3.紅き竜の巫女
娘が竜の元で暮らし始めてから、ふた月近くが経った。
娘は、山と人里を行き来して生活をしていた。
普段は山を歩いて狩りと採取をし、毛皮や肉、木の実や果実、魚などを得る。余ったものは干し肉にしたり、少し手を加えてまとめていた。麓の村々に売るためだ。
人間は竜たちの棲家へは立ち入れないため、貴重な品としてもてはやされるのだという。
他に、薬の原料となる植物や、
人間とやりとりする関係上、それなりに世情にも通じているようだ。
最近は持ち帰った品をこね回したり細工していたりしている。
それが何かはわからなかったが、麓で売るものでも作っているのだろうと、竜は特に気にしなかった。
竜も、娘との生活に慣れた頃のことだった。
「どうした、そんな格好をして」
娘は、自身が生贄として来たときの、
その裾は、竜の小さな火で焦げたときのままだ。同じように端が焦げた半透明のヴェールを頭に被る姿は、いっそ神秘的ですらある。
「ちょっと試したいことがありまして」
金細工の髪留めを飾った黒髪をさらりと払う。艶やかな光が流れる様子は、上質な糸の束のようだ。
山暮らしでも、娘の美しさは損なわれなかった。
むしろ、精力的に動き回るせいか、精悍さを帯びたようにも見える。
それからほどなくして、山の
人間の気配だ。
「来ましたね」
「そんな時期か」
生贄を捧げに、村から人間たちがやってきたのだ。
生贄と貢物と運び手。そして今回も、隙をついて竜を討たんとする者たちがついて来るのだろう。
面倒だと思いつつ、竜は娘に身を隠すように促す。
しかし、娘はその場から動かない。
「どうした。面倒なことになるぞ」
「いえ、このままで。記憶をいじる魔法をかけていただくかもしれませんが」
どういうことだと問おうとしたとき、生贄を乗せた輿の一行が現れた。
そして人間たちに背を向けて立っている娘に気付き、運び手たちがざわつき始める。
そら、面倒なことになった。
竜がまとめて忘却の魔法をかけようとすると、娘が人間たちに見えないように、小さく手で制してくる。
「少し見ていてください」
微笑むと、娘はどこか神聖さを感じさせる表情で、優雅に振り返り、
「私は紅き竜の巫女です」
堂々と口にした。
何事だ。
そう問いたいのを、竜は寸前で堪える。
人間たちは一瞬黙った後、ざわめきを大きくした。
「本物か?」「噂じゃなかったのか」という声が聞こえてくる。
噂?
竜は娘を見る。娘はまったく動じていないようだ。
「私は麓に下り、人間の暮らしぶりを見てきました。そして判断したのです。もはや生贄は不要、と」
どよっと、ひときわ大きな困惑の声が上がる。
今度こそ、竜はどういうことだと声をあげそうになった。口を少し開けたところで、呼気とともに小さな炎が出て、人間たちから大小様々な悲鳴があがる。
「落ち着いてください。何もしなければ、紅き竜はあなたたちを害しません」
泰然たる態度で、娘は一行に落ち着いた声をかける。竜も内心困惑しながらその後ろ姿を見つめた。
竜が何もしないのを見て、人間たちは恐れながらも、徐々に落ち着き始める。
竜と人間たち双方の視線を集めたまま、娘は口を開く。
「私に見覚えのある人が、あなたたちの中にはいますね?」
人間たちが、まばらに頷いていく。
娘が人里に下りたとき、行き会ったことがあるのだろうと竜は推察した。
「あなたたちが日々を暮らすには、今のままでも足りなくはないけれど、山の恵みがあればもっと生活が潤う。そう思っている人は少なくない。そうですね?」
誰ともなく、肯定する声が上がる。
それはそうだろう。
山には、魔物や魔獣など、人間にとって危険な生物がいる。が、人間がある程度安全に歩けるところには、食肉に適した動物や温泉、薬草などがあるのだ。
それらを生活に取り入れることができたら、麓の人間の暮らしは楽になる。
「しかし。あなたたちは、紅き竜との約束により、生贄を運ぶ以外で
たしかに。
かつて、竜を討とうとした者たちの亡骸を吹き飛ばしたことがあった。それ以来、人間たちの間では見えない境界線が引かれているようだった。
それでも竜を狙う人間がいるというのが不思議だった。
竜の命以外に、山の恵みを欲していたということならば、腑に落ちる。
「ところで。竜の棲家に踏み込まない範囲でですが、山への立ち入りを許すと言ったら、あなたたちはどうします?」
また何を言うつもりか。
竜は口を開きかけたが、また漏れ出た小さな炎を見た人間たちが悲鳴をあげたのを見て口を閉じる。
いちいち騒がれては鬱陶しくてかなわない。
「そりゃあ……」
おずおずと、代表者らしき中年の男が口を開く。
仲間が
「そういうことになったら、オレらは助かるけれども……。お嬢ちゃんが、山の恵みをもたらす『竜の巫女』だってか? 生贄はもういらないとか、どういうことなんだかさっぱり……」
それは竜も聞きたいところだった。
自分のことを巫女と言ったことといい、山への立ち入りを許可することといい、一体何がしたいのか。
そろそろ口を出すかどうか思案していると、娘が堂々と胸を張り、頭からかぶったヴェールの裾を払った。たまたま通りかかった風がそれをはためかせ、娘を神秘的に見せる。
「紅き竜は、人間とのやり取りを疎ましく思っています。年に一度の生贄の来訪ですら。理由はもちろん」
娘はつかつかと輿の近くの茂みに近づき、密集した葉を両手でがさりと押し広げる。
そこにはいつものように、武装した男たちが隠れていた。
ぎょっとした顔をした男たちが、娘に有無を言わさず引っ張り出され、輿からやや離れたところに集められる。
「あなたたちのような方々にもあるわけですが」
娘はまた竜の側に戻った。
「安心してください。さきほども言いましたが、何もしてこなければあなたたちは安全です」
「そう言われてもな……」
武装した男のひとりが、必要以上に警戒しながら竜と娘を見やる。
それなりに屈強ではあるのだろうが、不意を突いてきたのが(自称)竜の巫女とはいえ、若い娘にいともたやすく見破られたことで自尊心が傷つけられたようだ。
「せっかくお話ししようとしても、そんな姿勢では何も進まないではありませんか」
娘は両手を腰に当てて呆れたように言う。
「もう一度結論から言いましょう。今後は生贄は不要です。そして人間は、紅き竜の棲家に立ち入らないというならば、山への出入りは自由です。それでもその領域を侵すのなら……」
ここが頃合いだろう。竜は締めのひと言を発するべく口を開ける。
「まず私がお相手します」
開いた口は、塞がらなかった。
竜だけでなく、生贄の一行も、武装した男たちも。
ただ間抜けに、口をあんぐりと開けたまま沈黙が流れた。
「や、あんた巫女さん、いくらなんでもそれはおい……」
「ナメてんのか!」
怒気をあらわに、血の気が多い男たち数人が各々の得物に手をかけようとする。
娘はすかさず、衣に隠し持っていた玉を男たちの中心に投げつけた。
最近娘がこね回していたものに似ていると、竜は思い出す。
玉は派手な音をたてて破裂し、白煙が男たちを包んだ。煙の中から、激しく咳き込み咽ぶ音が聞こえる。
「煙から離れたほうがいいですよ」
娘は、呆然と事態を見守る生贄の一行に声をかける。
代表者をはじめ一行はぎょっとした顔をして、そそくさと輿を担いで白煙から距離を取った。
風が吹いて煙が晴れても、男たちは地面に膝と手をつき咳き込み続けている。
よほど苦しいのか顔は赤く、立ち上がることはおろか、まともに口を開くことさえ困難なありさまだ。
娘は、口と鼻を布で覆って男たちに近づく。それに気づいたひとりが娘に手を伸ばすが、すぐに己の咳に阻まれた。
娘は構わず、男たちの得物に手を伸ばす。そしてなにやら手を動かし、部品を引き抜いた。
がちゃりと音をたてて、得物がばらばらになる。
娘はそのまま全員分(竜が数えたところ十人いた)の得物をばらばらにしていく。
そのまま生贄側の代表者の元へ歩いて行くと、
「あとで返しておいてください」
代表者の手の中に、集めた部品を落とした。
得物もなく、身体の自由も奪われれば脅威もない。
そう言っているかのように、娘は男たちに背を向けて竜の元へと戻る。
そして小さく、
「麓にいる師匠と一緒に、色々と仕込みをしておいたんです。ああいう手合いはほとんどがごろつきですが、小娘ひとりと侮ってくれて助かりました」
竜だけに聞こえるように囁いて笑う。
そういえば昨日、村で絡んできた輩にしこたま酒を飲ませて酔いつぶしたと、娘が言っていた覚えがある。
それを含めて、ふた月の間に師匠とやらと悪巧みの準備を進めていたのだろうと、竜は合点がいった。
竜は改めて、深く深くため息をついた。
素早く受け身を取りながら避けた娘以外の人間が、風圧をもろに受けてごろごろと転がったり、輿の帳がばたばたとはためくのが落ち着くのを待って、竜は今度こそ口を開く。
「よく考えろ。毎度この面倒なやり取りをするのか?」
娘以外の人間たちが、瞬時に眉間にしわを寄せたり頭を抱えたりし始める。
それは何よりも雄弁に、人間たちが出した結論を語っていた。
もう言葉はいらないだろう。
竜はそう思ったのだが、代表者の男が「それでも」と言葉を投げる。
「どうして生贄がいらないってことになったんだ……?」
再び、皆の視線が娘に集まった。
娘は一瞬きょとんとしたあと、至極真面目な顔で、
「私ほど可憐な巫女がいれば、他の生贄はいりませんよね?」
場は再び沈黙に包まれ、困惑と謎の納得感が漂った。
「何か勘違いしているようだが」
これだけは言っておくかと、竜は再び口を開く。
今度は竜が注目の的となる。
「私は雌だ」
「あら、まあ」
竜は結局、その場の人間たちの記憶を操作する魔法をかけた。
一連の騒動からなるべく余計なものを抜いて、それらしく組み替えた記憶を人間たちに持ち帰らせた。
人間の相手をするのはもう面倒だということ。
巫女がいるので、生贄はもういらないこと。
紅き竜の棲家に立ち入らなければ、人間たちは自由に山に出入りしていいこと。
代わりに、時々人里へ下りる『紅き竜の巫女』をそれなりにもてなすこと。
万が一、紅き竜の棲家に立ち入ろうとする者、竜や巫女を害そうとする者はその命を以て償う覚悟を持つこと。
それらを、そこにいた人間たちに約束させ、村に帰した。
そういうことになっている。
そんなやりとりをあと五回、残りの村の一行たちにも繰り返し、竜はようやく静かな日々を手に入れたのだった。
なお、一部の男たちは、ほとんど接触がなかったことになっているはずの紅き竜の巫女を、必要以上に恐れているとかいないとか。
それこそ竜の知ったことではない。
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