第3話 不S協
1
洗脳はまだひっそりと確かに。
知っていた者は人道的に忘れさせられた。金なり地位なり名誉なり好きなものを与えられれば記憶など簡単に変容できる。都合よく収まりよくその程度の殴り書きにすぎない。知っている者がいなければ新たに知るものもない。学生たちはよからぬ噂を耳にすることもなく比較的健全に巣立っていく。感染者も徐々に秘術から解放される。絶対命令者のことをきれいさっぱり忘れていく。例外感染者も然り。そうやって私の過去は見事に抹消された。それこもれも博士のおかげ。博士にかかればカネを配る必要もなかったように思える。信者ならば神の御言葉を聞き入れないわけがない。記憶くらい喜んで隠蔽するだろう。なかった。何もなかった、というように。
いまのところ約束は守れている。もしかすると私も信者になっているのか。意識を飛び越えたところに決定権があるなんてまるで、いややめておこう。博士に背信するようで末恐ろしい。
「先生に意志がないと感染しないんじゃないかな」
「そうでしょうかねえ、だとするなら平気ですかね。清く正しく禁欲って案外辛くてですね」
「仕方ないなあ」
博士は受話器を取って一言発する。早すぎて聞こえなかったがおそらく控えの者を呼んだ。ほらノック。限りなく慎ましく目立たない人間が入ってくる。忍者か。
「五人乗っても狭くないやつ」
畏まりました、といわんばかりに忍者が頭を下げる。
「付いてきて」
スタッフ用駐車場に凄まじい車が停まっている。誰が乗るのだろう。博士が乗ったから私も乗るべきか。車というより戦闘機のようだ。まさか飛ぶのではあるまい。
「ええっと、どちらに」
「俺の秘密基地。先生だけなんだよ案内するの」
「はあ、それはまたなんと言いますか光栄といいますか、ええ」
ウィンドウがない。景色が見えないということは場所を知らせてもらえないということだろう。これでは地上なのか上空なのか水中なのか地下なのかさっぱりわからない。知らせてもらっても二度と行かないと思うが。
「面白いでしょ。ミステリィツアーだよ」
「はあ、そうでしょうか」
「先生ってホント正直だよね。そういうとこ好きだよ」
「はあ、それまた勿体のう」
博士は赤い液体を飲んでいる。トマトジュースか血。どちらでも大差ないか。私はコーヒーをいただいた。素朴で美味しい。諸々は余計なことをしないに限る。
「俺の弟に会った?」
「いいえ、あのう、弟さんがいらっしゃる」
「どうかなあ。すぐに追い抜かれるから俺が弟になっちゃうかも」
博士はケラケラ笑う。頂上的に機嫌がいいときの笑い。
「今度紹介してあげるよ」
「ええはい、まあお手柔らかにどうか」
「離婚したんだって?」
「え、はあ、それにしてもだいぶ古代史を蒸し返されますねえ」
「再婚は?」
「駄目ですねえ。見ての通り乱れた性生活しか送れませんし」
「愛人がいるじゃん。その人は?」
「ううん、さすが全部ご存知で。困りましたねえ、せっかく一緒に暮らそうかと水面下で画策中だったんですが」
「やめたほうがいいんじゃない? 先生だいぶ飽き性だよ」
「はあ、なんとも耳の痛い」
車が停まったようだ。忍者の声がしてドアが開く。
「待ってて」
畏まりました、をここまで非言語で貫くのは忍者だけだろう。
「先生は降りるんだよ。なにしてんのさ」
「ああ、はい。すみませんね」
よかった。地上のようだ。過程を知らないというのは恐ろしい。同じ理由で外食も中食も恐ろしい。途中で亜空間を通過してきたとしても私には知る由もない。
「そんなびくびくしないでって。火星じゃないし」
「いやいやご冗談を。火星でしょう。むむ、もしや火星人収容施設では」
博士のケラケラ笑い。
「先生大好き」
「あの、博士のお気持ちは舞い上がるほどにうれしいのですが、すみません。おそらく完璧に片思いかと」
「先生気が多すぎるんだよ」
「いまはひとりですよ、ええ」
「つまんなそー」
建物内はひんやりとしている。外気より数段冷える。博士に唆されて天然冷凍庫に導かれたとしたら怨んでもいいだろうか。寒い。肩をさする。
病院というより収容所に近い。両側に連なる扉に鉄格子が嵌っている。火星人収容説は正解か。中を覗こうとしたら博士に脛を蹴られた。
「あの、すこぶる痛いんですが」
「当たり前だよ。痛いところ蹴ったんだから。先生が見ていいのはあっちだけ。次に余計なことしたら先生も閉じ込めるよ」
「はあ、気をつけます」
あっち、というのが具体的にどこを指すのかわからない。突き当たって右折する。しばらくいくと庭に出た。外のほうが暖かいというのはどうだろう。考えさせられる。
「あっち行ってきて」
「え、それはえっと、私ひとりということで」
「俺が行かないほうがどきどきするよ。気が済んだらでいいから戻ってきて」
博士はUターンして庭を駆ける。ぶかぶかの白衣が風に遊ぶ。あっち、というのがよくわからない。尋ねるにしても博士はすでに同一空間にはいない。瞬間移動。戻ると収容所。進むと小屋。小屋イコールあっちか。等式が出来た。
莫迦なことしてないで行ってみろ。
そんなこと言われてもですね。
小屋だ。これが小屋ではないといわれたら他に表現のしようがない。それくらい完璧な小屋のイデア。プラトンも過呼吸だ。ぐるりと一周する。大した大きさではない。漢字が被った。窓から入る技術は持ち合わせていないので扉をノックする。
返事なし。
ドアノブが回る。ああ不法侵入。
暗いと怖い。
床がぎいぎい鳴る。空気が生ぬるい。博士には悪いがあまり長居したくない。
「だれ」
と聞こえた気がする。眼が慣れない。ビタミンA不足。
人らしき気配。
火星人は人なのか。これまた難しい命題を。
「だれ、なに」
記憶照合。
するまでもない。
眼が慣れなくたって見える。耳が拾えなくたって聞こえる。いまなら泣いてもいい。泣けるだろうか。声が出ない。うれしくて。何も考えられない。おかしくて。
黒い楽器。白い楽器。
融合すれば。
「だあれ?」
「はじめまして、ええっと博士の手下の一味で」
「なにしに来たの?」
「さあ、何しに来たんでしょうか、ええ。実は私もよくわからなくって」
白い指。
さあ何本。
「ユサほじょうと申します。あなたは」
数えなくていい。
「アスウラかなま」
2
「どこで拾ったのか教えてあげようか」
博士がグラスの赤い液体を飲み干す。色合いといい粘り気といい血にしか見えない。
「ええっと、やはりその火星ですか」
「うーん、先取りされちゃったなあ。でもいいの? 知りたいんじゃない?」
「やめておきます。想像つかなくもないので、はあ」
「やっぱ心当たりあるんだ。その人居所知らない?」
「さあ、知りたくもありませんしねえ」
「もし先生に接触してきたらさ」
「はあ、まああり得なくもなさそうですね。はい了解」
ピアノの音。耳に心地いい。弾いている人間が違うとここまで楽器は違う音色を奏でるのか。まさか同じ楽器だなんて誰も思わない。私も思わない。
「記憶障害があるけど脳に病変なし。とすると一過性の健忘かな。それとも抑圧しちゃってるか。俺は心因性と見るけど」
「ええ、私もまったくの同感で」
「引き取り手がないって言ったら先生、愛人捨てる?」
「ううん、それはもう、どちらもそれとなくお付き合いを」
「ね、同棲早まらなくてよかったでしょ」
「ええ、優柔不断は役に立ちますねえ」
ピアノが已んだ。拍手する。博士がぴい、と口笛を吹いた。
「ええっと、アスウラ君。こちらに来て一緒に」
「なに食べる?」
「じゃあそれ」
「これ? もっとお腹に溜まりそうなものでいいよ」
「それがいい」
わざとだろうか。
「あれえ、先生。どうしたの?」
「いえ、何でも」
わざとだ。
「好きなの?」
「うん、見たことあるから」
「へえ、マフィンはチェックかあ」
博士が手帳を開いてペンを走らせる。
「えっとその、飲み物は」
「それなあに?」
もうわざととしか。
「こないだ吐き出したじゃん、駄目ダメ。ねえ、ちょっと」
忍者が風より早く博士のご所望品を運んでくる。
「こっちにして」
「やだ」
「やだじゃないよ。吐いたの誰が片付けんのさ」
それは忍者だ。博士ではない。
「同じの」
「わがまま言わない。ピアノ壊すよ」
「やあだ」
「あのう、いいんじゃないでしょうか」
「先生甘いなあ。カフェインて採んないほうがいいんだけど」
「一口だけなら、ねえ。はいどうぞ」
亜州甫がカップを口につける。顔が渋くなる。
「にがぁい」
「ああ、これはいけませんね。えっと、これを」
角砂糖は五つ。
「ありがとう。えっと」
「ユサです。ユサほじょう」
「ほじょーちゃん?」
「ああはい。お好きに」
「あー全部飲んだ。ダメだって」
「おいしい」
亜州甫が満足げな顔をする。お怒りモードの博士には悪いが私も大満足。
「砂糖だってあんなに。骨が溶けるよ」
「あの、博士。私に免じて」
「だって懲りないんだから。たまには強く言わないとさ」
「では今日は優しく、ということでどうか」
博士が眉をひそめて忍者に耳打ちする。
「ほじょーちゃん、僕に会いに来たの?」
「まあ、そんな感じですかねえ」
「僕ね、ピアニストになりたい」
「ええ、なれますよ。応援してますし、私はアスウラ君のピアノ好きです」
「ホント? 弾いてあげる」
「お願いします」
「ふうん、なんだか手馴れたもんだね、先生」
博士の声に棘がある。忍者は隠れ身の術なのかいなくなっていた。
「あれ、お話は」
「そういう態度は嫌いじゃないけどほどほどにね。ちょっと機嫌悪いから」
「はあ、それは失礼致しました」
亜州甫のピアノが終わったところでまたあの戦闘機に乗り込む。五人乗っても、の意味がようやくわかる。亜州甫は私の硬い膝を枕にすやすや寝息を立てる。
「あの、いきなりで大丈夫でしょうかねえ」
「俺の見立てに文句でもあるの?」
「ああ、いいえ。そういうことではなくてですね」
「俺が拾ったときは表情硬直。まともに口も利けなかった。これで納得?」
「そうだったんですか、へえそれならまあ」
「先生が来る前だってほとんど会話不全。指をしきりに動かしてたからピアノ与えたら小屋に篭もってぎゃんぎゃん弾いて出てこない。まったくさあ、どんな魔法?」
「恐れながら博士、それは魔法ではありません。秘術です」
「へええ、じゃやっぱり俺の仮説立証?」
「恐縮です」
博士が亜州甫の額に指をつける。押した、が正しいか。
「ああ、博士。アスウラ君のえっと、名前についてですが」
「自称だし」
「ええその、本名は」
「別にどうだっていい。要は記号だから。それより俺は」
「ああはいはい。おそらくですが、近々よいご報告が出来るかと」
「期待していい?」
「はあ、割かし」
博士はぞっとするくらい低温の笑みを浮かべて黙った。何分だったのか何時間だったのか。病院に戻るのかと思ったら自宅に横付けしてもらえた。ぐにゃりと弛緩した亜州甫を背負って降車する。重くないが軽くもない。博士は小型のノートパソコンと睨めっこしており、別れの挨拶はぞんざいに手を挙げるだけ。まあ非言語だし。とうとう忍者の声が聞けなかった。
ベッドに亜州甫を寝かせて窓を開ける。日が翳ってきたようなので洗濯物を取り込む。布団も干していけばよかった。いつまでも寝顔を見ていても精神衛生上厳しい。
何年ぶり。
久しいことしかわからない。
何者より。
悔しいことしかわからない。
アプローチ方法は皆無。待てば海路の日和なし。果報は寝て待てない。
苦しかったろう。哀しかったろう。
挑戦。挑発。嘲笑。
「あ、れここ」
亜州甫が眼をこする。
「私の家です。ビックリされましたかその、いろいろご心配なく」
「僕、ここで暮らすの?」
「アスウラ君さえよろしければ、ええ」
「ピアノある?」
「勿論。えっと、弾かれますか」
「先生」
鉄の味。
「お腹がすいたら仰ってくださいね。ああ、そうだ。何か食べたいものがあれば」
「僕、捨てられたのかな」
錆びた鉄の。
「博士はそんなことしませんよ。あのええっと、あちらはですね」
「ピアノくれたのにお礼言わなかったから追い出されたんだよね?」
「いいえ、博士はアスウラ君が寂しいのではないかと思って私のところに」
「寂しくないよ。寂しくない」
不味い。蚊が私を狙わない理由がよくわかる。
「ピアノあるなら平気」
亜州甫にタオルケットを掛けて部屋を出る。これ以上何も見ていられなかった。何も聞いていたくなかった。私は亜州甫かなまの先生ではない。亜州甫かなまが先生と呼ぶべき人間がたったひとりしか浮かばなくてはらわたが煮えくり返りそうになる。私の膝枕で眠っているときも寝言で最低三十一回は先生、と口にした。回数を重ねるごと博士の機嫌が悪くなっていった。勘違いだと訂正するタイミングを逸するたびに私は自分に余裕がないことを思い知らされて気が狂いそうだった。
居もしない子どもの認知を断った私に対する最狂の復讐。
3
薄暗いのは抵抗ない。
擬似胎内。人工子宮。レトルトの底を覗き込む中世錬金術師。前成説は否定された。人類は単為生殖ではない。
視線の源泉を辿るがおそらく勘違い。頼りない記憶と照合してもその像だけはあり得ない。脳内会議において満場一致で可決された。グラスが空になったので追加を注文する。
刺さるような視線を後頭部に感じる。振り返ったらテーブルの女性と眼が合った。向こうも一人らしい。待ち合わせなのだろう。どことなくそわそわしている。私が待ち合わせでなかったら是非声を掛けてみたい。
約束の時間はとっくに回っている。特に苛々もしない。待たされるのも待たせるのも慣れている。時間前に来ようが時間通りに来ようが差はない。約束しておいて来ない、という状況以外なら我慢できる。手持ち無沙汰なせいかついついグラスに手が伸びる。また空にしてしまった。何か食べたほうがいいか。メニュを眺めてぼんやりしているとまた強烈な視線を感じる。振り向くと再びテーブルの女性と眼が合う。小さめに会釈したら笑顔を返してくれた。ますます声を掛けたくなる。彼女は私に声を掛けて欲しくてわざと視線を送っているような気になってくる。そうであったらいいが私は応じるわけにはいかない。
つまみを注文してから時計を見遣る。着信もメールもなし。担がれたか。いや、呼んだのはこちらだし嫌がらせにしたって。笑い声。賑やかなテーブルもあるらしい、と思ったが音声は単一。ひとりから発せられているだけ。それもすごく近い。
私は振り返る。
テーブルの女性が携帯電話を片手に大笑いしている。さぞ面白いメール文面だったのだろう。もうどうでもいいか。隙を見て一人に戻れば。
あのう、何かとても楽しそうに。
面白い写真が取れたの。
ほお、それは是非拝見したいものですね。
もちろん。どうぞ。
ディスプレイを凝視させてもらう。覗き見防止のためにシールが貼られており、この角度だとディフォルメされたクマらしきが生物が賢明に果物を貪っている図が見える。
すみません、手にとっても。
ええ、ごゆっくり。
フォーカスは人の横顔。鼻から上が切れている。複雑な事情で顔全体を写せないのだろうか。単に顎を収めたかっただけなのだろうか。無精髭に覆われた情けない顎を。女性は相変わらず笑いが止まらない。涙も出てしまったようで鮮やかな柄のハンカチを出して目尻を拭っている。
ええっと、これのどの辺が。
面白くありません?
もう一度ディスプレイを見せてもらう。何度見ても情けない顎。彼女は顎に並々ならぬ思い入れがあるのか。顎フェチか。しかしながらこんなのが顎フェチの感性にヒットする顎の典型だとしたら、私は顎フェチの方とはお近づきになれる自信がない。
ううむ、面白いでしょうか。
ええ、久し振りに大笑いさせてもらいましたわ。
女性はバックにハンカチを仕舞う。ちょっとごめんなさい、と言って携帯電話を耳に当てる。私は表出すべき感情に戸惑う。相手が電話中という状況に格好つけてカウンタに戻る。声を掛けて後悔した体験はおそらく初めてだ。酔っているのか。しかし女性のテーブルのグラスは三分の一も減っていない。とするなら酔っているのは私のほうか。ポケットが振動した。非通知。出るべきか出ざるべきか。悪戯の可能性が高いが、あの不可思議な女性から離れるきっかけになり得るならまあ。
はい。
三杯で酔ったのか。
はい?
あなたは見た目の割に酒に弱かった。
はあ、あの、どちら様で。
顎に触って。
私はそれに従う。
ざらざら。
あ、ええっと何でしょう。悪戯なら。
似合わない。老けて見える。
私は振り返る。女性がぶ、と吹き出す。私は電話を切って女性の向かいに腰掛ける。
「ええっと、その、あのう、できればこういうご冗談は」
気がつかないほうが悪い。私のほうが先に来ていたのに。
「それは、なんといいますか、不可抗力といいますか」
もういい。あなたは私の顔なんか憶えていない。
「ああ、その、心の底から申し訳ないと思っています。言い訳させていただくなら、当時との印象が間逆といますか、当時の面影が根こそぎ一新といいますかで、ええ」
天啓を受けて変わった。こちらのほうが気に入っている。
「はあ、なかなか斬新ですこぶる扇情的な感じで」
これなら離婚を押しとどまったか。
「さあ、どうでしょうねえ。タイムマシンでもないと」
相変わらずだ。
「それはええ、お互い様ですね」
女性がグラスを持ち上げる。私も応じる。
接触。ガラスの衝突音。
僅かに空気が振動しただけ。
「えっとまあ、特に言うこともないのでね、いきなり本題で、はい。ナガカタさんというピアノ講師の方を憶えていらっしゃいますかね」
憶えてないわけない。私に判子を押させたのは他ならぬあいつだ。
「あれえ、ということはやはりその、ある程度半ば強制的に」
言いたくない。細かい流れは忘れた。
「はあ、ではそのナガカタさんなんですがね、本名はどうやらエイヘンさんと」
回りくどい。いきなり本題ではなかったのか。
「ああはい、すみません。そのナガカタさんだかエイヘンさんだかなんですがね、もしかして、もしかしてですよ、私と別れた後あなたに個人的に接触してきたりとかは」
してたらなんだ。
「あ、いいえ、そのような意味でなくてですね、ううん」
はっきり言え。私への気遣いならやめろ。むしろ腹が立つ。
「はあ、それなら心置きなく。えっと、なんでしたっけ、そうそう。私はそのナガカタさんだかエイヘンさんを捜しています。何か知っていることがですね、ございましたら」
会いたいのか。
「まあ、一言で言えばそういうことになってしまいますかねえ」
あいつはまだそっちでピアノ講師をしているのでないのか。
「それがですねえ、いつだったか、辞めてしまわれて、ええ。ですからね」
なぜ会いたいのか。
「申し上げられませんねえ、至極私的なことですし」
私だから言いたくないのか。私以外なら。
「そういう意味ではありません。ううん、勘違いされているやもしれませんね、心苦しいです、はい。私が訊きたいのはとにもかくにもひとつです。あなたがナガカタさんだかエイヘンさんだかの居場所を知っているのかどうか、という」
知らない。
「そうですか。ううむ、当てが外れましたねえ」
場所は知らない、だけど。
目線が交わる。瞬きよりも短く。コンマセコンド。
「だけど、と言いますと」
女性がバックの中をごそごそと探る。テーブルの上に封筒をのせる。
「あのう、これは」
開けてみろ。
和紙のようだった。定形内郵便で届くサイズだが切手が貼られていない。シールを剥がして中身を取り出す。
小さなカード。内封されていたのはたったそれだけ。
「ええっと」
別に知りたくない。声に出すな。
「会われたんですね」
つい最近だ。気分が悪くて仕方ない。
「今日は奢りますよ。どうかご勘弁を」
当然だ。本当ならここまでの交通費も貰いたいくらい。
「払いましょうか」
いい。カネに困っているみたいだ。
「何か儲かるお仕事を?」
そっちこそ。
「あなたが仰らないのに私には言えと」
そっちが言ったら言うかもしれない。
「そうですねえ、何か卑怯な気もしますが。実はあの施設をクビに」
ざまあみろ。
「ううん、ひどい。とにかくそれで泣く泣く違うところに」
まさか病院では。
「そのまさかだったりします、ははは。とにかくいろいろありましてね。まあ邪の道は蛇といいますか、捨てる髪あれば拾う紙ありといいますか」
漢字が違う。
「音声だけでよくおわかりで」
私は前のとこ辞めた。
「はあ、ではいまは」
以前何をしていたのか知らないくせに。
「仰るとおりで、ええ」
女性がグラスの淵をなぞる。
何見てる。
「いやその、綺麗な指だなあ、と思いまして」
あいつにも言われた。
「はあ、それはまあよほど綺麗な指だということではないでしょうかねえ」
うれしくない。少し黙れ。
私は口に手を当てる。女性が息を吐く。
ピアノはまだあるのか。
「ええまあ、ピアノさんが独立移動なさらない限り」
女性が立ち上がる。私も来い、という雰囲気なので会計をして外に出る。少し冷える。歩けども歩けども寄り添う二人連れしかいない。
もし世界に彼女とふたりなら。
「ええっと、そろそろ」
何も訊かないと言ったらもう一軒付き合ってくれるか。
足を止める。ヒールが高いので彼女の背はとても高く感じられる。
返事しろ。
「それはえっとその、最終的に私の家に行くとかそういうオプション込みで?」
家でなくてもいい。夜の間。
「ううむ、実に魅力的なお誘いではあるのですが、早急に帰宅したく候」
誰かいるのか。
「そう思われてもねえ、仕方ないでしょうね。まあその、よい夜を」
皮肉?
「困りましたね、顎が勝手に動くんですよ。無意識逆襲じゃないでしょうか髭の」
鏡が必要だ。
「そんな私の顔見たって楽しくありませんよ、ええ。では」
私の名前憶えてる?
「絶世の美女をめぐって太古の昔ですねえ、ううん、どちらででしたっけねえ場所は失念いたしましたが木馬とか使ったり、そうそう、戦争しましたでしょう」
絶世の美女の名前わかる?
「さあ、浅学でそこまではちょ」
黙るしかなかった。黙ってもよかった。
彼女とふたりっきりなら名前は。
「いらんよ、髭は」
「ううむ作戦失敗。そういうことをさせないために伸ばしたんですがねえ」
伸ばしたてだからいけない。違和感なくなる頃に。
彼女は闇に吸い込まれる。
私は仮面をひとつ亡くす。
帰宅して寝室に向かう。ベッドの寝顔を確認してシャワーを浴びる。水を被っているのに熱い。ふらふらする。壁に手をついていないと天と地がわからない。意地だけでここまで辿り着いた。彼女の前では倒れたくなかった。とっくにエネルギィ切れ。
知っている。知っているに決まっている。イリアスくらいミケーネ文明くらいシュリーマンくらいイリアスくらいギリシア神話くらいトロイの木馬くらいヘレネくらいトロイア戦争くらい。
離婚せずとも。同棲せずとも。結婚せずとも。愛なんか最初からない。だとしたら一緒にいたって。
私はカードに書かれた文字列を記銘する。
4
雪には色がない。
知識から白だろうと思うが日光が乱反射してよくわからない。幸か不幸か、メガネのレンズにも反射している気がする。眩しくて正体不明の投影的残像がちらつく。外すとどこまで見えるだろうか。確かお世話になり始めたのは大学に入ってから。大講義室の小さな黒板にプランクトンのような字を書く先生が居た。そういう面倒な講義に限って必修になっている。日常生活ではそれほど不自由はないがかけたり外したりが面倒なので常時かけるようになった。メガネというのは頼ったが最後、ずぶずぶと嵌っていく。かけなければよかったとは思わない。胸ポケットに掛けてから歩行を再開する。
寒いのだろう。息が白い。息は白か。雪は相変わらず無色。眼球がちくちく痛い。雪なんか見るな、と脳も忠告している。代わりに自分の手を見る。親指から折って数える。右に五本、左に五本。最低で十秒もつか。なんとも短い。十秒も、と考えて気を持ち直せるか。
原材料雪。加えて氷。無慈悲なほど寒い。手放しで寒い。千人いれば仙人が寒いと言ってくれるだろう。
仙人は何語を話すのか。中国出身なら中国語か。通じない。言語を超越していたら言語によらず概念だけ伝えることは可能ではないだろうか。非言語にも勝る、言語面のあやふや解消。ああ不可能。会話はそもそも誤解だった。
「何か仰ってください」
「窓を、閉めませんか、ええ。凍えそうですよ」
「他にありません? もっと重要な」
「さあ、寒くってそれどころではありませんのでねえ。うう、吹雪が」
「こちらにいらっしゃったら?」
「ううむ、もっと凍りそうに思えて仕方ありませんねえ。あなたが閉めないなら私が閉めますよ。いいですね? 閉めますからね」
窓枠があまりにも冷たい。張り付いた気がして手を離してしまった。力を込めても窓が凍って動かない。桟に溜まった水が凍っている。氷点下確実。
「お閉めにならない?」
「閉めたいのは山々ですがええっと、お湯が出ますかそちらの」
「お試しになってみたらどうかしら」
簡易キッチンの蛇口を捻る。辛うじて水は出たが水道水としてあり得ないくらい低温。タンクに雪を入れて運よく溶けた液体から順次使用しているのでは。捻っても捻っても心許ない勢いしか流れない。待てども待てども温度は上がらない。
「あのう、薬缶をかけても」
「お茶もお出ししませんでしたね。いま」
「ああ、いいえ、そういうことではなくてですね。どうか、ええ、そちらでお待ちを」
「私の家ですよ、先生」
「はあ、それはもう重々」
半径三メートル以内には近づきたくない。いま出来る最善の方法は距離をとること。ガスではなく電気コンロだった。
「まあその、一刻も早くといいますか一事が万事といいますか、結論から参りますがねよろしいでしょうかね。私は謝りませんので、ええ」
「とても残念です。てっきりそのためにご訪問いただけたと」
「えっとあの、こちらで保護しましたのでね」
「そうですか。なんだかつまらないお話ですね。話題を変えません? 私の外見のこととかいかがです?」
「それこそどうでもいいんじゃないでしょうかねえ。実はつい最近も大幅に外見の変わった人にお会いしましてね、中身はそのままだったのでその」
「先生ともあろう人が中身がそのままで安心したとでも?」
「まさかそんな、困った勘違いですねえ。まあ極論しますとですね、外見がごっそり変わったのについてはすでに度肝を抜かれるほど驚いたのでもう気にもならないということですよ。つまりですねえ、あなたの髪が伸びてようがばっさり切ってようが化粧しようがしまいが服を着ようが全裸だろうが私にしたらまったくもって何の価値もない。私は珍しく怒っています。金輪際怒ることもないでしょうね。二度とこんなことなさらないようにわざわざ注意しに来たんです寒々しい大雪の中。それだけです。帰ります」
「待ってください。来たばかりなのに」
「用事も終わりましたしね」
「その割には薬缶が疑問です。もしかして私に熱湯でもおかけになります?」
「かけれるものならかけて行きたいですよ、はい。でも困るでしょう」
「私は困りませんけれど。あら、お湯そろそろ」
湯気が立ち上っている。白いしろい。
「かけていただけないんですか」
「お望みならどうぞご自分で、ええ」
「皆さん無事だったでしょう? 殺してなんかいません」
薬缶の湯を桟にかける。湯量が足りない。ほぼ全方向に大きな窓が連なっている。もう一度薬缶をかけるのが億劫だ。寒さもすでに慣れた。
「人の趣味をどうこう言う権利なんかありませんが、あなたのは格別に酷い」
「褒め言葉にしか聞こえませんね。お医者サマの先生の目まで惑わせたとなるともうすでに私の腕は達すべき最高の領域にいるということになりますから」
「私のは早急に処分しておいてくださいね。気味が悪くて」
「処分まで至りません。先生のは是非実物をと思い、きたるべき日を待ち焦がれております」
「はあ、それならあなたが元気そうなうちは健康に気を配りましょう」
「前の奥さまのはお見せできる機会がなくて心苦しいです。もし先生が来てくださらなかったら送ろうと思って」
「もっと有効に使われたら如何ですかね、その特殊能力。ええっと、ううん、ああ駄目そうです。何も浮かばない」
「無理なさらないで。私の作品ですから」
「はあ、作品ですか」
「私が創り出したものは私の作品です」
「ところでさっき皆さんご無事とか仰ってましたがねえ、無事でない方もいらっしゃるんじゃないでしょうかねえ」
「まあ、そうでしたか? 私は特に何も。指を触ったくらいで命を落とされたりするのかしら」
「あなたの記憶にないのなら構いません。私の記憶にはあるようなないような」
「先生は記憶なんて信用していらっしゃらないのでは」
私はドアに正面を向ける。後ろで足音。
「まだお話があるでしょう先生。それを伺います」
「娘ですかね。それとも息子ですかねえ」
「それらに差がありますか」
「誰に似ていますか」
風が通る。偏西風。季節風。
「ちっとも先生に似ていなかった。それが残念」
「返せとは言いません。そもそも私は認知していませんし。それに私の子だという証拠も何もない。しかしまだ万一存命なら」
「認知していただける?」
「あなたの子です。もしあなたが育てているのならやめたほうがいい、と言おうと思いましたがやめます。余計なお節介でした、ええ」
「そうですね。私が育てるのをやめたら野垂れ死にますからね。うれしい。私たちの子どものことを気にしてくださるなんて」
「もう二度とあなたには会いません。欲を言わせていただけるなら別れた妻にも嫌がらせをしないで貰いたいですね。あなたのおかげで健康が阻害されているようですから」
「まだお付き合いがあるみたいな口ぶりですね。哀しいです。忘れてください、前の奥さまなんて。私が」
私は距離をとる。扉に手をかけようと思ったらまたあれをやられた。
脚。
「そのような格好でよくもまあ」
「ですよね。うまく足が上がりませんもの。これがいけないのかしら」
帯が床に落ちる。白い腿がのぞく。
「寒いんじゃないでしょうかね」
「ご心配ありがとうございます。だけど寒いのは大好きです。もしお望みならこれを脱いでも」
布が床に落ちる。白い肩が現れる。
「凍死されても放って逃げますよ」
「まあ先生。お医者サマなのになんてひどい」
「ホムンクルスでしょう」
「何のお話ですか?」
「あなた単体では子どもは産めませんよ。勿論あなたが人類なら、の話ですがね」
「検査してくださる?」
「猿? ああ、猿なんですか?」
「先生、わざわざ会いに来てくださったのですから」
声。
呼んでいる。私ではない。
地下。
「起きたみたい。診ていかれます?」
「結構」
「そうだ。私の名前、言ってませんでしたね」
高い声。
「インデクスが必要でしょう? エイヘンえんでではなくなったいまの私を思い出すための」
泣いている。
「私たちの子どもの名前を考えてくださいません? 実はまだ」
「要らないんじゃないですか」
「そうですね、先生がほじょうさんで私が」
地下へと通じる階段。手すりがぐわんぐわん共鳴する。誰かが叩いてる。大声で喚きながら。
「先生、私お願いが」
背中が冷たい。体温を奪っている。指の感覚がなくなってくる。
重病。
十秒。
「メガネをかけていらっしゃらないのはどのような意図が」
闘争。
逃走。
「先生、何か」
私は屋外に出る。追ってこない。負わない。
黙る。
黙れ。
無色の世界に白が靡く。
無色の世界に黒が歩く。
「いい?」
「ええっと、どういういい、で?」
「壊すよ。バラバラ」
「ええそれはもう、博士のお気に召すまま」
「先生愛してる」
「ううん、お気持ちだけ」
笑い声が遠くなる。
ケラケラ。
深い雪が近くなる。
ユラユラ。
よく見えないのはメガネがないせいだった。
かけても変わらない。大差ない。
白い煙が立ち上る。
蒸気を発する。
常軌を逸する。
済んだ。過ぎた。
通過した。
うるさい。
うるさい。
聴覚閉鎖。感覚遮断。
忍者の隠密活動を横目に運転席に乗り込む。
手を見つめる。
指を数える。
結んで開いて。開いて結んで。
ここを訪れるために車を買ったなんて、思いたくない。
5
ハイウェイを降りる頃には世界が暗くなっていた。
暗いと怖いと感じる。
家中の照明がついていない。新たな趣向なのかと思ったが、単に明るさを必要とする人間が屋内に存在しなかっただけだった。すべての部屋を見て回る必要はなかった。玄関に靴がない。
念のため冷蔵庫を開ける。減ってもいないし増えてもいない。現状維持。
ピアノの部屋へと通じるドアが開け放しになっている。いつも開けているのだがいつもと開け方が違う気がした。壁と扉における離れ具合という量の問題ではなく、壁はまったくそのままで扉だけが異なっているという質的な違和感。
アルビノのグランドピアノ。蓋を開ける。おかしい。蓋なんか引っ越してきて以来ずっと。
白鍵が厭に黒い。黒鍵が厭に白い。中央付近の鍵盤にアルファベットが記されている。二十六プラス四。
椅子の上に紙切れがのっている。五線譜におたまじゃくし。曲名は日本語のようだが動詞活用形の羅列で意味がわからない。最初は連体詞。終止形か連体形。仮定形か命令形。連用形か終止形。加えて格助詞。四つも漢字を並べたのだから最後も漢字にすればいいのに。
鍵盤を眺める。おぼろげ過ぎる記憶の端に引っかかる記号。
階段を駆け上がってインテリアと化していた辞書を開く。テスト前だって開いたことがない。大学に入ってすぐ買わされて以来ほとんど指紋をつけていない。捨てなくてよかった。手放さなくてよかった。
弾けるか。読めるか。
可能だ。勿論両者とも。
ト音記号。右手。メロディライン。おたまじゃくし通りに鍵盤を弾く。鍵盤のアルファベットと照らし合わせておたまじゃくしの下に記す。マジックが水性なのか指が黒くなってくる。白くなってくる。白と黒の鍵盤が混ざったかのような。右手で鍵盤を弾いて右手で記すと時間がかかる。筆記は左手に譲る。別に弾かずともなんら遜色ないことに途中で気がつく。それでも弾いたほうがいいような気がした。伝えたいのは文字ではなく音のように思えて仕方ない。
亜州甫かなまが私のためだけに創ってくれた曲だ。
楽譜に落書きをしなくてもよかったことにようやく気づく。曲が終わる頃にはおたまじゃくしとアルファベットとの対照表が脳内に完成していた。鍵盤の字が掠れて消えても関係ない。忘れないうちに書き起こす。楽譜の裏では忍びなかったのでノートにした。布巾を絞って鍵盤をきれいにする。淡い中間色は姿を消した。指の灰色は石鹸で洗ってもなかなか落ちない。落ちなくてもいいか。しばらく落ちないほうがいい。
アルファベットをノートに書き写す。スラッシュを入れて単語に区切る。文章になるようにカンマを入れてもう一度書き直す。辞書を引きながら単語の下に日本語を記す。何となく意味はわかるのだがこなれた訳にならなくて苛々する。私たちの意思疎通を何者かによって遮られているような気がする。バベルの塔がいけない。あんなものを創ったから言語がバラバラになった。どうして日本語で伝えてくれない。鍵盤に書くのはひらがなだってよかったはずだ。カタカナだって構わない。アルファベットがよかったならローマ字という選択肢だってあったはず。英語ならまだ楽だった。
チャイムが鳴った。インターフォンに出るまでもない。ドアスコープをのぞくまでもない。
「なんかやつれてない?」
闇色の眼。無色の衣。
「必ず明日お伺いします。ですから今日は」
「俺の命令断るの?」
「断らせてください」
「子どもが暴れてうるさいんだ。俺の知り合いってみんな顔が怖くてさ。先生なら」
私は頭を下げる。
「意味がわからないよ、先生」
「すみません」
「先生拾ってあげたのは誰?」
「博士です」
「先生が医師免許取り上げられないのは誰のおかげ?」
「博士です」
自分の靴が厭に近い。
博士の声が厭に遠い。
「じゃあ返答はそうじゃないな。いまならさっきの聞かなかったことにできるよ」
「お帰りください」
「先生の子だよ」
「違います」
「調べる必要もないね。ホムンクルスじゃないんだから」
「いやいや、ホムンクルスでしょう」
「俺に創れないんだからあり得ない。先生だって創れないよね?」
「はい」
「顔上げて」
従わない。
「上げて」
従いたくない。
「上げろ」
「お引取りを」
「人質がいるってことわかってる?」
私は顔を上げない。
「ちょうどいいや。子どももいるんだし誰がホントの親かって」
「やめてください」
「なら訂正しようよ。俺も意地悪じゃない。あと一回くらいなら」
「博士は」
私は目線を下げる。博士との身長差を目算する。
「なあに?」
「ドイツ語おわかりになりますかね」
博士は振り返って戦闘機を見遣る。タイムラグなく運転席から忍者が降りてくる。
「あのさあ、ドイツ語出来る?」
忍者が頭を下げる。申し訳ありませんが、といわんばかりに。
「探して、大至急」
忍者が深々とお辞儀して携帯電話を耳に当てる。口がまったく動いていない。どうやって電話越しの相手に意思を伝えるのだろう。音声を超越した概念が伝わるのだろうか。
「いまのうちに荷物まとめておいでよ」
「あの、それは泊まりということで」
「子どもの機嫌によるね」
私はあくまで自然に部屋に戻り、ノートと辞書と筆記用具だけ鞄に詰める。受験生が塾に行くようだ。参考書が足りないか。思い直して楽譜も入れる。万一の場合に備えるというのが私のスタンス。つい先日まで車を買わなかったのだって同じ理由。妻の運転する助手席に初めて乗ったときに悟った。殊のほか車には人間の存在感が染み込みやすい。
妻と出会う前から付き合っている相手がいた。私は愛人だとは思っていない。妻は気づいていた。気づいていなければあんな顔はしない。学生時代から双方の家を行ったり来たりしていた。面倒だから、といつの間にか同棲するようになった。さすがに狭いと感じたので、もっと広い部屋に引っ越す際、ついでだから結婚しよう、言ったのは妻だった。ついでならまあいいか、と思ったのは私だった。
しかし妻が私に求めていたものと私が妻に求めていたものには大幅なズレがあった。埋めようもない溝。亀裂というより活断層。
私は友人の延長として一緒に暮らすつもりだった。
妻は恋人の延長として一緒に暮らすつもりだった。
ついこの間、何年ぶりかに会ってようやくそれに気がついた。私は妻と寝たくなかったわけではない。寝る相手が他にいたせいで特に必要がなかっただけで。好きか嫌いかと尋ねられれば反射的に好きだと答える。でも愛しているかと訊かれたら何も言えない。私は安堵できる存在を手の届く範囲に置いておきたかっただけだった。家具となんら変わりない。妻は家具ではない。
会話も心から楽しい。この間会ってそれを再認した。バックヤード注釈なしで私の冗談が通じるのはおそらく世界中探しても妻しかいない。喋っただけで漢字が間違っていることがわかるなんて、彼女でなければ出来ない芸当。
これなら離婚を押しとどまったか。
そのような問題ではないのです。外見が好みでないとか価値観が違ったとかそういうありきたりな事由によって私が離婚届に判子を押したわけではありません。正直に言いましょう。私はあなたと結婚したかったわけではないのです。結婚という制度は私には馴染まない。意味がない。法律で縛っても書類で明確にしても駄目なんです私は。私は結婚なんかしたくなかった。するべきではなかった。結婚したら離婚するほかない。それを多少強引であれ、ただなぞっただけなんです。あのピアノ講師は些細なきっかけにすぎない。あの輩が私たちを別れさせようと様々裏工作的に画策しなくても、そもそも結婚届を取りに行った段階で私たち、いえ、私の辿る選択肢は決められていた。私が欲しかったのはあなたの存在感そのものなのだから。
ピアノの蓋を閉めて屋外に出る。忍者に挨拶されて戦闘機に乗り込む。博士が私の手荷物を見遣って息を漏らす。
「学校行くんじゃないんだよ?」
「子どもの相手なら任せていただければ、ええ」
絶世の美女の名前わかる?
ヘレネですね。
私の名前憶えてる?
「いやはや見事な凍死能力をお持ちで」
「まあね。先生がホントは子ども好きだってことも知ってるよ」
見たか。
博士には漢字間違いを指摘できない。
「子どもの機嫌ということは、ええっと暗に博士の機嫌ということにもですね」
「莫迦にしてる?」
「いえいえ滅相もない。気に障ったのなら謝ります。この通り」
「先生演技下手っぴ」
「お恥ずかしながら、ははは」
ケラケラ笑いは聞けなかった。おそらくしばらくはそれを耳にすることもないだろう。信者になった憶えは微塵もないのに。恩を仇で返したつもりはこれっぽっちもないのに。車が停まったらしくドアが開く。忍者が降りろ、という概念を提出する。
「なんか今生の別れみたいな顔してるよ」
「今生の別れじゃないのならまあ、安心といいますか」
「すぐ会えるよ。先生が会いたいと思えばすぐに」
「はあ、実は今すぐにでも会いたいのですよ。駄目でしょうか。今日はまだ寝顔しか」
「会いたいなりに誠意を見せてみれば?」
「ううん、厳しいお言葉で」
博士がゾッとするような温かい笑みを浮かべるとドアが閉まって戦闘機が発車する。私は闇の中に置き去りにされた。寒い。雪でも降りそうな寒さだ。例え降ったとしてもこの暗さではわからないか。忍者が現れて私の腕を拘束する。そんなことしなくても、と思った途端放してくれた。暗順応が済んでいないと思ったのだろうか。戦闘機乗りの忍者とは別個体だとは思うが自信がない。纏っている雰囲気があまりに均一で。
急に明るくなった。眼球がちくちく痛む。見覚えのあるようなないような廊下。空気が凍結している。両サイドに鉄格子の嵌ったドア。忍者に手招きされる。格子のドアの中へ案内される。
別れを告げにいったのに徒労。
別れを告げたくないのに遠隔。
薄暗い。椅子というよりダンボールの強化版。ベッドというよりマットの硬化版。天井近い位置の窓にも格子が嵌っている。とにかく冷える。気になるのは壁の受話器。
忍者に連れられて他の忍者が部屋に入ってくる。ノックくらいして欲しかったが文句を言える立場にないだろお前は、という顔をされる。
ええその通りです忍者殿。
すぐわかる。その忍者が私のドイツ語講師として白羽の矢を立てられたのだ。私は痙攣的に首を振って追い返すことにする。非言語には非言語で対抗するしかない。忍者はまったく表情を変えずにドイツ語講師忍者を連れ帰る。ドアの鍵が閉められたあと、ドイツ語講師忍者が格子越しにこちらを見ていた。公私混同だ。
用がないなら呼ぶな。
気が変わったんです。
どうせ時間はたっぷりある。暇潰しに最適な道具も持参済み。ゆっくり訳せばいい。じっくり味わえばいい。亜州甫かなまが私のために作ってくれた曲が聞こえる気がする。なんという素晴らしい脳内BGM。
博士は徹夜だろう。私も徹夜だがかかるストレス量が違う。こちらは気ままな調べものでも向こうは血眼になって探しもの。おそらくたぶん見つかることはない。透視能力と地獄耳がいくら優れていようと隠れる相手が透明になれるのだから無理に決まっている。その穴埋めとして駆使される人海戦術と情報網がかえって混乱を招き、撹乱され踊らされ続けるのが落ちだ。お気の毒に。
騒音よりひどい呼び出し音に中断された。限界まで渋ってから受話器を取る。
「こんばんは」
たどたどしい口調。喋り慣れていない。
「ええ、こんばんは」
「パパ?」
「ううん、どうですかねえ」
「パパってきいたよ」
「じゃあパパですかねえ」
「どっち?」
困っているような口調。
「そこにピアノありませんか」
「あるよ。弾いてあげる」
私は受話器を戻して耳を澄ます。脳内BGMと比較。楽譜を取り出しておたまじゃくしを追う。伴奏付き。付け焼刃の私が弾くよりずっといい。
さすが作曲者。
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