手紙
常盤しのぶ
手紙
私が彼女を初めて見たのは高校の入学式だった。
桜の花びらと鬱陶しい羽虫がそこらで舞い散る春の中、推定築年数50年の少し蒸し暑い体育館で新ピカの新入生が諸々の通過儀礼を受けている最中だった。その新ピカのカテゴリに含まれる私の前に座っていたのが彼女だった。丁寧に手入れされた綺麗な黒髪が肩の下辺りまで伸びている。私は髪の手入れが面倒だから短めにしているが、これくらいの長さはどうなのだろう。やはり面倒なのだろうか。それにしても綺麗な黒髪だ。艶が違う。どんな顔をしているのだろう。いや、顔を想像するのは失礼だな。
退屈な時間を、目の前の黒い滝を眺めることでやり過ごした。本来であれば入学式が終わるまで、前にいる彼女の顔は見えないはずなのだが、ふとしたきっかけで顔を見る機会を得た。
校長先生のありがたいお話が終わると、一斉に起立の合図がかかる。前で座っていた彼女も立ち上がったのだが、背筋が伸びる前に足元がふらつき、その上半身は椅子を押しのけ、床に打ち付けられた。おそらく貧血だろう。男の先生が駆け寄り、彼女の無事を確認する。大丈夫か、どこかぶつけたか、痛くはないか、1人で歩けるか、保健室で一旦休むか、先生が彼女の様子を確かめる。一方の彼女はそれどころではないと言いたげなうめき声を上げている。
彼女の顔がこちらを向いた。前髪が乱れ、顔が青白く変色している。目の大部分は閉じており、胸は呼吸のため少しだけ上下していた。私はそんな彼女の姿に見とれていた。失礼かもしれないし、陳腐な表現かのもしれないが、古代ローマ人が女神を目の当たりにしたような、そんな慈愛と博愛に満ちた感情に、私は満たされていた。
「彼女とは知り合いなので、一緒についていってもいいですか」
たまらず私は叫ぶように言った。先生は少し困った顔をしていたと思う。確かにそうだ。保健室には誰かしらいる。運ぶことさえできればそれでいい。しかし先生は、私の同伴を許可した。きっと中学時代の親友で、心配でたまらなかったとでも思われたのだろうか。全然そんなことはない赤の他人なのだが。
自分でも何故こんな嘘を言ったのかはわからない。その時から彼女の呪いにかかっていたのだと思う、きっと。
入学式が終わったのか、グラウンドに人が集まっている。おそらく部活が始まったのだろう。複数の叫び声が入り乱れる。
保健室のベッドには彼女が横たわっていた。少し落ち着いたのか、顔色にほんのりと暖色が戻りつつあった。シーツの白に彼女の黒髪が入り乱れる。私はふと与謝野晶子の「みだれ髪」を思い出した。読んだことはないが、タイトルからとてもセクシャルな印象を受ける。少し顔が赤くなった気がした。
「なんであんな嘘ついたの」
責めるでもなく、優しく諭すように彼女が問いかける。倒れた時にはわからなかったが、彼女の目はとても大きく、キラキラと輝いていた。彼女に世界の悪を見せるわけにはいかない、そんな純粋な真っ直ぐな瞳。それを今、私は独り占めしている。
「初対面だよね、あなたと私」
「だって」
秒針の音がなる度に、何かが私の頭を打ち付ける。心臓が早打ちを始める。段々と顔が火照っていくのが理解できた。息が熱くなる。膝の上で拳を握る。意を決して呟いた。
「一目惚れしちゃったから」
タイトル「唖然」みたいな顔を向けられた。口がぽっかりと開き、未確認飛行物体を初めて目撃したような表情がそこにあった。少しの間止まっていた時が、ホイッスルを合図に動き出す。世界に色が戻る。
「あなたが? 私に?」
なんで? と言いたげだ。小馬鹿にするでもなく、不審に思うでもなく、その顔と輝く瞳からは純粋な知的好奇心しか見えない。もしかしたら珍獣を見る目かもしれないけれど。
「ごめんなさい、変ですよね、忘れてください」
「そんなことないよ」
謝る私を彼女が静止する。その丸い目は力強く、優しく、私の心を、再び捉えた。
彼女は少し考えるそぶりを見せると、親が子供に言って聞かせるように話を続けた。
「私、まっすぐな人が好き。どんなことでも信念を曲げずに、自分の道をひた進む。そのためならどんな苦労だって買って出ちゃうような、そんな真っ直ぐな人」
ベッドの白に包まれながら、彼女は続けた。目を閉じて、それでも私を優しく見守ってくれているような、そんな聖母マリアのような愛がそこにあった。私はただその愛を受け止めるしか行動の余地はなかった。
「あなたは、どう?」
「私は……」
言葉が詰まった。私は今まで優柔不断な生活を送ってきた。お菓子を買うのも時間がかかるし、選択問題は時間いっぱいうんうん悩んでしまうし、服は毎日悩んでは結局変な格好になってしまう。高校だって将来やりたいことが見つからない状態で中3の時点で難なく入れそうな場所を選んだだけだし、将来の夢なんてもちろんない。でも。
「貴女のためなら、なんだってできる気がします」
「根拠は」
「勘です」
変に敬語になってしまった。それを聞いた彼女はしばらくカラカラと笑ってみせる。かわいい。
しばらく笑った彼女は満足そうにため息をつく。顔色はすっかり元に戻っていた。
「あなたみたいな面白い人、初めて見た」
もう一度ため息をつく。
「私も、貴女という人に興味が湧いてきた。私も、貴女の人生の一ページになってみたい」
「じゃあ」
膝の上に拳を置いたまま、つい私は前のめりになってしまった。慌てて元の位置に戻る。せがむような私の顔がよほど変だったらしく、彼女がまた笑った。
「私から、ひとつだけお願いがあるの」
「お願い?」
そう、と彼女は続ける。
「寝る前に、私のことを思い出して」
寝る前に? 私が問うと、そう、と彼女はまた続ける。
「布団に入って寝るまでに、私のことを少しだけ思い出してほしい」
少しだけでいい、彼女は念を押す。
外では野球部員達が暑苦しい声を上げていた。まだ春が来たばかりなのにこちらまで汗ばむ。蝉の鳴き声が聞こえそうだ。
どう解釈すればいいかわからず、たまらず私は彼女から目を離した。保健室の壁は病的なまでに白く、清潔感を全力で押し売りされているように思えた。彼女の黒髪は、この窮屈な空間で抗うように入り乱れる。
「そしたら、私は貴女の中で生き続けられる。これ以上に素敵なことはない、そうでしょう?」
そう言われても、なんとも自信がない。私は忘れっぽいが、大丈夫だろうか。
「私のことでも忘れちゃう? 貴女は今日、私に嘘をついてまでここに来てくれた。きっと大丈夫だよ」
見た目はおっとりしているが、変なところで気が強い。そういうギャップに改めて惹かれてしまった。丸い目が輝きを増しながらこちらをじっと見据える。胸の高鳴りを悟られないように、そっと下唇を噛んだ。
校庭のどこかでホイッスルが鳴り響く。金管楽器が情けない吐息を漏らす。時計の秒針が、私の心音と共鳴する。
「だから、お願いね」
寝る前に、私のことを思い出して。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女はとても頭が良い。
顔も良いし、スタイルも良い。そしてそれらを鼻にかけず、みんなから慕われている。試験は毎回満点かそれに近い。難しい試験だった時はたまにえっへんと自慢してくる。とてもかわいい。私とは大違いだ。
「また告られちゃった」
「……そう」
あからさまに不貞腐れてみる。彼女は男性からも好意を寄せられることが多い。文武両道、才色兼備、ザ☆高嶺の花な彼女は毎日のように好意を寄せられては困った顔をする。彼女と付き合っているのは私なのに、特に隠さなければいけないわけでもないけど、なんとなく周りには隠しているから本当のことを言えない。彼女もそれに付き合ってくれている。
「男の人としゃべるのがそんなに嫌?」
「嫌ってわけじゃないけど」
胸がもやもやする。視界が少しグレーになって、心がどこか遠くへ行ってしまう。彼女は私以外の人と一緒にいてもなにも感じないのだろう。それが当然の感覚。彼女に限らず、およそ他の人類もそうなのだろう。私が少しおかしいだけ。
出会った頃の私達は、表向きは親しい友達同士という体裁を取り、少しずつその仲を深めていた。
普段から手をつないだり軽いハグをしたり、休みの日には片方の家へお泊まり会をすることもある。あいにく「ソウイウコト」はできなかったが、一緒の布団に入って、いつものように手をつないだことはある。彼女の手はいつもより熱を持っていて、私の脳に愛情とともに伝わってきた。私も自然と身体がこわばり、それが彼女にも伝わった。ふと隣を見ると彼女の無邪気な顔がそこにあった。
「私はね」
「何」
「……ううん、なんでもない」
彼女は何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。爛々と輝く彼女の目が少し陰る。それが彼女の選択なのであれば、私も無理に深追いはしない。
「ところで、今日も寝る前に私のことを思い出してくれる?」
「思い出すもなにも」
今、彼女はすぐ隣にいる。一緒の布団の中にいる。頭の中は彼女のことでいっぱいだ。「ソウイウコト」もしてみたい。彼女のすべてを抱きしめたい。彼女のすべてを見てみたい。彼女のすべてを手に入れたい。あえて言葉にするのも癪なので背中を向けた。背中から、彼女の笑顔が聞こえた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
また私は裏切ってしまいました。
かすかな胸の痛みをいくつも塗り重ねてしまう。
だけど、また私は罪を犯してしまった。
とても後悔しています。
自殺をしたところでなんの意味も持ちません。
まさか赦してもらえるとは思えませんが、
これからも貴女と一緒にいたい。
はるか先の未来まで、ずっと。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女がいなくなった。
彼女と知り合って2年目の始業式に、彼女の綺麗な髪は私の視界に入ってこなかった。1年前に見た綺麗な黒い髪。手を繋いだ時の温もり。爛々と輝く丸い瞳。私に向けてくれる優しい眼差し。今はどこにも見当たらない。
始業式だけならばと思ったが、その後も彼女が私の前に現れることはなかった。先生に聞いても何も教えてくれず、彼女の家のチャイムを押しても誰も姿を現さなかった。完全に音沙汰がなくなってしまった。
まるで春の嵐のように私の心を乱し、荒らし、かき回し、彼女は私の前から姿を消した。もしかしたら最初から存在しないのではと思えるくらいあっけない去り際であった。彼女は今どこで何をしているのだろう。もう一度会いたい。そして力の限り抱きしめたい。私のそばから離れた罰として、彼女の身体に私の痕を残したい。
彼女がいなくなってからの私は、蝉の抜け殻のように生気が抜けていた。何をしても達成感がなく、充実感を得られず、喪失感ばかりが募っていった。彼女がいないだけでこんなにも日々の生活がつまらなくなるとは思いもしなかった。彼女に会いたい。会えないのならば、何故会えないのか教えてほしい。引っ越しするのであれば、一声かけてほしかった。何故無言で私の前から姿を消したの。教えてほしい。教えて。お願い。私の側から離れないで。
彼女のいない、なんの意味も持たない日々を、ただただ無意味に貪っていた。これから私は彼女のいない日々を送ることになるのか、なんの脈絡もなく突然私の前に姿を現してくれるのか。そうだったらいいのに、と、空虚になった頭の中を別の何かで埋めようとする。
同じベッドの同じ布団に一緒に入ったあの日、もし私が「ソウイウコト」をしようとしたら、彼女はどんな反応をしただろうか。軽蔑するだろうか。はたまたそれを受け入れてくれるだろうか。今となってはな何もわからない。答えを返す人は、私の側にいない。キスだけでもすればよかったな。くだらないことに脳のリソースを費やす。意味のない行為、意味のない思考、意味のない自傷。彼女がいなければ何も意味を持たない。
ここまで思考を巡らせて、私は自分で思っていた以上に彼女に依存していることがわかった。もう彼女は帰ってこない。そう踏ん切りをつけて、これからは1人で生きていかなくてはならない。いつになるかわからないけれど、彼女への依存を断ち切らなければならない。そう思うと、少しだけ、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いたような気がする。
気持ちの整理がなんとなくついたところでふと思い出した。彼女が以前、私に言っていたこと。
寝る前に、私のことを思い出して。
彼女がそこにいなくても、彼女が姿を現さなくても、私が彼女のことを毎晩思い出す限り、彼女は私の中で生き続ける。彼女も私のことを毎晩思い出しているのだろうか。少しおこがましい気もしたけど、きっとそうだといいな。
涙を拭い、ぐしゃぐしゃの顔をパシン、と叩いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
身元不明の女子高校生がコンクリ詰めで発見されたニュースを見たのと、その側に落ちていた手紙が警察から手渡されたのは、ほぼ同時だった。
手紙 常盤しのぶ @shinobu__tt
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