vol.6 ~2万円のワインとBILL EVANS

 なずな亭では、おおよそ月1回のペースで「試飲会」を行なっていた。

 

 なずな亭での試飲会は、ワイン好きなお客さんがワインを持ち寄って、ラベルを見ずに試飲してワインの銘柄を当てるやり方だった。最初は、香りや色、そして味をゆっくり確かめて数種類のワインを飲み比べて銘柄を当てっこしているのだけど、会の後半は、気の合ったお客さん同士、そして、ママさんやマスター、僕までもがその仲間になって普通の飲み会になるのがいつもパターンだった。

 

 ある試飲会のとき、なずな亭始まって以来の高価なワインが登場した。

 名前は忘れてしまったけれど、仏産の2万円の赤ワインだった。試飲会の30分くらい前にコルクを抜いて、空気に触れさせておいた。まだ、誰も座っていない金色のカウンター席にすっくと立っている2万円のワインボトルの姿を今でも覚えている。その値段を聞かなくても、孤高のボトルの姿の凛々しさがその存在を思い切り主張していたからだ。

 

 試飲会の後半、僕は、テーブルに呼ばれ、2つのグラスに入った赤ワインを勧められた。

 グラスの6分の1ほどの量でしかなかったけど、僕にも2万円のワインを試飲させてくれたのだった。

 まず、一つ目のグラスから、と顔に近付けた途端に、目まいがするような芳醇な香りが僕を襲った。飲まなくても、もう、わかる。「これが2万円のワイン…」

 口の中に入れる。すぐに味はしない。僕をじらすようにゆっくりと口の中のひだに広がっていく。渋みと酸味と奥深い香りが鼻の奥で交じり合い、そして、ゆっくりと外へ出て行く。

 飲み終えた後も、すぐにしゃべれない。いつまでも、グラスを見ながら残り香を感じていたい、そんな気にさせる味だ。


 「じゃあ、今度はこれを」ママさんが、もうひとつのグラスを勧めた。僕は、もったいないと思いながらも、水で口をゆすいで、もうひとつのグラスのワインを試飲した。

 気のせいか香りはあまり感じない。口の中に入れると、やっぱり、すぐに味がしない。どこにこのワインの本当の味がするのか舌で探さなければならなかった。すると、間もなく、舌のあちこちで歓喜の声が上がった。ひとことで言えば繊細。そして、奥深い一方でまろやかな印象を受ける。残り香が鼻の粘膜にしっとりと染みこんでいく感じ。なんにしても、初めて味わう感触だった。

 「ねえ、どっちが2万円のワイン?」

 ママさんが笑みを浮かべながら僕に聞いた。

 僕は、少し迷ったけど、最初の直感を信じて「はじめに飲んだほう」と答えた。

 「ざんねーん!二番目に飲んだほうよ」

 ママさんは、ニコニコしながらのしたり顔。

 「じゃあ、最初の飲んだやつは?」当然のことながら聞かずにはおれない。

 「最初のやつは、チリ産の980円のワイン」

 「キュウヒャクハチジュウエン・・・」 僕は、愕然とした。


 「もう一杯飲んでみな。980円」と言って、マスターが今度はグラスになみなみと注いでくれた。

 今度も、やっぱり、最初に飲んだときと同じ芳醇な香りと渋みが僕を包み込んだ。

 「やっぱり、うまいっす。まだまだ舌が貧相なんですね」僕は言った。

 「いや、このワインはよくできたワインだと思うよ。香りといい渋みといい。高いワインがおいしいのは当たり前。でも、安いワインがまずいわけじゃない。むしろ、僕ら庶民は、安くておいしいワインを見つけるほうが価値があると思うよ。」とマスターが言った。


 安くておいしいワイン。僕は、そのいくつかをこの先知ることになるけど、あの時飲んだチリ産のワインを超える味には巡り会っていない。それをゆっくり探すのも、ワインの楽しみ方のひとつだと思います。



BILL EVANS 「Undercurrent」


https://www.youtube.com/watch?v=_-N_9xpWXVU&list=PL0q2VleZJVEkdnrXofZQNZ1lWRK7xHIJ1

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