各章 註
33. 堂々めぐり
はだかの者たちの山を、同じようにはだかの体で登っていくと、ぼくの視界に黒くて丸いものが入った。でもぼくは、そんなことを気にしない。ぼくをどうやって見つけるのだ。ぼくはどうやれば見られるのだ。念仏のようにそればかり呟いて、ぼくはその山を登っていたような気がする。
やがて頂上まで来ると、そこにもはだかのだれかが坐っていた。そいつは唐突に叫んだかと思うと、凍り付いたように動かなくなり、その後は鼻に指を突っ込んで、くしゃみで飛ばした鼻水を掬い上げようと足元のはだかの者の体をまさぐったりしていた。
何だ気色悪い。そう思ったが、言葉には出さなかった。また黒くて丸いものが目の端に映ったが、今はそれどころじゃない。
「もしもし、ちょっと教えて欲しいのだが」
気色悪いだれかさんだが、ぼくでないだれかであることは確かだ。ならば、ぼくだけでは答えられないことにも答えられるかもしれない。
「自分とは何のことか分かるかな?」
「他人ではないものだよ」
ぶわっ、ととびきりおおきな絶叫。
一瞬びっくりしたぼくも、それがくしゃみだと分かって落ち着いた。まるで自ら声をあげているようなくしゃみで、少なからず驚かされたが、くしゃみならくしゃみだ。
「他人ではないものはみな自分なのか。というか世の中は自分と他人だけで構成されているのかい?」
「自分と他人以外にだれがいるかい。だれもいやしないよ」
「いやまあ人はそうだろうけどね。世の中人以外にもいろいろなものがあるわけで」
「君は無知のようだね。ひどいものだ」
気に食わない言いざまだが、しかし反論はすまい。実際ぼくは自分とは何なのか分からないでいる。こいつも分かっていないようなのでこいつに言われるのは気に食わないが、無知といえばたしかに無知だろう。こいつが無知だからと言って、こいつに無知と言われたぼくが無知でない根拠にはならない。
山が一瞬、ぐらりと揺れた。ぼくはバランスを崩してあやうく落ちるところだったが、どうにか踏みこたえた。しかしこの山に坐っているこいつは表情ひとつ変えずに、ただぼんやりと坐っていた。
「あぶないな。まただれかが力尽きたのだろうか」
「ひとのことなんか気にしている余裕があったら、自分のことを考えたらどうだい」
「その自分が分からないと言っているんじゃないか」
さっきもしたやりとりを、山の上でも繰り返した。ただし今回は二度目だ、一度目のようなへまはすまい。
「分かった。それじゃ自分とは他人じゃないものというきみのご高説を受け入れるとしよう。それじゃ他人とは何のことなのか教えて欲しいんだが」
「自分じゃないものだよ」
そいつは言うが、それはぼくも考えたよ。
「でも、それじゃ循環論法じゃないか。自分は他人によって定義され、他人は自分によって定義される。お互いがお互いの根拠だったらどこにも立脚するものがないじゃないか」
「そんなこと、僕の知ったことではないよ」
そいつの答えは、相も変わらずつっけんどんだ。
「論理の話なんかされてもよく分からないね。僕がだれで何なのか、理屈で分かるとは思えないね。大事なのは感覚さ」
言うなり、また鼻に指を突っ込んだ。ぶわっ、と絶叫して鼻水を飛ばし、飛んだ鼻水を掬い上げた。
「目には見えない考えと、
聞けてさわれる大くしゃみ。
手に鼻水は残るけど、
思考は済めば元の木阿弥」
だれに語るでもなくそいつは言って、またくしゃみを飛ばした。
「そんなにひとのことが気になるなら、好きなだけ気にするがいいさ」
そいつは手についた洟も拭わずに、のそりと立ち上がり、
「僕にとって大事なのは他人ではないんだよ。今まさにくしゃみをしている僕はたしかに僕、それだけさね」
これまただれに語るでもなく言って、ぼくには一瞥もくれずにきりきりぜみの山を降りて行った。
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