亡き増す喰え吸うで
伏潮朱遺
第1話 即興泣き
1
暗いと怖いと感じる。
家中の照明がついていない。新たな趣向なのかと思ったが、単に明るさを必要とする人間が屋内に存在しなかっただけだった。一時的に出掛けたのではなさそうだ。部屋からはベッドやクローゼットといった幅を取る家具を除き、私物が運び出されている。ほとんどが衣類。持ち物は衣類しかなかったように思える。実際に着ていた服を映像的に再現するのは不可能。憶えていない。
冷蔵庫を開けたら真ん中の段に紙が入っていた。広げて置いてある。最後にして最上の嫌がらせ。
離婚届。
欄が半分埋まっている。ダイニングテーブルで残りの欄を埋めることにする。紙は微妙な温度を保持している。いつから入れてあったのだろうか。最後に冷蔵庫を開けたのは。思い出せない。
夕食は仕事帰りに食べてきた。シャワーを浴びてテレビを点ける。ザッピングを二周しても特に観たい番組がなかったので消す。リモコンのボタンに触れてから思い出す。テレビに執着する生活は送っていない。柄にもなく動揺しているのだろうか。もう一度離婚届を眺めてみる。相手の名前を初めて知ったような気がしてくる。そんな名前だったのか。呼んだこともなかったのだろう。呼ぶ必要がなかっただけなのか。名前を知らなかっただけなのか。両方。
もし世界に二人だけなら名前は要らない。人類が三人以上いるから便宜上名前が必要になった。
いまはひとり。そもそもひとりだ。
結婚という制度は私には馴染まない。
それを親切にも身をもって証明していってくれた。
感謝。
2
家を買ったらグランドピアノが付いてくるなんてどんなキャンペーンだ。
ピアノなどまったく欲していないので別に要らない、と言ったのだがこれは物件の一部だから、と無理矢理押し付けられた。妻も終始複雑な顔をしていた。そもそもこんな顔だった気もする。
駐車場付き二階建て。私の仕事場に近く、充分徒歩で行ける。住宅密集地の外れに建っているせいか幅の狭い道を延々とぐるぐる進む必要がある。私は車を持っていないので特に不満はないが、妻が苦労だろうと思った。
しばらく経って不動産屋から連絡があった。ピアノの引き取り手が見つかったというのだ。無理矢理押し付けておいて勝手な話だ、と思ったがピアノというのは意味もなく場所をとるので妻が視界に入れるたび文句を言う。それが終わるなら安いか。現物を見ておきたい、ということでピアノの所望者が訪問を希望している。妻がいない日に限って向こうの都合がいい。勝手に持っていけ、とも言えないので私は仕事を休んだ。
「約束しておいた者です」
落ち着いた声だった。私は適当に返事をして玄関を開ける。
「お忙しいところすみません。すぐに終わらせますので」
「はあ、どうぞ」
リビングの先にそれはある。丸々一部屋占領しているためピアノを退かさない限りその部屋は使用できない。妻が書斎にしたいと言っていたのを思い出す。いや、衣裳部屋だったか。
「申し遅れました。私はナガカタといいます。永遠の欠片で永片」
「それはまあ、どうも。私は」
「知ってますよ。ユサ先生」
「その、えっと」
「見るからに先生でしょう。違いますか」
「いえ、はあ。おわかりになるんですね、ええ」
「その喋り方はわざとですか」
「ああ、すいません。癖ですかね、まあきっとそんなところで」
私が驚いたのは先生と呼ばれたことでも、私の職業が意図も簡単に当てられたことでもない。結佐という名前は不動産屋が情報源だということは容易に想像がつく。私が以前担当した患者かもしれない、と思ったからだ。
「実はこの家狙ってたんですよ。せめてキープしてもらえばよかったですね。見つけた次の日に行ったらもう」
「あの、私が言うのも変ですが、お気の毒に」
永片は微笑む。私に一礼してピアノを弾き始めた。私はその曲について大したことは何も感じなかった。テンポの早い曲だ、くらいの感想。曲が終わった後にどうだったか、と訊かれたのでそう答えたらまた笑われた。
「だいぶ調律がおかしい。明日にでも呼びましょう」
「はあ」
「あれ、聞いてませんか。私はピアノを外に運び出す気はありませんよ。あくまでこの部屋を借りてレンタルをさせていただこうかと」
「それは、ええ。ええ?」
そんなことは知らない。あの不動産屋はいい加減すぎる。電話を受けたのが妻だったから私に伝わるまでに伝達事項が変容したのかもしれない。伝言ゲームの理論。
「レンタルはううん、いいとしてその、部屋を借りるというのは」
「また申し遅れましたね。私はピアノ講師をしております。家が借家なのでピアノがある一軒家をお借りしてそこでレッスンをしているんです。この近辺でお借りしていたお宅が先日火事に遭ってしまいまして」
「はあ、そういうことだったんですか」
「お借りできませんか。週三日ほどでいいのですが」
「私の一存ではええ、ちょっと即答は」
「奥さまはいつ頃お帰りに?」
「さあ、聞いてませんね」
「ご存じない?」
「時間帯は、えっと」
「レッスンのですか。中学生と高校生が主ですので学校帰りの夕刻から夜にかけてです。遅くとも八時には切り上げるつもりです」
「私は職業上その、帰りが遅かったり帰らないことが多いので一向に構いませんが、はい。みだりに部屋をいじらないでいただければまあ、特に」
「よかった。あとは奥さまですね。先生のほうからお話しされますか? それとももう一度改めて伺ったほうが」
「えっと、お急ぎでは」
「それが最低限の礼儀でしょう。私はそう思ってます」
私は永片の携帯電話の番号を聞いてメモしておく。茶でも用意しようと思ったら丁寧にお辞儀してそそくさと帰っていった。向こうも長居する気はなかったらしい。
早速妻に電話をかける。面倒な用件は憶えているうちに済ませてしまおうと思った。案の定留守電だったのでまた掛けなおすことにした。どうせ今日は休んだのだし今日中につながればいいだろう。久し振りに料理をした。妻もたいてい外食なので冷蔵庫は缶ビールを冷やすくらいしか仕事がない。片づけをしている最中に電話が鳴った。両手の泡を流して受話器を取る。
妻からだった。急いでいるのでは、と訊いたら急いでいたら電話しない、と返された。なるほどその通りだ。永片の要望に纏わる概要を話したら二つ返事でオーケが出た。そうくるだろうと思っていたが黙っていた。互いの意見は尊重したほうがいい。例え形式でも。
妻もほとんど家を空けている。すれ違いのほうが多い。私が家にいるときは妻が外出して、私が病院にいるときは妻が家にいる。一見分業のようだがそうでもないか。それぞれが自分のために活動しているに過ぎない。私は妻の代わりに永片に連絡する。
「ありがとうございます。では明日にでも調律を」
「私はその、立ち会わなくても」
「勝手に入ってもよろしいのなら」
私は鍵の隠し場所を教えて電話を切った。最初からこうすればよかったのだ。短い協議の結果、単に永片の要望をそっくり受け入れただけだが、ピアノレッスンは土日以外の週三日、十六時から二十時ということになった。そんなに長い時間ひとりにみっちり付きっ切りというわけではなく、三十分から一時間の括りで生徒を何人も抱えているらしい。それはそうか。もっと遅い時間帯まで行なっても構わなかったのだが近隣の迷惑、という言葉を出されて納得した。住宅密集地の最果てにあるとはいってもピアノの音は割と外に漏れやすいらしい。
それから一週間後にレッスンは無事開講されたようだが、永片に遭遇することは稀だった。出くわすとしてもその日の最後の生徒が帰るところにちょうど帰宅するだけなので実際にピアノを聞いていない。生徒は永片形式のレッスンについて勝手知ったるようで、家の持ち主の私にもきちんと挨拶をしてくれる。おかげで私が比較的忙しくない火曜日の最後にレッスンが入っている生徒と顔見知りになった。
永片はカラス君と呼んでいた。カラスグリだから安易な気もするが。
いつも哀しそうな顔で岐路を辿るような気がする。レッスンが厳しいのだろうか。学校で何か。家庭で問題でも。なんだか気にしてしまう。基本的に無関心無頓着な私にしてはレアな運びだ。このくらいの年代なんか悩むために生きて生きるために悩んでいるような疾風怒涛なのだから今更どうということもない。
「一度くらい奥さまに挨拶したいのですが」
「それほど気にしなくて、はい」
「顔も知らない他人が居座っているのに気にならないんでしょうか」
「さあ、わかりませんね」
「淡白な夫婦ですね。もしかして浮気しても平気なんじゃないですか」
「さあ、やったことありませんしね」
「失礼します。おやすみなさい」
「ええ、どうも」
そういえば私は永片について何も知らない。知りたくないだけか。興味がない。他人など。自分すらどうだっていいのだし。
車の音が近い。妻が帰ってきた。私はベッドに入って寝たふりをする。妻の部屋は隣だがおそらく私の居場所を確認するためにドアを開ける。これで不倫相手でも連れ込んでいたら面白いがどうだろう。相手がいたとしてもまさか自宅には呼ばないか。階段をスリッパが攻撃する音。ドアの開く音。私は息を止める。なんとも間抜けなかくれんぼだ。溜息が聞こえた気がする。ドアが閉まる音。私は顔を出す。閉まったはずのドアがすぐに開いた。呆れ顔をした妻がそこにいる。行動パターンが読まれたか。
眼が合っても特に言うことがなかった。今日に限って帰宅時間が早かったことについて認識しあったくらい。夕食はそれぞれ外で済ませたことは訊かずとも想像がつく。シャワーを浴びる、と言って妻が部屋を出る。そんなこと私に断らなくてもいい。
メガネのまま眠ってしまったらしい。多少フレームが変形している。歯を磨いていたら妻が起きてきた。今日は休みだと呟いたようだが、私は休みではないので荷物を持って外に出る。
二階の窓から妻がのぞいているような気がした。幻覚か。
3
軌道はそもそも描いてあった。
永片のピアノレッスンはなかなか好評のようで生徒数が増えているらしい。それに当たって日数拡大だの時間帯延長だのを目論んでいるらしく、夜に電話がかかってきた。鍵を預けているようなものだから念のために私の携帯番号を教えてあるが、必ず自宅の電話にかけてくる。それが永片のいう≪礼儀≫のようだ。
「助かります。ところで奥さまはいま」
「はあ、いませんよ。仕事でしょうね、ええ」
「そうですか。一度もお二人揃ったところできちんと挨拶をしていなくて悪い悪いと思っているのですがずるずると引きずったままで」
「構いませんよ。えっと、前にもお話しした通りお気になさらずに」
お二人揃って、ということは個人的に妻に挨拶は出来たのか。休みの日にたまたま永片に遭遇したのだろう。それは聞いていない。だいたいこの二人で会話がもつのか。
「しつこいですか」
「まあ、失礼を承知で正直に言わせていただけるならね」
口調に現れていたのかもしれない。無意識は恐ろしい。気をつけよう。
「用件は、その」
「すみません、もうひとつ。奥さまはどちらにお勤めで」
「あの、言わなければなりませんかね」
「ごめんなさい。そういう意味じゃありません。こちらも言おうかどうかだいぶ迷ったのですが」
「ええその、どうぞ」
「少し前に出掛ける用事があってハイウェイに乗ったのですが、とあるパーキングエリアで奥様に似た方を見かけたような気がして」
「はあ、それはあり得るでしょうね。車の移動が主ですから」
「それだけならいいのですが」
「どういういい、でしょうかね、ええ」
「もしおひとりならこちらも記憶に残らず済んでいたのでしょうけど」
「えっと、何が言いたいのでしょうかね」
「ですからどのようなお仕事かお聞きしたかったのです。同年代の仲睦まじげな男性を助手席に乗せて運転するようなお仕事なら」
「ううん、そんな仕事ありますかねえ」
「あれ、ご存知でない?」
「お恥ずかしながら詳しくは、その」
「こちらとしましてもあまり他人の関係に深入りといいますか水を差すようなことは避けたかったのですが」
「出来れば黙っていて欲しかったですねえ」
「すみません。見なかったふりをすれば」
「いまさら無理ですよ、はい。あなたは余計なことしかしませんね」
「面目ない。仰るとおりです」
私は動揺しているのだろうか。受話器を持つ手を変える。
「その時のことを、えっと詳しく教えていただけますか」
聞かなければよかった。情報を獲得すれば獲得するほどある事実が明確な輪郭を帯びてくる。いつだったか永片が口にしていた語句。私の脳裏にも何度かよぎった単語。
「あの、先生?」
「ああ、すみませんね。ビックリしました。今日はこの辺で、ええ」
「失礼します。私が言うのもおかしいですが、どうかお気を落とさずに」
皮肉か。
受話器を置いて階段を上がる。妻の部屋は鍵がかかっている。電話はつながらない。忙しいのだろう。忙しいから電話に出られない。当たり前だ。妻も以前そう言っていた。疑ったらきりがない。帰ってくるまで待つか。帰ってきたところで何を訊く。直接か間接か。問い質して何の得になる。見逃すか、聞かなかったことにするか。
永片のせいだろう。私に非はない。あるとしたら私の仕事形態と妻のそれとの大幅なズレ。やはり永片だけが悪い気がしてくる。ハイウェイくらいパーキングエリアくらい助手席くらい運転くらい同年代くらい仲睦まじいくらい仕事くらい。
妻の車の音。帰ってきたらしい。私はソファでザッピングに勤しんでいるふりをする。バレバレか。妻が不審そうな顔をして私の顔とテレビを交互に見る。私の顔とテレビにおける共通点を何とかして見つけようとしている。徒労だ。
何をしているのか。
その通り。
つまらないことしてないで。
実にその通り。
観てないなら消せ。
まったくその通り。
私はリモコンの赤いボタンを押す。画面が黒塗りになる。ばち、という耳障りな音。擬似的な静寂。
話があるのではないか。
そうでもない。
用もないのにこんなところにいるのは変だ。
疲れただけ。
妻は息を吐いてキッチンに行く。缶ビールを持ってきてひとつを私の眼前のテーブルに置く。もう一本は妻が飲んでいる。好意を受け取って食道に流し込む。味がしなかった。ただ冷たいだけの液体。妻が隣に腰掛ける。目線を合わせなくてもいいようにわざわざ横に移動してくれたようだ。気が利く。
黙っていた。ソファも黙っていた。ピアノも黙っていた。
人間だけがうるさかった。
私は寝ぼけ眼でメガネを探す。いつもならベッドのサイドテーブルにのせる。そこにはないだろう。昨日は二階に上がっていない。階段を上がるだけの気力が残っていなかったらしい。疲れが溜まっている。柄にもない。疲労は垂れ流すようにしているはず。時間差で届く受話器越しの声のように鬱陶しい。朝食を取っている時間はない。シャワーを浴びて着替える。靴を履きながら外に出る。妻に呼び止められたような気がしたが無視した。
駅まで行って電車に乗る。私の勤めている施設が遠くなる。降りた駅の改札を出ると見覚えのある車が駐まっていた。その助手席に乗って一時間ほど走る。一時間走るだけの意味は特にない。走っていたら一時間経っていた、としたほうが正しいか。私が駐まってほしいと言った。運転席の人間はそれに従った。
ウィンドウを下ろそうとしている手を止めてドアを開ける。運転席の人間が躊躇っているので唆した。いい景色だとかいい空気だとか適当なことを言って。言うほうも言うほうだが唆されるほうも唆されるほうだ。やはり私は疲れている。メガネがずれて多少不快になる。頭痛がしてきた。運転席の人間にそう漏らしたら見事に深読みしてくれた。それも予定の中にあったような気もするので構わない。順序が早まっただけのこと。
途中で運転を交代する。さすが協応運動というべきか。頭が忘れてるようでも体が覚えている。暑いのでクーラを強めにする。何を話したのかちっとも記憶にない。私が痙攣的に返事をするせいか。もとより話すようなことがないせいか。
駅に戻ってきた。車から降りようとしたら腕にしがみ付かれる。説得しようにも向こうには声が届いていない。相手は野生の勘が味方で私には到底到達できない領域。また来週とありもしない期待をかけさせて離れる。染みがついていたのでシャツの袖を捲くる。
いま帰宅すると厄介なので職場に寄っていく。忘れ物を取りに来たふりをさせたら私に並ぶものはいない。私という人間の外殻を勝手に勘違いしてもらっているおかげで。わざとそう振舞った結果ではない。要は受け取る方の問題だ。
あなたは何を考えているかわからない。
そんなの私にだってわからない。
永片のレッスンが終わった頃を見計らって帰宅したのにまだピアノが聞こえた。上手いのか下手なのか、永片が弾いているのかそれ以外なのか全然判別できない。キッチンで調理をしていたらピアノの部屋につながるドアが開いた。唐栖栗せつきが下を見ながらとぼとぼとリビングを横切る。火曜の最後というポジションはそのままで、生徒数増員に伴い唐栖栗のレッスン時間帯は繰り下がっていたらしい。いつもは立ち込めていない湯気に気がついたのか私と眼が合った。楽しいという感情と間逆の位置にいる。
声をかけたかったが頭を下げてぱっと出て行ってしまう。遅れて永片が荷物を持って顔を出した。
「あ、先生。おかえりなさい」
「えっとですね、私はあなたの先生になった覚えはありませんのでその」
「ではなんとお呼びすれば」
人間が二人なら名前は要らない。
「呼ぶ必要もね、ないように思えますが」
「仲良くさせていただけないのでしょうか」
「あの、ひとつお聞きしても」
「先生からご質問なんて珍しいですね。なんですか」
「先ほど終わったええと、名前は知りませんがどうしてあんなに、まあその楽しそうでないといったら不愉快に思われるかもしれませんが、ええ」
「練習をしてこないのですよ。だから叱っただけのことです。気になりますか」
「ええ、まあ。職業柄そういうのはね、敏感ですから」
「せっかく教えているのに練習をしてこないのは失礼に当たると考えます。カラス君は私を馬鹿にしているとしか思えません」
また≪礼儀≫論か。
「毎週毎週同じところでつっかえられたらこちらも何か言いたくなります。私の方法に何かご不満でも」
「いいえ、私が口を出せる立場にはありませんが、まああまり無闇矢鱈に叱りますとねえ、動機づけの低下につながりますのでね、そのうちやめてしまいますよ。やめるだけならまだしもですね、ピアノが嫌いになるかもしれませんしね。そうなったら可哀相な気がしますがねえ。素人の独り言ですから流してくださって構いませんよ、はい」
永片のことだから千倍くらいの反論を期待していたが瞬きをして私を見ているだけ。他人事に首を突っ込むなんて私らしくもない。単に永片に対して逆襲をしてやりたかっただけか。我ながらなんとも醜い。
「あのええと、すみません言い過ぎました。いまのはそっくり忘れていただけませんか、あの」
「先生は叱らないほうがいいと仰るのでしょうか」
「あの、ですから忘れていただけると」
「失礼します」
永片はそう吐き捨てて帰ってしまった。言わなければよかった。これだから言語は。
夕食を終えてビールを飲んでいると電話が鳴った。嫌な予感が掠める。出来るなら永片とはもう議論を交わしたくないものだが。無視するわけにもいかない。
「もしもし」
「あ、あの僕はカラスグリといいますが」
「はあ。先生のところの」
「夜分遅くすみません。えっとその」
「なんでしょうかね」
「あ、はい。学校の宿題を忘れてしまったみたいなんです。これから取りに行っても」
「ええ、構いませんよ。お待ちしてます」
唐栖栗はすぐに来た。自宅に戻って忘れ物に気がつき急いで引き返したのだろう。そしてこちらに向かいながら電話をしたといったところ。私に断られたらとぼとぼ帰るつもりだったのか。なんとも行き当たりばったりな子だ。
「気がついてよかったですね、どうぞ」
「お邪魔します」
ピアノの部屋は異質なにおいが立ち込めていた。永片がレッスンを始めてから初めて入った気がする。購入した憶えのない絨毯の上に脚の低いテーブルが置いてある。部屋の整備は任せたので別段どうということもない。永片がカネを払って借りている以上、永片のテリトリィだ。好きにしていい。テーブルの下に紙が落ちていた。それが唐栖栗の忘れ物らしい。みっしり数字が並んでいる。
「これ、明日提出で」
「間に合いますか、その」
唐栖栗が下を向いた。間に合わないだろうと思う。私は時刻を確認する。唐栖栗くらいの年代の子でなくとも、人類が夜を睡眠に当てるようプログラムされていることから考えてそろそろ就寝準備をしたほうがいい。私も唐栖栗を帰したら眠ろうと思っていた。
「保護者の方はその、知ってらっしゃいますか」
唐栖栗が首を傾げる。
「実はここだけの話ですよ。数学だけは得意だったんですが、もしかしたらお役に立てますか」
「え、でも」
「すぐに終わりますよ。それとも独力で解きたくて仕方がないですか」
唐栖栗は私の顔と手に持った紙を交互に見比べる。差異と共通点はそのどちらも発見できなかったようだ。
「誘導尋問のようで申し訳ないのですがその、わざわざ引き返してですね、これを取りに来たということはこれを提出できなかったことにおけるまあ、ペナルティですか、を極度に恐れているように感じられるのですが如何でしょうか、はい。それとも寂しそうな私に親切にも会いに来てくださったのでしょうかねえ」
「あ、怒られるのは厭です」
「そうでしょうね。私だって御免ですよ。そんなわけでですね、何か力になれるのであれば喜んでお手伝いしましょう。どうですか、ええ」
「バレちゃうんじゃ」
「どうしてバレるとお考えですか」
「だって僕が書かないと字が」
「ええ、勿論あなたが書くんですよ。ただし書くだけです。書く前にですね、何かを参考にしようが真似をしようが、その元が存在しなければバレないのではありませんか」
唐栖栗があ、と声を漏らす。ようやく呑み込めたらしい。しずしずと私に紙を差し出してぺこりと頭を下げた。潔くて気持ちがいい。ダイニングテーブルでそれは行われた。問題自体の難易度は大したことはなく、ただ単に問題数が多いだけだった。速度を稼ぐためのトレーニングにすぎない。やり方さえわかればあとは機械的に解ける。
唐栖栗は勉強が得意なタイプではなさそうだ。嫌いなわけではないが、導入口の段階で見通しがつかないとめげてしまう。典型的な苦手思い込み症候群。こういうタイプは根が素直だから自信をつけてやれば案外簡単に症候群を脱することが出来る。ただし焦ったら深みに嵌る。ゆっくり丁寧な対応を必要とするため教員は放っておくだろう。現学校教育の穴。親も忙しくて見てやれない。塾に通えばある程度補正可能か。
アルコールのせいかあり得ないことが起こっている。それを素直に認めるだけの正常な脳もここにはなさそうだ。他人の生活に過干渉気味。少年が宿題を忘れて怒られようが私にはまったくもって関係のないこと。掠りもしない。報酬もない。永片への反抗心がまだ消えないのだろうか。私はいつからそんなに執念深くなった。
唐栖栗が写し終わったので駅まで送ることにした。遠慮されたのだが夜道は危ない。私のせいで何かあったら堪ったものではないというのがきっと本音だろう。
「練習をしないのだとええ、伺ったのですが」
「え、あ、すみません」
「謝らなくて構いませんよ。叱られるのを恐れるのならね、やはり厭でしょう。哀しそうな顔で帰られるのを見るのはですね、私も心苦しいといいますか」
唐栖栗が下を向く。
「あの先生はその、本当にピアノが好きなんですかねえ」
「え、どういう」
「素人がべらべら喋って申し訳ないとは思ったのですが、あなたが帰られたあと少しですね、意見したんですよ、はい。無闇に叱らないほうがいい、とね」
唐栖栗が意外そうな顔をする。これといって徹底的な非難はされていないようだ。
「あなたはピアノが好きですね」
「はい」
「そう思いました。好きだから弾きたい。ただそれだけなんでしょう。そんなあなたに先生のような技巧的に攻める方は合いませんね。その、レッスン先をですね、変えたら如何ですか」
「あ、えっとでも」
「まあ、大したことない通りすがりの意見です。万一考え直すときが訪れるならその時の一助にしていただければええ、それ以上は何も望みませんよ」
駅に到着した。ここでようやく重要なことに気がつく。終電が行ってしまった駅は異様なほど閑散としている。タクシーに乗せようと思ったら唐栖栗が首を振る。
「お金なら出しますよ」
「そうじゃないんです。あの、僕の家は電車に乗らなくても」
「ああ、そうだったんですか」
「ごめんなさい。言いそびれて」
そういえば駅まで送ると言ったのは他ならぬ私だった。てっきり電車通学だと。
「ではどちらの方向に」
「バスなんですけど、やっぱりもう」
「でしょうねえ。遠いのですか」
「歩けないこともないんですけど」
「お金ならですね、出しますよ。それが厭なら来週返していただければ」
結局、唐栖栗はタクシーで帰らせた。歩きたそうな顔だったがまさか唐栖栗の自宅まで送っていくのはやり過ぎだろう。私の責任はここで消えるだろうか。
妻が帰ってきていた。ダイニングテーブルに消しゴムのかすが散らかっていたので怪訝そうな顔を向けられる。万事永片のせいにしておけば丸く収まる。消え入りそうな心細い記憶を引っ張り出し死に物狂いで解いた計算用紙はすでに処分してある。見つかるはずがない。コンビニのゴミ箱にびりびりに破いて捨ててきた。
携帯電話が振動する。唐栖栗が無事帰宅したらしい。おやすみ、と言って電話を切る。明日は怒られなければいい。
あれが全部間違っていたら私のせいだろうか。
4
火曜日が待ち遠しかった。
帰宅したらピアノの音がした。じっくり聴いたらなんとなくわかった。淀みないが味気ないのが永片で、たどたどしいが楽しそうなのが唐栖栗。夕食の際のBGMにさせてもらうことにした。勿論後者だけ。前者はアテンションすら向けない。
そろそろ終わる時刻なのにピアノの部屋につながるドアが開かない。私の耳が故障していないなら怒鳴り声がする。開けるべきか。開けざるべきか。あと一分待って已まないようだったら。
已むわけがない。
私は迷惑そうな顔を装ってドアを開ける。萎縮する唐栖栗。永片が誰よりも早く私に気がつく。まるでこのタイミングを待ち焦がれていたかのように。
「すみません先生。お騒がせしてますね」
「ええっと、お邪魔だということを重々承知で言わせていただけるなら一応私の家ですのでねえ。困るんですよ、そういうことをされますとねえ」
「カラス君がピアノをやめると言い出すんです。理由を訊いたら」
「言いたくないんじゃないでしょうかね、少なくともあなたには」
「その口ぶりから言うと先生はご存知のようで。教えていただけませんか」
「教えるも何もその、私は何も」
「とぼけないで下さい。先週の火曜、カラス君がここに戻ったでしょう、何かを忘れて」
「さあ、何のことなのか」
永片がわざとらしく肩を竦める。あまりに計算どおりで、といったように。どこぞの誰かさんを思い出す素振り。一体誰だろうか。
「あの、時間も来たようなのでそろそろ帰られては」
「それはどっちに向かって言われてますか先生」
「それは勿論、ええ」
唐栖栗がぱっと立ち上がって部屋から出ようとする。私はその腕を掴む。細い。針金というよりはボールペンの芯。その脇を永片が通り過ぎる。私を串刺しするような視線を寄越しながら。何かが言いたかったわけではない。自分の存在を私の網膜に焼き付けたい。そういう類の視線だった。玄関のドアが開閉する音を聞いて私は手を離す。痣になっていないか確認しようと思いかけてやめた。断りもなしに袖のボタンを外すだけの無礼さは持ち合わせていないことにしたかった。
「け、ケンカしないでください」
「訂正させていただけるならあの、ケンカではありませんよ。ケンカをするような間柄になった覚えはその、まったくありませんしね」
「先生なんですか」
「ええ、まあそういう風にも呼ばれますよ」
唐栖栗をリビングのソファに座らせてお湯を沸かす。
「何か食べますかね。その、夕食を作りすぎて困っていたところで」
唐栖栗が小さく首を振る。私は紅茶を淹れてテーブルに置く。棚を漁ったら焼き菓子が出てきた。貰いものだろう。それも付ける。
「どうぞ。落ち着きますよ、はい」
「どうして」
「えっと、それは何に対するどうしてですか。夜にカフェインたっぷりの紅茶なんか飲んだら眠れなくなるそんなこともわからないのかこの空気の読めないおっさんは、という意味でしょうか。それともですね、バターなんかにおいを嗅いだだけで気持ちが悪くなる好き嫌いくらい事前に尋ねたらどうだくそじじい、という非難でしょうかねえ」
唐栖栗が笑った気がした。錯覚でもいいか。
「いただきます」
「ええ、どうぞ」
「あの、出来ればお砂糖をもらえると」
「ああ、それはいけない。気が利きませんで」
スティックシュガーが見当たらない。私も妻も使わないのだろう。棚を漁ったら角砂糖が出てきた。貰いものだろう。唐栖栗は五つ入れた。甘党なのか。
「おいしいです」
「なによりですね、ええ」
「あ、そうだ。おカネ、ありがとうございました」
「いえいえ、お役に立てたようで」
私は受け取ったお札を財布に仕舞う。唐栖栗は焼き菓子をもすもすと遠慮がちに食べる。
「昔取った杵柄ですかねえ。勿論その、全問ばっちりだったでしょう」
「あ、はい。怒られなかったです」
内心安堵する。表情に出さないのは得意中の得意だ。
「よく決断しましたね」
「でも先生が」
「大丈夫ですよ。月謝を払うのを拒否すればですね、自ずとまあ、そういうことですよ」
唐栖栗が微笑む。楽しそうなので私もうれしい。食べ終わったようなのでまた送っていくことにする。責任感ではなさそうだ。私は適当で無責任に手足が生えたような人間で有名。コンパスのせいか隣に並んで歩けない。気がつくと唐栖栗を置いてきてしまっている。そのたびに立ち止まって時間調整をする。
唐栖栗は心なしかふらふらしているようにも見える。顔が赤い。発汗量が多い。呼吸が荒い。どくどく暴れる脈を測ってみたい。ほの温かく湿った額に手を当ててみたい。破裂しそうにコントロール不能な心臓の鼓動を感じてみたい。しなくてもわかってしまうところが疎ましい。
「大丈夫ですか」
「あ、はい。なんか熱くて」
時計を見るまでもない。カウントダウンするまでもない。投与量は私が計算した。意識減損。そろそろ。倒れる。
支える。
背負って引き返す。
妻の車はない電話はつながらない留守電は入れない照明はつけないメガネは外さない鍵はかけない。意味がなくなってきた。
私のほうが早起きだった。ほとんど寝ていないだけか。出勤が億劫だ。布団の温もりはこれほど愛おしいか。瞼の痙攣。覚醒の予兆。
「あ、れ?」
「具合は如何でしょうかね。昨日帰り道で急に倒れられて、熱があったようなのでいやはや勝手ながら看病をさせていただきましたが、はい」
「え、あ」
状況が呑み込めていない。だろうと思う。効きすぎたか。
「えっとそれでこれまた勝手にもですね、鞄を漁らせていただきまして、ご自宅のほうに連絡をしておこうと思ったのですがその、番号らしきものが見つからなくてですねえ」
「あ、あの、いま何時ですか」
唐栖栗の視界に目覚まし時計をもってくる。
「え、どうしよう。いまからじゃ」
「まあそう無理なさらずに。今日はお休みされてはどうですかねえ」
「え、でも」
「失礼ですがね、学校に馴染めていないのでないでしょうか。ああ、もし違いましたらすみませんね。あくまで私の想像の」
唐栖栗が泣きそうな顔に見えたので発言をやめる。これだから言語は。
「学校に行かなければなりませんか」
「さあ、私には答えようも」
階段を下りる。唐栖栗が足を出すたびよろけそうになるので気が遠くなるくらいゆっくり下りた。ピアノの部屋の換気をする。永片の存在感が染み付いていて気分が悪い。
「ピアノを弾いてもいいですか」
「ええ、どうぞ。私としても是非」
唐栖栗が椅子に腰掛ける。楽しそうに指を動かす。それをBGMに料理を作らせてもらう。曲が終わったと同時に完成すればなかなかだがそううまく運ばない。音が已んで唐栖栗がキッチンに顔を見せる。
「よかったですよ」
唐栖栗が俯く。これだから言語は。
「とんと音楽に疎くて碌な感想も申し上げられずにすみませんね。せっかくですから朝食をどうぞ。お口に合えば」
「あの、お仕事は」
「ああ、お気になさらず。たまたま午後からなんですよ」
「先生なのに?」
「先生だから。ですね、はい」
どうして私が唐栖栗に干渉しようとするのか判明した。まさに《患者》だから。
「何の先生なんですか」
「さあ、先生と呼ばれないことのほうが多いのでね。よくわかりませんよ」
唐栖栗はちっとも食べてくれなかった。朝は食べられないタイプか。私は決して料理が得意なほうではないと自負しているが下手でもないと思っている。不味かったか。味付けが好みではなかったか。唐栖栗は帰りたそうな顔をしている。柄にもなく苛々しているのがわかってさらに不快。不快になることすら不快。気持ちは残留させないことにしているのにもかかわらず。
バス停まで送ることにした。こういうときに車が欲しいと思う。何のために車が要らない場所に家を買ったのか。どうして車を所有しないのか。それを思い出しても押し止められない。執着心は捨てた。私が生まれる前からそんなものは持っていない。乗る予定のバスなど事故に遭えばいい。渋滞が起こってダイヤが乱れればいい。
「お別れですかねえ」
「あ、いろいろありがとうございました」
「まあその、ピアノは続けてくださるとこちらとしましてもうれしいと言いますか。あなたのピアノが火曜の夜に聴けなくなるのはえっとまあ、寂しいといいますか」
また来てもいいですか。
そう言え。
「学校は行ってません」
「そうですか」
言え。
「やめたいなあ」
「あなたが決めることですからね、私にはなんとも」
早く言ってくれ。
バスが。
「来たみたいです。ありがとうございました」
ドアなんか開くな。その空気の抜ける音を出すな。経由のアナウンスをやめろ。
「さようなら」
「ええ、お元気で」
乗るか。乗れるか。
乗っても同じ。
コンプレッサ。晴れ晴れしい顔で手を振ってくれても。
これだから非言語は。
アイドリング。穴が空くほど見つめてくれても。
これだから非言語は。
遠い。
遠い。
私は無断欠勤をした。
5
世界はひたすら混沌だった。
永片の顔を見なくなってだいぶ経つ。こちらが避けているのか。向こうが避けているのか。特に差がないから追究しない。妻は会っているらしい。貰ったケーキのせいで太っただのと文句を言っていた気がする。いっそ裁判でも起こせばどうだろう。そう言ったら莫迦にされた。
はいはい莫迦ですよ。
私は大莫迦ですよ。
火曜日も早く帰っても意味がない。そうやってますます自宅に寄り付かなくなる。仕事だと言い聞かせて職場に泊まればいい。気分転換だと言い聞かせて外出すればいい。おかげで知り合いが増える。私の周囲に人が増える。増員すればするほど私はあの呪いの文句を言われ続ける。様々な言い回しがあるが各々が常に言いたいことはひとつ。
何を考えているのかわからない。
そんなの私に訊かれても。
じゃあ誰に訊けばいい。
そんなの私が知りたいくらいだ。
とは言わない。そこは穏やかに我関せずの態度をとって。
さあ、考えたこともありませんしね。
と首を捻る。それで八割は諦めるという統計もある。二割はまあ追々。
朝方自宅に戻るとちょうど妻が出掛けるところだった。今日の夜は開いてるか、と訊かれたが仕事、と答えた。妻は私の仕事を知らないのでないか。私だって妻の仕事を知らない。妻は無感情にへえ、とだけ言って車を発進させる。そのへえ、の意味がちっともわからない。車が見えなくなる前に家に入る。ピアノの音。気分が悪くなったところから判断してひとりしかいない。溢れ出す疑問符の一切を封印して部屋に着替えを取りに行く。階段を下りたら玄関に永片が立っていた。私は眼を合わさないように靴を履く。
「なぜ、とか訊かれては如何ですか先生」
「えっと、すみませんが急いでますので」
「レッスンは三時からです。おかしいと思ってくださいよ」
「ああ、おかしいんじゃないでしょうかね、ええ」
永片が鼻で嗤う。このためだけにここで待っていた、といわんばかりの。
「奥さまの部屋、ご覧になったほうがよろしいですよ」
「鍵がかかっているのですよ、確かねえ。それに勝手に人の部屋はやはりねえ」
「そんなこと仰らず。今日に限って開いているかもしれませんし」
外に出ようとしたところを止められた。永片が脚を伸ばす。足でドアノブを押さえている。どうしても、いまこの状況下で、私にその長い脚を見せ付けたいのだろう。
「遅刻したくないのですよその、いろいろと」
「一分くらい平気ですって。さあ、どうぞ」
「さあどうぞとか言われましても、ここ一応私の家なんですけどねえ」
「では先にこれをご覧なります?」
永片が突きつけたのは一枚の紙切れ。空欄がちらほら埋まっている。それが何を意味するのか理解するのにそれほど時間は要らなかった。永片のすることは演技がかりすぎていて容易に先読みできる。それが狙いだろうか。あながち考えすぎでもないか。私はそれを受け取って皺にならないよう鞄に仕舞う。
「何か仰ってくださいよ」
「はあ、了承しました」
「それだけですか」
「もう一枚あるんじゃないですかね。まあその、面倒なのでそちらもいただいておきますよ。ついでですしね」
永片が空気を吐き捨てる。拍子抜け、と顔に書いてある。
「ええっとですね、そうなるとレッスンとやらは」
「何を言ってるんですか。このままここでやるに決まってるじゃないですか」
「はあ、ですがそうなると多少不都合なことになりませんかねえ。ほら、ひとりいなくなってひとり追加されるわけですから、プラスマイナスゼロといいますか、むしろマイナスのほうが大きいといいますか。私のささやかなプライヴェイトが完全暴露といいますか」
「先生が名前に拘らない方で本当に助かりました。せめて仲の良かったカラス君に名字くらい名乗っておくべきでしたね、ユサ先生」
「ああ、なるほど。それで」
「わかっていただけましたか」
「ええ、まあ概略は」
私の家には表札がない。私は永片の生徒の誰にも自己紹介をしていない。顔すら見せていない生徒が大半。私と妻が二人揃って家に居るという状態を永片の生徒に見られたことは皆無。この三つのスペルから導き出せる唯一最悪のストラテジィは。
畜生。
「ううん、そういうことならそもそも私に近づかれたのは、えっとこれが」
「当たり前じゃないですか。以前お借りしていたお宅が運よく火事に遭ってくれたり先生の奥さまは気丈でいらっしゃるが実はそういう方こそ脆かったりと、いろいろ追い風も吹いてくれましたし」
「ずいぶんとまあその、大型の扇風機をお持ちでねえ。あまりに強風を起こしてばかりいらっしゃいますとええ、大事な生徒さんも吹っ飛ばしてしまいかねませんねえ。ああでも、もう犠牲になられた方もいましたか、はは」
唐栖栗せつきがいなくなったのは。
すべてお前のせいか永片。
「私を先生の患者にしてください」
「あの、拒否権は」
「ああ困った。先生いけない。お仕事に」
永片が慌てふためくという言葉を体現化しながらドアを開ける。
「いってらっしゃいませ。お帰りは何時頃に」
「さあ、予定は未定で」
口角に異物。吐き気を感じる時間すら惜しい。職場まで走った。
壊れてしまえばいい。あんな廃屋。
鳴らなくなればいい。あんな楽器。
妻の携帯は着信拒否。公衆電話でもつながらない。ようやっと気づいたんかずアホぉ。ただその台詞が聞きたいだけなのに。嫌味な電子音をやめろ。嫌味なアナウンスをやめろ。なんという嫌味な通信機器。
床に貼りついて動けない。重力と引力が邪魔だ。白衣なんか羽織りたくもない。照明が眩しすぎる。
最初から何も持ってないから何もないと意識したときが崩壊。
欲しい。
欲しい。
私は欲するすべてが欲しい。欲しいという言葉の概念すら欲しい。
メールが届く。写真添付。
十本の白い指。
消去しますか。イエス。
すぐにわかる。見間違えるはずがない。
唐栖栗せつきの指だった。
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