「花嫁創造計画」
雨。
時雨。
彼女は雨が大好きだった。
雨の日に外に出て、よく家政婦らを困らせていた。
弾ける雨粒が奏でる雨音の多重奏。傘を差せば、その音をとても近くで感じられることが、彼女は好きだと言っていた。
だから彼女が死んだ日、雨が降っていたのはきっと、彼女が寂しくないように、天が気を利かせてくれたのだと、普段本も碌に読まない父親は思ったものだ。
そうでなければ、旅行先のホテルで強盗に襲われ、外へ突き飛ばされて殺された彼女の不運をただ呪うことしか、父にはできなかった。
なんて、なんて可愛そうな娘。私がついてさえいれば。一人旅なんて許さなければ。後悔は、日が経つごとに溢れ出て来て仕方ない。
まだたったの一四歳だった娘。まだまだ、これからを生きるはずだった娘。
これからやりたいことが見つかって、それをして、挫折して、しかしそれでも頑張って、それを実らせることもあっただろう。挫折したままに終わったかもしれない。
だがどちらにしても、彼女はその可能性を奪われた。
そしてその可能性を奪ってしまったのが、もしかしたら自分なのではないかという悩みに苛まれ、父の心は後悔に呑まれて、仕事も何も手に着かなくなってしまった。
あのときああしてやればよかったな。
あのときはああ言ってやればよかった。
もっと伝えたいことがあったし、話したいこともたくさんあった。してやりたいことも、させてやりたいことも、たくさんあった。
だけど本当に、本当に思うのは。
生きていて欲しかった。
例え挫折しても、失敗を重ねても、生きている限り何度でも伝えられる。何度だってやり直せる。何度だって、夢を見ることができる。
死んでしまってはなにもできない。夢を見ることだって、何かに挑戦することだって、諦めないことだって、それこそ、大好きな雨音を聞くことさえも。
彼女を埋葬する日も雨だった。
だがそれは彼女の冥福を祈るためでなく、天が泣いているのだとさえ思えるほど弱弱しくて、
その乱雑な雑音すらも、彼女にとっては音楽だったのだろうか。大好きな雨音が見せる、一つの表情だったのだろうか。
父にはそれが理解できなかった。こんなにも寂しく、辛く、この空いた胸の内に入り込んでくるその代物が、どうしてそんなに好きになれるのか、理解などできるはずがなかった。
雨音では満たされない。ただの雨粒では満たされない。
このぽっかりと、虚空のように空いてしまった胸の内は、空から降り注ぐ無数の水滴では満たされない。
娘の笑顔が見たい。ただの雨ではなく、彼女が愛した雨が見たい。
このただの雨を愛する、彼女に会いたい。
もう一度、せめてもう一度だけ、言の葉を交えたい。
もう、一度だけ――
気配を感じて、ふとテラスへと向かった父は見た。
そこにいたのは、紛れもない娘の姿。母似の薄紫色の頭髪も、その肌の色も、そこには生きている娘がいた。
そして彼女を飾っているのは、真白のウエディングドレス。
彼女の髪色をより色濃くして移したかのような、紫色の花に見立てた形のフリルで腰を飾って、コルセットにも小さな花型のフリルが散りばめられている。
左側頭部には真白の造花で作った髪飾りを着けて、その目はまるで外の雨を見て来たかのように潤んでいた。その目から、一筋涙が零れて落ちる。
「……おとう、さん?」
「アニマ……あぁ、アニマ!」
抱き締めたい。だがもったいない。
なんて、なんて美しい花嫁姿。
抱き締めた自分の腕でグシャグシャにしてしまうことなど、もったいなくてとてもできない。
最後に見たあの悲惨な姿が一瞬重なって、そこからの変貌に驚いた。
もう父の頭では、あの悲惨な事故は起きていなかった。哀しそうに空を見つめ、雨を浴びて涙する娘の亡骸など存在しなかった。
ただ目の前の彼女だけが、今の父に見えているすべてだった。
「あぁ、あぁ、なんて、なんて美しい……あぁ、アニマ」
「おとう、さん。なんで泣いてるの? わたし、なにかしちゃったの?」
「あぁ、なんでもないよ。ただ、アニマがとても綺麗だったから、感動してしまって……」
涙が止まらなかった。
生きていてくれたんだ。そんな虚妄すら認めてしまいそうになるほど、目の前の娘が美しかった。
この涙溢れる目にどれだけ入れても、痛くなんてなかった。
私が愛する娘が、目の前にいる。そのことが何よりも嬉しくて、嬉しくて――
「おとう、さん……わたし、もう行かないと」
「行く? 行くって、どこへ」
「……わたしは、花嫁さんだから。わたしは、花嫁さんだからね? 結婚しなきゃいけないんだって。だから結婚式に行って、神様に誓わないといけないんだって。これまでずっと、ずっとおとうさんから受けた愛情を、今度は結婚する人に与えるって、誓わないといけないんだって。だからね、おとうさん」
「わたし、行かなくちゃ」
その言葉が酷く、酷く鮮冷に聞こえた。
だが同時に、安堵した。
そうか、これは彼女の魂が、天へと昇る前に帰って来たわけではないのだと。夢ではないのだと。彼女の肉体は、魂は、ちゃんとここにあるのだと。
彼女は、生きてくれているのだと。
「そうだね、そうだ……だけどアニマ。一つ、一つだけ」
「おとう、さん?」
父の顔は、涙でぐじゅぐじゅになっていた。
だが父はそんなことなど構うこともなく、ただ娘の肩に両手を置いて、深々と頭を下げながら、嗚咽を繰り返しながらも、ただずっと、ずっと言いたかった言葉を、投げかける。
「ごめんよ、アニマ。ごめんよ……おまえを救えなかった私を、許してくれ」
その言葉がずっと言いたかった。
死んだ彼女を見て、まず最初に思い浮かんだ言葉だった。
彼女が旅行に行くと言ったとき、父親としてもっと彼女にしてやれることはあったはずだったのに、危険なこともあるとわかっていたのに、何もしてやらなかった後悔が募っていた。
もっと父親としてやってやりたいことがあったのに、何もしてやれなかった。そのことがずっと心残りで、辛かった。
「アニマ、私の娘……本当に、本当に、私は許されない父親だ。だけど、それでも私を許してくれるのなら、心から、言いたいんだ――結婚、おめでとう」
娘、アニマは涙する。
自分から父の胸に飛び込んで、美しい衣装が崩れることなど気にせず泣きじゃくった。
「お父さん。私、私は幸せだったよ。お父さんの娘で、幸せだったよ。ごめんね、死んじゃってごめんなさい。お父さんが謝ることなんて何も、何もないよ。私、ずっと、幸せだったよ……」
「今まで、ありがとう、ござい、ました……私、幸せに、なります」
泣く。泣く。泣く。
涙はとめどなく溢れて、止まることを知らない。
二人の代わりに、空が泣いたとして、今降り注いでいる雨だけで足りるだろうか。
二人はそれくらい泣いて、泣いて、泣き続けた。
そのとき同時に、父は聞いていた。彼女が好きな、雨音の重奏を。
それは彼女の幸せを祝福するものであり、彼女の幸福を祈るものであり、父の無念を晴らす、そんな、素敵な雨音であった。
もう少し、少しだけ。そう思っているから、父はなかなか、娘を抱き締める腕を解けない。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「今回は死体の状態がとてもよかったからネ。あの父親は大層、感動的な再会というのをしているのだろうネェ」
雨の中、小さなオレンジに傘を差させる博士は言う。
オレンジが雨で濡れることなど構いはしない。ただ依頼人の家に少女を届けてから、双眼鏡でジッとその家を監視していた。
もっとも双眼鏡など使わずとも、充分に見える距離なのだが。
「情報記録媒体。それは脳に直接、世界の常識や計算能力などを擦りこみ、植え付ける技術ダ。これを使えば仮に赤子だろうと、頭の中で数式を組み立て、回答することも充分に可能なのだヨ。まぁ、字を書いたり言葉が話せるようになるわけではないけどネェ。しかしこれで、おまえの懸念していた知能の問題はクリアできる」
「でもそれは、脳にとても負担がかかるのではないですか?」
「おまえは世界の常識を知らない癖して、妙に勘の鋭い奴だヨ。だがしかし、それは確かに懸念材料だ。脳に情報を擦りこむというのは、すなわち脳にそれだけの情報を一挙に与えるということだからネ。普通の人間に施せばまず人心を司る回路を焼かれ、命令しなければ何もできない、しかし命令されればなんでもできる機械的人間が完成しているわけだヨ」
「じゃあ――」
「だが、言っただろう? 赤子ならば数式さえも解ける、ト。つまり元々脳に蓄積されている情報量が一定以下ならば、脳にまったくと言っていいほど負担を与えることなく、知識のみを与えることができる。生まれた段階では脳がまっさらなホムンクルスには、うってつけの技術なのだヨ」
貴族の屋敷に、何かが走って来た。
馬車だ。それも一つの馬車を護るようにして数台の馬車が囲みながら走っている。
「あれ、は……」
「隣国の王子が迎えに来たようだネェ」
「それって、確か結婚相手の」
「青髪から聞いたのカネ? あいつめ、依頼人の情報は軽々しく口にするなと言っておいたはずなのだがネェ」
真ん中の馬車から、王子と思われる白い衣装に身を包んだ青年が降りてきた。
多くの護衛に護られながら、彼は静かにベルを鳴らす。数分後、美しい真白のドレスを着ている少女と、その子に傘を差してやるあの依頼人と思わしき男性が出て来て、少女を王子の馬車に乗せ、それらの馬車が行ってしまうのを見送っていた。
すべての馬車が見えなくなると男性は家へと戻り、それを見た博士も双眼鏡を仕舞う。
「帰るヨ。仕事は終わりダ」
「……これが、博士の花嫁創造計画、なのですか?」
「厳密にはその一端、というべきかネェ。とある男に、ホムンクルスの花嫁を作ってもらえないかと言われてネェ。以来作ってやってるのだが、どれもこれも首を縦に振らなくて、結果余ってしまうホムンクルス達。さすがに殺処分するのも忍びなくて、それで他の連中に売りつけることを思いついたわけだヨ」
「その方は、何故ホムンクルスの花嫁を?」
「人の性癖なんて、私が知る訳がないだろう。妙なことを訊くんじゃあないヨ」
と、すぐ側の木の下で眠る狼に乗ろうとする博士を濡らさないよう――濡らすと怒ると青髪が言っていたので、オレンジもうん、と腕を伸ばしながら博士に沿って歩く。
と、博士は急に立ち止まって屋敷の方を一瞥し。
「まぁ、強いて言うのならだ、オレンジ。世の中、人の代わりなんていくらでも捕まえられる。その人そのものにはなれ代われなくとも、しかし代役などいくらでも立てられる」
しかしだ、と博士は続ける。
「その代役によって救われる人間もまた、求められる数だけ存在し、その代役の方が何より印象に残るという者も多い。偽物は本物になれないがネ、しかし偽物が本物を超える場合は、必ず存在する。それこそ、偽物の方が価値がある、などと言う者もいるくらいサ」
そのときの博士の言葉が、今後のオレンジの人生を大きく変えていくこととなる。
何せこの言葉がきっかけで、オレンジは博士に興味を持ったのだ。
人に偽物の幸せを届ける、人に興味などない外道魔術師。
その研究の果てに辿り着く、この花嫁創造計画の終わりがどうなるのか。オレンジは、果てしない研究のその先にある結末を見届けてみたいと、そう、思ってしまったのだった。
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