まれてようやくやる気を出すような怠け者とは違う。
常に動けるだけの下準備を続け、余念はない。
どれだけ短い期限を設けられようとも、それに応えられるだけの準備を怠らない。
だから普段、博士はカレンダーなど見ない。
だからカレンダーと時計を探してしまうのは、博士が時間と期限の誓約に縛られることを知らない人間であり、かといって怠惰に生きてはいない証拠と言えた。
故に彼は、祭日や祝日などの行事そのものは知っていても、今日が何日でその日まであといくらなのかを知らなかった。
故にバレンタインデーが翌日であることを、博士はこのとき初めて知った。
無論、これから研究に戻るので、思い出した頃にはすでにバレンタインデー当日を過ぎていることだろうが。
「オレンジ、おまえは今回何冊本を読んだ? その贈り物の風習が乗った本は、どんな本で見つけた」
「……すみません、憶えていません。数えることを、途中から忘れていました」
当然、拳骨が落ちてくると思っていた。
数えろとは言われていなかったが、確かにたくさん読んでいる証拠がいるはずだ。
だがオレンジの予想を裏切って、博士が下した手は優しく、初めて、オレンジの頭を撫でた。
「それでいいのだヨ」
そして予想を裏切って、博士は微笑んだ。
初めて、博士の微笑む顔を直視した。
何せ博士はこのとき、マスクをしていなかったからだ。
「何冊読んだと明確に憶えている程度なら、大したことはない。それこそこれだけ読みましたと言うようならそれはただの自慢だ。自分の功績を認めて欲しいだけの得点稼ぎに過ぎない。だが覚えていないということは、それだけ夢中になったということダ。おまえのような奴は、その方がよっぽど信頼できる」
「……博士は、私を信頼してくださっているのですか?」
「なんだ、そんな文句まで覚えてきたのかネ?」
博士の口角から力が抜ける。
笑みが消えた博士だったが、どこか目は喜んでいるように見えた。
オレンジにだけそう見えたのかもしれないし、ホムンクルス達がいればそんなことはないと言うのかもしれない。
だがオレンジには、まだ微笑みかけてくれているように見えたのだ。
そう見える、普段の博士だった。
「信頼……そうだネェ。少なくとも、私のところからホムンクルスを買うような奴らよりはずっと信用できるヨ」
「……博士から、そんな言葉が聞けると思いませんでした」
「人間不信だとでも思ったかネ? 人を信じないで商売などできるものかネ。だがそれでも、好き嫌いはある。信頼できるかどうか、計ることもある。そして、おまえは信頼足り得るかと言われるとそうではない。しかし、信頼が足らんわけでもない」
「人から信頼を得るとはそれほど難しく、人に愛されるとはそれだけ難しい。ただ何かを贈ればいいというものでもない。形だけでは何も変わらない。だからこそ、私はこれからのおまえが何をするのかを見てみたいのだろうネェ」
「もしもおまえが誰かを愛する時が来たら。そのときおまえはどうする、どうしたい。まだ結論は出ないだろうが、ジックリ考え給えよ。おまえがこれからどんな奴を愛するか。そんなことは、わからんのだからネ。だから一つの手段として考えな。ものを贈る。それはすなわち、気持ちを贈るということだ。それが後々、おまえを信頼足り得る存在にするかどうかを決めるのダ」
その後、バレンタインデー。
やっぱり博士は研究に没頭するあまり、そんなことは忘れていた。
ホムンクルスもそれぞれの役目に戻り、また、愛する人への贈り物のために奮闘する。
そして博士のデスクには今日も熱々のブラック珈琲が運ばれる。
同時、その横に置かれたチョコレートケーキは、オレンジの気持ちであった。
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