第4話 誇張・腕

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 週の終わりは土曜か日曜か。

 週一で荷物が送りつけられてくる。元払いじゃなかったら恐ろしい展開だ。両手を広げてちょうどのるサイズのダンボール。中身は見なくてもわかる。

 妻の部屋だった空間に放り込んでおいたが、いつの間にやら亜州甫アスウラかなまが棚に陳列していた。棚だってもともとそこにあったものではない。どこからともなく買ってきたスティール製ラックを、私の知らないうちに部屋に運び込んで組み立てて、ダンボールをすべて開いてゴミに出して、展示室を造ってしまった。

 文句を言う気はない。亜州甫がしたこと自体はまったく気に障らない。しかし、展示室に飾られている粘土細工にはすこぶる不満がある。いつか捨てようと思って放置しておいたのが間違いだったのだ。呪いなんか私にだって操れる。何を恐れることがあろうか。単に面倒だったのだ。ダンボールに触るのも、中身を確認するのも。

 適当に手と足が生えたようないい加減の極みである私にも、思い出したくないことの一つや二つはある。腹が立っているわけではない。呆れているのだ。もう疲れた。感情を表出して思考を廻らせる、人間としての作業でさえ。年のせいだろうか。

 亜州甫からもらったCDを聞きながら料理を作る。曲についての感想は相も変わらずはあ、以外一切浮かんでこないが、この曲を亜州甫が作って亜州甫が演奏していると考えただけで鬱々とした気分が上方修正される。本人がいないときはこれで騙し騙し暮らす。近々リサイタルを控えているらしくしばらくご無沙汰だ。割と限界。

 移り気で飽きっぽい私がたった一人に入れ込むことになろうとは。やはり年だろうか。早く爺になりたかったはずなのに、いざ爺になると物哀しい。頭が寂しくならない我が家系に万歳三唱しつつ、鏡を見るたび黒に対する白の比率が増量していることに落ち込む。亜州甫が似合う、といってくれることが唯一の救いだが、その唯一の救いにかれこれ一ヶ月以上音沙汰なしを呈されれば、なけなしの自信は完全に消え失せる。

「先生、元気ないねー」

 博士は虐めっ子の性質があるため、人の不幸は蜜の味、永片逃亡の件がいまだにしこりに残っているらしく、その時の怨みも濃縮して含めて、私の生活を縦横無尽に踏み躙っていく。博士なしでは私はこの世界に存在できないところまで侵入されている。特に酷いのが憎まれ役。博士の弟とは友好関係を築けているが、その親密具合を違った視点から捉えるとほどほどまずい気もしなくでもない。悪いのは私ではない、といったところで相手は高校生。責任逃れは見苦しい。

「どう? よければ今夜も貸し出すよ?」

「も、というのが若干引っ掛かりますが、はあ、それではお言葉に甘えまして」

 博士の好意には甘えておかなければいけない。なぜなら私は博士の信者でしかないからだ。借りること自体になんらやましいことはない。借り物をどう遣わせていただくか、それがネックであるし、そこだけに注意すれば高校生を自宅に泊めることくらい。

「あれ、こうゆうの読むんですね」

 ダイニングテーブルの上に置きっ放しになっていた雑誌を目敏く発見する。博士の弟は飄々として摑みどころなさ気な私のプライヴェイト暴露を目論んでいるらしい。離婚した事情や交友関係等。ゴミ箱を漁られたこともある。なまじ別れた妻より恐ろしい。

「やっぱり興味あるんじゃないですか? ピアノだって」

「気紛れですよ、ええ。特にその、お気になさらずにねえ」

 見られてどうということもない。クラシック音楽の雑誌。購入理由は亜州甫かなまの特集ただ一点に尽きる。他のページは捲ってもいないのだがさて、博士の弟はそこに気づけるか。

「切抜きとかはしてないみたいですね。どの記事が目当てだったんですか?」

 私は生返事する。CDは部屋に隠してあるためまず見つからないとは思うが、もし彼に発見されたとしてもまったく困らない。なんとなく、で誤魔化せる。博士の弟はいよいよ痺れを切らしたらしく、私との距離を詰めてくる。雑誌を持ったまま。

「これ、出版してるところどこか知ってます?」

「そちらに書いてあるでしょう、はい。有名なあの」

「僕の友だちがここの社長令息なんですが、どうですか、ちょっと興味出てます?」

 思いも寄らない事実を知らされたわけだが、そんなことくらいで私は揺らがない。亜州甫がその会社からCDを出しているのだとしても。しかしながら社長令息。

「ええっと、お友だち?」

「あ、興味出てますね? それとも僕に友だちなんかいないと思ってました?」

「どうでしょうね、私にはまあそのいわゆる友だちがいませんしねえ」

 博士の弟がふっと笑う。予想通り、のときの笑い。もしくは何か企んでいるときの。

「じゃあ今度会わせてあげますよ。次はいつでしたっけ」

「来週ですかね、ええ。ですが一応相手の意志は尊重してくださいね。あの、誠に言いにくいのですがねその、あなたは多少強引なところがですねえ、はい」

「わかってますよ。だけどビックリしないでくださいね先生。絶対に期待裏切って見せますから」

 その意味は、令息とやらを見た瞬間納得できた。カネ持ちに大を付けても足りないくらいに稼いでいる巨大企業の頂点に君臨する予定の人間にしては、頼りない。母親がドイツ在住という噂があるのでハーフかもしれないが、しかしそのオレンジの髪はまさか地毛ではないだろう。よくいえば慎重、悪くいえば挙動不審。もしくは彼の抱いていた精神科医像と実際の私に埋めようもない大いなるずれが存在していたことに対して不安で堪らなくなっているか。自分がこの場所にいてもいいのかどうかについて相当の内部葛藤があるらしく返答という返答がいちいちたどたどしい。

 博士の弟の企みにより、私は令息と一対一で話す機会を得た。勿論乗り気なのは博士の弟だけであって、令息は流れ上仕方なくしぶしぶ。イエスノオすらはっきり言えないらしい。博士の弟サイドで勝手に友だちと認定しているだけという可能性もある。典型的な巻き込まれタイプ。自信欠如もそこから来ているのだろう。

「ミヤギというと、その、明日でしたか、リサイタルというのですかね、ありますでしょう」

「え?」

 寝耳に水みたいな顔をされた。本当に知らないのだろうか。

「それを聴きに行こうかとですね、思ってるんですよはい」

「はあ」

「有名な方だと聞いているので、そのご存知かと思って、まあ話題を出してみたとそういうわけです」

「いや、ミヤギといっても俺は」

「そうですか、はあ。幅広い会社ですしね」

 やはり知らないらしい。令息といってもまだ高校生。自分の父親が何をしているのかなんて気にしたこともないのだろう。それか父親に反発してわざと耳に入れないようにしているか。反発。違うような気もしてくる。令息に関しては特に不透明な点も見受けられないが、私はなんだか落ち着かない。穏やかでいられない。何故なのかは自明。

 亜州甫は一度ピアニストになることを挫折している。それについては私も多くを思い出したくないのだが、端的に言えば永片のせい。これ以上でもこれ以下でもない。ただ単に詰るところ然るに永片のせいなのだ。博士の手回しのおかげで亜州甫は私の勤めている病院に入院することになり、担当医の私としては複雑な思いで日々を送っていた。このまま入院してくれれば亜州甫のそばに付きっ切りでいられるが、亜州甫はピアノに触れないせいか意気消沈している。回復して退院すれば亜州甫は大好きなピアノを弾くことが出来て笑顔も戻るだろうが、私の心の支えが失われる。

 亜州甫の夢は私のそばでピアノを引き続けることではない。そんなことわかっている。何を演奏しようが同じ音色にしか聞こえない素人耳の私に聞かせるより、耳の肥えた人々に賞賛をもらうほうがいいに決まっている。入院中も亜州甫はしきりに曲を聞きたがり、博士経由でこっそりプレーヤを手に入れ絶えず音楽の近くにいた。私は亜州甫を応援すべきなのだ。亜州甫もそれを望んでいる。

「ねえ、もし、だよ。もし僕がすっごく有名になって、単独でリサイタル開いたらさ、ほじょーちゃんは聞きにきてくれる?」

「もちろんですよ、はい。仕事サボってでもね、駆けつけさせていただきますよ」

「本当? うれしいな」

 日常生活に戻った亜州甫が、一体どうゆう伝でどのような方法で某大手音楽関係企業の社長のお眼鏡に適ったかは知る由もないが、亜州甫が笑顔で自分のCDを持ってきてくれたことですべてが報われたと思うほかない。そう思わなければ私は嫉妬に押し潰されそうだ。亜州甫の未来図に私が含まれていない。あの時から、そうだ最初から亜州甫は私を見ていなかった。亜州甫が見ていたのは。

 そこまで考えて息を吐く。どうしたというのだ。たった一人にこだわらないところが私の利点であり唯一の強みではなかったのか。たかが青年ごとき。いや、年代に帰属してしまうにはあまりにも危険だ。私はようやく本気になっている。本気の想いに囚われることの苦しみを味わっている。ここへ来てついに自らの呪いに感染してしまったのだろう。毒素が身体の隅々を駆け巡る。中枢から末端へ。解毒剤は効力を持たない。そもそも解毒剤など存在しないのだから。

 夜の呪いが発動しなくなったのは、ちょうどその頃だった。博士の仮説通り私にその意志がないと感染はしないのだが、どこをどうすれば奴隷になってくれるのかがまったく思い出せない。私は魔法の呪文を忘れてしまったのだ。博士は研究対象の喪失によって機嫌を損ね、病院を監視するのをやめた。その点だけなら特に問題はないのだが、亜州甫は退院してその日に音信不通。住所不定無職のフリータ。せめて携帯電話を持ってくれればいいのに。そう提案したこともあった。私が契約し、私が通話料等すべて支払うから。

「うれしいけど、それじゃいつまでもほじょーちゃんに甘えることになっちゃうから、ごめんね」

 何を言っているのだ。いつまでも甘えてくれて構わない。私には一人で遣いきれないほどの貯えもある。ちっとも迷惑とは思わない。しかし、どう切り出そうが無駄だった。亜州甫の視点は私のいない座標を見つめている。退院すら飛び越してそのさらに先へ。私が離れなければならないのか。分離。別離。駄目だ、考えられない。

 私は亜州甫が欲しい。亜州甫がいれば他に何も望まない。亜州甫の進む道に私も連れて行って欲しい。それを伝えるべきなのだろうか。伝わるだろうか。やんわりとならそれらしい素振りもしているし、幾度となく関係もある。一回や二回ではない。亜州甫は知らない振りをしているのだろうか。私とのことなど重要事項と捉えていないのだろうか。

 私はピアノに負けている。ピアノ。悔しくて仕方がない。あんなものなくなってしまえばいい。リビングの先で悠々と構えるアルビノのピアノがすごく疎ましい。いっそ売り飛ばしてしまいたい。だが、それをしたら亜州甫が私の家を訪ねた際にそれについて尋ねるに決まっている。私は誤魔化せない。ピアノに嫉妬した、と言うほかに何も。

「あのね、これ聞いて」

 私にとって天国と地獄が同時に味わえる業務。担当医として病室を回っていた際に、亜州甫はベッドサイドに立った私の耳にイヤフォンを捻じ込んだ。聞こえてきたのはピアノ曲。例によって私ははあ、としか感想が出ないのだが、亜州甫はにこにこ微笑みながら博士経由で取り寄せた雑誌を開いて見せてくれる。そこには透明な盾を持った正装の少年。何かのコンクールで一番になったようだ。しかも単なる一番ではない。世界で一番。

「すごいよね。まだ小学生なんだよ? すごいなあ」

 亜州甫はとにかくすごいすごいと繰り返す。才能が妬ましいわけではなく、本当に心の底から褒め称えているようだった。尊敬の念も込めて。私は極自然な風を装って、イヤフォンを亜州甫に返す。すごいですねえ、と心にもないことを言いながら。

「どうすればこの子に会えるんだろう。僕はこの曲を聴いてからそればっかり考えちゃうんだ。おかしいかな」

「そうなんですか、へえ。それはですね、つまりその、アスウラ君の憧れということでしょうかね、ええ」

 憧れ? どの口がそんな。

「憧れなのかなあ。ううん、確かにこの子みたいになれたらいいな、て思うけど、僕はこの曲を聴いて勇気が出たんだ。だってこんなに素敵に弾けるなんてきっと」

 私はその時の少年の顔を今でもはっきり憶えている。雑誌の見開きページごと眼に焼き付けてある。金に近い茶色の髪、情けないまでの垂れ眼。世界一になったというのにまったくもって晴れ晴れしくない表情。いったい何が不満なのだ。お前は何に怯えている。言え。ぶちまけろ。私は見ず知らずのお前なんかに。

 身体も精神もぼろぼろになりながら、それでもなお亜州甫がピアニストになる道を諦めなかった理由に、あの令息が多大に影響している。


     2


 その次に令息に会ったのは翌日、亜州甫かなまのリサイタル当日だった。会場に入れる時間の一時間も前に呼ばれたのでてっきりデートだと思っていたが、余計なものが二匹もくっついていた。片方は言わずもがな令息。もう一人もどこぞで見覚えがあった。雑誌だ。あの時亜州甫が見せてくれた見開きに令息とともに写っていた。幼少時から華々しい活躍を見せている期待のピアニストとして。亜州甫に勇気とやらを与えた輩のうちの一人。令息と同じくらい深いところまで入り込んでいるのは、亜州甫のうきうきした態度から口惜しいほどに伝わってくる。

 どちらが敵か、ではなく両方が敵だ。しかしどちらを怨むかといったら断然令息だろう。入院中に見たあの写真に写っていたお前こそが私から亜州甫を奪ったのだ。そうとしか思えないのではなくて、事実そうなのだ。何も間違っていない。正解。せっかく亜州甫が招待してくれたリサイタルも、何もかもが台無しだ。

「え、まさかリサイタルって」

「はあ。アスウラ君のですよ」

 しらばっくれるな。まさか本当に知らなかったとでも。お前の父親の会社の主催なんだよこれは。

「なになに? 天使くんとねっとり親密な感じ?」

 亜州甫は令息を天使くんと呼ぶ。天使?

「いえ、私の知り合いのお友だちで、はい、昨日初めてお会いしただけですね」

「そっかあ。ぐーぜんだねえ」

 何故そんなにうれしそうな顔をしている。私とこの令息は知り合いなどでは。ねっとり親密?

「どのようなご関係ですか」

 よくぞ訊いた令息の連れ。しかし私に説明を求められたのではないし、ここで牽制したところで完全空回り。黙っていたら亜州甫がにっこり笑って令息を見る。

「そっちで引き攣ってる天使くんが知ってるかも」

「へ?」

 令息の連れが怪訝そうな顔で見上げる。令息は軽くパニック状態に陥って痙攣的に首を振っている。パニック? 何故。まさか、いや。

「し、知るわけないですって」

「うっそだあ。昨日僕と一晩中一緒にいたくせによく言うよ。ここからここまでお見通しされちゃってホント困ってるんだから」

 決定打。私は生まれて初めて殺意らしきものを覚えた。殺意? おそらく殺意なのだろう。殺意以外に説明できない。これが殺意でないとするなら何を殺意と定義づけていいのかわからない。昨日一晩中亜州甫と一緒にいた。聞き間違いでないなら私にはそう聞こえた。令息は否定しない。むしろ言葉を濁している。真実なのか。事実?

「どうしたの? 僕の歌つまんなかった?」

「いいえ、そうではありませんよ。実は私はあのような賑やかなその、なんといいますか施設に入ったのがですね、ええ、初めてでして」

「そっかあ。慣れてないとちょっぴりビックリしちゃうかもね」

 リサイタル直前までカラオケにいた。亜州甫の希望でなければ何故こんな腹立たしい面子で。十割方亜州甫だけが歌っていたのだが、私は向かいに座っている挙動不審な令息に対する殺意を抑えるのに必死で、相槌すらまともに打っていた覚えがない。こんな屈辱も初めてだ。しかし怨むべきは亜州甫ではない。亜州甫は二匹に話しかけながらも私に身体接触を求めてきてくれていた。亜州甫は私とデートしようと思っていたのだ。だから一時間も前に待ち合わせて。そうに決まっている。

「今日ね、あの曲を初めてみんなの前で弾くんだ。楽しみ」

「あの曲というとその、こないだ頂いたCDの、でしょうかね」

「ちゃんと聴いてくれてたんだ。うれしいな」

 誰もいない。私と亜州甫以外は誰も。亜州甫はスタッフに無理を言って私を楽屋に呼んでくれた。リサイタルの衣装が用意されている。私はそれを視界に入れないように亜州甫に近づく。亜州甫が眼を瞑る。私はその唇に触れる。

「ねえ、ほじょーちゃん。お願い聞いてくれる?」

「ええ、それはもちろん。そもそもですね、あなたの願いを聞き届けなかったことがありますかね、私」

 亜州甫の口から出た名前に、私は気が狂いそうになる。何故このタイミングで。どうして亜州甫の口からそれを。私は眩暈がした。思わず亜州甫の肩を摑む。

「痛いよ、ほじょーちゃ」

「まだ忘れていなかったんですか?」

 亜州甫は怯えたような顔をする。怯える? 誰に? 私に?

「まだ忘れてなかったのかって訊いてるんです、アスウラくん」

 やはり亜州甫は私なんか見ていなかった。私と一緒にいたのは、私と一緒にいることで思い出されるものに固執していたからだ。亜州甫は私の妻だった人間を勘違いしている。私が別れた妻は彼女だ、瀞谷トロヤへれね。永片エイヘンえんでではない。永片は私にとって何の意味もない。それを一気に説明した。しかしほとんど怒鳴り声だったため、亜州甫には伝わっていない。亜州甫に伝わったことは、私がひどく怒っているということ。それだけ。

「ごめんね、ごめんなさい。もう言わないから許して。痛いよ」

 肩が露出する衣装なのに、あざを付けてはいけない。その白い肩にあざを付けるくらいで私のものになるなら幾らでも力を込めるが、そんなわけがない。亜州甫と寝ても何の効力もなかったではないか。それが動かぬ証拠だ。私は亜州甫の肩から手を離す。

「もう、時間ですね。頑張って下さいね」

「ねえ、聴いてってくれるよね? ほじょーちゃん、これ、この曲ね」

「先生のために作られたのでしょう」

 亜州甫は頷かない。首も振らない。頼むから否定してくれ。嘘だっていい。自分のためでもいい。令息のためでも、その連れのためだって構わない。だが、永片えんでのためというのだけはやめてくれ。そんな曲を聴くために私はここに来たわけでは。

「先生のためですね」

 このお願いを聞き届けてもらうためだけにいままで私と寝てきたのか。リサイタルの一時間前に私を誘って過剰に身体接触をしたのも、無理を通して私を楽屋に招待したのも、キスをしたのも、いままで厭な顔一つせず私の想いに応えてきたのは、すべてこの日のためだったとでも言うのか。違うと言ってくれ。違うと。

「もう一度訊きます。この間頂いたCDの曲は」

「ごめんなさい」

「どのような意味のごめんなさいですか」

 とどめなのだろうか。これで終わってしまうのだろうか。アップライトピアノに楽譜。CDとステージ用衣装。駄目だ。これから亜州甫は念願のソロリサイタルを控えている。初日なのだ。これから何箇所か巡ることで夢を叶えて。

「ねえ、そんな怖い顔しないで。ぜんぶ取り消すから、だから」

 そして私は指折り楽しみにしていたリサイタルを蹴った。ホワイエに押しかけている聴衆群の流れに逆らいながら財布を取り出す。もらったチケット。それを両手に持ったときに思い留まる。破ってはいけない。破れるはずがない。これを持ってきてくれたときの亜州甫のうれしそうな顔がこびりついている。取り消すだと? 何を取り消すというのだ。どこからどこまでを取り消されるのだ。ぜんぶ。ぜんぶというのは最初から? すべてなかったことにされるのか?

 私はコンビニで新聞と週刊誌をありったけ買った。バイトらしき若者が不可思議な顔をしていたが知るものか。読みたいんだ。私はこれを読んで世間のことを知らなければならない。私は何も知らなかった。知らない振りをしていた。例え情報ソースが限りなく怪しくても、出回っているあらゆる情報は一度眼を通さなければならない。テレビをつけてニュースを報道しているチャンネルにフィクス。ネットのニュースサイトをサーフィン。気がついたら朝になっていた。私は電話をかける。番号は忘れていない。

「ええっとあの、早朝にすみませんね」

「ただいま留守なん。用あったらウチの機嫌損ねんよーにゆわはってな」

「随分とまあその、なんといいますか我がままな留守番メッセージですね、はい」

「ずあほぉ、こないにイカれた時間に電話出るんウチだけやん。指の話やないの?」

 すごい。さすが私の見込んだ相手。

「そっち行こか?」

「はい、お待ちしておりますよ」

 別れた妻はすぐに来てくれた。まだ太陽も昇っていないというのに。ニワトリだって静かにしている時刻に。車の音が違う。車種が変わっている。格好もあの時居酒屋で待ち合わせたときよりさらに色っぽい。寝起きだったからよけいにそう感じたのだろうか。寝起き。眼の下の隈を化粧で隠している。キスをしなければ絶対に気づかなかった。

「せやからヒゲやめてよ。似合うてへんて」

「はあ、すみません、剃るのが面倒で」

「十年もドブ捨てて。いまさら気づいても遅いえ?」

 私がシャワーを浴びている間、彼女はソファでうとうとしていた。床に週刊誌と新聞が散乱している。彼女がぜんぶ落としたのだ。目障りだから。ワンピースの肩紐がずれて胸元が見えた。私は彼女と寝る資格があるのだろうか。いまさら。

「なんやフラれたみたい」

「それはね、ご想像にお任せしますよ」

 彼女はざまあみ、と言って笑い飛ばしてくれる。私は彼女を抱いても。温かい。彼女の豊満すぎる胸が私の頬を包む。頭をぽんぽん叩かれる。

「泣きたいときは泣き?」

「お優しいんですね。もしかして電話のときにその、ご機嫌取れましたか?」

「口の減らんヒゲやわ。いっそウチが剃ろか?」

「あ、そのそれは、是非ご勘弁を、はい」

 私はとうとう泣けなかった。彼女が優しすぎて涙が干上がってしまったのだ。十年かかってようやく私は自分のしてきたことの酷さを思い知る。土下座したところで彼女に失礼なだけなので、本当にいまさらだが謝った。自分は最低だと。

「そんなんわかってるよ。あんたが最低やなかったら世の中の男はそっくり最低のどん底やわ」

 なぜそんなに優しくなれるのだろう。私だったら絶対に許せない。いまだって令息が憎くて憎くて仕方がないし、永片えんでにおいては八つ裂きにして粉にしてもまだ。

「せや、指。どないするん? あっち未練たらたらやないの」

「あのう、ご存知だったんですか」

「ウチの親友が世話しとるの最近。指の彫刻家ゆうたらね、あれしかおらんもん」

「それじゃあその、アスウラくんて、知っていらっしゃいますか?」

「あんたの不倫相手?」

 しまった。これは墓穴だった。彼女は呆れている。

「ほんならウチとすれ違うてたかもしれへんね」

「ええっと、どうゆう」

 彼女の口からあのホールの名前を聞くなんて。私はよくわからなくなる。偶然にしたって出来すぎている。そうか。それがあるではないか。休日にリサイタルホール。私が誘ったのでないなら。

「ウチもデートくらいするよ。せやのうたら」

 嫉妬なのだろうか。彼女とはとっくに切れている。諸々の経緯を省かなくても、切ったのは他でもない私だ。欲しい。まだ欲している。本命にふられたら二番目か。都合のよすぎる話。デート。私だってデートだった。亜州甫の晴れ舞台。

「お聴きになったんですよねピアノを、あの」

「さあ、わからへんね。デートやったもん。お隣気になって」

 未練たらたらなのはどっちだ。優先事項。そもそも何のために彼女を呼んだのか思い出せ。身体接触でもないし慰めてもらうためでもない。彼女もそのくらいのことは重々承知しているはず。いま我々が立ち向かうべきは共通の敵。永片えんで。

「ほんま最悪の三角関係やんなあ。ぐーるぐる」

 彼女の眼。私は思考が停止する。動けないのではなくて動きたくない。隷属。支配権は私のほうにあったというのに。細い肩紐。耳に吐息。

 指による指の創造。美術館企画展。展示物に混じって本物の指。今週一日一本。地域はバラバラ。月曜ピアノ噴水。火曜指輪。水曜キーボード。木曜展示物。金曜ネイルサロン。昨夜土曜ピアノの中から指。ステージ上のピアニスト以外に不可能。聴衆拘束。裏工作でようやく解放。岐路そして。

「ウチが眠い理由、わかった?」

「もしやあなたのご親友とやらは」

 あの会社の人間だ。それも幹部クラスで社長に匹敵する権限を持つ。社長婦人つまり令息の母は日本にはいないので、考えられるのは社長のきょうだいだが。それとも社長本人。私は急に永片のチクり内容を思い出す。同年代の仲睦まじげな男性を助手席に乗せて運転するようなお仕事。

「ええやん直接関係あらへんさかいに。あんたの知りたいことは、元ピアノ講師でいまは指の彫刻家の」

 週一の粘土細工コレクション。今度はそれで食べているのか。

「会われたのですか?」

「会いたないからね、ウチはここにおるの。あんたに気ぃのあるあれ、ケーサツ。重要参考人やて」

 気づいたら裸だったという状況から導き出せる過去は。私はベッドから出てシャワーを浴びる。ぼやける。頭に靄がかかっている。わざわざ彼女から知らされなくとも、そんなことは新聞にも週刊誌にも出ていた。勿論写真付。永片えんではすでに、永片えんでですらなかった。本名御法度のマイナ芸術家というより、浚えるような過去が何も見当たらなかったのだろう。苦労してドブに浸かっても土の塊すら出てこない。目ぼしいものはすべで博士が研究対象としてホルマリン漬けにしたのだから。空っぽになった永片えんでは自らに新たな名前を与えて彫刻家になった。おそらく子どもを連れて。子ども?

 私はリビングの床から新聞を拾い上げる。国内有数の避暑地の別荘から指なし遺体。一面雪の純白の庭。手の指足の指がすべて切り取られた全裸の少女。遅かった。いや、遅かれ早かれこうなっていた。私から相手にされなければ憎しみを向けるところはそこしかない。憎しみ。違うかもしれない。指なし遺体。これが欲しかったのだ。永片は指が欲しくて育てていたに過ぎない。紙面では面白可笑しく猟奇殺人だの戸籍にない少女だのと騒ぎ立てていたが、精神科医の私はそう分析する。

 部屋に戻ったら彼女は起きていた。私と入れ違いにシャワーを浴びていたらしい。私は彼女が化粧をするところを見ていた。如何わしい週刊誌や乏しい新聞を見るより有意義な時間だった。ロングスカートのスリットが大きすぎて美しい太腿が完全に露出する。

「ここで帰ったらセフレみたいやわ」

「それではええ、朝食を採られては如何でしょうかね」

「まだ愛人と付き合うてるの?」

「ええと、その、まあ、はい」

「何人?」

「本命を入れてもよろしいのであれば、はあ、三名ほど」

 彼女は椅子から腰を浮かす。私のデスク。鏡台がないから仕方なしそこを使ったのだ。化粧道具があっという間に彼女のポーチに吸い込まれる。掃除機というよりブラックホール。

「車買うたんやね」

「ああすみません、駐車場がその、なかったのでは」

「別荘もケーサツも意味ないえ。大人しうしとき」

 結局彼女はセフレ的に帰宅してしまった。セフレなのだろうか。私のセフレになりたいという意思表示だったのだろうか。別荘の場所は知っている。雪と氷の城。私が最後に永片に会った場所。永久無視の別れを告げたはずの場所。あれから十年経っている。

 警察にいるということが何を意味しているのかわからない。取調べ。拘留。重要参考人だと彼女は言っていたが、新聞や週刊誌を見る限り容疑者濃厚としか受け取れない。一日一本指を放置していったくらいで捕まるのかこの国は。

 私にはわかっている。それをやったのは亜州甫かなまだ。永片えんでがみすみす自分の大事なコレクションを捨てるような真似などするはずがない。

 先生に会いたいあまりに唐栖栗カラスグリせつきが。


      3


 その次に令息に会ったのは三日後、水曜の午後だった。いうまでもなく博士の弟が無理矢理連行して来てくれた。その日はそもそも仕事が休みで、博士の弟が私の近辺探りを兼ねて遊びに行きたいと申し出ていたのだ。断る理由が浮かばず生返事をしていたのを、当日になってようやく思い出す。見つかって困るようなものは相変わらず何もないが、つい最近私のセフレらしきリストに追加された彼女が、朝までベッドにいたという痕跡を消しておいて正解だったように思う。博士の弟は訪問するなり階段を駆け上がった。私の部屋をガサ入れするに違いない。令息は困ったような顔で階段を見上げる。いつまでも玄関で突っ立っていられるのも迷惑なので、私は令息をリビングに通した。

 令息は私の仕掛けた罠にまんまと引っ掛かった。いつもは絶対にこんなことしない。亜州甫のCDをわざと飾っておいた。ちらちら気にしているので、私はもう一つのトラップを発動させる。アルビノピアノ。よろしければ、と勧めても令息は頑なに首を振る。私にはわかっている。これも調べた。令息はここ三年ほどピアノに触れていない。世界一になったくせにピアノから離れた。亜州甫はお前に会いたくて再びピアノに従事することを決めたというのに。つくづく腹立たしい。

「これ、どうやったら処分できるんでしょうかね。門外漢のものでちっとも見当がつかなくて、はあ」

「え、売っていいんですか?」

「置いていったということは要らないと判断して然りです。それに私には未練も何もない。結果、一部屋空くだけのことですよ」

 私が博士の弟に告げた真実は離婚というただ一点のみ。経緯も相手もそれに纏わる一切を秘してある。果たして聡明な博士の弟はこのワンワードからどのようなストーリィを推理しただろうか。ピアノは私の別れた妻が置いていった。まあそう考えるのが妥当。

「そちらの会社は、楽器を引き取ること、出来ますかね」

「はあ、たぶん」

「知り合いのよしみでですね、お願いできるとですね、私としても面倒でなくていいというか」

 売るつもりなどあるはずがない。もう一度お前に会うための口実だ。令息はさらに困惑する。私の真の意図に気づいて困惑しているとしたら大したものだがそうではなさそうだ。令息は、あくまで真剣に、このピアノを自分の父親の会社で引き取れるのかどうか考えている。人を疑うという選択肢がないのか。

「その、急いでませんのでね、近々ということで」

「売る、てことですよね?」

「お金になるのならまあ、そちらのほうが」

 曖昧で微妙な間があったのち、令息は自信なさ気に承諾した。当てがあったらしい。例えまったく思い浮かばなかったとしても令息はいまと同じ返事をしていたかもしれない。ままあり得る。私は茶を淹れてダイニングテーブルに着く。毒入りにしてもよかったが、優秀な博士の弟がいないときにしよう。ハーブティ。マドレーヌも勧める。ノオと言えない令息は遠慮がちに菓子を封切る。

 ますは共通の話題として博士の弟について。しかしこの話題には内容がない。面接の前に行う緊張ほぐしですらない。令息は視線恐怖の気があるらしく、目線は常にテーブルの上。私の指。離婚という情報は入っているはずなので、指輪。

「アスウラさんとお知り合いなんですよね?」

「どのような答えを期待されてますか」

「奥さんと別れたのはアスウラさんが原因ですね」

 正直かなり驚いた。離婚。かつて天才少年と呼ばれた博士の弟にも当てられなかったのに。何故だ。どうしてお前なんかに。おかしい。異変。私が与えたのは離婚というただそれだけの。こいつは、誰なんだ。私は思わず令息の額を撫でる。負け惜しみ的に。

「超能力はここが熱を発生するらしいですよ」

「超能力はありませんけど」

「アスウラ君と何かありましたか」

「どういう答えをご期待でしょうか」

 さっきの流れをそのまま返された。私は多少向きになっている。落ち着かなければ。

「オレンジに染めているのは相手を油断させるためですか。実にいい方法ですよ、ええ」

 爪を食い込ませる。殺意。ふつふつと甦る。

「ホテルで一緒の部屋にいたのだと小耳に挟みましたが」

「記憶力いいんですね」

「何もないわけないでしょう」

「それが何もなかったり」

 私は令息を甘く見すぎていたのかもしれない。へらへらと笑って誤魔化すのは極度の自信欠如から来る動作ではない。令息は他人を拒んでいる。彼は一人だ。わざと崖っぷちに立って人を寄り付かせないようにしている。博士の弟が友達と呼んでいた理由がようやくわかる。興味深いのだ。正規分布の逸脱者。ありふれた回答は得られない。亜州甫も逸脱者。シンパシィ? いや、親近感か。もし亜州甫が令息に対して抱いている感情が単なる親近感だとしたら、亜州甫が永片に対して抱いている感情は羨望だ。陶酔に近い崇拝。

 亜州甫は現在ツア中。土曜の夜がラスト、つまりはタイムリミットもその日。私にどうしろというのだろう。新曲のCDジャケットには亜州甫の両手のみ。白い指が十本。永片が知らないわけがない。これはジャケットから曲の隅々まで永片のために創られているのだから。しかし永片は知らないふりをしている。私が永片を無視しているのと同じ態度をとっている。私は永片を無視している。永片は亜州甫を無視している。亜州甫は私を無視している。この流れを逆に辿れば執着の矢印。

 会いたい。

 亜州甫の望みはそれだけ。だがそれを唯々諾々と聞き届けられるほど私もお人よしではない。私にはわかる。亜州甫を永片に会わせればどうなるかを。亜州甫は死ぬつもりだ。崇拝する先生に自分の指をすべて献上することで。許さない。認めない。

 土曜の夜は、永片えんでの呪いの如く大吹雪になった。呪いだ。私からあの呪いを奪ったのは紛れもなく永片だった。そういう黙示録的な猛吹雪の中、私は車を走らせる。車を買ってよかったと思ったことなんか一度もない。永片のために買ったと指摘されても何も言い返せない。私はまたあの雪と氷の城に向かわなければならない。今度こそ最後にしたい。最後になる。これが最後でなかったら私は死ぬしかない。と自分を追い詰める。

 その前にちょっと寄り道。そろそろ。ほら、令息が亜州甫を担いで歩いてきた。快晴の日の雪だるまより惨めだ。私は二人を後部座席に乗せる。

「どうやって、ああえっと死ぬつもりだったんでしょうか」

「ピアノに爆弾が」

「過激ですね、はい。やはりアスウラ君らしい最期でしょうか」

「まだ死んでないんですけど」

「そうでしたか。それはすみません」

 令息ががたがたと震えている。ざまあみろとはいわない。ありがとうともいわない。亜州甫は最終公演が終わった瞬間にホールを飛び出して、暖房もないボロ小屋で令息を待っていたのだ。その点が多少気に食わない。私に託した最後の希望が潰えて生きる気力を見失った亜州甫を担いで吹雪の中を丸腰で移動するなんて、私の仕事のはずがない。

「先生の患者なんですか」

「そんな時期も、ええ、ありましたかね。はあ、その程度のよしみですよ」

 やはり令息はなんらかの超能力を持っている。そうでなければマル秘だらけの私の過去をそう易々と当てられるわけがない。

 この地を最終公演に選んだのは、永片の別荘が近いから。亜州甫はそこに監禁されていたことがある。永片が私の再婚相手にすり替わり、私と同居するための人質。あの子どもは永片の子ではない。私と亜州甫の子だ。私から盗んだ種を勝手に使用して、亜州甫の胎内に無理矢理。

 もしも永片が待ち構える雪と氷の城が、赤いランプをのせたパンダカラの車に囲まれていなかったら、私は永片を殺していた。亜州甫の眼の前で。トラウマになったら私が治せばいい。もう一度蜜月だ。入院。担当医と患者という役割を演じることによって。

 探偵役の男は、二メートルはあろうかという巨漢のくせに令息の連れに対してやたらと腰が低い。融通の利かないインテリ上司的刑事役の男は、探偵役の男に言いくるめられている。小回りの利きそうな部下的刑事役の青年は外交思考タイプ。凛々しくスレンダな体型の部下的刑事役の女性は外交感覚タイプ。和服の永片は椅子に固定されて部屋の中央にいた。両手は後ろ。私は眼を合わせない。亜州甫は永片を見続ける。永片の視線を感じる。今夜をもって最悪の三角関係を断ち切りたい。堂々たる物腰の割に背丈の短い令息の連れは観測者。情けないへっぴり腰の割にひょろりと長い令息は傍観者。

 探偵役の男は、永片の古い知り合いかもしれない。所々で永片からのアイコンタクトを回避している。探偵役の男は両手に包帯を巻いている。指の先まできっちり。寒いから手袋代わりかと思ったが、そうか。彼は被害者の一人だ。おそらく昔、永片によっていずれかの指を奪われた。それを隠すためにすべての指に包帯を巻いている。私の予想なら、左手の中指。永片の視線は高頻度でそこに像を結ぶ。

「先生、お久し振りですね」

「ああ、ええ。わざと話し掛けられないものだとね、思っていましたが、そうですか。邪魔者をね、なるほど」

 たったいま亜州甫が雪と氷の結界から脱した。城は二階に玄関があり傾斜に建っているため、落下する方向を選べばいささか距離がある。平たく言えば飛び降り。永片に呪いを囁かれてエンチャント的ジャンプ。

「お元気そうでなによりです。ピアノは処分されましたか」

「それはですね、はあ。近々ですかね」

 どうして私がこんなに落ち着いていられるのかと問われれば、探偵役と上司的刑事役の男に肉体労働をさせているからなのだ。その反応速度は賞賛に値する。心の中でエールを送る。生憎推理はことごとく的外れだがファイトはある。何故彼が探偵役に納まっているのかわからない。自分で買って出たわけではなくて、祭り上げられたのか。もしくは昔取った杵柄。

「まだ焼き菓子が届きますか」

「困りますよその、私には口が一つしかない。目も耳も二つずつしかないのにですね。まあ、鼻は一つですが」

「何を仰りたいのか、ちっともわかりませんわ」

「ええ、私にもその、皆目見当つきませんね」

 探偵役の彼からは令息と同じ雰囲気を感じる。つまりは超能力。なるほど、その超能力的な力で犯人を当てるという偉業をやっていたのだろう。最初は殺された者の復讐とでも思い込めていたのだろうが、そのうち事件に関わることが厭になって、令息の連れのお世話係にでも再就職したのだろう。そうすると、上司的刑事役の彼は探偵役の彼のかつての相棒といったところか。確かに犯人は永片だ。いや、永片でしかない。問答無用でさっさと連れて行け。そして煮るなり焼くなり死刑にするなり。

「先生」

 焼き菓子は亜州甫の好物だ。届いているのではない。私が定期的に買っているのだ。嫌がらせにしたら爪が甘いぞ永片えんで。

「あなたの先生になった覚えはですね、ありませんが」

「あの時の問い、憶えていらっしゃる?」

「さあ、アスウラ君と勘違いしていませんか、えっと」

「前の奥さんはお元気?」

「死んだという報せもその、届きませんのでね、はい。順風満帆ではないかと」

「つい先日お会いしましたわ。とてもお元気そうで。再婚はなされていないみたいですの。忘れられないんじゃないでしょうか」

「私への怨みですか、はあ、それは迷惑な話ですね」

 問いとやらも前の奥さんとやらも私を揺るがすだけの力はない。彼女に会ったというのも出鱈目に決まっている。もしくは前の奥さんとやらを自らに投影して私と白々しい会話を成立させたいか。だいたいあの時の問いってなんだ。知るか。

「何か仰ってください」

「何も、えっとありませんがね。まあ期待されているのならひとつだけ」

「なんでしょう」

 鼻をすすってわざらしく、くしゃみ。

「窓を、閉めませんか、ええ。凍えそうですよ」

 これですべて済んだ。巻き戻し。今の流れは十年前まったく同じ場所で私が永片に今生の別れを告げに来たときの第一声。永片はそれに気づいたらしく気味の悪い声で笑い出す。狂っている。あえて言わなくても向こうはわかっている。お前は私には治せない。お前は私の患者にはなれない。永片は椅子ごとワゴン車に押し込められる。笑い声がドップラ効果的に響く。それは救急車の専売特許だ。と冷静にツッコミをしつつ、私は割れたガラス窓から雪景色を見下ろす。雪だるまが三つ。違った。死人のような亜州甫を運ぶ、的外れ探偵と役立たず刑事。名コンビだ。

「名推理でしたね、ええ」

 皮肉だとわかっている顔。なんだ、あの的外れ推理はわざとか。まああれだけの無関係ギャラリィ環視下では、一般受けしやすい方略で攻めるしかなかろう。不満はない。私の望みはただ一つ。目障りな永片えんでを視界から取り去れ。

「知り合いか」

「あなたこそ」

 上司的刑事が撤収の命令を下す。県外からの応援、遠路遥々ご苦労だ。私は一瞬の隙をついて、探偵の左手をつかむ。中指。すぐに振り払われたがその態度で私は確信する。探偵役の彼には、左手中指がない。永片えんでのコレクション。

「同情しますよ」

「あんたが治しとけばよかったんだ」

 探偵役の彼が亜州甫や私にいい顔をしなかった理由がやっとわかる。令息と同じ力があるなら私の過去などパノラマ幻視。亜州甫かなまは永片えんでをトレースして生まれた人間。永片えんで亡きいま、亜州甫かなまが永片えんでに成り代わっているように見えないこともないこともない。唐栖栗せつきなら良かったのに。永片えんで被害者の会これにて恒久に解散。寿命は結成から僅か一分たらず。

 すべてを見通せた者の片割れ、令息は何を思っただろう。傍観者。そうまでして彼が他人を拒絶し続ける理由が知りたい。私の患者になりたいなら喜んで受け入れるが、ああ、駄目だった。彼はすでに博士の弟の観察対象だ。

「ええっとその、送りましょうか」

 令息はご免被るとばかりに首を振る。令息の連れが呼んでいる。友だち。私はその概念を思い出す。博士の弟は本当に一方的に友だちに指定している。しかしよくよく観察すると、令息は令息の連れと対等には見えない。令息の連れが王様なら、令息はそのマントの裾を持ち上げる御付。さしずめ探偵役の彼が護衛。やはりここでも壁を作っている。亜州甫相手にはどう対応したのだろう。どんな役割を演じたのだろう。想像の域を出ない。想像しないことにする。私は、警察関係の有象無象共に一通り応急処置させた亜州甫かなまを抱きかかえて雪と氷の城を脱出する。

 こちらも巻き戻し。あらかじめ予約を入れておいたホテルに向かう。亜州甫のステージ衣装を脱がす。再び眼が覚めたら病院のベッドの上、と無言で約束する。

 プロポーズなんて私らしくもない。だからしない。


      4


 次に令息に会ったのは、といきたいところだが、それはもうどうでもいいか。そもそもアルビノピアノを売り飛ばすつもりは毛頭なかったし、私の知り得ないところで令息の曾祖父なるピアノ調律師爺の怨みを買っていたり、令息が曾祖父にピアノ査定をしてもらっている間に彼女がばったり訪ねてきてしまったり、と面倒な事態に進展したことはさておき、彼女が令息と知り合い、それも相当長い、だったのはなんと言うかかんと言うか。

 令息の父親つまり社長には兄がいるのだがその妻、要するに令息の伯母こそが彼女の親友であり、私が蹴ったあの夜の亜州甫のソロリサイタル初日に彼女とデートだったのは何のことはない、令息だったらしい。どこまでも厭味な存在だなお前は。令息の伯母の幼馴染だった彼女は、私と同居する前、いや令息が生まれる以前からその一族と親交があった。その伝もあって、両親と別居を余儀なくされている淋しい令息の姉代わりとして令息の実家に同居させてもらい、そこで学生時代からぽつぽつと準備していたファッションデザイナの仕事を本格的に始めたということだった。知らないよそんな才能。

 慰謝料の問題ではない。プライドの問題でもない。だとしたら私はいったいどうすればいいのだろう。どうも出来ない。なぜなら私には結婚というお役所的制度に向いていないのだから。曾祖父爺にねちねちねちねち文句を言われようが、謝罪しろと遠回しに圧力をかけられようが、彼女はすでに気にしていない。それでいいのではないのだろうか。私と彼女はこうゆう付き合いしかできなかった。セフレでいいよもう。

「おや、案外その、早くにお帰りになられたんですねえ」

 亜州甫は博士の手回しのおかげで再び入院している。博士の息のかかったこの病院で、博士の奴隷的精神科医である私の患者として。ただし一般病棟ではない。踏み入ることが許されるのは私と博士だけ。地獄の蜜月の再開だ。

「ねえ、ほじょーちゃん。怒らないでね」

「怒りませんよ、ええ。どうぞ」

「天使くんがね、もう一回ピアノ弾いてくれるって」

 実はつい今しがた令息がお見舞いに来ていた。亜州甫の好きな焼き菓子を手土産に。昼間は一般病棟に移すので見舞い客も受け入れている。博士は優しすぎる。もしくは私に対する嫌がらせか。そちらのほうが有力だ。しかしながらピアノ。

「ええっと、はあ、ということは」

「近いうちにね、復活公演するんだって。僕に一番いい席取っといてくれるって」

 亜州甫の両腕は包帯で固定してある。探偵役の彼より酷い。彼の指は動くが、亜州甫はそれすら封じてある。両手だけではない。身体全体、顔だってほとんどマミィの如くぐるぐる巻き。私だってそんな可哀相なことしたくない。すべては呪いの雪女を怨め。箱の中はマドレーヌ。口の部分のみ包帯を緩め、手ずから亜州甫に食べさせる。

「おいしい」

「それはまあ、良かったといいますか」

 自販機でこっそり買ってきた紅茶も飲ませる。博士に禁止されているが知ったことか。私は亜州甫の喜ぶ顔が見たいのだ。そのためだけに出勤している。

「その時は一緒に来てくれる?」

「さあ、仕事がありますしねえ。私一応医者ですしね、そう簡単に休みなんか」

 亜州甫がしょんぼりする。口からマドレーヌの欠片が落ちる。私はそれを拾って自分の口に入れる。本命に意地悪するなんて、我ながらなんて幼稚。

「まあそのね、デートなら考えないでもないですが」

「ほんとう?」

「いいですか、わかってるんでしょうかね。デートというのはただの二人っきりですよ。前のようにその、余計なおまけがほいほいくっついてくるなんて御免ですからね、ええ」

「ほじょーちゃんて僕が好きなの?」

「はあ。え、あの、知らなかったんですか」

 ひょっとすると私は一遍も伝えていなかったのだろうか。まさか、いや、大いにあり得る。かつての私は夜の呪いが操れた。非言語という進行性で不可逆な呪い。よって言語は私の不得意で苦手とする部分。亜州甫は包帯の合間から微かにのぞく大きな眼をぱちくりする。なんだこの居心地の悪い間は。これだから言語は。

「僕はほじょーちゃんが好き?」

「ええっと、何故私にそれをその、お訊きになられるんでしょうかね」

 いささか強めの語調だったことは否めない。亜州甫は俯いてしまう。私は食べかけのマドレーヌを箱に戻して亜州甫の頬を撫でる。お前は私の患者だ。望まなくても私の患者になるしかない。それが厭なら亜州甫かなまと名乗るのをやめればいい。出来もしない。何のために入院させていると思っている。自殺念慮のための措置入院だ。両手も指の形がわからなくなるほどに包帯を巻いて隠さなければ、私がいない隙に切り落としかねない。

 呪いの雪女永片えんでは、警察の手に負える相手ではない。検事も弁護士もお手上げ。日本国を裏で牛耳る博士に放し飼いさせてもらっているおかげで、いまはどこぞでなにやらをしているのだろう。想像しない。向こうは創造。週一で粘土塊が届かなくなって私はホッとしている。亜州甫が陳列したあれはすべて博士が引き取ってくれた。研究材料としては不足だろうがまあ勘弁してもらう。せっかく一部屋空いたというのに苛々が収まらないのは何故だろう。

 私は口に紅茶を含んで亜州甫に口移しする。唇の端から液体が零れる。私は舌でそれを掬う。市販の紅茶は甘すぎる。

「僕はいつ退院できるのかなあ」

 押し倒しても意味がない。力づくで組み敷いたとしても亜州甫の記憶に残れない。呪いを操れた私はすでにいない存在。いまの私は何もない。カネだけあっても本当に欲しいものが手に入らない。欲しい。本当に欲しい。何がいけないというのだ。どうして私には笑いかけてくれない。令息が見舞いに来ているとき、実はすぐ外で聞いていた。声が跳ねている。表情は包帯越しでもわかる。こんな状況が蜜月のはずがない。ただの地獄。紅茶を買いに行ったのは頭を冷やすため。表情を緩めるため。

「退院なんかさせませんよ。あなたが私の患者である限り」

 狂っているのは私のほうだ。雪女の呪いに中てられている。過剰なコントロール癖。いっそ殺してしまいたい。亜州甫かなまを殺せば唐栖栗せつきに戻るだろうか。しかし戻ったとしても唐栖栗せつきは私のことなどなんとも思っていない。薬を盛って眠っている隙に服を脱がせても意味がない。諦めろというのか。何を。それすらわからない。

「だいたいあなたは私のことをどう思っているんですか。正直に答えてください」

 答えられるわけがない。亜州甫は黙って俯いたまま。なんとも思っていないのだ。知ってるじゃないか。何故いちいちそんなこと。これだから言語は私に。

「なんてゆえば、ほじょーちゃんは怒らないの?」

 怒る? その気が狂いそうな物言いをやめてくれ。

「僕はほじょーちゃんのこと嫌いじゃないよ。でも」

「でも、て何ですか。嫌いじゃないって、そんなわけのわからない言い方されても」

「ごめんね、ごめんなさい」

 お前は何を求めている。私はこんなにもお前を求めているのに。なぜお前はそれに応えようとしない。頭がおかしくなりそうだ。すでに遅い。雪女の呪い。あいつの気味の悪い笑い声が聞こえる。狂え。狂ってしまえ。ついに私は狂い堕ちていく様子を雪女に曝している。遠隔地から観覧されている。きゃきゃきゃきゃ。見るな観るな。見せ物じゃない。これ以上ここにいたら本当に何をするかわかったものではない。

 私は病室を飛び出す。悔しい。近くにあればあるほど悔しい。手に届くところにあるものが手に入らないなんて。

「職場放棄して何やってんのさ、先生」

 さすが博士。絶好のタイミング。私は壁に寄りかかる。途端力が抜けてしまった。壁に吸い取られたか、博士に奪われたか。後者だろう。

「いい報せ聞きたい?」

「いいの基準がわかりかねますが、はあ、それが運命なら」

「あのヒトさ、小学校のときの修学旅行でバス転落させたらしいよ。海に真っ逆さま。で、自分だけ生き残った。なんでそんなことしたと思う?」

「さあ、知りたくもありませんね」

「クラスメイトの指が欲しかったから。想像を絶するよね、海から死体拾い上げて指を切り落とす。岩場だったのかな。救助に来た人たちに気づかれなかったのかなあ。自力で帰ったのかもね。リュックに指詰めて。てくてく学校に」

 博士がケラケラ笑い出す。私は特に何の感想も持たなかった。亜州甫のピアノを聴いたときに出るはあ、とすら。床が近い。座っているからだ。博士の脚。

「指の切り落としは男性性器の象徴的去勢ってゆう先生の分析、憶えてる? 先生が俺の機嫌損ねて軟禁されちゃったときの。あのヒト笑ってたね。可笑しいおかしいって。そこから先が聞きたいんだけどな」

「そこから先といいますと」

「自分の切り落とさないのはなんで? 要らないんでしょ?」

「ああ、切り落としてないんですか。それは知らなかったですね、へえ」

「とぼけないで頭働かせてよ。担当医外しちゃうよ」

「博士はアスウラくんに関心がおありでしょうか」

「あるわけないじゃん。あのコは先生を手放さないための人質くらいの価値しかない。成功してるんじゃない? どうかな」

「ええ、その通りですよ。私はそのおかげで博士から離れられない」

「じゃああんまり反抗的な態度とらないほうがいいよね。さっきの答え聞くよ」

「自分より他人が気になるタイプではないかと」

「ああそっか。見えてないものは存在しないってわけね。でもそれじゃ決め手にはならない。もっと複合的に行こうよ。要因は一つじゃないんだし」

「いっそ性転換させてあげては如何でしょうかね、博士のお力で」

「それがそうも行かないんだ。あのヒト、性別ってゆう概念跳び越えちゃったからさ。全然嫌がらないんだよ。嫌がってくれなきゃね、俺も面白くないしさ」

「すこぶる酷い虐めっ子ですねえ」

「それって褒め言葉?」

「ええ、もちろん」

 日が沈んでから病室に戻る。博士に引き止められると延々と言語に頼らなければいけない。博士は天才なのだからわざわざ私なんかの意見を聞きに来る必要はないというのに。つまりは内容が目的ではない。私に雪女のことを忘れさせないようにしている。永久不分離なのだと突きつけて。

 亜州甫に目隠してエレベータ。これは仕事なのだ。仕事仕事。亜州甫は眠っていなかった。私に怒られると思って眼を瞑っていた。寝たふり。

 嫌いじゃないなんて、嫌いより酷い。いっそ嫌いでいい。嫌いならばきっかけ次第で好きになることもあるのだから。

「もういいですよ」

 到着したのに亜州甫は何も言わない。口なんか塞いでいないのに。息だって出来る。鼻も耳も充分に機能する。眼の包帯をずらしてもぼんやりしたまま。

「怒っていませんよ。嫌いじゃないならね、それで結構です」

「僕がぜんぶ忘れれば、退院できる?」

「ぜんぶ、というと?」

「ぜんぶ。ほじょーちゃんとピアノ以外」

「私のことは憶えていてくださるんですか」

「だって、ほじょーちゃん、怒るでしょ?」

 亜州甫にとって私は脅威でしかない。なんだそれは。脅威? 意味不明。亜州甫は私が入院という手段を利用してここに閉じ込めていると思っている。間違いではないが正解でもない。勝手に死なれると困るから仕方なく地下に。

「いまのままじゃダメ?」

「いまのまま、とは?」

「好きとかじゃなくて、仲良しで」

「寝てるんですよ? 私たちは、毎日」

「そうゆうのしたいなら、いいよ。ちゅーもするし裸も見せるし。だけど、ほじょーちゃんはイヤなんだよね。僕が好きってゆわないから」

「嘘でもいいので言っていただけませんか」

 亜州甫は小さく首を振る。拒否?

「私は嘘でもいい、と言ったんですよ?」

「ウソつくの、ヤだよ」

「じゃあどうしろっていうんですか。あなたの一番は誰ですか? ピアノ? それとも」

「わかんない。わかんないんだよ僕。好きとかそうゆうのが」

「ならあなたがピアノに対して抱いている感情はなんですか? 好きではないのですか」

 これで泣けば許したのに。哀しそうな顔でもしてくれれば。亜州甫は私を見ていない。両腕をもぞもぞさせている。動くわけない。私が固定したんだ。

「服脱がして」

「この状況で抱いたら、あなた、血だらけになりますよ?」

「いいよ。ほじょーちゃんが看病してくれるんでしょ?」

「放置して帰ります」

 亜州甫は包帯を歯でほどこうとしている。首だって固定しているから不可能なのに。見ていられない。私は亜州甫の口を強引に塞いでベッドに押し倒す。呼吸なんかしなくていい。犯したって私なんか見てない。せめてその最中くらい私を見ればいいのに。

「教えてくれませんか。どうしたらあなたが手に入るのか。ねえ、アスウラくん」

「いっしょに住んだら許してくれる?」

「何を?」

「ほじょーちゃん、もっと優しかったのに」

「のに?」

「こわいよ、僕、一生ピアノ弾けないの?」

「はあ、なるほど、私ではなくピアノを取るわけですね」

 碌に慣らしもしないで貫く。措置入院させてからこんなんばっかだ。気持ちよくなんかない。愛の欠片もない。暴力ですらないのなら、これはなんだ。亜州甫は痛みを堪えて顔をしかめる。出血している。赤い線。このまま殺してしまいそうだ。殺したら終わり。二度と亜州甫には会えない。ネクロフィリアの気は私にはない。死体犯して愉しいか。死体。反応しないなら、今の状況は死姦とさほど差がない。道理で面白くないわけだ。私はゆっくり引き抜く。亜州甫が声を漏らす。出血した部分をタオルで拭う。白い面に赤い線。黒か。服を元に戻して包帯を巻きなおす。

「ほじょーちゃん?」

「もういいです。すみませんね、遣えなくて」

「帰っちゃうの?」

「帰りますよ。それでは」

 部屋をロックしてエレベータ。帰るわけがない。お前がいない家なんか帰ったところで何をしろと。当直をしているふりをして、立ち入り禁止地下室をモニタで監視する。この部屋も誰も入れない。博士が来ないことを願うが、まあ不可能だろう。

「珍しいね、避妊しないなんて」

「ああその、いっこうに大した映像じゃなくてええっと、申しわけありませんね」

 意識に上れば天才博士。私の思考パターンはそんなにわかりやすいのだろうか。機嫌がいいときの博士は食べ物を差し入れしてくれる。サンドウィッチ。市販のものではなくバスケットに入っている。直角三角形と二等辺三角形と正三角形の狭間で仲間外れに遭ってそうな形のパンに、しなしなのレタスとやけにシェイプアップされたハム。卵サンドらしきものは内臓が穿り返されているし、ツナサンドらしきものも似たような境遇にある。

「作ったヒト当てたら食べていいよ」

「うむむ、外れたほうがよさそうですね、はい。では博士ですか」

「ぶっぶーアタリ」

「あの、それはその、どちらですか?」

「食べていいよ。夜食は太るからさ」

 手に取ったら崩れてきてしまった。私は恐る恐る口に入れる。まあ、悪くない。これで味まで後追いだったら、単なる博士の意地悪攻撃だったろうが。

「ところでですね、本当のところ、これはどちらがお作りに」

「あのヒト」

 私は胃袋ごと戻しそうになった。せめていま口に入れたものだけでも吐き出す。

「だいじょーぶだよ。毒入ってないみたいだから。いちお作ってるとこ監視させてたしね」

「ええその、発案は」

「俺」

「あのお、なにか機嫌損ねてますかねえ私」

 一気に具合が悪くなってきた。モニタ異状なし。亜州甫は眠ったふり。

「あのコだったら良かったね先生。かわいそーに」

「あの、損ねてないんですね?」

「身に覚えがないなら平気なんじゃない? あーおもしろい。先生さ、あのコ手に入れてどーしたいの?」

 いきなり話が飛んだ。しかしこれはいつものこと。博士の思考パターンはランダムここに極まれり。

「結婚しないんでしょ? 子どもが欲しいわけでも家庭とやらが欲しいわけでもない。先生はあのコを檻に入れるしかないよ。ピアノ如きに嫉妬してるくらいなんだからさ」

「誠に失礼ですが、これは博士には関係ないかと」

「関係ない? 何言ってんのさ。俺に関係しない現象なんか存在しないよ。人類が惚れた腫れたってのもちょこっとは関心あるし。管理のし易さでしかない結婚制度に馴染まない先生みたいなヒトがどうやって愛だの恋だので苦しめられるのとかもね」

 口を漱ぎに行って戻ったら博士はいなくなっていた。バスケットを放置して。モニタ異状、あった。亜州甫がカメラを見ている。向こうからはわからない位置に取り付けてあるはずなのに。

 モニタ越しに私と眼が合う。合っている。口が動いている。私はスピーカヴォリュームを上げる。

「ほ、じょーちゃんき、こえ、る?」

 私は頷く。見えてるはずないのに。

「ぼくがぴ、あのをひか、な、ければほじょーちゃ、んはぼ、くをみす、てない?」

 何を言っているのだ。見捨てる? 何故そんなこと。

「もうゆわない、よ。ぴあ、のもやめ、るからだ、からお、こらな、いで」

 私はモニタ室を飛び出してエレベータ。地下。ロック解除。亜州甫は私を見る。怯えた顔で。怒りにくると思ったのだ。直接言わないから。カメラの位置を特定したから。そんなわけがないじゃないか。どうして怒る必要がある。なぜ。

「ごめんなさい。お仕事邪魔し」

「私の仕事を何だと思ってるんですか、あなたは」

「お医者さん?」

「私はあなたの担当医です。これが仕事ですよ、ええ」

「あのね、ピアノやめることにしたよ」

「どうして?」

「ピアノきらいになったから」

「どうして?」

「ピアノきらいだから」

「嫌いなわけないでしょう。あなたはピアノが好きですね?」

 亜州甫は頷かない。頷いたら私が怒ると思っている。あの時と同じ答えが聞きたいだけなのに。きっと亜州甫はそれすら憶えていない。私はベッドに固定している器具を外して亜州甫を抱きかかえる。エレベータ。博士に見つかりませんように。

 車に乗せて自宅。彼女も来ませんように。リビングを突っ切って、亜州甫を椅子に下ろす。

「どうぞ、弾いてください」

 亜州甫は首を振る。顔と腕の包帯をほどいただけではダメか。あ、ペダルがあった。脚もほどかなければ。

「いいですよ。調律もね、この間してもらったばかりですしね」

「壊してごめんなさい」

「ですからね、直したんですって。ほら、ブランクなんて言わないでくださいよ?」

 亜州甫はソロリサイタルでご無沙汰になる直前、このピアノの音を消していった。ラだけ鳴らないように。ピアノなんか見たくもなかった私はちっとも気がつかなかったのだが、令息の曾祖父爺に指摘されたときは笑いが止まらなかった。ラだけ壊した理由。亜州甫が僕のこと忘れないで、て書置きしたとしか思えない。忘れるわけがない。私はただの一日だってあなたのことを忘れたことなんかない。博士に軟禁されて付きっ切りで呪いの雪女の分析をさせられても正気を保っていられたのはあの曲のおかげ。亜州甫が私のために作ってくれたあの。メッセージだって何千回も読み返した。詠唱も出来る。

「あれはCD化なさらないんですね」

「うん」

「なぜですか?」

 何度も言わせて申し訳ないが、私はそれが聞きたい。何度でもなんどでも。

「ほじょーちゃんに聞かせたかったの」

「じゃあ聞かせてください。ここで聴いていてもよろしいですか?」

「怒らない?」

「ええ、怒りませんよ」

 亜州甫がにこっと笑う。すごく楽しそうに指を動かす。観客は私だけ。絶対に誰にも聞かせてやらない。聞いた奴は鼓膜が破れればいい。

 亜州甫の笑顔を久しぶりに見た。私が奪っていたのだ。ピアノ如きに嫉妬して。お前なんかモノじゃないか。ピアノの次だって何も不満はなかった。ヒトの中では間違いなく紛れもなく一番。私はそもそも呪いの雪女に勝っていた。亜州甫のピアノを認めた社長にだって、亜州甫をピアニストにさせた令息にだって。結婚もしないし子どもも要らないし家庭も作らないとしたら、私は亜州甫にそばにいて欲しい。手の届くところで大好きなピアノを弾いて笑っていてくれればそれで。

 博士はそれを気づかせたかったのだろうか。実はそれほど悪い人でもないのかもしれない。多少過激に虐めっ子なだけで。それとも観察対象がいつまでも同じことの繰り返しでつまらなくなったか。そっちか。そっちだろう。

「ウソついてごめんなさい」

「あなたはピアノが好きですね?」

「はい」

「私のほうこそすみませんでした。あなたからピアノを取り上げてしまうなんて」

 私から亜州甫を取り上げるのと同じくらい惨い。何も残らないじゃないか。私はそんなことを強いていたのか。最低だ。亜州甫は首を振る。私を見ながら振ってくれる。

「デートならいいってゆったよね?」

「そうですね、二人で行くのならね」

「じゃあ二席とってもらうね」

「隣ですよ。ホールのあっちとこっちじゃ厭ですからね」

 私は博士に土下座して亜州甫を退院させてもらった。それでも一ヶ月以上かかった。その間は夜に地下に移動するのがなくなって、博士の機嫌次第だが外出も出来るようになったので、単に様子見だったのかもしれない。本当に退院できるまで回復できているか。担当医の私の意見は多分に私情が織り込まれているので信用してもらえなかったのだろう。そう考えることにする。博士は決して悪い人ではないのだから。

「桜散っちゃったね」

「桜お好きですか?」

「うーん、わかんない」

 亜州甫はどうしても私と同居してくれない。自活するといって聞かない。腹が立つので私の家から一駅以上離れない、という無茶な条件を突きつけたが、亜州甫はどこからともなくそれに見合う物件を探してきた。しかし私はまだ納得がいかない。むしろ私が亜州甫の家に住めばいいのではないだろうか。あの家はどうでもいいのだし。そう提案したらすごい答えが返ってきた。アイジンはどうするの、て。私は何も言い返せなかった。絶句。

「ムリしなくていいよ。僕平気だし」

 それはつまり本気ではない、ということでは。亜州甫は見覚えのある携帯電話をぴこぴこいじっている。どこで見たのだろう。亜州甫の持っているのはその色じゃないし、て。

「ちょっとそ、それ、私のじゃありませんかね」

「浮気チェック?」

「?てなんですか、ああ、いいからそのね、返して」

「知らない番号だ。また増えた?」

 もう息が上がる。年のせいだ。そうに決まっている。亜州甫が足を止めて振り返る。二千人収容のリサイタルホールを九割方女性でいっぱいにできるあの微笑みで。

「ほじょーちゃんモテモテ」

 何の因果か呪いかまたあのホールだった。しかも建て直されてさらに収容人数が増えている。これ以上容れてどうしたいんだ社長。儲けたいのか。それとも息子の復活晴れ舞台のためだけに。

「すごいよね、天使くんのために建て直したんだって」

 ちっとも笑えないが、亜州甫が楽しそうなので辛うじて笑っておく。しかしさらに笑えない事態が発生する。亜州甫は私をホワイエに置き去りにして楽屋に行ってしまった。連れてってくれてもいいのに。いや、待っているのも同じくらい複雑だ。私は部外者なのだし、部外者。自分で言って自分で切ない。令息に会いにいったのはわかっている。社長かもしれない。親友一族かもしれない。彼女もいたら、そうか。私が置いていかれた理由がわかった。

 こんなところで殺されても困る。

「お待たせ。天使くんがちがちで、大丈夫かなあ」

「あなたがですね、励ましてあげるのは結構なのですが、その」

 だがやはりピアノの次点に君臨すべきはこの私なので、そうゆうことをされると。

 亜州甫は一応有名人なので出掛けるときはメガネをかけている。目立つ外見とも思えないが会社のほうで盛んに顔出しをしているせいか、うっかりメガネを忘れたときに女性ファンに取り囲まれて往来を麻痺させたこともあるので用心に越したことはないのだろう。こんな小道具で誤魔化せるのだから頼ればいい。亜州甫にいわせればおそろいなのだし。

「ごめんね。ついうれしくって」

「令息に会えるのが、でしょうか」

「う、う」

「いいですよ。私なんかね、会いたくなくたって会えますしね」

「あのね、ほじょーちゃん。も一個いい? 席がね」

 手違いで取れてないのかと思ったがそれより酷い。気づくべきだった。一番いい席イコールご親族席。何が哀しくて私はあの一族と共に令息の演奏を見物しなければいけないのか。デートだったはずなのに。こんなことなら私も変装して来ればよかった。

「ごめんね。平気?」

「はあ、おそらくは」

 亜州甫が腕にしがみ付いてくれる。それをされても視線は凌げないだろう。亜州甫は小柄だから壁にはなり得ないし、恋人の勤める会社の社長一族を敵に回しているなんて逆境すぎる。しかしそれは割と杞憂に終わった。ホールはこれでもかというくらい薄暗いし、社長も伯母も曾祖父も令息の連れもステージ上の令息しか見ていないし、唯一私の存在に気づいた彼女も、亜州甫が過剰にべたべたしてくれたおかげか無視してくれた。探偵役の彼も足を運んでいるはずだがこの席の近辺には見当たらなかった。私や亜州甫の気配を察して遠方から護衛しているのかもしれない。

 ホールは満席。プロモーションの賜物なのか、令息の純粋な人気なのか知る由もないが亜州甫はうっとりした顔でステージを見つめている。ピアノを見ているに決まっている。そうでなければピアノの奏でる音が可視化されているのだろう。思わずうっとりするような素敵な音符が見えているのだ亜州甫かなまには。

 さて、私はといえば何を聞いても同じ感想しか出ない。はあ、とだけ。だか今日ばっかりはそれ以上の感想も出そうだ。だけど言わない。たぶん言わない。デウスエクスマキナが現れたとしても言わないですよ、ええ。

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亡き増す喰え吸うで 伏潮朱遺 @fushiwo41

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