第3話/ダムに沈んだ村


     3.


「川原くんは『くだん』のことを知っているかしら?」

 市瀬由々さんはいつも突然だ。『くだん』と言われても、全然ぴんと来ない。一体何のことを言っているのだろうか。ひょっとしたら『人偏』に『牛』と書く『くだん』という漢字の訓読みの話をしているのだろうか。

「ほぼほぼ正解ね」

 あろうことか、ほぼほぼ正解だった。どういうことだろうか? 突然漢字の話をされても困る。僕がこの職場に就職してから既に半年――十ヶ月ほど経過している。流石に十ヶ月もこの職場にいて、僕はこの市瀬由々さんと共に仕事をこなしてきたのだから、彼女が僕に対して何を言おうとしているのかわかる。きっと、『そういう類い』の話なのだろう。

「人偏に牛と書いて『件』と読む。別にこの漢字のなりたちの話をするわけじゃない。川原くんは『くだん』という怪異を知っているかな?」

『そういう類い』――それは怪異のことだ。怪異の定義は様々だが、総じて言えば、妖怪や幽霊などの魑魅魍魎ちみもうりょう――『よくわからないもの』を指している言葉だ。しかしながら、残念なことに僕は『くだん』という怪異に関する知識を持ち合わせていなかった。

「『くだん』はね、十九世紀前半頃の妖怪でね、半人半牛――牛の身体を持ち、人の顔を持っている」

 そういうやつ、何かいなかっただろうか?

「ひょっとしてミノタウロスの話かな? 残念だけど、ミノタウロスと『くだん』はまったくの別物だよ。ミノタウロスはギリシャ神話に登場する牛の頭を持った人だね。丁度逆だね。何ならミノタウロスに関する解説もするけど、必要かい?」

 いえ、それは結構です。別に悪い気はしないけど、でも、今の話は『くだん』だ。『くだん』の話を聞かないことには話が進まない。ミノタウロスの話からギリシャ神話の話に脱線されても困る。

「この『くだん』で最も有名な伝承は、牛から生まれ、人語を話すとされているんだ。この『くだん』は、歴史に残る凶事の前兆として生まれて、数々の予言を残して凶事が終わると死ぬとされているんだ」

 何だか抱く印象が違う。牛から生まれた人面。人面魚ならぬ人面牛といったところだろうけど、見た目から発想することと、やっていることは少しイメージと違う。……由々さんがどうして突然『くだん』について話し始めたのかわかってきた。そうだ。市瀬由々という女性は、そういう人だ。今、向かっている『場所』と関係しているのだろう。

「おやおや、川原くん。川原くんも実に察しがよくなってきたね。ご察しの通り、今わたしたちが向かっている場所は、その『くだん』が関係している」

 がたん、と自動車が揺れる。僕は助手席に座っていて、由々さんが運転している。この軽自動車はクッションが悪いというのもあって、少しの段差でよく揺れる。いいや、たとえ、どれほどクッションがよくても、じゃ、どんな自動車でも揺れるだろう。由々さんが運転する自動車は、一体どれほど前に舗装されたのかわからないほど、ぼろぼろになっていて朽ちた草木が散らばるアスファルトの道を走っている。

総角あげまき村」

 総角。確か源氏物語のタイトルのひとつだ。

「かつてダムに沈んだ村があってね、それが総角村という。この村では、ひとつの信仰があってね――それが『くだん』かもしれないという話だ」

 ということは、今はその総角村に向かっているんですね。なんてことを思って言ったみたら、

「いいえ、違うわ」

 とあっさり一蹴された。言われてみればそうだ。ダムに沈んだということは、その村のあった場所にはダムがあるはずだ。そんなダムを建設するような大工事を行っていて、こんなほぼほぼ獣道と変わらないような山道を進まなければならないなんてことはないだろう。一概に捨てきれない可能性ではあるが、これは僕の考えが浅はかだった。それじゃあ、僕たちは、どこに向かっているというのだろうか。

「そうね、『元』総角村と言うべきかしらね」

 …………? どういうことだ? その言い方ならば、僕たちが向かっている場所は、そのダムに沈んだという総角村があった『かつての場所』で合っているのではないだろうか?

「ダムに沈んだといっても、そこに住んでいた村人たちは移住するでしょう? それが必ずしも、全員が全員、てんでばらばらになるわけでもないでしょう? ある程度は寄り集まった状態で、移住するわけじゃない。ましてや、ひとつの『存在』を信仰していたのだから――『神様』と共に移動しようと思うのでは?」

 そういう意味での『元』か。現在は違う村の名前になっているが、その住民のほとんどが総角村の出身ということなのだろう。『元』の意味が、『場所』ではなく『村』のほうにかかっていたのか。……ん? そういえば、今、『神様』とか言わなかったか?

「『くだん』は特に害になるような怪異じゃない。でも、この場合は逆なのよ」

 逆?

「そう。この場合、人に害するのではなく、人間が人間に害を与える要因になる。それが今回、わたしたちが調査する『件』という怪異よ。そして――ただの妖怪が、神として信仰されることの意味がわかるかしら?」

 僕は首を振る。それに一体どのような意味があるのか、僕にはわからない。

「妖怪でが、神様としての力を持ってしまうのよ。それは妖怪だけではなく――」

 人間さえも歪めてしまう。



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