最終回 ~再び階段を上がる~

 なずな亭でバイトを始めて2回目の夏が近づいていた。

 とうに、昼のバイトを辞めて、なずな亭一本でバイトをするようになった僕は、洗い物、接客、簡単な調理、仕込みと仕事を覚えていき、常連さんともプライベートで飲みに行ったり、遊びに行ったりするまでになっていた。


 ほんとうに、いろいろなお客さんが店を訪れ、食事をし、ワインを飲んでいった。

 スマートな会話を楽しんで帰っていくハイソな女性客。クレソンを仲良く分け合うゲイの美容師。不倫さもありなんの歳の差カップル。テレビで見るのとは大違いのタカビーなタレントや俳優。営業時間が終わると踊りだす劇団員。それを見て笑い転げている僕ら・・・指紋と口紅の跡がついたワイングラスの向こうは、いつも、楽しい笑い声があった。


 そんな僕も、いよいよ就職活動をしなければならなくなり、夜中心の生活からの脱出を図るべく、思い切ってバイトを辞める話をママさんに切り出した。

 ママさんは、突然の僕の申し出を前からわかっていたかのように聞いてくれ、僕をハグしながら「ありがとう」と言ってくれた。

 

 バイトを辞めたあとも、何回かお客としてなずな亭に行ったけれど、大学を卒業して田舎に帰ったあとは店に行く機会を失い、それからまもなくして、閉店したという知らせが在京の友人から届いた。


 10年位前に、ひょんなことから当時のお客さんから便りをいただいたのをきっかけにして、現在は東京を離れて暮らしているママさんと連絡を取りあうことができた。手紙や年賀状を交換してのみ交流しているが、いつかお会いできたら…と思っている。


 ここには書いていないいろいろなことをこのお店や、お店の関係したところで経験させてもらった。何よりも、スーパーマーケットで安いワインを気軽に買えない時代に、記念日でしかコルクの栓を抜かなかった時代に、ワインの美味しさやJazzの素晴らしさを教えてくれたなずな亭に感謝している。


 あれから数十年も経って、いろいろなお酒を覚えて、いろいろな店に出掛けたけど、なずな亭のような店にはまだ出会えていない。




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なずな亭にて 橙 suzukake @daidai1112

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