34. カルテシオマニアの方法論
ぼくははだかの者たちの上に腰をおろした。目に見えるのは、ただの薄暗い夕闇。そのなかでわずかに分かる、闇に溶けたようなぼくの両手。それより下は何も目に映らなかった。
さっきのあいつとの話は、じつに不毛だった。まるで先に進みやしない。堂々巡りも前に進めばこそ意味もあろうが、その場でただぐるぐる回るだけでは何にもならない。
「まったく、ぼくはぼくが何なのか、自分とは何なのかについて知りたいだけなのに」
ただそれだけのことだとぼくは思うのだが、ぼく自身何の答えも持っていないし、それっぽいことを言うやつらも、それっぽいだけでその実何も答えてくれない。それ以上のこまごまとしたことなんて要らない。ただこれだけ、このファンダメンタルな問いの答えを知りたいだけなのに。それだにぼくには身に余ることなのだろうか。
腰の下のはだかの連中に目を落とした。
いまはもう暗くてまったく見えないが、ここに登ってくる途中で見た連中はたいていはきりきりぜみだった気がする。ただその鳴きかたは一様じゃないし、なかにはぜんぜん違うことをしているやつもいたと思う。
連中がいま何を思っているのかはぼくには分からない。分かるのは、その思いが何であるにせよ、かれらのしていることは徒労でしかないだろうことだ。その努力はきっと報われない。かれら自身もそれに気づいているかもしれない。ただ、それでもそうするよりほかにすべを知らないのだろう。恐らく求めるものはぼくと同じく、ただひとつのちっぽけなことなのだろうが、この連中にとっても、それだに身に余ることなのだろう。
「ぼくは、――ぼくの方法は、どうすればいいのだろうな」
黄昏よりも暗い下手を眺めるのはやめて、ぼくは顔を仰向けた。星も月もない、色も分からない空。そんな味気ないものが目に映るだろうと思うでもなしに思っていたぼくは、しかしそこでどきりとした。山の頂上に坐っているはずぼくの上には、覆いかぶさるように黒いものが聳えていた。
その黒いものが、ふいに音を発した。
「やられましたね先生。うまいこと絡めとられておしまいのようで」
それは、確かに意味のある言葉だった。だが、だれに向けられたものなのかも分からない。その上ぼくの問いとは聞くからに関係なさそうなので、気にするほどのことではないように思えた。自然にぼくの意識は、その黒いものからは逸れた。
すると、
「いけませんなあ先生。先生らしくありませんよ」
とんとんと肩をたたかれて、ひどくのろのろとした動作でもう一度見上げた。声のぬしを確かめる気もなかった。ただ、たたかれたことを刺激に反射でもおこしたように、機械的にそっちを向いた。
そこに、さっきと同じ黒いものがある。それが何なのか、ぼくには分からなかった。思い出そうともしなかった。すると、
「お忘れですか先生。美作です。美作備後ですよ」
「美作、備後?」
間延びした声で、おうむのように答えた。言われてみるとそれは真っ黒ではなく、黒いものの下に、おぼろげに何か肌色のものが置いてある。それが何であるか気づくのに、ぼくは十秒ほどもかかった。
そして、気づいたあとは、ばかみたいな勢いでぼくの頭が晴れわたってきた。
「み、美作先生じゃないか。どうしてここに?」
ぼくの目の前ではあの美作先生が、くちをにやにやと広げてぼくを見ていた。黒く見えたものはほかでもない、先生がいつも身につけている帽子だった。帽子の下であの美作先生が、ひとり服を着たままあぐらを掻いていた。
その美作先生は、にやにやと変に機嫌よく微笑んだまま手酌で徳利を傾けていた。右手に徳利、左手に猪口が握られている。
「どうしてと仰いましても私には分かりかねますな。分かっているのは私の持たされた役割くらいですよ」
「先生の役割?」
すると先生は、にやりと一層に口を歪めた。大きく横に伸びた口を開いて、
「バーでの会話をご記憶ですか」
「バーでの会話?」
言われると、とたん記憶が甦ってきた。連載打ち合わせの帰り。美作先生と会って、かれの誕生日を祝う意味を込めて行きつけのバーで飲んだ。そこでぼくたちの話したことは、
「ああ、あの小説を書く意味の話か。たしか自我とか哲学のことも、あったね」
先生は頷いた。
「あれがどうやらゲーテにおける天上の序曲だった模様ですよ。我々はあれからおかしな物語に巻き込まれたようです。そうですね。あのときの話題でも出た不思議の国のアリスのような」
「アリスの」
「ええ。先生がアリス。アリスが白うさぎ。そういう役割になっているみたいです。そういえば西洋ではうさぎは性的誘惑の象徴だそうですね。まさに適役ではありませんか。先生を誘ううさぎがアリス・エイントゥリーというのは」
「ああ、……そうかもしれないね」
ぼくは曖昧に頷いた。
「それで、先生の役割は一体、何なんだい?」
すると先生は、さも驚いたように眼を丸くした。しかしすぐに口がにやりと歪んで、またもとの笑みに戻った。
「これで分かりませんか。あの世界に出てきてとにかくにやにやと笑っている生き物」
「チェシャ猫か」
ご名答。美作先生はいよいよ笑った。
「私の役割はどうやらそれらしいですよ。それに見合う力も持たされています。姿を消すことができるみたいですね」
美作先生の笑みは止まらない。ついでに言葉まで止まらなかった。
「ご存知のように猫はアリスの国の案内者です。そしてここでは私がその猫。ならばアリスがしたように私に道を訊けば答えてくれるかもしれませんよ」
「ほう」
ぼくは身を起こした。そう言うのなら、訊いてみても悪くないと思った。
「それじゃぼくはこう尋ねよう、ぼくは一体何者なんだい?」
「お。来ましたね。そうですね。ならば私はこう答えましょう。それは先生が何になりたいか次第ですよ」
「それじゃ今度はこう応えよう、それが、実のところ何だっていいんだけど」
「なるほど。ならばこう申すのはいかがです。ならば何者だろうと構わないではありませんか」
「そう返すかい。それじゃぼくはこう求めよう、でも何者かではありたいんだよね」
「ほほう」
すると美作先生は手の酒をくいと呷った。そしてまたすぐににたにたと笑いはじめた。
「それは間違いなく何者かではありますよ。生きているかぎり」
徳利を傾げて、猪口に透明な液体を注ぐ。
唐突に、
「ところで天上の序曲で私が申しあげた話はご記憶ですか」
頷くと、先生はにたりと、ぼくに猪口を差し出した。
「飲みますか」
「ウィスキィならね」
「そうですか」
それを手元に戻して、しかしまた差し出してきた。
「吟醸です」
「知っているよ。先生は吟醸しか飲まない」
「でも長いこと置いていたから酢になっているかもしれないのです」
「においを嗅げば分かるだろう?」
「あいにく鼻が利かないもので」
先生は猪口を呷った。そして、
「吟醸でした」
「それはよかった」
「でももしかしたら酢なのかもしれません」
「そんなはずはないだろう」
「いいえ酢かもしれません。私は吟醸と酢の違いを知っています。ですから飲めばそれが吟醸なのか酢になのか区別できます」
「なら吟醸に決まっているじゃないか」
相も変わらず、にたにたと笑っている。
「でも長いこと吟醸を飲んでいなかったら吟醸と酢の違いも分からなくなるかもしれません。これが酢だと知らずに吟醸と思って飲んでいるのかもしれません」
ぼくは黙った。けれども先生は黙らなかった。
「でもそうではないかもしれない。久しく吟醸を飲まなくとも一度飲んだ吟醸の味は忘れないのかもしれない。あるいは、吟醸と酢との境目が消えてまた別の味わいが感じられるかもしれない」
「それは、――そうだね」
「私はそれが知りたい。吟醸から遠ざかることでその味を喪うのか喪わないのか。酢や吟醸あるいは酒という領域に囚われない新たな飲み物に思い至るのか。その答えが知りたい。いずれ試してみるつもりです」
「頑張ってくれ」
それしか言いようがない。
美作先生は今一度徳利を傾け、猪口になみなみと酒を注いだ。そして、
「ルネ・デカルトはご存知でしょう」
またデカルトか。この国の人間はほんとうにデカルトが好きだな。
「デカルトの命題といえば。なんでしたか」
「コーギトー・エルゴー・スム。我思う、ゆえに我あり」
「ご名答。さすがは先生です」
「いや、さすがというほどでもないよ。有名な話だからね」
美作先生は猪口を揺らして、その酒面を見ている。
「ところで先生。先生は一体何者ですか」
「いや、それはぼくのほうこそ知りたい。そのためにぼくはここにいる」
「そうでしたね。そしてそれを知るためにご自身の姿を見たいと」
「そうだね。そうすればぼくはぼくを見つけられると、ええと、だれだったかな、だれかが言っていた」
「ええ。そして我々の足元にいる連中も。自分を見るためにこうしてせっせと首を動かしつづけているわけですね」
猪口を揺らす手が、止まった。
「こうしてみると水面はいいですね。覗き込めばほら。顔がうつる」
「見せろ」
ぼくはがばと先生に詰め寄り、猪口のなかを覗いた。そこに、男の顔がひとつ映っている。しかしそれが何者なのか、ぼくには分からなかった。
「デカルトですが、彼は疑わしきをすべて排除しました。知覚はしばしば錯覚に陥るゆえ捨てました。夢のなかでは眠っているのに起きていると誤認していることを挙げ、意識や自覚をも不確かなものとして捨てました。定理も定説も、あるいは一の次に二が来るというような数論上のごく基本的な公理でさえも、我々の認識がつねに誤るようできている可能性を排除できないゆえ捨てました。彼には信仰はありましたが、神に関するあらゆる言説もそれへの反論が存在するゆえに捨てました」
「その果てに残ったのは、かれが考えているというそのこと、それだけだったわけだね」
「ええ。すべての存在を疑い、はたしておのれは存在しているのだろうか。そう考えているその考えるという行為は、その主体がなくては成り立ちえません。今ここで疑い考えているおのれ。それだけは確かに存在しているのだと。それだけがこの世で唯一正しいといえるものでした」
「いろいろと批判もあるみたいだけどね」
たとえば、考えるという行為者の存在を起点に置いた結果、それが一体何なのかという存在の意味は据え置かれたというハイデッガーの指摘とか。
「それでは先生。デカルトは考えている自身をいかにして発見したのでしょうか」
「いかにして、というと?」
「考えている姿を何かに撮影して映した」
「違うだろう。デカルトの時代には写真機はなかった。それに写真や映像は感覚で捉えるものだ。それは真っ先に切り捨てられている」
「鏡か水面に映してそれを覗き込んだ」
「それも違う。それじゃやっはり感覚で捉えることになる」
「考えていることを喋ってそれを耳で聴いた」
「右に同じ」
「考えを本に著しそれをあとで読んだ」
「何も変わらないよ」
先生はくい、と吟醸を呷った。
「ではいかにして」
「考えているからには、そこにある。そういう論理のすえに認識したんだろう」
「でしょうね」
にたりとした笑みが、ぼくに向いた。
「ところで先生。先生のお名前はなんでしたっけ」
「ぼくの名前?」
言われて考えてみたが、思い出せない。本名と筆名があったはずだが、ふしぎと両方とも出てこなかった。美作先生は笑って、
「デカルトはそうやっておのれを見つけました。我思う、ゆえに我あり。それは感覚も計算も。神も外界も体も。いっさい切り捨てた果てに、考える主体を認知することによって見つけられました。さて先生。先生はいかにしてご自身を見つけられますか」
「ぼく?」
「ええ。頑張って首を振ってご自身の顔を見つけますか」
「いや。まずそんなことをしても顔は見えないし、よしんば見えたとしてもそれもただのレイベルだ。レイベルをいくら見たところで、中身は分からない」
「お姿を撮影してそれを何かに映しますか」
「それも無理だ。たとえレイベルを読めば中身が分かったとして、正しくレイベルを読めている保証なんてない」
「鏡か水面に映してそれを覗き込みますか」
「それも違う。それじゃやっぱり感覚で捉えることになる」
「なんでもいいから喋ってそれを耳で聴きますか」
「右に同じ」
「思うことを本に著しそれをあとで読み返しますか」
「何も変わらないよ」
「そうでしょう。では問います。先生はいかにしてご自身を見つけられますか」
「理屈の末にぼくを認めて。何かを考えているぼく。それを感覚によらず、論理の上に認めることによって」
とたん、ぼくの視野が開けた。うす暗かった世界が、風でも吹いたかのように晴れた。美作先生のにたにた笑いが、いっそうはっきりと見える。ぼくの下にいるはだかは、変わらずきりきりと動いていた。よくよく見れば下のほうは、疲れて休んでいるのばかりだ。
「さて先生」
美作先生の顔が、にたりと歪む。いや歪みっぱなしで戻らないんだが、ふしぎとさらに歪んだように見えた。先生はその笑顔で、
「先生のお名前はなんでしたか」
「何って、一姫二太郎だろう。ペンネイムがそれで、綾瀬晋太が本名。変なこと訊くね」
「いま身につけておられる服はなんですか」
「見て分からないかい? デニムのスラックスに、白のTシャツだ」
「それでは先生。先生は。――いえ。我々はいったい。何者ですか」
「さっき言ったとおりだ。ぼくたち、あるいは人格と置き換えてもいい。それはつまり、自己認識するシステムだろう。ぼくがどんな人物であるにせよ、これだけは変わらない」
美作先生は、にたにたと笑っている。気づけばぼくは地下鉄でアリスを追っていたときと同じ、デニムのスラックスと白いTシャツを着ていた。だが今それを着ていることはこれもまた当然のように思えて、ぼくは特に気にしなかった。
「さすがですね先生。こんなにも早く自己を見つけられておしまいになるとは。さすがは私の先輩。さすがは私の同業。見事です。実に見事です」
「そうかい? ぼくはデカルト先生のほうが見事だと思うがね」
「いえ先生も充分見事ですよ。彼女によって上手いことごっちゃにされていた問題を、一挙に分離したのですからね」
「何のことだい?」
「おのれの存在証明と、アイデンティティとは別物だということです。彼女は先生のアイデンティティを奪いました。同時に何でも問わずにはいられない先生の性分を利用して先生の存在までも不確かなものにしました。彼女とともにあり、彼女とともに生きる者としての先生。それは先生のアイデンティティであって、先生がいるかいないかの問題ではありません」
「そりゃそうだろう。アイデンティティなんてものは存在してはじめて成り立つものだ。それが存在しているかどうかと、存在しているものがどういうものかは違う。当たり前のことさ」
「その当たり前が案外分からないもののようですよ。現にこの二点を混同して泥沼にはまる者が山ほどいます。ゆえにアイデンティティを見失っただけでおのれの存在に不安を覚え、あるかどうかも分からないものに存在を委ねたり、アイデンティティの喪失とともにその存在までも亡きものにしてしまったりする人が後を絶ちません」
その点先生は私の手掛かりひとつで、この二つの問いをすぐさま分離してしまわれたと、そう美作先生は語る。ありと言うことと、かくありということとは違うと。
「それはまあ、ヒントがあったからね。省察や方法序説を読んでいれば先生のいうことはすぐに理解できる。それにぼくがハイデッガーやサルトルを読んでいたことも大きい。あるということがどういうことかと、それがあるのかどうかということと、ある者がどういうものかとは別の話だってことは、一世紀近くも昔に議論されたことさ」
「ごもっともです」
「ぼくがいったい何者で、どういう存在だったとしても、ぼくが存在していることには変わりない。ぼくは、ぼく自身を認識するというその機能の主体であることを以て、ぼく自身まさにあるということを証明できる。ゆえにぼくはぼく自身を存在していると言えるのであり、ぼくが何者かを充分に語ることはできないまでも、その何者かの一部に自己認識するシステムという要素が含まれていることは言える」
すると美作先生はやにわに両手を離した。右手の徳利と左手の猪口。手に持っていたものが、ふわりと消えた。
代わりに、先生の身のまわりには、分の厚い本がいくつも浮かんでいる。
「ではこれはいかがですか。ここにこれだけの本があります。これはすべて創作。すべて物語の本です。このなかにいる登場人物たちはなんでしょうか」
「何って、それこそ何が訊きたい?」
「彼らは人間でしょうか。それとも我々の空想がつくりあげた概念なのでしょうか」
「概念だろう。小説は間違いを含むこともある。作中人たちに、現実にはありえない心理を設定することもできる」
「然様ですか。先ほどのお話はどうなります」
「さっきの話?」
「人格は自己認識するシステム」
「ああ」
それか。それならば簡単だ。つまり、
「でも作中人は煎じ詰めてみればただの文字だ。その文字からぼくたちが恣意的に意味を拾って、概念的に自己認識する人間を仮想している。そこにある実体は意味でも何でもない、ただのインクのしみだ」
「ほほう。なるほどなるほど。ご自身の世界を見てきたにしては冷徹なお答えですな」
美作先生のしろくて並びのいい歯が、いやに目を引く。
「つまり先生とお過ごしだったアリス氏もアル氏も人間ではないわけですな」
「う。そう言われるとちょっと曖昧になる。……けど、そうだね。かれらはぼくが望めばどんなものにもなった。自己矛盾を抱えた存在にだってなれる。それに、あれはただのぼくの幻覚かもしれない。そこがぼくら本物の人間と違うところだと思う」
「幻覚と。しかしそれならばここにいる私も幻覚かもしれませんよ。ここに。いえ、これまでに美作備後なる人間がいた証拠は究極的にはなにもありませんよ」
それもそうだ。それもデカルトには違いない。
「それじゃ、そこは外しておこう。すると、難しいな。たとえ概念だとしても、アリスもアルもあの水兵たちも、概念としてぼくらが組み立てた仮想世界において自分を自分だと認めている。鏡も言葉も使わず、そこにあるのが自分であることを心の内面から識っている。そういう意味ではあいつら、みんな自己認識するシステムなんだよなあ」
「ええ。ではいま一度問います。小説の登場人物は人間ですか」
「ううん、やっぱり違う気がするなあ。ぼくらにはない矛盾を抱えているわけだし」
「人格は自己認識するシステムなのでしょう」
「その仮説が間違っているということも、ありえる」
「なるほどなるほど。ごもっともなことです」
にたり、と笑みが浮いた。
「ではそれに訂正を加えましょう。人格は、あるいは人間は、なんでしょうか」
ちょっとのあいだ、ぼくは考えた。すぐには思いつかないから、今までに出てきたことをまとめてみる。自己認識するシステム、矛盾を含まない行動系。実体ある体……はだめか。実体のあるなしを確かめる手段なんてない。ぼくの感覚のなかでは、アリスは実体ある女だ。抱きあってみたのだから間違いない。
「ううん、難しいな。行動が矛盾していることはぼくたち人間にもある。だから、行動や性格について矛盾のあるなしは関係ない。なら体を持っていなければ人間じゃないかというと、そんなこともない。ないというか、デカルトじゃないけど、本当に体があるかどうかなんて厳密な意味じゃ確かめようがないからね」
「ふむふむ。して、いかにお考えです」
「やっぱり実在するかどうかじゃないのかなあ。そうだね、ぼくらは矛盾のない物理法則によって支えられた、確固たる世界に生きている。その世界にあって自己認識するシステムがぼくらだ。アリスたちも自己認識はするけど、その世界を支配する法則は実にあやふやだ。作家がちょっと勘違いするだけで、たちまち矛盾だらけになってしまう」
「なるほど。つまり纏めると、物理的に矛盾を含まない世界を基盤とし、その上において自己認識するシステム。それが人間というわけですな」
「そうなるかな」
人間に限定すると少し言いすぎかもしれないけど。類人猿やその他いわゆる高等動物なんかも、もしかしたらそうかもしれない。まあ、人間か獣かという話は飽くまでも種別の話だ。存在の問題を前にしては下位の問題であり、ここでは些事だ。
すると、美作先生は立ち上がった。
虚空に指をあげると、ぱちりとそれを鳴らした。
たちまち、宙に浮く無数の本が開いた。その上に本の世界が、あたかもホログラムのように開けた。冴えない顔をしたおっさんや、軍帽の兵隊が無声映画のように動いている。
「ではこうしましょう。私がここに持ち込んだのはすべて矛盾を含む作品です」
「ぜんぶ?」
「ええ。たとえばこの作品。これは戦争を描いたもので四つの部隊のうちひとつが戦闘で潰れました。しかしのちの描写では潰れたはずの部隊が戦闘に参加している。戦死したはずの少尉が変わらずに指揮を執っています」
「ほう。ほかには?」
「一方こちらでは時の矛盾があります。お粗末なことですが作者が時刻表を読み誤ったのでしょう。立川で追い抜かれたはずの上り列車が、なぜか吉祥寺で先行しています」
「その青い本にも、矛盾があるのかい?」
「これは物理的な矛盾ですね。ボールの弾性と作用反作用の法則を無視しています。それが他の場所ではきっちり適用されているのに」
「はは、あるある。ちょっとありえないスポーツドラマだね」
ぼくは笑った。言うまでもなく先生も笑っている。
「そのありえないスポーツドラマ。ゾンビー兵団。亀とアキレスとの詭弁のような列車の運行。さてここでお尋ねします。これらの作品の登場人物でその矛盾に気づいた人は幾人いたでしょうか」
「幾人?」
そんなの、決まっている。ゼロだ。
「なにゆえ」
「何ゆえも何も、作中人は作品の矛盾には気づけない。矛盾を含むその作品こそが、かれらにとって正しい世界だから」
「そのとおりです。――我々はいかがですか」
「え、ぼくたち?」
「ええ。我々の世界に矛盾はありませんか」
そりゃないだろう。あるように見えたらそれはぼくたちの認識が間違っているだけだ。そう言いかかって、ぼくの言葉は中途にして絶えた。
先生の言いたいことが、分かってしまっていた。
つまり、これか。先生の言いたいのは、……
「登場人物は作品の矛盾には気づけない。作者がそれを意図しない限りは」
にやにやと微笑むしろい歯の隙間から、思ったとおりの言葉が零れ出てきた。
分かる。その言葉の意味するところが、ぼくにはよく分かる。しかしそれが分かるだけに、ぼくはその言葉を、認めたくなかった。水に飢えたものが、からからに乾いた布巾から何としても一滴を搾り出そうとするかのように、ぼくは反論を試みていた。
「でも、かれらが自己認識するというのは、概念に過ぎない。ぼくたちみたいに実際に考えているわけじゃない。ぼくらが、考えるかれらを仮想しているだけだ」
「ええ。でもそれは我々から見た彼らです。我々から見れば彼らは自己認識するひとつの系という概念以上の何者でもありません。しかしその概念としての彼らは。彼ら主体で見ればたしかに自己を認め。自己を見出しているでしょう」
「でも作中人は自立していない。ぼくらの考えた筋書きに沿って考え、行動する」
「それも我々から見た彼らです。我々は神ですよ。彼らの心は神の思し召し。強制です。でも被造物にとって神の思し召しは自発に他なりません」
にたにたと微笑んだまま、どこかで聞いたようなことを言った。
ぼくの口の動きが、止まった。先を続けられずにいるぼくに、先生は優雅に、そのくせにたにたと気味悪くすら思える笑顔で、その気もないかのように止めを刺す。口を押さえ、もはや言葉を紡ぐ気力も持たないぼくに、ぐさりと、
「我々もまた我々から見たときには自発の意思を持ち。自己を認識し。矛盾の見当たらない世界に生きています。さて。その世界を創り出した何者かが仮にいたとして。その何者かの見る我々は人間でしょうか。概念でしょうか」
ぼくは、答えられなかった。
哲人のワンダーランド 如水軒 / 一姫 二太郎 @josuiken
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