「愛は時に神をも殺す」
彼は決して救世主と呼べる存在にはほど遠く、【外道】と呼ばれるに相応しい存在。
されど誇り高き精霊族が、彼に助けられたのは事実。
いくら否定しようとも、覆りようのない真実である。
「私が作ろうじゃないカ。君たちを守る、最高の兵団ヲ」
精霊族は希少故、捕縛が定石。
戦場で敗走した仲間達が、拷問に次ぐ拷問で情報を抜き出されたのだろうことは、想像に難くない。
問題はその後の彼らの処分が、性奴隷として恥辱と陵辱の毎日か、標本としてマニアに高く売られたか、どちらの結末を辿ったか。
故に精霊族に奴隷の首輪を嵌めて現れた彼を、誰も救世主などとは思わなかった。
すでにこれ以上なく使い古され、搾り取られた彼女達の目を見て、「生きて帰ってきた」などと言い切れるのなら、どれだけ平和かつ幸せだっただろう。
故に精霊族は彼を憎みこそすれ、歓迎することはなかった。
誰もが剣を抜き、弓を引き絞り、彼に刃を向けたものである。
「宣戦布告でもしに来たか、人間」
当時の精霊族の長、ロメオ・フェアリが迎え撃つ姿勢の隣で、妻のジュリエット・フェアリは恐れていた。
魔術を超越せし魔法を操る精霊族の結界をすり抜け、もしくは破壊できる人間がやってきて、今までに戦争が起こったことしかなかったからである。
このときもまた、敵国にその国の種族の奴隷を連れてくる彼を、危険としか見ていなかったのである。
「我ら精霊族の結界を破るとは大した魔術師だ。が、少々頭に乗りすぎたな。よもや一人で、しかも我が同胞を奴隷として連れてくるとは……殺される準備はできているのだろうな――!」
と、精霊王は言葉を失った。
彼は矢が放たれそうになったその一瞬で、奴隷の一人の頭を鷲掴み、盾として前に差し出したのである。
思わず弓兵は皆矢を降ろし、危うく同胞を殺すところだったことに息を乱す。
「なんだ、意外と冷静じゃないかネ。せっかく帰ってきたというのに同胞に殺されたんじゃ、こいつも報われないだろうからネェ」
次の瞬間、彼が連れていた奴隷の首輪が断ち切れる。
一体どのような魔術を使ったのか、それとも
ほんの数秒前に盾にされた少女ですら、解放されたことに気付いて一目散に駆け出す。
矢を番え、剣を向けていた同胞の胸へと飛び込んで、子供のように、子供らしく、泣きじゃくる。
中には赤子のときから他国にいて、自身を奴隷だと理解し切れていないものもおり、どうしていいかわからず彼に引っ付いていたが、仲間に抱き寄せられると他では感じたことのない安堵を覚え、同じように泣き始めた。
「悲しいことだヨ。君たちの反応で、これまでの歴史そのものが見て取れる。こうして奴隷を解放しに来た者など、記憶にすらないのだろうネェ」
「……おまえ、このためにわざわざ、結界を破ってきたのか?」
「そんなわけがないだろう? 取引しに来たのだヨ。まもなく、人類軍がここを襲撃する。そこの奴隷が、ここを探知してしまったからネェ」
「なんだと」
彼が差した奴隷の少女は、わけもわかっていない状態。
奴隷であるという自覚すらない少女が、自身の故郷を売ったなどという自覚があるはずもなく、ただひたすらに泣きじゃくるのみ。
現に彼女は自身を弁明することもなく、また、言葉すら知り得ない様子。
王は彼女の咎を認め、また誰にも責めさせないことを決めた。
「そうだネェ。あの小娘はただ生きることに必死だっただけだヨ。責めたところで何も出ない。もっとも、そうは言っても誰かの責にしたいときもあるだろう。そのときはあれを
「我らが人間のような残虐な種族と同族に見えるか」
「残虐性こそ生物が拭いきれない野生だヨ。生物である証と言ってもいい。それを失うこととはすなわち、生物から逸脱する存在になると言うことだヨ。君たちは、神や仏に近しいとはいえ、それそのものに成り代わる気なのかネ」
王は口を紡ぐ。
そこで肯定するのはもちろん、否定の言葉を必死に並べても逆効果に働くことは目に見えている。
そこまで傲慢な種族ではない。だがその意見すら、神仏に最も近い種族であるが故の、傲慢から生まれることを、理解しているが故の沈黙。
「さて、では取引だ。我がホムンクルスの兵団をおまえ達にくれてやるヨ。好きに使いナ」
「……見返りは」
「死体。これから先の戦いで生じる死体のすべて、精霊族も他種族も関係ない。そのすべてを私に差し出しナ。それによってまたおまえ達を守るホムンクルスが生まれ、死に、また生まれる。その繰り返しさネ」
「つまり取引に応じれば、我々は同胞を弔う墓にその体を埋めてやれないということか……外道め」
「すでに死んだ者をいくら守ろうと、新たな命は芽吹かない。そこにある命を守らねば、ネェ」
その後、精霊族は彼の予告通りにやってきた人類軍を返り討ちにする。
彼の用意した、大量のホムンクルスを軍に加えたことで、人類軍が得意とする人海戦術を許さない大規模戦闘が可能となり、この結果に至ったのだった。
以降彼との契約は続き、現在。
仲間の死体はすべて【外道】の手に回収され、墓には誰も入っていない。
ただ遺物が埋められ、その上に墓標が立つだけである。
その血肉はすべて、彼の研究のために絞り尽くされる。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
博士は珍しく
普段吸う姿など見せないため、オレンジは博士の胸ポケットからそれが出てきたことに驚いた。
博士曰く、つまらない話を長々とすると、吸いたくなるのだと言う。
特別、おいしいとも思っていないらしい。
「そのときの精霊王は今はいないが、話のわかる奴だったヨ。最初こそ、道徳を穢すと言って憤慨していたがネェ。これから殺される命には代えられないと、悟ったのだネ」
「赤髪さんと王子様は、とても仲が良さそうでしたが、それも契約のうちですか?」
「あぁ、あれは偶然だヨ。今回と同様に取引をしに行くとき、あいつを見せびらかそうと思って連れて行ったんだ。そうしたら豪く気が合ってネェ。過去の遺伝子がそうさせるのか」
「過去の……遺伝子?」
「赤髪の体は初代精霊王にして、原初のイフリートと呼ばれた精霊族の細胞を培養して作っている。あれは人類史上初めて完成した、人工精霊と呼べる代物なのだヨ。魔法の体現こそ適わなかったが、他のホムンクルスと比べても圧倒的な戦闘能力が、精霊としての能力値を物語っている。素晴らしい」
史上初の人工精霊。
ホムンクルスを作る者達にとって、赤髪がどれだけすごい存在なのか、オレンジには理解できない。
博士の言い方から想像するしかないが、赤髪の存在は精霊族よりもずっと希少なのかもしれない、という印象程度にしか理解できなかった。
「赤髪の存在は、今後の精霊族との交流を深める意味でも大きいだろう」
「が――」と博士は否定文で続ける。
これまでの流れから、博士が何を否定するのか、オレンジには推測できていなかった。
「赤髪を嫁にくれてやる気はないヨ」
「何故、ですか……?」
「何故って、決まっているだろう。あいつが、一人しかいないからだヨ」
博士の言葉の意味を、やはりオレンジは理解できない。
博士の噴く白煙が濃く、太く伸びていく。
「赤髪以降、私は作り続けたサ。幾度となく挑み、幾度となく失敗し続けタ。その結果が現在、今ダ……私はあれ以降、精霊型ホムンクルスの作成に成功したことがナイ」
「忌々しい事実だ!」博士は立ち上がった。
次第に言の葉は、今までオレンジが彼から感じたことのない熱量を帯びていく。
「私の長年の研究の成果の一つが、あろうことか奇跡によって手助けされた産物だったなどと! 私一人の研鑽と努力では、決して至れない領域に、神のいたずらでこのときのみ至ったのだなどと! こんな屈辱があるかネ?! 獣人も巨人も龍人も、余すことなく、すべての種族の混血ホムンクルスの作成に成功したこの私が! 精霊族の高位神祖というだけで、何故ここまで手こずらなくてはならないのか! これこそが!」
「世の不条理だヨ!」
赤髪という存在が奇跡の産物だったと認める一方で、しかし認めたくない事実を受け入れざるを得ないということに、博士は悶える心を炎に変えて燃え上がったかのようだった。
ここまで言の葉に力と熱が入る彼の姿を、オレンジは見たことがなかったが故に圧倒される。
内容は、単なる一人の男の嘆きでしかなかったが、オレンジは彼の迫力に引き込まれた。
「赤髪はやれないヨ。あれが未だ、奇跡の産物である限りネ。どこの誰にもやるわけにはいかない。原初の精霊族の生きた細胞は、もうあいつからしか採取できないからネェ。あれをよそにやって、勝手に死なれたら、困るんだヨ」
「でも……赤髪さんは、あの方を――」
「だから、私は恐ろしい」
博士は刻みタバコを捨てる。
未だ熱を持つ煙管を置いて、窓の外に目をやった。
今さっきまで青空が広がっていたというのに、雨が降りそうな暗い曇天となっている。
窓の向こうで、赤髪が何か思い詰めた様子で立っていたが、彼女がいたことは偶然で、博士は思わず彼女を見つめたまま、独白に近い形で漏らす。
「愛は時に神をも殺す。愛とはとても道徳的かつ盲目的で、美しくも汚くもなる。昨日の朝まで誓っていた神に背を向け、聖母に刃を向けることもある。自身しか愛していなかった者ですら、愛する者のために命を賭けようとする。愛が、明日からの神になる」
「……それは、それは恋から生まれるものですか? 王国の花嫁は、恋した人のために命を賭して、駆けつけようとしていました。傷だらけになっても、ぼろぼろになっても、あの人は止ろうとしませんでした。あれは、愛ですか?」
「おまえは、どう思う」
「……わかりません。恋とはどういう状態で、人を愛するというのは、どういう状態なのか。私は、私はわからないのです」
オレンジは訴える。
博士に問いかける。
愛とは、恋とは何か。
愛する者の元へと必死に駆けつけようとする花嫁の姿が、あれ以来、心の片隅にこびりついて仕方ない。
泥だらけになって、血まみれになって、尚這いつくばいながら、それでも必死に足掻き、隻腕となっても向かおうとする花嫁の、悲しい顔を忘れることが出来ない。
人は皆、恋をすればそうなるのか。
人は皆、誰かを愛せばそうなるのか。
たとえば記憶を失った、自身が誰かもわからない少女ですらも、誰かを愛したとき、何もかもに抗って、何もかもを薙ぎ倒してでも、その人の元へ向かおうとするのだろうか。
愛は時に、神をも殺す。
だとすれば、自分にとっての神とは、誰か。
「青髪さんの貸してくれる小説で、胸が張り裂け、体の血が沸騰するような、熱く、苦しい感覚だと書いてありました。でもそれなら、血を入れ替えてもらっているたびに、私は感じています。いつも熱いです、いつも苦しいです。これが、これが恋なのですか? 私の恋した相手は、愛した人は誰なのですか?」
「恋にそんな症状はない。そんなのはただの比喩表現ダ。小説家と名乗る世間から省かれた者達が、必死に読者の共感を得ようとして探し求め、最も恋という状態を表すに近い表現をそう書いているだけだヨ」
「では、では恋とはなんですか? 愛とはなんですか? 赤髪さんの抱くあの気持ちは、恋ではないのですか? 花嫁の皆さんが抱いていたあの気持ちは、恋ではないのですか? なのに、なのに、繋がることは、許されないのですか?」
「愛すれば、恋した相手と必ず繋がれるわけでもナイ。それこそ理想の話なのだヨ。誰もがそうなりたいと思い描く、ただの理想の形。赤髪は、私がそうさせない、それだけのことだヨ」
「……では、赤髪さんの恋は、愛は、適わないのですか? それは、なんだかとても、とても、悲しいです。悲しいと、思います……」
「原初の精霊さんが博士の手で時間を超えて、今の精霊さんに恋をしたって思うと、とても、とても……私は、そう、思うの、です」
オレンジは黙る。
博士の目が怖かった。
それ以上言うなと、はしゃぐなと、少し黙れと脅す目だった。
そんな詩人じみたことを言ったところで、決断は変わらないんだよと、博士の目は憤激していた。
「そう、思うのです」
それだけ訴えるのが、精一杯だった。
博士は再び窓の外へ視線を移す。
横目で見た景色の中で、原初の精霊様の映し鏡であるところの高位神祖の代わりは、寒空から降り注ぐ冷たい雨に濡れていた。
「もしも……もしも、赤髪が愛に生き、恋に生きるというのなら、そのとき奴が殺すべき神だけは、ハッキリしているだろうネ」
「私だヨ」
雨足は強く、激しい雨音が静寂を貫く。
その中で濡れる赤髪は、悲しげに曇天を見上げていた。
まるで自身が殺すべく神の存在を、知らない子供のように。
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