第2話 マスク無調

     1


 なあおい、トロヤって可愛いと思わね?

 誰ですかそれ。

 げ、もう高校んときのこと抹消してんの?

 はあ、おそらく。

 ムリムリ。こいつ切り捨てご免だから。

 それはちょっと曲解といいますか。訂正をば。

 そんなこと言ったってお前、この春だけで何人捨てたよ。

 さあ、数えたこともありませんしね。

 うわあ、ひでえのがいっぞ、ここ。

 なあ、頼むよ。取り持ってくれねえか。

 取り持つというのは。

 実はそこの美大入ったらしいんだ。だから、な。

 な、というのは。

 合コンすんだって。だから、お前も。

 厭ですよ。ああいうの面倒じゃありませんか。

 座ってるだけでいいんだ。なあ、頼むから。

 やめとけやめとけ。こんなの連れてったら女全員から完無視喰らうぜ。

 全員こいつだけ見てんの。で、こいつ帰ると全員付いてく。

 え、まじ?

 お前らホントに高校んときからのダチか?

 いえ、私はそんなつもりは。

 そんなこと言うなよ。な、お礼になんでもすっから。

 何でも、というのはどの範囲まで。

 う、それは。

 カネねえくせにそういうことだけは一人前だよな。

 うっせえわかった。この会計、俺が持つから。

 それだけですか。

 え、駄目か。

 別に奢っていただかなくても。それに大して食べてませんよ僕。

 あ、じゃあ食えよ。すんませーん、メニュ。

 あの、出来れば他のものがいいんですが。

 女とか?

 それは間に合ってるだろ。むしろ俺らに回せって。

 つーかそろそろ俺らバイトだから。

 もちろん、俺らの分払っといてくれんだよな。

 ちょっと待て。なんでお前らの分まで。

 なに言ってんだよ。こいつ引きずって来たの誰だっけかあ。

 うう、わかったよ。さっさと帰れ。

 へいへい。うまくやったら教えろよ。

 うまくいかねえほうが面白いっちゃ面白れえんだけど。

 うっさい。

 僕が取り持ったとして、その。

 トロヤだよ。いい加減憶えろ。

 そう、その彼女を紹介すればいいわけですね。

 え、やってくれんの?

 交換条件を呑んでいただけるなら。

 するする。なんでもする。

 じゃあまあ、お言葉に甘えて。


     2


 そうだった。妻の旧姓は瀞谷トロヤだった。

 下の名前は思い出せない。記憶にない。記銘されていなければ出てこない。そもそも含まれていない物質を抽出しようとしている。

 視界がぼやける。メガネがないせいか。眠っていたらしい。頭がどんより重い。眠ってしまえば疲れが取れるわけではない。なけなしの体力がソファに吸い取られた気がする。コーヒーのにおい。同僚が淹れてくれたらしい。赤い口がついで、と動いたように見えた。

 どうしたんですか、先生らしくもない。

 そうですかね。

 あの、離婚されたと聞きましたが。

 ええまあ、よく知ってますね。

 一口だけ飲んであとはこっそり捨てた。お礼に格好つけて二人分のカップを洗えば証拠は残らない。あまりに非の打ち所のない味で舌が拒絶した。

 太陽が地表に攻撃する。

 雲が大気と共存を図る。

 私は風との別離を望む。

 数日前から院長に呼ばれていたのを思い出す。まだ有効だろうか。頭痛がしてくる。壁の手すりを触りながらよろよろと歩いていたら、すれ違った患者に心配されてしまった。いったいどちらが患者だ。花壇の手入れをしている麦藁帽子が見える。私に気づいたらしく院長は額の汗を拭う。軍手の土が頬についたのでジェスチュアで教える。

 仮眠中だったようだから。

 すみません。

 今年は虫が多くてね。ほら、こんなに。

 はあ。

 一応注意しておくが、ミイラ取りはほどほどにね。

 ご心配をおかけしていることはわかっているのですが。

 君は弾力がある。縮めば縮むほど伸びるよ。

 患者が院長を呼んでいる。気に入ったプランタが見つかったらしい。

 君もやってみるかね。

 いえ、植物に嫌われてるので。

 妙な体質だなあ。まさか君が触ると枯れるんかな。

 さあ、触ったことありませんので。

 院長が口元を上げて去る。私は頭を下げる。元に戻すときに眩暈がした。脳に血が通っていない。私の血液は心臓の周辺で路頭に迷っている。

 死人みたいな顔ですよ先生。

 言い得て妙。

 僕より先生のほうがヤバいんじゃ。

 大当たり。

 私のベッド貸しましょうかあ。

 それは結構。

 日が翳る。夕立が通り過ぎる。あっという間に帰宅してもいい時間になってしまう。病院に泊まっていこうと思ってもスタッフ全員に帰れ、という意味の語句を浴びせられる。

 もう何日帰ってないんだ。

 数えてない。

 自宅でぐっすり休まれては。

 休まらない。

 家はすぐそこだろう。

 送っていきましょうか。

 余計なことはするな。

 誰か車出せる?

 付き添うな。

 そっち持て。

 せーの。

 やめろ。お前らは知らない。知らないほうがいい。私を拾ってくれた院長を裏切りたくない。私には精神科医にしか向いていない。ドライバが人間なら同じ。迷いの道案内。Uターン不可。引き返せない。暗くなると発動する秘術。

 呪い。

 鈍い。

 抵抗しろ。屈服するな。秘密とか内緒とか曲解甚だしい。

 機能不全。感覚麻痺。

 アクセルを踏め。ハンドルを握れ。キーを差し込んでくれ。

 自宅に戻らなくて済んだからまあいいか、とも思ってしまう。なんという安易な。

 妻にはこの秘術が通じなかった。だから結婚したのだろう。運命とでも思ったか。女神の導き云々。他人のものが欲しい。他人が欲するものが欲しい。その流れで手に入れたのが妻だったのだろう。大学に居づらくなったとは思わない。キューピットの人選を誤った奴の責任。

 恋文を託した伝書鳩に喰いつかれたら退学したくもなる。


     3


 どうして呼ばれたのか、わかっているね。

 栄転ではなさそうですから島流しでしょうか。あ、その前に解雇ですね。

 本当は私だってこんなことしたくはないさ。他にくれてやるにはあまりにも惜しい若い芽だ。断腸の思いなんだ。それだけわかってくれると有り難い。

 ええ、それは重々心得ていますが。僕の引き取り手が果たしてあるんでしょうか。

 正直に言おう。私の懇意にしている系列病院、関連施設すべてに当たったが返答はすべて同一だった。噂というのは厭だね。いい噂ほど広まるのは遅いのに。

 僕は明日から無職ですか。

 結論から言うとそうなる。私は君に幾許かの金を渡すことしか出来ない。

 充分ですよ。てっきりお金もいただけないのかと思ってた。

 ところで。

 ああ、はい。でもお耳汚しになるのでは。

 スタッフならままあり得るだろうと私も思う。だけど君は。

 泊まらせていただくことが多かったもので。

 やはりスタッフのほとんどが、その。

 ええ、割と万遍なく広く浅く。

 どうだろう。退職金はそれとなく弾むし。

 そうですね。お金はいくらあっても困りませんし。

 幾らなら。

 幾らでも。


     4


 休みの電話を入れて歓迎されるなんてどんな嫌われ者だ。

 ドライバの好意によって自宅前に置き去りにされる。十五時を回っていようがいまいがなんら差はない。散歩に出掛けよう。ほぼ家出だが。

 バスに乗る。唐栖栗カラスグリの乗ったバスに。住宅密集地を抜ける。街中を進む。駅に着いた。降りろと言われるので仕方がない。もしかすると逆方向に乗ったのか。乗り直しだ。つり革につかまって窓の外を睨んでいた。制服を着た生徒が歩いていく。つられてバスを降りる。そういえば通勤通学時間だ。道理でバス停が賑わっている。

 学校は行ってません。

 どういう意味だった。

 やめたいなあ。

 どういう意図だった。

 バスはすぐには来ない。待っている間に電話をかけたらつながった。いつかけても出てくれる人間がいるのはこんなに有り難いのか。いつものように電車に乗らなくてよさそうだ。迎えに来てくれるらしい。指定された場所まで歩く。

 助手席に乗り込んだら抱きつかれた。また来週、を信じて今日まで生きていたらしい。大袈裟な。そんな叶いもしない約束などリップサービス以下なのに。離婚をしたことは黙っていた。訊かれなかったから黙っていた。もし尋ねられたら口を滑らせていたと思う。部屋に行きたい、と言ったら泣かれた。運転が乱れるから交代する。このまま暮らせたらどんなにいいか。さすがにそれは口に出さなかったがそれに近いものを感じ取ったらしい。さすが野生の勘。

 部屋は茹だるように暑かった。クーラが壊れたらしく設置に来るのが明日。つくづく運が悪い。蜃気楼が見えそうだ。シャワーを浴びる。窓を全開にしても熱い。窓を閉め切るとなお熱い。どうしようもない部屋だが自宅よりずっといい。うわ言で小腹が空いた、と呟いたら料理を作ってくれた。食べるのは初めてだった。私よりずっと上手い。そう言ったらうれしそうに笑った。笑う顔もあまり見た覚えがない。

 誰でもいいのだろう。永片ナガカタ以外の人間なら。

 今日は泊めてもらうことにした。今日だけといわずずっと泊めてもらいたい。まず不可能な話だが。夜は楽だ。何も考えなくてよくなる。無言電話が何度も来た。実際に出たわけではないので無言かどうかわからない。しかし永片の伝えたいことなら無言に決まっている。無言によって無言以上のものを伝えようとしているのではない。無言を伝えたいのだ。私の鼓膜に波動をぶつけたいだけ。

 余計なことを考えていたのがバレたらしい。お詫びに接触面積を増やす。暑い。脳が沸騰している。またシャワーを浴びたくなる。しがみ付かれているので動けない。手を離すといなくなると思っている。あれだけ騙せば言葉も行動も信用がない。存在感で示さなければならない。暑い。一緒に浴室に誘ったらそれは解決した。そんなもんか。

 くっついたまま睡眠に入りたくない。暑すぎて眠れない。うちわで扇いでくれても生ぬるいだけ。扇風機もあさっての方向を涼しくする。要は風を通せばいい。空気の流れが出来れば涼しく感じる。工夫は成功する。格段に快適になった。密着すれば同じか。

 いいにおいがして覚醒する。励まされて出勤する元気が出てくる。着替えてから駅まで送ってもらった。夜に迎えに来て欲しい、と言ったら満面の笑顔だった。クーラ設置が期待される。

 通勤ラッシュの電車を横目に職場まで歩く。でき得る限り自宅から離れた道を選んだ。下手すると通り道になってしまう。その足で院長に挨拶に行く。花壇に水を撒いていた。

 顔色がいいね。

 おかげさまで。

 ミイラ取りは終わったかな。

 せっかく入り口を見つけたのに肝心の秘宝は盗掘に遭っていたようです。

 ほお、よくわからんが好転したととっていいかな。

 おそらく。

 まあ、何事もほどほどにね。

 同僚にコーヒーを淹れてもらう。いつもながらパーフェクトな味。一気に眼が覚めた。伸びをする。肩が凝っている。眼の周りをマッサージする。携帯電話の電源を切る。最初からこうすればよかった。患者もスタッフも私の顔を見るたび元に戻りかけていると指摘した。私自身にもわからない始点をよくご存知で。原因は離婚だと思い込んでくれていてやりやすい。愛妻家とは程遠い私が落ち込んでいる風だったので彼らにはさぞ奇異に映ったことだろう。

 帰っていい時刻になるまでとても長く感じた。時間は意識すると長くなる。忘れてしまえば短くなる。厄介な性質をつい失念していた。駐車場に怪しげな人がいて入り口を凝視しているらしい。事務の子が気味悪がっているので帰るついでに見てくることにした。

 ようやく職場まで押しかけたか。ついに、ではない。ようやく、で合っている。呆れるというより、よくぞ今日まで耐えたと言いたい。教えてないのに、は通用しない。その気になれば私の足取りくらい簡単に洗える。手っ取り早い方法は私をストーカすればいい。おそらくされていた。電話をかけなければよかった。部屋に行かなければよかった。私は逃げるべきではなかった。メールが届く。写真添付。

「見てくださいよ、先生」

「見なくてもわかる場合はですね、極力視覚的に刺激を与えたくないといいますか」

 事務の子が入り口からこちらを見ている。私は片手を挙げて心配ない、と伝える。

「えっとその、歩きましょうか」

「見慣れないシャツだなあ。どちらの服をお借りですか」

「少しばかり破壊願望が強すぎるんじゃありませんかねえ。夏にクーラ壊されるなんて拷問に等しいですよ、ええ。それよりあの、職務放棄では」

「安心してください。今日は都合により休みになりました。時間変更で穴は埋めます」

「はあ、それならまあ」

 分岐点。

 片方は駅。もう片方は自宅。

「クーラはあの、設置してもらえたんでしょうかねえ」

「心配性だなあ。お詫びに夏でも極寒のリゾートに招待しておきましたよ」

 まやかしの記憶。思い出せない思い出。このまま駅に行けばひょっとしたら会えるかもしれない。初めて約束を守れると思ったのに。

「えっとやはりその、私も連れて行かれるんでしょうか」

「行きたいんですか」

 妄念に取り憑かれる。

 永片のブラフ。永片の虚言。

「いいえ、間に合ってますよ」

 眼で見なければ納得できないか。この視覚優位生物め。

 理解しろ。了解しろ。

 暑い。

 寒い。

 ディスプレイ。別に見ずとも。

 フォルダ。あえて見たって。

 十本の白い指。消去しますか。

 イエス。ノオ。

 動かない。

 この指は今朝まで動いて。

 白い。

 白い。

 生物の色ではない。いまは。

 近い。

 近い。

 無生物の止まった。

「先生、夕食は何にしましょうか」

 動じるな。哀しむな。

「ううん、悩みますね。ああそうだ」

 亡骸が。

 増えるだけ。

「毒入り冷やし中華なんか、どうですかね、はい。夏っぽいですよねえ」

「じゃあ買いに行きましょうか。毒は先生にお任せします。一発で逝ける凄まじいのお願いします」

「ははは、じわじわ苦しんでのた打ち回りながらのほうが好みなんですがねえ」

 喰い荒らせ。

 命の粋を吸い尽くして。

「それもいいよね。生命に執着してるみたいで」

 気が狂うほどの恍惚で満たされたい。脳が暴発するほどの絶頂を感じたい。壊してやる。おかしくなれ。射るような支配欲と抉るような所有欲の混在。

 私は自宅に帰るようになった。


      5


 同棲と結婚の差異は書類と法律。

 再婚した憶えはない。職場でまた勘違いされている。訂正しなければそれが真実になってしまう。真実は観測者の数だけ存在する。私にとっての真実は不明。追究をやめて久しい。変幻自在、千変万化と間逆の位置。個はない。空洞の器が移動している。

 何を考えているかわからない。

 たぶん何も考えていないのだろう。

 最善の選択肢を選ぶのではない。すべての選択肢を同時並行して採る。欲張りだ。ひとつでは我慢できない。有限の無より無限の有を。

 医師になってすぐ大学病院を追い出された。病院の品性を地に落とした倫理違反者のレッテルを貼られて。医師や看護師といった病院スタッフ並びに担当したしないにかかわらず外来患者、入院患者において、年齢性別を問わず万遍なく広く浅く関係を持ったことが露見した。内部告発はあり得ない。秘術にかかれば私の命令に絶対になる。しかし特に命令した憶えはないので向こうで勝手に思い込んでいたのだろう。私が離れていかないように秘密にすべき内緒にすべきと。目撃者がいたか。それもあり得ない。見つかったら次はそいつと関係を持てばいい。感染拡大。

 いまでもよくわからない。一体誰が告げ口したのだろう。

 医師免許剥奪にならなかったのは、ただでさえ有名な大学病院の知名度をあらぬ方向に広めることを忌避したためだろう。それか最高中枢権力者の私に対する愛情の度合いが殊のほか強すぎたか。結局はカネでどうとでもなる。記事は揉み消し。事実は無根。誰もが口を噤む。秘術が解けようがいまだに効いていようが。

 大学は追い出されなかった。まったく同じことをしたような気がするのだが。こちらには出所不明の告げ口陣営がいなかったと見える。退学したあいつだってしばらくして私に会いに来た。他の大学に入り直した、という報告に格好つけて私の記憶に留まろうとした。

 割と鋭い。一度相手にすれば厭きて他に移ることをよくぞ見抜いた。私の知人になりたいなら私に忘れられないようにすることだ。頻度では決まらない。深度もなんら影響がない。ではどうすれば忘れないでいてもらえるのか。

 そんなの自分で考えてください。

 莫大な退職金のおかげでしばらく働かなくてもよかった。浪費を極めても半生は楽に暮らせそうな額が手に入っていたが、どうしても医師として働きたかった。大学病院は絶対に望み薄だろう。おそらく公立病院にも噂が流れている。まるで顔写真付きの指名手配。整形しようとも偽名を使おうとも思わなかった。知りたいなら調べればいい。調べて駄目なら断ってくれていい。規模は問わない。給料も安くて構わない。誰も知らないような小さな施設なら。

 そう労苦なく院長と出会った。院長は私を知っていた。医療現場にいれば例えその隅っこにいる院長のような人の耳にもある程度入ってくるらしい。院長は私の辿った道を知った上で雇ってくれた。だから裏切るわけにはいかない。知らなかったなら雇った側の責任だが、知っていたなら私の責任。

 さすがにスタッフには言えんな。混乱するよなあ。出てってしまうかもしれない。私たちを信頼してここにいてくれるみんなだって安心できない。彼らの安心のためにここを造ったのだから。それだけ憶えておいてくれるかな。

 約束したのだから。それなのに。

 もう破っている。

 一度決壊するとあとは崩れるだけ。がらがらぼろぼろ。一人が二人になって、二人が四人になって。スタッフだろうが患者だろうが、男だろうが女だろうが、年上だろうが年下だろうが。私は早急に辞めるべきだろう。また同じ末路を辿らないうちに。

 早起きして仕事場に向かった。永片が私の意図を承知した上でわざと飲んだ睡眠薬が昏々と効いているうちに。院長は珍しく庭にいなかった。まだ眠っているのか。焦るあまりフライングしてしまったらしい。起こしてしまうのは申し訳ない。時間を潰そう。庭をうろうろする。院長の世話している花壇に近づく。

 指を見ると思い出す。

 白い。白すぎる残像。

 まさか君が触ると枯れるんかな。

 枯れる。枯れるに決まっている。養分を奪い取る。細胞を破壊する。種子に悪性ウイルスを残す。殖えない。絶滅危惧。突然変異をしない限り。

 窓が開く。院長が眼をこする。

 やあ、早いね。

 おはようございます。起こしてしまって。

 いやいや、起きたところさ。そっちに行った方がいいかな。

 いえ、僕が。

 ちょっと待っててくれ。水をくれにゃあ。

 院長がサンダルを履きながらじょうろに水を汲む。寝癖がひどかった。欠伸も。

 辞めんでくれるとうれしいがなあ。

 すみません。すでに最初のお約束を破ってしまい。

 そうか。一応名前を聞いとく。

 名前が思い出せない。外見的特徴を必死になぞる。院長は黙って相槌を打つだけで感想も評価もなかった。

 本当は君を雇おうとは考えてなんだ。ここで暮らしてもらおうと思うとった。

 そのほうがよかったかもしれません。

 いんや、違う違う。それは君の噂を摘んだ段階の話さ。君に会ったらそれは改めるべきだと思うたね。私の眼は間違ってなかったよ。

 水の粒が緑に降り注ぐ。光合成は何が必要だったか。

 辞めたいのかな。

 契約違反です。辞めるしかないと思いました。

 現状維持はできんのかな。

 おそらく不可能かと。

 残念だ。気に入っとったのに。

 申し訳ありません。

 頭を下げる。院長の顔がまともに見れない。それを誤魔化すために頭を下げた。院長はそれを見抜いてくれている。私に背中を向けた。

 辞めるのはいいとして、これからどうするんだね。すまんが見ての通りカネは。

 いえそんな、給料だって今までの分揃えて返したいくらいです。お金なら前に辞めたときの残りがあります。それがあればなんとか。

 そうさなあ。できればどこぞに口を利いてやりたいがはみ出しもんの私にゃ。

 あの、本当にお構いなく。

 じょうろに水が注ぎ足される。私は辞表を差し出す。院長は見もしないでポケットに押し込む。

 いままでありがとうございました。

 今日くらい構わなんのになあ。そう急がずとも。

 これ以上迷惑をかけたくないので。

 ああ、そういえば。来週だったかなあ。そこの大学。なんと言ったかな、そこで講演会だかがあったと思うたんだが。ちょっとばかしのぞいてみたらどうかな。

 頭を下げて立ち去る。患者に挨拶する代わりに建物に頭を下げた。睡眠中のスタッフに。これから出勤するスタッフに。

 自宅に着いたらピアノの音がした。それを聞き流しながら部屋に行く。一眠りしようと思った。睡眠導入口に達した辺りで重みを感じた。ずっしりと圧し掛かる。湿気。熱気。呼気。

「私を揺さぶってもですね、面白くもなんともありませんよ。もう手遅れですからね」

「わざわざクビになりにいくなんて最高です、先生」

「あなた昔その、以前私のいた病院にいませんでしたかね」

「なんでそんなこと訊くんだろう」

「いえ、忘れてください」

「休みにどこか行きたいなあ。リサイタルとか」

「再来週以降なら、お付き合いしますよ、はい」

 のっしり重い。味気ないピアノより耳障りな音。表層をなぞる。深部を浚う。

「眠いのですがねえ」

「平気です。先生は寝転んでてくれればそれで」

「私の愛が欲しいんじゃないんでしょう。そろそろいなくなっていただけると」

「患者にしてくれるんじゃなかったんですか」

「治らないでしょう、ええ。寛解だってあり得そうにないですし」

「そんなのわかりませんよ。まともに治療してないせいじゃ」

「私には到底手に負えませんねえ、セカンドオピニオンお書きしますから」

 つねられた。一番つねって欲しくない部位をよくも。

「患者とは寝るのに?」

「そうでしたっけねえ」

「また写真送りますよ」

「それは困りますねえ。データフォルダがパンクしますし」

「憎んでくださいよ」

「ええ、憎らしくて仕方ありませんよ。じわじわ死に近づけて脳味噌引きずり出したいくらいです」

「どうぞやってください」

「ああ、駄目そうです。自分で言っといて。なんだか吐き気がしてきました」

 永片がベッドから下りる。

「あれ、よろしいんですか」

「よい夢を」

 ドアが荒々しく閉まる。階段を駆け下りる音。どたんばたん破壊音。何をしているのか考えたくもない。ピアノだったら壊してくれて一向に構わないのだが。物に当たるくらいなら私に当たってくれれば。私によって不快になって私に当たるというのも変な話か。

 早く厭きてもらえないだろうか。


     6


 ほとんど公開処刑だ。

 この大学の学部構成を思い起こしてげんなりする。その集いだったか。引き返すにしても院長に背信するようで気が引ける。締め出しの視線が突き刺さる。

 まだ医師なんか名乗りやがって。

 あの一応医師免許はありますしね。

 何しに来た。

 あの一応聴講権利はありますしね。

 あっちでじろじろ。こっちでひそひそ。そこまで有名だったのか私は。顔写真付き指名手配はあながち間違っていなかった。秘術の感染者も少なからず参加しているような気がする。記憶の隅でヒットする顔もちらほら。特に話しかけられないのは他人を装え、という発した憶えのない思い込み命令がまだ効いているからだろう。迷惑な話だ。

 講演者の名前に見覚えがあるようなないような。気のせいか。

 暴君暴徒に囲まれる圧迫感に耐え切れず会場を後にする。無駄に人間が密集して息苦しかっただけか。冷風も意味がない。熱気が篭もる。あと一分で始まる。締め切った会場に有毒ガスを放ったらじじい皆殺し。生憎有毒ガスが手元にない。耄碌は生き延びた。

 ここを卒業する学生から後ろ指を差される日もそう遠くはないだろう。いやはや有名人は辛い。珍しく永片が聞きわけがよかった日に限って結局早い帰宅になってしまう。予知能力者かあれは。ピアノ講師なんかやめて占い師になったほうがいい。稼ぎもきっといい。永片が求めているのは私が狂い堕ちていく様だ。

 その分岐をすでに超えたことに早く気づけ。

 肩をつつかれる。振り返るまでもない。あれだけ大量の感染者が集っている。ひとりくらいは例外が出てもおかしくない。

 お話を聞きに来たのでは。

 首を振る。集会は二の次だといわんばかりに。

 どうしますか。

 控え室が空いているらしい。誰か来そう、というぎりぎりのスリルが好きなのか。見つかったら面倒なのに。感染者を増やす側の苦労も考えて欲しい。鍵を閉める。カーテンを引く。講演者のマイクロフォンが頑張りすぎ。集中阻害要因にしてはやりすぎ。

 ネクタイを締めなおして廊下に出る。真夏はネクタイなんかしたくない。その点白衣は楽だ。羽織っていさえすればそれなりに格好がつく。やる気なく適当な私も医師に見える素晴らしい魔法。コーナを曲ったらまた例外感染者がいた。私はここに一体何をしに来たのだろう。院長の助言に素直に従っただけなのだが。彼らはここが健全な研究機関だということをわかっていない。

 おサボりですか。

 まさか、といわんばかりに肩を竦める。

 私はわざとネクタイを外す。二重の意味を送ったつもりだが。

 駄目か。

 都合のいいほうにしか採らない。それが非言語。言語もそうだった。

 さすがにトイレはやめてほしい。階段裏も概念が危ない。また部屋に入る。ここで学生が講義を受けるのだろう。可哀相に。鍵は閉まらない。カーテンがない。私の首の跡にも気がつかない。後とか先とかついさっきとかそういう類の順番は気にならないのか。私はちっとも思い出せないというのになんと熱心な。

 暑いからネクタイは締めなかった。建物から離れれば例外感染者も追ってこないだろう。講演者の吠えるような発言が鼓膜に障る。きっと誰も聞いていない。空気だって風だってカラスだって。敷地が広すぎて抜け道がわからない。案内板すら見当たらない。迷っている。木陰で涼む学生に聞いたら親切に案内してくれた。ありがとう。君らの学び舎をたったいま穢してきた倫理違反者だということは知られていないことを願いつつ。

 さて、気が重いが帰るか。

「ようこそ、ユサ先生」

 高い声だった。キョロキョロするが姿が見当たらない。空耳か。

「こっち。下」

 視線下方修正。幼児だ。ぶかぶかの白衣が風にたなびく。

「あの、ええっと」

「せっかく拾ってもらったのにマナミ先生のとこ辞めちゃったんだってね。どうするの? 無職じゃん」

「え、どうしてでしょう」

「俺のこと知らない?」

「すみませんがその、どなたで」

 幼児の口から出た名を聞いて呼吸困難になりそうになる。彼はここの大学だったのか。道理で会場のあの無駄な熱気。講演会に格好つけて単なるシンパの集いだ。

「俺の手伝いしてくれるならそこの病院に入れてあげる」

 幼児が指を差した先にそびえ立つ建物群が見える。

「え、しかしですね」

「大丈夫。あれはここの直下病院じゃない。形式上はそういうことになってるけど実際は完全に独立してる。たまたま近くにあったから協力してもらってるだけ。その証拠に同じ名前が付いてない。確認してくる?」

 博士が言うならそれは真実。視覚優位生物も頷くほかない。

「あの、ではマナミ先生と」

「元気だった? 結構おじーちゃんだから危ないよね」

「まさかとは思うのですが、博士の口添えで私はあの施設に」

 幼児が歯を見せてにい、と笑う。

 ここに世界のすべてがある。そういう類の笑い方だった。

 医師免許剥奪並みに倫理違反をした私が医療現場で雇ってもらえるはずがない。院長の懐の深さにしたって深すぎる。どう見ても非営利団体。あの時は不審に思うだけの理性は残っていなかった。もう一度やり直すチャンスを与えてもらって完全に舞い上がっていた。ぜんぶつながった。そういう仕掛け。私は背筋に得も言われぬものを感じる。

「手伝ってくれる?」

 狂った脳髄が囁く。従え。隷属しろ。彼についていけば誤らない。彼を仰げば解放される。

「はい」

「じゃあこれから挨拶しに行こう」

「はあ、でもあちらの催しは」

「まだ前座以下だよ。俺の出番は最後の最後の最後。ほんの一分でいい。俺の顔見るだけで満足する便利な人たちだから」

 凄まじい。

 信者の気持ちがよくわかる。崇めたくなる。跪きたくなる。

「やっぱ駄目だった?」

「はあ、お恥ずかしながら」

「面白いよねえ。俺の研究対象にしたいなあ」

「ええ、それはもちろん。博士に研究していただけるなんて」

 幼児が振り返って私を見上げる。非難ではない。純粋な好意で眼を合わせてくれただけ。

「ぺこぺこするのやだな。もっと白々しく喋ってよ、そういうの得意だよね」

「はあ、失礼に当たらないのならね、私もそちらのほうが楽といますか、ええ」

「噂はすぐ消えるよ。一ヶ月くらい辛いかもしれないけど我慢ね」

「あの、そのように大逸れたことをなさっていただけるのはですね、ええ、とても喜ばしいのですが、いまの状況から申しまして、博士を裏切ることになる恐れが多々」

「へえ、裏切れる?」

 不可避。

 神に背けるわけがない。

「よろしくね、ユサ先生」

 小さすぎる手。穢れた手で申しわけないが握らせていただきますよ。

「あ、はあ、こちらこそ、ええ」

 私の新しい就職先が決まった。


     7


 布団をぺたんこにするあれ、縮小化。

 てっきり評判が悪くなったり永片先生の本性に気がついて生徒側で自主的に離れていっているのかと思ったがそうではなかった。永片自身が生徒を手放している。新たな引き取り手が見つかった生徒からさよならしている。赤の他人を装ってキッチンからこっそり見物していたから間違いない。

 寂しいです。先生とお別れなんて。

 ごめんなさい。いろいろ事情があって。

 お世話になりました。あの、これ大したことないんですけど。

 そんな、私のほうが何か記念品を渡そうと思っていたのに。

 擬似お涙ちょうだい劇には二秒でうんざりした。見物するのがこれほど苦痛だったのは永片に連れて行かれたわけのわからないリサイタル以来ではないだろうか。私を永片の配偶者だと思い込んでいる生徒諸君は、ご丁寧にも私への挨拶もしたがっているということだったが、仕事のおかげでそれはただの一度も叶うことはなかった。世の中で起こるすべての幸運な事象は博士に感謝だ。

「どうして辞めるのかって訊いてほしいな」

「はあ、ではまあ、なぜでしょうかねえ」

「産休なんです」

「はあ、それはまあ」

「先生の子どもですよ。もっと喜んでください」

「そう手放しではねえ、喜んだり出来ませんよ。だいたい私の子どもだというその、証拠がありませんしねえ」

「それって酷い。私がこっそり不倫したみたい」

「ううん、そうじゃないんですか」

「最低、先生」

「まあそうでしょうねえ、私は最低ですし」

 永片が怒った。パターンが少なすぎる。つねるのはやめろ。

「堕ろせってことですか」

「えっと、堕ろせるものなら」

「流れたら先生のせいだ」

「ええ、流せるものなら」

「不能になりたいんですか」

「出来るんですか」

「この間大学で浮気したの知ってるんだ」

「へえ、ついてきたんですか」

「病院に勤めるってことはまた患者と寝るってことだろうか」

「そうならないようにはええ、努力致す次第で」

「何人と寝たって全然意味ないよ。先生が私以外の誰と寝ようがちっとも気にならないし」

「それはそれはうれしいお話で、ははは」

 携帯電話が振動。すぐに已んだのでメールだろう。永片がひょいと手を伸ばして勝手に見る。

「えっと、一応それは私の」

「前の奥さん」

「嘘でしょう。ええ、ご冗談を」

「会いたいって。これから来るって」

「まさか。今日はそういう状況設定ですか」

「なんでそんな嘘つく必要がある」

 歪んだ表情でディスプレイを突きつけられる。確かにそんな内容。

「宛先を間違えたのでは」

「なんで間違える必要がある」

「手が滑ったのでしょう。お可哀相に。間違いに気がつきましたかね」

「別れたくせに」

「ですから間違いでしょう」

 永片がベッドから下りる。あっという間に私の全身を拘束した。そういう職業も体験済みだろう。ピアノ講師が副業で。

「ああ、ちょっと」

「メール待っててね、先生」

 階段を駆け下りる音。どたんばたん。おそらく玄関で待ち伏せ。凶器は何だ。

 狂気か。

 参った。今いる位置から一歩も動けない。わざとらしく目線の位置にディスプレイが固定されている。ぎりぎりで利き手だけ届く。永片のせいでアドレス帳から抹消されている。記憶は辿れるか。着信拒否ならまったくの無駄。危険を報せようとしている? 前妻を助けようとしている? なぜ。分析不可。原因不明。眼の前に困っている≪患者≫がいたら助けるのは当たり前。それと同じ仕組みだろう。まさに医師の鑑。とか冗談を言っている場合ではない。かかれ。つながれ。

 音が遠い。耳に付かない。スピーカヴォリュームはどこだ。

 車の音がする前に。

 誤送信ならそれに越したことはない。そうであって欲しい。なぜいまさら愛してもいない夫に会いに。ずっと前に離婚済みの夫の家を訪問しに。だから誤操作に決まっている。

 聞き覚えのある抑揚。思わず息を吐く。安堵の溜息なのだろうか。

 なに。

 さきほどメールを送られましたか。

 そんなわけない。

 でしょうね。すみませんお忙しいところ。

 忙しかったら電話に出ない。

 そうでしたね。重ね重ねすみません。

 なぜかけたのか。

 いろいろ不都合なことがありまして。

 なんだそれは。

 さあ、私にも全然。

 意味がわからない。

 実は私にもちっとも。

 怪訝の空気。受話器越しでも感じる。

 元気か。

 ええ、まあほどほどには。そちらは。

 似たようなもの。独身のほうが楽。

 同感です。

 再婚してないのか。

 してません。私には結婚は馴染まない。

 ではなぜ私と結婚したのか。

 それが永遠の謎でして。気の迷いですかね。

 最低。

 ええ、私はそもそも最低です。

 メールが届いたからその真偽を確かめるために電話したということか。

 はあ、そうです。

 もし私が本当にメールしていたとしたらどうだ。

 絶対に来ないで下さい、とお伝えしたくて。

 なぜだ。

 会いたくないでしょう、お互いに。

 会いたい、というメールではないのか。そうだったら少なくとも私だけは会いたい、ということになってしまうが。

 私は会いたくない。だから拒否します。

 私が会いたくても、か。

 ええ、来ないでいただけると、その。

 誰かいるのか。

 いいえ、いませんよ。

 本当に。

 本当です。

 黙っていた。空気も黙っていた。ベッドも黙っていた。

 永片だけがうるさい。

 やめる。

 そうしてください。

 切っていいか。

 ええ、お元気で。

 電子音。ボタンに触れる。よかった。写真が添付されずに済む。履歴を消す。記憶を消す。

 元気ならいい。

 階段を駆け上がる音。危機一髪。

「間違いだったみたい」

「でしょうねえ。まずあり得ませんて。あなたがよくご存知のはずですよ。相当脆かったわけですからね、ええ」

「マタニティブルーかな」

「どうでしょう。経験したことありませんし」

「お腹触ってほしいな」

「ああ、はい」

「わかる?」

「あの、まだでしょう。見た目だってその」

「先生の子だから」

「証明書をご持参の上、ええっと」

「生まれたら一発でわかってくれると思う。先生そっくりだから」

「見てもいないのにまあよく」

「わかるよそのくらい」

「ところでどうやって別れさせたんでしょうか、その」

「離婚届渡したら書いてくれたよ」

「なんだか俄かには信じがたいんですがその、渡せばほいほい書いていただけるんでしょうかねえ」

「別れたかったのをなかなか言い出せなかったみたい。ほら、先生あちこち不倫してすれ違ってたし」

「つまりええ、親切なあなたが後押しをした、とまあそういうことで」

「結構引っ込み思案でしょう。だからお手伝い」

「はあ、なるほど。では別にあなたが脅迫したとかお金を積んだとか私の筆跡を真似て捏造した結婚届とか離婚届をちらつかせた、とかそういうなんていいますか、ちゃちな裏工作みたいなのはなかったということでしょうかねえ」

 永片が微笑む。

「ううん、そのお顔はどういう」

「もうやめてほしい。あの人の話なんて」

「はあ、すみません」

「子どもの名前考えきゃなあ。何がいいかな」

 人間が二人なら名前は。

「要らないんじゃないでしょうか」

「先生の名前なんだっけ」

「知ってらっしゃるでしょうに」

「私の名前知ってる?」

「さあ、聞いてませんしね」

「エイヘンえんで」

「あれえ、ナガカタさんじゃ」

「エイヘンのほうが好きなんだ。別姓でごめんね、先生」

「いいえ、全然まったくもってお気になさらず」

 私は断じて再婚などしていない。

 信じてもらえただろうか。


     8


 人の居ない場所を求めるなら火星に行けばいい。

 火星に行くだけのツテもカネもないならここが火星だと思い込めばいい。周りにいるのは人間ではない。火星人だ。決して人類ではない。それだけのこと。

 せめて空調はつけておくべきだった。暑い。暑くてやっていられない。喉も乾く。そんな生ぬるい液体では。もっと冷たいほうが。

 何も泣かずとも。

 確かに涙もろいとは思っていたが今回ばかりは規模が桁違い。体中の水分を浪費している。タオルに水をくれたって大きくならないのだから。植物じゃあるまい。

 放っておけば泣き止むだろうか。頼りない経験則によるなら。

 ううむ。わからない。

 見ていたほうがいいのか。見ないほうがいいのか。

 見て欲しくないなら顔を伏せるか。

 慰めるべきなのか。ただ黙って泣かせてあげるべきなのか。

 人の顔を見るなり泣いたので判断が微妙。

 来ないと思った。

 来るつもりはなかった、とは言わない。

 もう会えないと思った。

 会いたくなかった、とも言わない。

 嗚咽混じりの声を拾うだけで一苦労。途切れ途切れな上に聞こえづらい周波数。きちんと返答すべきなのか。そうだそうだ、と相槌を打てばそれでいいのか。

 どこへも行くな、とは言わない。

 いまだけ。

 我々には現在という時間軸以外有効でない。

 わかっている。何も言わなくていい。言語も、非言語さえも捨てよう。

 五感の中で触覚以上に有効な手立ては残されていない。見たって居ないかもしれない。幻視。聞いたって居ないかもしれない。幻聴。匂いがしたって居ないかもしれない。幻臭。味がしたって居ないかもしれない。幻味。

 触ればいい。幻覚ならば構わない。

 ここにいることがわかる。

 いる。生きている。

 死ぬわけがなかった。触ることができるのだから。こんなに温かいのだから。

 まだ信じられないならもっと近づくしかないだろう。空気など入り込めないほどに。真空になってしまうほどに。息が出来なくなるほどに。呼吸が止まるほどに。

 それで死ぬならまあいいか。

 よくない。

 そう言ったら笑った。笑顔のほうが似合う、とか歯の浮くような台詞は浮かばない。浮かんだとしても気味が悪くて発せない。君が悪いから。

 ぼろぼろと涙が止まらないので車の運転を変わる。夜は楽だが夜道は好みではない。事故ったら心中か。片方だけ生き残ったらどうするだろうか。私ならすっぱり忘れてしまえるが君は不可能だ。私の後を追って飛ぶなり吊るなり飲むなりする可能性が高い。

 寄り道をするか、と訊いたら首を振られた。

 要らない。何も要らない。

 君はそういう人だからいいよ。私なんか人が欲するものが欲しいし、欲さないものまで欲しい。人が要らないと捨てたものに異常に心惹かれてつい拾ってしまう。その流れで拾ったのがおそらく君。

 それは黙っておいたほうがいいか。

 愛がなくても結婚できる。

 結婚しなくても一緒に暮らせる。

 一緒に暮らさなくても愛がある。

 シャワーも浴びさせてもらえない。服を脱ぐ時間も与えてくれない。糸のようにこんがらがって天と地がわからなくなってきた。絡めて絡めて。指を絡めて。

 指は十本。

 白くない。

 ところで本当にクーラは直ったんだろうね。

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