終章2:そして、ふたりは
竜の夢、娘の現
◆竜の見た夢
娘はいつも、笑っていた。
「お母さん」
「何だ」
「呼んでみただけです」
竜は「ふっ」と、炎を含まず、風圧を加減した息を吹きかける。
娘は「何をするんですか!」と抗議の声をあげる。が。
それはそれは楽しそうに、受け身を取りながら転がっていく。
器用なものだと、いつも竜は思っていた。
初めて出会ったときは、泣き虫な小娘だったというのに。本当にたくましくなったものだ。
いや、居つくようになってから、もともと
ひとりで山を歩くわ狩りはするわ。しまいには、自分の何倍もの体格を誇る熊型魔獣まで狩ってくる。
人間相手にもっともらしいことを
人間の可能性、というより、「誤算」を目にしているようだと思ったこともある。
そうした数々の「予想外」と時を経て、娘はふたりの子までこさえてしまった。
もっとも、それは竜の魔力の影響を受けた末に顕現した魔法生物だ。娘が腹を痛めて産んだわけではない。
血のつながりを重視する竜族からすれば、子と言っていいかも微妙なところではある。
人間の男と
「今さら、と言う気もしますし。私はここを離れるつもりはありませんよ」
いつもどおり、笑顔でそう返された。
それからそう経たないうちに、娘は生物的にも人間から離れてしまったのだが。
そんな娘でも、長命である竜族とは寿命が違う。
艶やかだった黒髪もすっかり白くなり、その虹彩はこげ茶から薄茶に緑の縁取りにうつろい、最近では緑を通り越して赤くなり始めている。
ただし、「人間でも竜でもないもの」になった娘の加齢による変化は色素くらいだ。身体的には、外見も含めて何も衰えてはいない。
このまま、しばらくは共にあるのだろう。
思えば、それは永きを生きる竜族らしからぬ考えだった。
いつか、「その時」はやってくる。
並の人間からは考えられないほど、娘は長い生涯を生きるだろう。しかしやはり、竜からすればそれはきっと、短い。
竜は、残されるのだ。
あの笑顔も、声も、甘えて寄りかかってくる身体もなく。
どこから導き出したと問いたくなる、突飛な言動に悩まされることも、そのときにはもう。
そのあと竜はまた、娘と出会う前と同じ、孤高の存在として生きていくだろう。
ああ、そうだ。ただそれだけだ。
竜は目を閉じる。
お母さん。
目を閉じた闇の中で、不意に娘の声を聞いた。
「……さん。お母さん!」
目を開けると、竜は空を飛んでいた。
遥か眼下に、河川や平野が広がり、その景色は流れていく。
「聞こえていますかお母さん!?」
風を切る音に混じって、なにやら娘の必死な声がする。
「……眠っていたのか、私は」
「お目覚めならなによりです! まず前を見ていただけますか!」
「前……?」
言われたとおり前を見ると、急峻な山脈が近づいている。
否。風に身を任せて徐々に速度を上げ、下降しながら近づいているのは竜の方だった。
「なるほど、このままではぶつかるな」
「いきなり眠ってしまったので驚きました! いざというときはお供する覚悟はありますが、それはもっと先であって欲しいと願っています!」
「そうか。なら、どうにかせぬとな」
風を受ける皮膜の翼を羽ばたかせて減速し、そして山肌に沿って急上昇する。背中にしがみつく娘が、小さな悲鳴を上げたのが聞こえた。
真上に昇る太陽が眩しいが、構うものか。
いつか、その日が来るまでは。
◆娘の見る
母がなにやら難しい顔をしている。
娘は竜の横顔を見て思った。
竜族は表情が乏しいように見えて、そうではない。
怒り、笑い、喜び、戸惑い、驚き、呆れ、鼻白んで。
娘は幸いにして悲しんでいる竜族を見たことがないが、実に多彩な感情表現を持つ種族だ。
ずっと側で見てきたから、というのもあるのだろうが。
「どうかしましたか?」
娘が声をかけると、紅い鱗を持つ母は表情を和らげる。
「なに、空が荒れそうだと見ていたのだ」
ああ、少し嘘をついている。娘は直感した。
それでも、
「たしかに、あちらの雲は怪しい色をしていますね。ですが、こちらに来るとは限りませんよ、お母さん」
話を合わせて笑ってみせる。
真面目なところがある母のことだ、何かややこしいことを考えていたのだろう。
何にせよ、それなら「紅き竜の娘」である自分があれやこれやと横槍を入れればいいだけだ。
考えごとなどできないくらい、突拍子のないことをするのでもいい。
想像してみて、娘は胸が
呆れられるだろうから、今はひとまず笑いをかみ殺して。
「ところで話は変わりますが。カガミさんやカナリヤさんを見ていて思いましたけれど、お母さんまだまだお若いですよね?」
母は、わずかに目を丸くする。
「お前はいつも唐突だな。私は三百年を生きた竜だぞ」
「カナリヤさんも同じくらいですし、カガミさんは五百年ほど生きているそうじゃありませんか。おふた方ともお若いですよ?」
「だが、私は何頭もの子らを育てた母竜として……」
「カガミさんもそれは同じです。それに、だとしたらばこの子たちの存在はどうなんです!」
片手を腰に当て、娘はぽんぽんと手を置いた。腰ほどの高さの卵ふたつに。
先日、母が産み落としたものだ。久しぶりの恋の結果として。
相手は、娘から見てもとても素敵な竜であった。
母は呻いて口を閉じる。
「もう、何を遠慮なさることがあるんです? 聞けば、竜族は千年を生きる個体もあるそうではありませんか。ですから、お母さんはまだお若いんです。恋くらい堂々とすればいいんです!」
「私は、お前を差し置いてだな……」
「娘であるこの私を、言い訳にするのですか……?」
ここぞという機を狙って、娘は悲しそうな顔をする。必要とあらば、涙で瞳を潤ませることも
母はわずかに怯む。
娘とともに過ごして長い母なら、これが演技だとわかるだろう。が、一瞬隙を作れればそれでいいのだ。
「大丈夫です! 私はルリとヒスイという、かわいい子を残しました。元人間からすれば、ふたりもいれば十分です」
「だがお前、人間からしてもふたりというのは多くもないだろう?」
「数の問題ではありません!」
娘自ら前言を翻す。今は、そういう筋を通すことが目的ではない。
「お母さんはいささか理性に寄りすぎています。もっと思うがまま生きてください。もしリッカさんのように、性質的に相性の悪い子が生まれても、今度は私がいますから。どうぞ安心して、この子たちの誕生を楽しみにしてください!」
娘はどん! と、自分の胸を叩く。
母はすぐさま娘の胸を鼻で押し、転ばせた。
娘は受け身を取りながら後転し、その勢いを利用して起き上がる。
「久しぶりな気がしますね、こういうの」
「お前が知った風なことを言うからだ」
母はふっと笑う。その息で、娘の髪がばさりとなびく。
「言ったからには、存分に動いてもらおうか」
「もちろんです」
娘は腰に手を当て堂々と胸を張り、大仰に頷いた。
この命が続く限り、紅き竜と元人間の娘はともにあり続けるのだ。
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