vol.4 ~笑顔とJohn Coltrane~

 バイト初日にして、猛烈に忙しかった土曜日以後、僕は、少しずつ、仕事やワインのことやJazzのことを覚えていった。

 たかが食器洗いといっても、僕にとっては難しい仕事だった。シンクが2つあって、ひとつは皿や鍋用、もうひとつが、グラス用だった。言うまでもなく、「早く、きれいに洗う」のが目標となるけど、問題は、「きれいに洗う」ことだった。皿は、料理を乗せる表よりも、裏の部分に油がつきやすく、そこをきっちり洗わないと、油が薄く付着してしまう。

 グラスに至っては、猛烈なテクニックを要した。まず、表も中もきれいに洗剤で洗って、よくすすぐ。洗いが中途半端だと、グラスに水滴が付く。水滴が付くのは汚れが残っているからだ。きちんと洗われたグラスは、すすぎたてに一気に水が切れる。僕が洗ったグラスはことごとく、水滴が付きまくった。

 ダスターの上にグラスをさかさまに置いて乾かし、そのあとで、乾いたダスターでグラスの曇り(残った汚れ)を拭き取る。拭いては、明かりにかざして確かめ、また拭く。僕は、要領を得るまで、洗っている最中や拭いている最中に力が入りすぎて何個かのグラスを割った。


 次に覚えたのが、ドリップコーヒーの入れ方。「蒸らし→注湯→ポットを火にかける」という一連の動作をマスターに教えてもらって、実際やってみるのだけど、どうしても、酸味が強く鋭い飲み味のコーヒーになってしまう。また、ポットを火にかけて、他の仕事をしている間に沸騰させてしまう失敗も数多く重ねた。

 

 次に、ガーリックトーストとチーズ。フランスパンを1.5cmくらいに切って、ガーリックバターを塗ってオーブンで焼く。その間に、フランスパンを薄く切って、カマンベールやクリームチーズ、ブルーチーズを切ってクレソンを添えて皿に盛り付ける。問題は、オーブン自体だった。困ったことに温度が一定しておらず、常に気を配っていなきゃいけなかった。もちろん何度も焦がしてしまったし、他の仕事をしていて忘れられたトーストがオーブンの中で冷え切ってしまっていたこともあった。


 接客もやった。基本のあいさつや料理を出す際のマナーもさることながら、ワインに関する質問への対応や、フルボトルのワインをテーブル席でコルクを抜いて試飲してもらうまでの一連の動作もママさんから教わり、接客した。

 自分がお客さんの時には気がつかなかったけど、店員がワインのコルク栓を抜いて試飲を勧めるまでの間、お客さんは談笑を止め、黙って僕の動作を凝視している場合がほとんどだ。これは、僕にとっては最大緊張の時間だった。コルク抜きは失敗が許されない。ねじをきちんとコルクの真ん中にまっすぐ刺して回し、きれいに抜かないととんでもないことになる。コルクが半分に千切れたり、抜き方が悪く、コルクの粕がワインに落ちたりすると、商品にならなくなる。

 覚えていないということは、おそらく僕は大きな失敗をお客さんの前でしていないと思う。

 プライベートでは悲惨なことは何度かあったが・・・

 

 1ヶ月ほど経って、ようやく、いくつかの仕事をストレスなくこなせるようになったある日の開店前。店内の掃除を終えた僕は、ママさんにカウンターに座ってかき茶を飲むように勧められた。

 「話があるんだけどいい?」と隣に座ったママさんは冷静な語り口で切り出した。

 「ここ数週間、黙って○○(ママさんはいつも僕の苗字を呼び捨てで呼ぶ)を見てきたけど、いくつかの仕事もそこそこ覚えたし、それはそれで助かってるんだけど、何とかしてほしいことがあるのよね。ひとつは、洗い物。はっきり言って遅い。今やっている倍の速さでやってもらわないとだめ。もうひとつが、顔」

 「顔? ですか?」

 「そっ。表情が硬くて笑顔がない」

 「じゃなくて、眼鏡のせいじゃないか?」厨房で仕込みをしていたマスターが助けるように言ってくれた。近眼の僕は、当時流行の黒くて厚いフレームの眼鏡をつけていた。

 「ちがう」ママさんは、スパッとそれを否定した。

 「眼鏡のせいじゃない。お客さんに見られているという自覚がないの。いつも、怒っているような顔をして洗い物をしたり、接客してるでしょ。それが、だめなの。そのくせ、洗い物は遅いし」

 仕事に慣れて、楽しくなってきたころに僕は、こてんぱんに指導されたのだった。

 指導された内容はもっともなことだったけど、僕はへこみきった。

 (だったら、なんで、もっと前から言ってくれなかったんだ。よくがんばったって褒めてくれたことはあっても、こんなこと1mmも言ったことなかったじゃないか)

 僕の意識は、指導内容よりもママさんの非情さに注がれた。それから、1週間、僕は、笑顔になるどころかさらに険しい表情になって洗い物をし、ママさんとは必要なこと以外は一切しゃべらなかった。

 そんな僕を慰めてくれた(と言いながら自分で選んでいたんだけど)のが、ジョン・コルトレーンの「Ballad」だった。洗い物が忙しくなったときと、自分の夕食のときに掛けた。

 僕は、ママさんがお客さんと談笑している声を遠ざけるように曲に集中した。




John Coltrane Quartet 「Ballads」


https://www.youtube.com/watch?v=8alBQ4BlqzE

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る