vol.5 ~常連さんたちとCarmen McRae
ママさんに手厳しい指導を受けてから、“親心”もわからないバカな僕は、寡黙な人として1週間を過ごした。しかも、その間、ママさんもマスターも特別な働き掛けや追い討ちや、ましてやフォローもすることなく、ただ、静かに僕と接していた。
お店は、大通りから小路に入ったところにあるので、今で言う“隠れ家”的存在だった。当時は、某民放テレビ局がまだ市ヶ谷にあった時代なので、プロ野球監督、女優、ミュージシャンなどの有名人もお店に顔を覗かせた。
ママさんは、「女性客が7~8割」なんて言っていたが、実際は5割程度だった。カウンターに座って、ママさんやマスターと談笑しながら食事をする常連さんたちに至っては、9.9割男性だったので、なおのことそんな印象を持ったのかもしれない。
当たり前だがカウンターに座る常連の客層は実にさまざまで、広告代理店の人、僕もよく聞く有名通信社の社員、運送会社の社員、劇団員、店の近くに住んでいるOLさんなどなどだった。いずれにしても、僕みたいな若造の学生はありえなかった。
先に紹介した「蔵王スター」の常連さんは、1週間の半分はひとりで店に来てワインと夕食を召し上がった。運送会社の社員は、いつも、「この前は酔っ払っちゃってごめんね」って照れながらお店に入ってくるんだけど、飲みが進むと「○○く~ん(僕のこと)、アールクルーかけて!」でスイッチオン。最後は、“べらんめえ”状態になって僕に肩を貸してもらいながら階段を上がって帰る。OLさんは、実にスマートにワインを飲み、食事をし、スマートな会話を楽しんでいた。そのOLさんを見ていると、「僕もあと何年か経つと、こんな女の人と一緒に、こんな落ち着いた食事ができるのかな~」と思ったものだ。
その日も、いつものごとく、忙しく洗い物をしていた。パンや、チーズも出さなくてはならなかったし、何よりも、洗い物の遅さだけはママさんに言われたくなかったから、相当な勢いで洗っていた。
そのときだった。僕の真正面のカウンター席に座って同僚と談笑していた通信社の常連さんが、「○○くん、こっちに水がはねてくるから気をつけて洗ってくれないか」と静かに、でも、はっきりと言った。「すみません」僕は短く一言詫びたが、近くにいたママさんやマスターは何も言わなかった。
今度は、水の出を小さくして洗いながら、ふと、僕は、カウンター席から見た僕の洗い物をしているときの姿を想像した。
険しい顔で水をはねあげながら洗っている僕の姿を・・・。
「一杯いただいてもいいですか」
僕は、この日、仕事がはねてから、久しぶりにママさんに断ってワインを飲んだ。仕事が終わってからは、大概、ママさんに勧められて、ワインやビールを御馳走になっていたのだが、あの件以来、帰りは速攻だった。
カウンター席の近くの少し奥まったところにあるテーブル席が、僕らスタッフがまかない夕食や休憩をとる場所になっている。僕は、Carmen McRaeのアルバムをターンテーブルに置いてからテーブルについて、マルスの白をグラスで飲み、煙草を吸った。
意識して、いつもよりゆっくり過ごしたあと、「ごちそうさまでした。お先に失礼します。」と2週間ぶりに笑顔であいさつして店を出た。
Carmen McRae 「BOOK OF BALLADS」
https://www.youtube.com/watch?v=SdOXXIjpnMg&list=OLAK5uy_lvEutXqJUoY2MFrBFAVhKwL2R9g3EWmkI
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