vol.3 ~蔵王スターとGetz/Gilberto~

 「こんにちは。あっ、君の方だったのね」

 これが、“女の人”の第一声だった。

 お客として来店してから2日後、僕は、なずな亭に再び行って簡単な面接を受けた。前日に電話で「昨日の5時半ごろ伺った者ですが・・・」と言ったら、すぐ思い出してもらえた。

 「二人とも間違って入ってきちゃったと思ってたの。あ~あ、かわいそうにって」金色のカウンターでかき茶を飲みながらママさんがニコニコしながら言った(本当は、僕は下の名前に“さん”付けで読んでいたんだけど、ここでは“ママ”にします)。

「俺は、そんなことないって言ったんだけどね」やはり、マスターがニコニコして言う。2日前にお客で来たときとは、二人の印象がまるで違う。ある種、お客で来たとき以上に緊張があったけれど、話しているうちにほぐれていっているのが自分でもわかる。ママさんは、マスターのことを苗字に“くん”を付けて呼んでいたが、この二人は夫婦だった。

 「電話をもらったあと、2人のうち、どっちが来るのかしらね~って言ってたの。あなたでよかったわ」

 本当か愛想かはわからないけど、悪い気はしなかった。

 

 「うちの店は、『女性がひとりでも安心してお酒が飲める店』と思ってはじめたの。だから、女性のお客さんが7~8割くらいかな。特に、『クロワッサン』って雑誌知ってるでしょ?あそこに紹介されてからは特にそうよ」

(女性が7~8割・・!)

 「その一方で、口コミや紹介で来られるお客さんが多いから、“横のつながり”を大事にしてるのね。お金持ちで偉そうにしている人は大嫌いなの。気取らず、気軽にワインや料理を楽しんでほしいと思っているの」

(堅苦しくないんだな・・ほっ。)

 ママさんは、最初からかなり熱く僕に語った。

 そして、最後にもう一度「あなたの方でよかったわ」って言った。

 

 次の日の土曜日が僕の初出勤の日だった。

 「こんにちは」

 17時ぴったりに山小屋風のカランカランの音をさせながらドアを開けて店内に入ると「あ、おはよう。」と厨房のマスターが答えた。

 「おはよう。○○くん。今日からよろしくね」

 と、お化粧をばっちりきめたママさん。


 昨日、ママさんから言われたとおりに、シャツにネクタイ、ズボンを身に付けてきた。その上からお店が用意してくれた黒くて長いエプロンを身に付けた。

 店内のフロアの掃除に、トイレの掃除をして、昨日の営業で残った洗い物をしているとあっという間に営業開始の18時近くなった。

 「これからお店の外の準備するから一緒に来て」とママさんが言った。

 「こうやってフランス国旗を掲げて、椅子を一脚出して、お勧めメニューの看板を置くの」

 僕がある種の憧れを持って一年間見ていた店外の装いが整った。


 「200枚くらいあるんだけど、実際にお店で流すのはここからここまでの範囲かな」

 カウンター越しの厨房の右端の棚にぎっしり並んでいるレコードをマスターを指差した。

 「しばらくは、僕が選ぶけど、慣れてきたら○○君が選んで掛けてね」

 おそらくJazzの名盤ばかりなんだろうけど、ジャケットを見ても僕にはちんぷんかんぷんだった。


 まかないの夕食は19時半から20時くらいのお客が落ち着いたときに、退勤は21時半頃、ということだったが、バイト初日の土曜日のこの日は、まかないをいただくスペースのテーブルまで埋まる大盛況だったので、夕食無しで22時まで働いた。そして、緊張とあまりの忙しさでこの日のことは2つのことしか覚えていない。


 「カウンター席のあの方には、このグラスをお出しして、ワインは蔵王スターの白を250mlのデキャンタでお出しして」

 カウンター席には、この店の常連さんが主に座るのだが、蔵王スターのお客さんは、元教師で現在は出版社に勤めている男の方だ。

 蔵王スターは、その名のとおり、山形県にあるワイナリーで作られているワインで、フルボトルもあるが、なぜか、一升瓶で販売されている蔵王スターの方が辛口の切れが冴えて美味し(く感じられる)い。

 ワイン専用の冷蔵庫から一升瓶を取りだして、理科の実験用にしか見えない小さいデキャンタに入れて、その方専用の厚めのグラスと一緒にお出しした。

 

 覚えているもう一つは、店の雰囲気が盛り上がって注文と洗い物の皿が押し寄せてくる頃に、マスターが選んだレコードがこれだったことだ。

 「このレコードは、落ち着く。忙しいときにはついつい掛けちゃうんだよね」



Stan Getz & Joao Gilberto 「Getz/Gilberto」


https://www.youtube.com/watch?v=Cxd4LKSecEM

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