第8話/花子ちゃん


     8.


 嘆きのマートルをご存じだろうか。知らないとは言わせない。あの『ハリー・ポッター』シリーズに登場する幽霊である。二作目の秘密の部屋で登場した彼女だ。彼女の異質さ、幽霊だというのに放つ存在感を忘れられるものではないだろう。と、まあ、語ってみたものの、僕は『ハリー・ポッター』シリーズに対して知識は明るくない。

『ハリー・ポッター』シリーズが流行っていたのは、僕が小学校高学年のときである。今でこそ読書はできるが、あの頃、小説を手に取ることなんてありえなかった。

 ましてやあんなに分厚い本を。

 今にして思えば、『ハリー・ポッター』シリーズはハードカバーという点で損をしている。一冊丸ごと読んだことはなくともページを捲ったことはある。

 イメージよりも読みやすい。

 あの背表紙に怖気づかされて読めなかったのだ。昨今のライトノベルチックな表紙や文庫本ならば、あれほどの抵抗を見せることなく読めていたことだろう。しかしながら、どうにも、一度読むタイミングを失うと読み機会が訪れない小説はある。

 できることならば、そう遠くないうちに読みたいとは思っている。

 どうしていきなり僕がこのような独白をしたのか、についてだが、あの花子さんがいきなり『ハリー・ポッター』の話を始めたからである。

「トイレの花子さんとして長年語り継がれてきたこの私としても、ホグワーツ魔法魔術学校で語られている嘆きのマートルに親近感を湧かずにはいられません」

「きみは『ハリー・ポッター』を知っているのか? きみは一体、いつの時代に生きていたんだ?」

「それは乙女の秘密というやつですよ、幽霊が見えるお兄さん。レディには年齢と体重は聞いちゃいけないんですよ。というか、お兄さん。幽霊と密接な立場にいるお兄さんともあろう者が、よもや幽霊のことをあまり詳しくないんですか? 幽霊っていうのはですね、時間や概念に捉われないんですよ。まあ、私の場合は、ずっと学校にいますし、いつだって読むチャンスはありました」

「…………」

 なんだか思っていた幽霊と違う。

 こんなに自由に動けるのか? それに、ここまで露骨に、なんというか。

 率直に言って痛々しい幽霊とは初めて出会った。

「そんなことより」

「『ハリー・ポッター』を前にして『そんなことより』ってなんですか、お兄さん。この世に『ハリー・ポッター』を超える大事なものがあるというのですか」

「いや、あるだろ」

「突っ込みどころはそこではありません。幽霊の私が『この世』と言っているんですから、そこを突っ込んでもらわないと、私の渾身のギャグが凍えてしまいます。ちゃんと寒そうにしている子には毛布をかけてあげないと困ります

「それ、ギャグが寒いってことじゃないのか?」

「これは一本取られましたね。参りましたね。では、お兄さんの話を聞きましょう。私自身そんなに読書は好きではありません。やっぱりたくさんの絵が載っていないとモチベーションは湧きませんからね」

 じゃあ、こいつ。

『ハリー・ポッター』を読んでいないんじゃないのか?

「まあ、その気持ちはわかるよ。僕もきみくらいの頃は、漫画しか読まなかったし」

「お兄さんもですか。私とお揃いですね。小学校の図書室には漫画が少なくて、小説を読むしかありません。それどころか、辞書や図鑑ばかりでいやはや、もう読み飽きましたよ。太陽のサイズとか余裕で答えられます。それくらいに読みましたよ」

「へえ、随分と博識なんだね。太陽のサイズは?」

「すみません。嘘を吐きました」

「…………」

 なんでそんな一秒でバレる嘘を吐く。

「ところで、きみは――」

「花子さんです」

「はい?」

「幽霊のお兄さん。その呼び方、気に入りません」

「幽霊のお兄さんって呼び方も僕は気に入らないけどな」

 僕はまだ幽霊じゃない。

 遅かれ早かれ幽霊になるかもしれないけど、それでもまだそう呼ばれるには早すぎる。

「きみってなんですか、きみって。もっと呼び方ありますよね」

「ええっと――じゃあ、花子さん?」

「はあー……」

 大きな溜息を吐かれた。

「私は十一歳の女の子なんですよ。そんな女の子を『さん付け』で呼ぶなんて失礼じゃないですか? 昨今ではセクシャルハラスメントのことを考えて、男女関係なく『さん付け』で呼ばれるようにしているなんて話を伺いますけど、そんなのお門違いです。そんなかたっ苦しい呼ばれ方。男の子はどうかわかりませんけど、女の子は女の子なのです。いつまでもレディでありたいものです。ましてや、私はまだまだ女の子。そんな女の子を『さん付け』で呼ぶなんて、むしろ失礼だと思うんです。私は永遠のフロイラインなんですから、ちゃんと呼んでください。『ちゃん付け』でちゃんと呼んでください。私のことはフロイライン花子ちゃん、と」

「フロイライン花子ちゃんって呼んでいいの?」

「あ、やっぱりフロイライン花子ちゃんはやめてください」

「…………」

「それにしたって、花子さんってなんですか、花子さんって。お兄さんのほうが年上じゃないですか」

「いや、でも、花子さんって明治の人でしょ?」

 都市伝説で言われている花子さんの落命は、明治初期のことだ。最後の将軍と言われる徳川慶喜が生きていた時代の人間だ。二百歳とまでは言わないが、百歳は裕に超えている。

「私は十一歳のときに死んで、それから時が止まっているんです。そんな後期高齢者と一緒にしないでほしいです」

「後期高齢者って……」

 まあ、そうまで言うなら。

「ええっと――花子ちゃん。きみに聞きたいんだけど」

 流石にフロイライン花子はないにしても、まあ、年下の女の子を相手に『さん付け』はどうにも呼びづらい。

 とはいえ、生年月日は恐らくこの少女のほうが遥かに上だ。

 それを踏まえた上で『ちゃん付け』というのも、何というか。こう、抵抗がある。

 とはいえ、本題だ。

「なんですか? この私への質問というのは」

 僕は訊ねる。

 この学校で蔓延している病気について。感染し、伝染し、蔓延している病について。

「この学校で、にかかって何人も生徒が倒れている。高熱を発症し、丘疹のような症状が出ている――保護者が病院関係者に感染はしていない。しかし、この小学校内部で感染が確認されている。同級生たちは決まってこう言う――花子さんを見た、と」

「それは違いますよ」

 少し声のトーンが落ちる。

「確かにこの学校で病気が蔓延しているのは私も知っています。なんたってこの学校にいるんですから。ですが、彼ら彼女らと私に因果関係はありません。花子さんを見た、と言っていますが、私のせいではありません。彼ら彼女らは、病気を治すために私のところにきているんです」

 だけど。

 花子ちゃんは言う。

「私にはそんな能力はありません」

「……花子菌のせいだって話は聞いたけど?」

「知りませんよ、そんな菌。子供たちによくある奴なんじゃないですか。気持ち悪い奴が触った蛇口とかドアに触れたから、『おまえには何とか菌が伝染ったー』っていう、小学生のあれなんじゃないですか」

「でもな、花子ちゃん、花子菌が伝染って、それで倒れたのって、全員花子さんを見た生徒だけなんだよ」

 つまりは。

 花子菌なんてものはなくて、ただ花子さんに誘導されただけ。

 そして、花子さんという存在から本当に病気をもらって発症している。

「そもそも、花子ちゃん。きみは花子じゃないだろ?」

「…………

「トイレの花子さんは、一九五〇年から一九八〇年にかけて広まった都市伝説。その内容は、明治十二年に落命したという長谷川花子がモデルだと言われている。だけど――」

 ここで、市瀬由々さんが言った言葉を思い返し、そして口にする。

「トイレの花子さんなんて存在しない」




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