第8話 Es ist ♮ 復って旋って

     1


 廊下が著しく眩しい。照明が多すぎるせいなのか、壁と天井が揃って真っ白なせいなのか判然としない。

 エレベータで上に。

 重力に眩む。度の合っていないメガネのせいにしよう。

 高音。着いた。

 最初に視界に飛び込んできたのは。

 真っ黒な王様。

「ん?」

「えっと」

 そうか。御前でメガネを掛けるのは初めて。

「コンタクトが入らなくて」

「外せ。変だ」

 ああもう駄目。絶対命令。

 痺れる。

「あれ?」

 脇に従者がいない。

亜州甫アスウラさんだろ、まず」

「そうですけど」

 予想。埼玉県警。

「こっちだ」

 廊下の造りからいってもしかすると。

 なるほど。

 この病院が国内に及ぼす強大な権力を忘れていた。要予約ならまだしも受付で名前を言うだけで身内でも何でもない高校生をほいほい通してくれるところからしておかしい。警察らしき人間もウロウロしておらず平穏が保たれている。

 やはり、この地に君臨する天才博士とやらの力か。

「ともる様はもう?」

「待ってた」

「おめでとうが言いたくて?」

 振り返って睨まれる。

「あんな文章じゃなくて直接お願いしますよ」

「なんで黙ってた」

「言いにくくて」

「知らなかったんだ。そんな」

「前に言いませんでしたっけ?」

「今度は忘れない」

「ホントですかねえ」

「うるさい」

「俺は知ってますよ、ともる様の」

 誕生日。

「だから、悪かった」

「はいはい」

「それで渋ってたのか」

 リサイタル。長野公演。

 次の日。

「それも、ありました」

「も、てなんだ。いい曲だっただろ」

「ええ、もちろん」

 突き当たり。

 ネームプレートは真っ白。

「亜州甫さんて芸名なんですよね」

「らしいな。何でもいいだろ、名前なんて」

 凄い。そうは考えられない。

 ノック。

「どーぞ」

「失礼します」

 真っ白い空間。廊下よりも尚白い。これ以上の白は。

 早志ハヤシひゆめ。

「わお、揃ってお見舞い?」

 大きなベッドの上に病人の標本のような格好をした人間がひとり。じいという耳に残る機械音。点滴の落ちるか細い音と消毒と滅菌のにおい。窓が全開だが手すりが見える。転落防止かもしれない。

「お怪我のほうは」

「社交辞令はいいからそれちょーだい。僕にでしょ?」

 ともる様が手に持っていたものを渡す。ケーキが五つ六つ入りそうなサイズの白い箱。店の名前から判断しておそらく紅茶のお供。

「なあに?」

「マフィンです。お口に合えば」

「わ、あんがと。好きなんだ。でも天使くんは手ぶら?」

「あ、すみません。気が」

「いいって。誰も来てくれないんだもん。ほじょーちゃんは仕事だし。つまんなくって溶けそうだよお」

 風が通過。

「お元気そうですね」案外と。

「顔だけね。他は満身創痍よ。見ちゃう?」

 真っ白い掛け布団が蹴飛ばされる。

 あまり直視したくない。

「蹴りは出来るんですね」

「ううん、ちょー痛い。さすってよ」

 サイドテーブルに気休め程度のCDプレーヤ。CDも大量に。無理を言って持ち込んだものだろう。

「先生元気?」

「ハヤシさんですか」

「ここの人ケチでさ、新聞もテレビも見せてくれないんだよ。ラジオも入らないし。外はどんな感じ?」

 言えない。知らないのだから。

 ともる様を見る。

「大騒ぎです」

「僕も捕まえてよ」

「それは」

 わからない。出来ない。したくない。

「先生のところに行きたい。指だって飾ってもらわないと」

 両手。開く。

 包帯が腕まで巻かれている。

「ここにね、なんか硬いもん入れられちゃって。上手く曲らないんだよ。そんなことしなくたって切り取らないっての」

 早志ひゆめに。

 切り取って欲しい。

「あの、亜州甫さんの本名って」

「ハヤシじゃないよ。ユサでもない」

「知ってます」

「カラスってのは」

「カラスが真っ黒いからじゃない?」

「名前ですか」

「へえ、興味津々?」

 ノック。

「どーぞ」

 静かにドアが開く。

 一瞬誰かわからなかった。いつもの象牙色のコートではない。あれは雪山捜索につき洗濯中なのだろうか。漆黒の王様に忠誠を誓うが如き真っ黒い正装。あたかも葬式の帰りのような面持ち。

 頬のガーゼが。

 ない。

「ともる様、私にお時間をいただけませんか」

「暇ならやらない」

「すみません、言い直します。いま、ともる様のお時間をちょうだいできませんか」

 ともる様は俺を一瞥して。

「すぐに戻ります」亜州甫かなまに頭を下げる。

「いーよ。僕も天使くんと二人っきりで話があったりする」

「え?」

 やな予感。

 静かにドアが閉まる。

「悪魔くんの家来ってさ、僕のこと嫌いだよね。こう、びんびん刺さるものが痛い」

「主人の指を口に入れるからですよ」

「そんなことしてないよ。ううん、探偵のときはカッコいいなって思ったんだけどね。優しい人は好きになっちゃうし」

 思い出す。

 氷の城。決して溶けない秘術。

「約束憶えてる? ①も②もしてくれるってやつ」

 やはりそう来たか。

 土壇場だったとはいえ、とんでもないことを口走ってしまった。

「本当は爆弾なんかなかったんですよね」

「君に助けて欲しかったのかなあ。おんぶもしてもらったし。素敵な夜だったよ」

 椅子を借りて座る。立っていたらそのまま飛び下りてしまいそう。

「②は無理ですよ」

“天使の妙音”復活最初の記念すべきバースデイ公演今夜実施につき出張サービス。

 ピアノがない。やる気もない。

「それはまた今度でいいや。僕が生きてたら必ず招待してね。最前列で天使くんがじろじろよく見える位置」

「じゃあ絶対に死なないで下さい」

「気が向いたらね」

 指は。

 そこにあるのだろうか。

 包帯の下は何もないとか透明人間のようなことは。

「亜州甫さん、ピアノ弾くとき指を見てますよね」

「うん。他に見るところないじゃん。中指が何してるのかなって気になる」

「興奮しますか」

「ああ、見てた? 困ったよ。悪魔くんのラ・カンパネラ最高すぎちゃってね。不意打ちだよねえ。つい我慢できなくなって」

 席を立った。

 だから袖から出てきた。

「六曲目で衣装替えするのもそのせいですね」

「背中向けるのもそんな感じ。それでドアを開け放てばもう完璧。僕のことなんかちっとも気にならないって寸法ね。視線誘導って言うんだよ」

「ユサ先生の入れ知恵とか?」

「どうだったかなあ。先生かもしれないね。本当に上手なんだよ、誰も見てない間に鮮やかにやっちゃう。見たでしょ作品。僕も幾つか持ってる」

「盗んだってことですか」

「もう返したよ。あれで全部。だからもうない」

 指を。

 広げる。

「十本しかない」

「二十本ですよ」

「足は好きじゃない。手のほうがセクシィ。はあいここまで。話し逸らしたってそうはいかない。さあ、罰として僕に中指を献上するがいい」

「切り取るんですか」

「しゃぶるの」

「迷惑な癖ですね」

「癖じゃないよ。ほら、出す」

 左手。しぶしぶ。

 生ぬるい感覚。液体と粘膜が絡みつく。

「塩の味。何食べた?」

「汗じゃないですか」

「ま、いっや。どうしてやめたの?」

“天使の妙音”は如何にしてピアノから遠ざかったか、を延々と論じてくれる。

「それ答えたら俺の質問も答えてくれますか」

「いーよ。何でも言っちゃう」

 息を整えて。

 風を吸って。

「ピアノの先生が嫌いだったからです」

「ホント? 先生なんかいたんだ」

「父さんが勝手に連れてきたんですけど」

「お節介だね。超スパルタ?」

「いえ、逆です。何もしてくれませんでした。あの人は、ピアノなんか弾けなかった」

 扉確認。頼むからいまだけは。

 帰ってこないで。

 王様。

「俺の最後のリサイタルにいたでしょう。新宿の同じホールで」

「ううん、行ったかどうだか」

 あくまでとぼける。それとも本当に忘れている。

 同じだ。

 差はない。

「あの時、途中でいなくなったの憶えてますか」

「そうだったの?」

「何しに行ってたと思いますか」

「僕とおんなじなわけないかあ」

 笑えるか。

 笑えない。

「先生を殺しに行ってました」

 代わりに。

 亜州甫かなまが笑う。

「嘘ばっか」

「嘘です」

「正直だね。そういうとこ大好き」

 引っ込める。

 千切れるかと思った。歯形が滲んでいる。

 鉄の色。

「僕が一本噛み切れば弾かなくてよくなる」

「無駄金が支出されるだけです」

「パパ嫌い?」

「わかりません」

「それだけ?」

「これ以上言うと虚構が増えます」

「なあるほど。そりゃそーだ」

 指がじんじんする。

 鼓動。脈の音。

 心臓と一致しない。ずれたリズム。

「君の番。僕のスリーサイズ?」

「曲のタイトルのしーなんですけど、海でもアルファベットのCでもなくてホントは、彼女は、ていう意味の英語のsheなんじゃないんですか。ハヤシさんのことで」

 潮の反復。

 擬の螺旋。

「She ends soon.だったんじゃないんですか」

「She ended sound.かな。霊魂のsoulでも、痛いのsoreでも、哀しいのsorrowでもなんだってよかった。天使くんはそれがいい?」

「サウンドのほうがいいです」

「だよねえ。そっちにしよっか」

「ハヤシさんに聴いてもらわなくて」

「いいよ。先生のために作ったんじゃないし。僕のために作ったんだ。僕の中指のために作った最高の曲」

「Aがいっぱいて言ってたのは」

「わかるでしょ」

 Aはラの音。中指で引く音。

 亜州甫かなまはCDプレーヤに目配せ。

「何が始まるんですか」

「押せばわかっちゃう仕組み」

 再生。最初の音でわかった。

 紛れもなく天使の妙音の十八番。

 しかも奏者は。

 ここにいる。

「よく手に入りましたね。絶版かと思ってた」

「まっさかあ。社長さんにファンだって言ったらその場でもらえたよ。持ち歩いてるんじゃない? 名刺代わりに」

「迷惑な話ですね」

 中和できたかもしれない。

 こっちのほうが。

 強烈すぎて。

「本名教えてくれませんか」



     2


 結局ともる様は病室に戻ってこなかった。

 おそらくお詫びのメールだと思うがすこぶる偉そうな文体だったので心配はないと思う。もしかするとそのままフランスに行ってしまった可能性もある。つくづく王族的な傍若無人ぶりだ。

 早志ひゆめは。

 不起訴になった。

 それが何を表しているのかはわからない。某音楽系会社最大手の財力のおかげでも、そこの人事権を掌握する女帝が敏腕弁護士を手配したおかげでもないと思う。何となくだが違う気がする。

 わからないことは某天才少年に訊くしかなかろう。しかしいつも余計なところまでというか余計なところしか説明してくれない彼が今回に限って。

 亜州甫かなまと同じ理由だ。

 と言ったきり話題にしてくれなくなった。

「本部も解散」緒仁和嵜オニワサキが口を尖らせる。「もうこの件は一切関わるな、て厳重注意がかかったのよ。上のお偉いさんからね」

「まあ僕らは捕まえるだけの組織ですからね」龍華タチハナが言う。「飛ばされなかっただけよしとしませんか」

「それもなあ」緒仁和嵜は頬杖をつく。

「なんですかサキさん、まだ不満ですか。あんなに同調して」

「誰が同調よ。あんな女。どうして人殺しといてのうのうと生きてんのよ。不満に決まってるでしょ」

 客の入りは、まばら。コーヒーの香りがいささか強すぎるように感じられるがそれを売りにしている店なので当然だろう。照明がさまざまな方向から届くため影が何重にもなる。ひとつひとつが薄いので分身の出来損ないのようだ。

「死体だってあの女が殺したっていう証拠はない、とか決め付けちゃってまあ。娘ってのも嘘っぱちだったし」

 検査やら解剖やらをしたのだろう。それでもアトリエの庭から発見された遺体は未だに身元がわからないらしい。見つかった五本の指も誰のものかはっきりしていない。

「それをね、返せって言うのよ? 信じられる? 私の作品だから、とか言ってね。頭おかしいとか思えない」

「じゃあ返しちゃったんですか?」訊いてみる。

「近々追々てとこじゃないですか」龍華が答える。「上の人は返す気満々ですからね。もう用済みかと」

 やはり。彼岸人の。

「そんな顔しないで下さいよサキさん。我らがボスなんか」

「そうよね。黙っていなくなられればね」

 予想通り、ともる様はフランスに戻っていた。もちろん陣内ちひろを連れて。事後報告なのはいつものこと。王様は従者がいなければ何も出来ないのだ。

 そうなると可哀想なのは鬼立。過去においてどれほどの名コンビだったのかわからないが、その相方に二度も見捨てられれば腑抜けて意気消沈するのも無理はない。

「でもですね、つい昨日なんですがその探偵から助言というか連絡がありまして。もうボスのはしゃぎようといったら」

「元気になられたんですか」

「元気なんてもんじゃないのよ。ちょっと付き合え、とかカッコつけたこと言っちゃってね。車の中だって鼻歌なんか歌いながら窓の外見てるのよ。気持ち悪いったら」

「あ、サキさん、ちょっと」龍華の目線が動く。

「でね、あの陰険な神奈川のやつらのねぐらといえどもここまで来たからには断然付き添いたいじゃない? むしろ当然よね陣内さんの推理なんだから。でも着いてからこう言うのよ。お前らはここで待ってろ。まったく、ドライバなんか龍華だけで」

「サキさん、あの」龍華が手を挙げる。

「なに? いまね」

 咳払い。

「サキ」

 緒仁和嵜が機敏に立ち上がって方向転換。

 鬼立キリュウが立っていた。

「お、早いお戻りで」

「せっかく話してやろうと思ったのに。お前は先に戻るか」

「いいえ。さあこちらへどうぞ。お疲れでしょう。コーヒーなど如何ですか。美味しいですよ。あ、店員さん、メニュー追加お願いしまーす」

 龍華が必死に笑いを堪えている。顔を壁側に背けているから丸わかりだ。鬼立はしばらく不機嫌そうな表情を向けていたが、緒仁和嵜の絶妙なご機嫌とりが上手く行ったのか、注文を済ませると脇に抱えていた封筒を探る。

 サイズはA4でそれほど厚みはない。ところどころ破けて色褪せている。さっきまで部屋の隅っこでほこりを被っていた雰囲気。

「あれと無関係だと説明するのに手間取ったよ」鬼立が言う。「あいつの名前を出してもなかなかな。神奈川の連中も用心してる」

「でもよく貸してくれましたね。どんな口説き文句使ったんですか。来週のご予定は、とか」

「龍華。お前こそ帰るか」

「そんなあ。仲良くしましょうよ。ね、サキさん」

「ええ、その通りです」

 鬼立が溜息をついてから部外者の俺を捉える。

「警察にでもなりたいのか」

「いや、そういうんじゃなくて」

「念を押しておく。口外法度だ。それが守れる自信がないならとっとと退散したほうがいい」

 何を持ってきたのだろう。

「どうする」

「守ります。誰にも」

 早志ひゆめも。亜州甫かなまも。

 もう少し。

 染み込んできて欲しい。

「そうですよ」緒仁和嵜が加勢してくれる。「そんな無下にしないで下さい。彼、あのR学園の生徒なんですよ。頼りになりますって」

「どうせ裏金だろ」鬼立が吐き捨てる。「そういう学校だ。知らないのか」

「ひどい言い方ですね」龍華も言う。「あ、気にしなくていいから。気づいたことあったら遠慮せずにね」

 鬼立の冴えた眼が。

 場面転換の合図。

「もう二十年経つのか。当時はただの凄惨な事故として片付けられたがなるほどな。確かに死者だよ。あの時の意味がようやくわかった。まともに調べたのか、てやつだ。まったく。なんで言わないんだあいつは」

 テーブルの上の飲み物を隅に寄せる。封筒の中身が注意深く空気に触れる。コーヒーのにおいと埃のにおいはどちらが強いのか。

 さすがに手にとって読ませてはくれなかった。黄ばんだ新聞の切抜きがちら、と見える。

「あ、これって海に真っ逆さまってあれでしょう」龍華が言う。「僕知ってますよ。修学旅行帰りのバスがってやつでしたよね。わ、出てる。運転手含めてほぼ全員が即死。遺体もあがってないんでしょう。遣り切れませんよね」

「それでも確か一人くらい生き残りましたよね。えっと、え?」

 緒仁和嵜と龍華が同じタイミングで鬼立を見る。

 鋭い眼光が射る。

 海の。

 白黒写真。

「そういうことだ」

 返してほしい。その意味は。

 海よりも。



     3


「ああ、すみませんね。あなたがその」結佐ユサが恭しく挨拶する。

「これはこれはどうもはじめましてですな。私はしがない爺ですのでね、いろいろ失礼もかけますが」

 玄関先で十分以上挨拶をしなくてもいいのに。

 右柳ミヤギもとすけ。

 ミヤギ・クラヴィアの前身を築いたピアノ調律師。彫刻家右柳へいすけの父。現社長右柳そーすけの祖父。

 俺のひーじーさん。

 腰が曲って頭はすっかり寂しいが、米寿間近というのに足腰はしっかりしている。目的地横付け可能な乗用車を断って一緒に電車に乗ってこれたのだから相当だ。歩行には杖を使用している。魔法使いが持つような古風な杖。それが地上を叩く音が好きだ。土にアスファルト、駅のホームのコンクリート。電車の床。どれも素敵な音がする。

「どうぞその、奥ですが」

「うむ、これまたいい家ですな。家は小さいに限る」

 どう考えても嫌味にしか聞こえない。だが曽祖父のことだがら本気で言っているのだろう。結佐もそう受け取ったのかは微妙だが例によって奇妙な顔をする。これが彼特有の笑い方なのだと某生徒会長から聞いた。一度見たら二週間は残留する不可思議さだ。

 リビングを抜けてピアノのある部屋へ。

 真っ白いピアノ。

「ほほお」

 その間投詞を最後に曽祖父は黙々とピアノを検分し始めてしまった。本当は見ていたかったのだが邪魔になるというよりは完全に無視されるのがきついので部屋から出る。

 ダイニングテーブルの上には案の定。

「まだ残ってたんですか」

「ええ、まあ。そのね、今年は特に嫌がらせに念を入れているらしく。迷惑ですよね、はあ」

 さすがに同じ包みではなかったが焼き菓子。三箱も押し付けられたマドレーヌは割と好評で、叔母の屋敷に配ったらその日のうちに終わってしまった。会社に配る分がなくなってしまったがむしろ好都合。結佐の意図には添えなかったがそこまで問われないだろう。社員だって少なからずあの屋敷に出入りするのだから。

「亜州甫君にはその、会われましたか」

「一回だけですけど」

 あれ以来見舞いに行っていない。行きにくいというよりはそれどころではないのだ。今日だって本当は生徒会の仕事があったのだがどうしても、と頭を下げて抜け出してきた。

「一応ですね、担当医は私なんですがまあ、なんといいますか。裏のつながりというかそんな感じでしてね。ほとんど形式上になってしまいましてその、他の施設に移りまして、えっと私ももう何も出来ないといいますか」

「え、じゃあ」

「生きているとは思いますがあの、詳しくは言えないのですよ。ええ、わかっていただけますか」

 そんなことを言われても。何がなにやら混線して。

「帰ってくるんですよね」

 約束が。

 あるのに。

「わかりませんね、こればかりは。まあ幸い責任者の方に話を聞く機会もありますので、追って様子を」

「何をされてるんですか」

「そういう言い方をされると心外ですがまあ、私の専門ではないのでわかり兼ねます」

「何とかならないんですか。隔離ってことですよね」

「会いに行かれますかね、えっと」

「会えるものなら」

 結佐がふうと息を吐く。

「実はですね。連れて来い、と言われていまして」

「亜州甫さんにですか」

「だったらまあ、自由度も高いですが生憎そちらではなくて」

 音色がたどたどしい。

 指が動かないのだろう。

「早志さんは」

「ああ、よくご存知ですね。同じですよ。手を回しましてその」

「まさか」

「ああ困った。知らないうちにお喋りになりましたね彼は」

「どういう意味ですか。秘密なんですか」

「秘密に決まっていますよ、ええ。警察だって知っているのは上から数えて一人二人でしょうね。噂だけならその」

 打ち切り。厳重注意。

「先生もずいぶんとお詳しいですね」

「目を掛けて戴いている身でしてね。喜ばしい限りですよ」

「会えますか」

「亜州甫君にですか。ハヤシさんとやらですか。それとも」

 指に執着するふたりを。

 手の上にのせて。

「自殺を止めていただいて本当にありがとうございました。亜州甫君だってあなたがいなければ」

 違う曲。

「あの白いピアノを弾いていたのは誰だったんですか」

「前の同居者ですよ」

「早志さんですか。それとも亜州甫さん」

「あなたの予想は」

 音が。

 掠れて。

「亜州甫さんはピアノの先生の家でレッスンを受ける前に誰か他の家で習っていたと聞きました。そこには白いピアノがあった。それがこの家ですね」

「なるほど、ああそれなら面白い関係になりますね。つまり私の前の同居相手が亜州甫君のピアノの先生だったと」

「それが早志さんです。彼女はピアノストになりたかったと言っていました。ピアニストになれなかった人間はそちらに流れる傾向にあります。トップアスリートから漏れたスポーツ選手がトレーナ、地区大会で名を馳せたが全国大会まで行かれなかった人間がその未練を抱いて劣等感ばりばりの体育の先生になるとか。それで生活指導とかやらせるからいろいろと齟齬が出るらしいですよ。なまじガタイがいいから」

「えとり君らしい考察ですね。受け売りですか? 実に興味深い。その推論からいくと私はハヤシさんとやらと結婚していたことになりますか、ええ。困りましたね。となると」

 結佐がテーブル上のフロランタンを摘む。

「これはその方が送っていることになります」

「本当は好きなんでしょう焼き菓子。あれは嘘ですね」

 結婚記念日に、別れた妻が。

 夫の嫌いな焼き菓子を送ってくる。

「三箱もマドレーヌがあったのがおかしかったですか。それとも寝室のゴミ箱に包みを捨てておいたのがわざとらしかったですか」

「亜州甫さんから虚言癖のことを伺いまして」

「焼き菓子が好きなのはその、亜州甫君です。これで勘弁していただけませんかね」

「今の発言の意味するところがわかりません」

 早志ひゆめ。

「亜州甫さんのピアノの先生じゃないんですか」

「さあ、どうでしょうか」

「あの写真はわざと」

 消えた。

 曽祖父が顔を見せる。

「ご苦労様です、えっとこちらでお茶でも」

「ユサ先生とかゆいましたかな。ずいぶんとまあ、放っておいてくれたねあれを。可哀想になあ。すっかり狂ってしまった。調律してもどうにもならんよ。それで、ものは相談なんだがの」

 顎を覆う髭を触る。

 真っ白の。

「ここに置いといたらどうだろうかな。あ、いや爺の戯言だからどうしてもとゆうわけではないのだが。ううん」

「つまりその、金にならないから諦めろとそういうわけですか。それなら構いませんよ、はい。只でいいので」

「引き取れと? いかん。そうはいかん。私は金と交換しに来たのですよ。それが出来んなら」

「何か、意図がおありですね」

 曽祖父がゆっくり頷く。

「来てくれんか。ゆーすけも」

 ピアノの部屋に入る。フランス風の窓は閉ざされている。曽祖父が椅子に腰掛けて鍵盤を押す。

 鳴らない。

「ほれ、お前も押してみろ」

「え、どれを」

「ラだよ。ラの音がな、鳴らんのです。見てみたら弦の部分がもう駄目だ。ハンマもやられとるよ。荒っぽい。わざとだな」

「わざと? どうして」

 高いほうから押してみる。

 本当に鳴らない。

 さっき弾いていた曲の違和感がようやくわかった。ラが抜けていたのだ。何かの拍子で鳴ったとしても本当にか弱い音しかしない。

「というわけです先生。ずいぶんとひどいことをしよるな」

「そうだったんですか、はあ。でも私が弾いていたのでは」

「まあ、そいつはいいとします。心当たりはあるかな。ラだけならない理由の」

「さあ、門外漢でして」

 ラだけ。そんなの。

「亜州甫さんですか」

「アスウラ。知らん名だなあ。そやつですか」

「どうなんですか」

 結佐はピアノに近づいて。

 中指でラを押す。

「鳴りませんねえ」

「ユサ先生」

 例の笑い方。

「亜州甫君らしいお遊びだ。なるほど、そうでしたか」結佐は振り向いて。「わざわざ来てもらったのにすみませんでした、ええ。そのままにしておきましょうかね。目上の方の助言にはね、耳を傾けることにしているんですよ」

「先生はピアノをやっていたんじゃないだろうか」曽祖父が言う。

「いいえ。触ったのはいまが初めてですよ」

「嘘をつきんさい。手の形でわかる。素人はそんなふうにせんよ」

「ああその、見よう見真似です」

 チャイム。

「えっとすみません。誰か」

「行っとくれ」

 結佐が部屋を出る。

 もう一度押してみる。

 微弱な音。

「じゃあユサ先生て」

 ピアノを。

「やっとったよ確実に。どういうことかよくわからんが、黙っておきたいのかもしれんなあ。妙な先生だよ」

 となると亜州甫かなまのピアノの先生は。

 結佐?

 早志ひゆめ?

「どちらにせよこれは引き取れんよ。ゴミにもしないようにいわんといかん。果たして聞きいれてくれるか」

「どういうこと?」

「そのままにしてほしいと、こいつがゆうておる。わかるよ」

「ラは直さないでってこと?」

「鳴らせたくないんじゃないな。取っておきたい。そういうことだと」

「取っておきたい?」

「自分のものにしたい、といえばわかるか。自分の作ったものを自分で壊すのと一緒だよ。そうすれば永久に自分のものになる。動いているものは止めたくなる。お前もそれで弾かなくなったんじゃないのか。自分の築いたもんを壊して」

「違うと思うけどなあ」

 破壊願望とは違うのだろうか。自分の作った最高傑作に自爆装置を仕込むマッドサイエンティストしか浮かばない。

「もう弾かんのか。わしが生きてるうちに何とかしとくれ」

 部屋の外に出る。これ以上その話題で盛り上がりたくなかった。結佐はリビングには見当たらない。

 メールが来ている。

 トルコだった。買い物か何かで出掛けたついでに曽祖父ピックアップを任じられたのだろうか。或いは捜されているのは俺の方かもしれない。駅にいる、としか書かれていないため目的が定かでないがきっと。

 気にしてくれているのだろう。

 亜州甫かなまのことも。早志ひゆめのことも。右柳めておはどう処理したのか想像がつかないが、叔母は葛藤を外に出さないタイプなので親友の出番は酒盛りの相手くらいだと思う。

 ごめんなさい。

 その意味は伝わっただろうか。

 玄関まではドア一枚。声がする。

 ドアがほんの少し開いていたという理由でそっとのぞく。誰だろう。まさか噂をすればなんとやらで例の天才博士ではないと思いたいが、結佐の背中でよく見えない。玄関付近が暗いせいだ。

「寄っていかれませんかその、お客さんももうすぐ」

「ピンポンダッシュしたろ思うたのになんでおるの。車あらへんのはレッカ移動なん? ホンマ紛らわしいわ」

「病院に置いたほうがはい、面倒でなくていいんですよ。駐車場代もえっと取られませんし」

「せこいなあ。あ、あかん。もう行かへんと。ほんなら、とっととくたばってね」

「え、ちょ、トルコさん?」玄関に出る。

「へ、なんで。ゆー君、ガッコ」

 トルコが玄関の靴を見遣って。

「あかんわ。ちいとも気づかへんかった。こないな平々凡々な靴履かんといて。これから買いに行こ」

「え、お知り合い?」

 トルコと? 結佐が??

「いろいろありましてね、はい。あ、大した関係じゃ」

「当たり前やん。大した関係やったら厭やわ。ゆーくん、ええから帰ろ。如何わしい精神分析されるよお」

「えっと、私の専門はですね」

「そないなことどうでもええの。みんな一緒やん心理学やの精神医学やの。ん、え、ちょお何? ピアノまだあるん?」

 また曲が聞こえてきた。

 曽祖父が暇潰しに弾いているのだろう。もしくはラ音が奪われた真意の末を対話中か。

「処分するゆうたやん。名残惜しうなったわけと」

「壊れてたらしいですね。ついさっきわかったくらいで、はい」

「え、どないなってるの?」

「実はお願いしましてねその、ゆーすけ君のところに。それにしてもそちらもお知り合いですかね、えっと親しそうですが」

「ちょお待って」トルコの顔が蒼褪める。「この杖、まさかゆー君」

「ひーじーさん」

「ひええ、おぞましい。ウチ帰るな。メールの返事はええよ。声掛けただけやさかいに」

「え、行っちゃうの?」

「あかんあかん。もとさま、おるんならもう」

「だからなんで?」

「ええの。ほんなら。さいならね」

「あ、ちょっと」

 そのまま逃げるように外に出てしまった。靴を履いて追いかける。トルコは車に乗り込もうとしていた。

 結佐が玄関のドアからぬうと顔を出す。

「何を慌てているんでしょうかね、その」

「ああも、退いたってよゆー君。いまウチは史上最悪最低のピンチなん。お姉さん助けると思うて。な?」

「ねえ、どういうことなの?」

「まああとでな。最後にゆー君忠告したるわ。あっちのインチキくさいセンセと付きおうたらあかんよう。はよう、もとさま連れて帰ったってね。さらばいね」

 無理矢理発車してしまった。

 様子がおかしい。

「せっかちな方ですね、ええ」

「あの、どういう」

 ご関係で。

「言ったでしょう大した関係ではないと、はあ。彼女、いま何をなさってるんでしょうかねえ。何やらね、すごい服でしたが。これからパーティでもあるんでしょうか。まだ日が高いのにねえ」

 あれが普段着なのだが世間一般ではそう認知されないらしい。

「えっとたぶん、ファッションデザイナです」

「はあ。まあ変わるものですね人というのは。その、なんといいますか、やはりそちらの会社とも」

「ええ、まあそんなとこです」

 結佐は妙に納得した面持ちでふんふんと頷く。家屋内に戻ってしまったのでそれに続く。

「教えてくださいよ」

「あちらに訊かれれば如何でしょうか、はい」

「ピアノのこと知ってましたけど。まさか同居人て」

「ご想像にね、お任せということで」

 いま思い出した。

 トルコの嫌いなもの。実家にいたときも絶対に手をつけなかった。結佐に押し付けられたマドレーヌも要らないと言われた。

 だがそんな。あり得ない。それだけはやめてほしい。そんな話は聞いていない。トルコは遥か昔から右柳めておの親友で、自分が生まれる前から右柳家と親交があって。その伝で実家に同居していて。だから結婚とか離婚とか掠りもしない悠々自適な独身生活をエンジョイというか。あの写真の女性だって全然面影が。それどころかまったくの別人と言ったほうがいいくらいで。

 曽祖父がリビングに来ていた。

「いいのかな。お客さんは」

「はい、ええ。顔を見せてくれただけでして」

「先生。ご実家はどちらですかな」

「三重ですよ」

「学部時代に可愛い女の子がおらんかったかな」

「その、ええと何のお話でしょうかね」

 曽祖父がテーブルの上を見遣って。

「とんだ嫌がらせですなあ。あんなものを出しておくからなあ、帰ってしまったじゃありませんか。可哀想に」

「お嫌いですか。失礼致しました、すぐに他のものを」

「ゆーすけ。帰るかな」曽祖父が言う。

「え、いいの?」

「また来てもいいですかな先生。今度はもう少しゆるりとお話をしたいもんですよ、この耄碌爺と」

「ピアノはどうしましょうかね、えっと」

「それまで封印することに決まったよ。いやあ長生きすると碌な拾いもんをせんですな先生。お互い死なんよう健康に気をつかわんとなあ。それでは今日はこの辺で。ほなさいなら」



     4


「珍しいじゃないか。長くなるなら後にしてくれ」

「ゆいをさんはドイツ人ですか」

 遠くで話し声。絶対会議中。

 わざと掛けてみた。

「幸か不幸か、ドイツに行く機会が多いからな」

「いくらの損失でしょうか」

「お前が取り戻すんだな。そういう話だろ」

「ゆいをさんは娼婦ですか」

「少なくともピアノを教えるために通わせたんじゃないな。それが不服だったならどうして言わなかった」

「ハスカイていう氏はどうせ斜交に座ってたからなんでしょ。日本国籍は父さんが?」

「要点だけ言え」

「父さんの愛人の中から異動になった。そうですね」

「俺はあんな女と寝た覚えはない。何が言いたい」

「そういうのは酷いです」

「ガキがどこぞで恋だの愛だの煩悶されるよりはマシだろ。そうだ。リハビリついでに新しいのを」

「性欲処理なら間に合ってます。それだけ伝えたくて」

 息の漏れる音。

「中学のとき付き合ってたつまらない女と復縁か」

「できればそうするつもりですが」

「男に見捨てられた可哀想な母親に、女手ひとつで育てられた可哀想な女だったな。単に同情の余地がある設定がいいだけだろ」

「そこまで知ってるならその男がどこにいるのかを調べては?」

「敵討ちでもするか」

「そんなことしません。生きてるんですね」

「さあな。世の中はそういう汚い男で満ちている。それより氷見ヒミはどうだ。話題性としては申し分ない」

「胸が小さいほうが好みなんです」

「それは知らなかった。なるほどハスカイじゃ不満だな」

「お墓はどこですか」

「海じゃないか。しかし新宿のあのホールは呪われてるな。お前の復活に併せて建て直しておく」

「俺がやめさせたせいで死んだんですか」

「退職金は腐るほど渡したがな。さっさと故郷に帰っていればよかったものを」

「二度とそういうことはしないで下さい。それを守っていただけるならもう一度鍵盤を叩きます」

「スキャンダルならもう少し派手なほうがいい。悪いことは言わない。あんな平凡な女はやめろ」

「男ならもっとスキャンダルですね」

「出来るのか。まあその気があるなら止めないが」

「俺は母さんの身代わりとしてピアノを弾いてるんじゃありませんから」

「エイコの身代わり? 何故わざわざそんなことをしなきゃならない。似てるのは髪の色くらいだ」

「じゃあどうしてピアノなんですか」

「社名だよ。クラヴィアはドイツ語でピアノだ。ただそれだけのことだ。もちろん向いていなかったら他の道も考えたが思いの外大成功だったからな。売れたじゃないか」

「どうして俺を連れて帰ったんですか。兄さんもいたんでしょ」

「ケースケか。そうか、お前はまだ会ってないな。今度呼んでおく。あいつは俺に似てる」

「やっぱり母さんの身代わりなんですね」

「そうは言ってない。エイコが要らないほうを持って帰っただけのことだ。ふたりも育てられないと言われたんでな」

「母さんごと連れてこればよかったのに」

「俺はドイツに住みたくない。エイコはドイツに住みたい。妥協点はそれしかないな」



     5


「そっちは朝ですか」

「何してた。まさか今起きたんじゃないだろうな」

 着信音で目が覚めたことは黙っておこう。

「そっちどうですか。春ですよね」

「寝ぼけてないか。やっぱり」

「違いますって。え、どうしたんです?」

 厳かな沈黙。

「戻るんだってな」

「あ、えっと。どうして」

「社長から聞いた。いつだ」

「ううん、そこまではまだ。一応突然復活ていうシナリオらしいんで、はい。いろいろと準備が水面下で」

「亜州甫さんのおかげか」

「ともる様のおかげですよ」

「そういうことは言わなくていい。まったく、だからお調子者だと思われるんだ」

「お調子もんですよ」

 きっと眉をひそめている。

 電波状態が悪いので窓に近づく。

 風が心地よい。

「亜州甫さんはどうなった」

「病院が他所に移ったようで。俺もあの日以来」

 これは大嘘。

 本当は結佐に唆されてこっそり会いに行っている。最新の記憶に寄るならエレベータの要らない建物。止められるのがわかっていたので北廉えとりにすら内緒にしているが絶対バレている。

 天才博士の弟。

 知らないことなどない。

「元気なのか」

「だと思いますよ。えっと希望的観測ですが」

「そうか。またピアノを聴ければいいな」

「また誘っていただけますか」

「今度は夏にしてもらえ」

「寒いの厭ですもんね」

「あれから彫刻家に会ったか」

「いえ、それほど親しいわけでもないし。行方知れずらしいですよ」

 これは本当。

 だが右柳めておはわからない。何らかのアプローチを取っているかもしれないが、軽井沢のアトリエにはいないらしい。あの土地は売れないと思う。もしかしたら土地の権利は持ったまま建物だけ捨てていったのだろうか。

 行方不明。

 だとは思えない。

「何か知ってないか」

「何をでしょう」

「いや、知らないならいいんだ。悪かったな。復活の日が決まったら絶対に教えろよ。一番いい席で鑑賞してやるからな」

「亜州甫さんの隣ですね」

「ああ、もう指定なのか。じゃあ二番目でいい。一番前の席だからな」

「社長に相談してくださいよ」

「お前が言え。親子だろ。そういうのをコネと言うんだ」

「憶えておきます」

「じゃあな。元気でやれよ」

「ともる様こそ。もう二度と事件に首突っ込んじゃ駄目ですよ。泣きを見るのは」

「うるさい。そんなことはわかってる。ちーろは探偵じゃなかった。ちっとも解決できてないじゃないか。後手だし大事なことは黙ってるし。まったく使えない」

「でも護衛としては最高ですね。お父さんはどうやって見つけてきたんでしょうね」

「さあな。今度聞いとく」

 笑う。

 笑ってる。

「俺もフランス行こうかなあ」

「寒いぞ」

「ともる様よりは寒さに強いですよって」

「言うな」

「ともる様は大学行きますか」

「お前は」

「わかりません」

「は?」

「ともる様はドイツに行ったことありますか」

「ああ、近いからな。今度そっちでコンクールもあるし」

「ドイツってドイツ語ですよね」

「まあそうだろうな」

「へえ」

「なんだ。何が言いたい」

「いえ。後学のためにちょっと」

「R学園は修学旅行がドイツなのか」

「いえ、京都奈良です。ビバ古都ですよ」

「はあ? おい、お前」

 以心伝心会話。

 大丈夫か。

 心配ご無用。

「実は来週に出発なんですよ。おみやげ要ります?」



     6


 桜吹雪の中を駆ける。

 最高にカッコよさそうな下りだが実際ちっともカッコよくない。油断した。春爛漫イコール花粉爛漫だった。

 鼻水が止まらない。眼が痒い。擦ってしまいたいのだがそうするとコンタクトがずれてしまう。そっちのほうが一大事。だから我慢して目薬を差しまくる。よって自動的に塩っぽい液体が口に流れてくる。急いでいるせいか上手く差せないのだ。鼻と口の関係は知っていたが目も繋がっていたのか。なんとも厄介な構造だ。

 全国的な桜の名所だけあって走っても走っても人だらけ。海外からの観光客もすこぶる多い。髪の色が彼らに何らかの親近感を憶えさせているらしくシャッタ押し依頼をもう何十回と頼まれている。こちらは急いでいるのに。そういうときに限って道も尋ねられる。知るわけがない。こちらとて観光客だ。

 しかしさすが天下のお人好し。見上げたもんだと自分でも感心するよ、右柳ゆーすけ。

「もう少し中央に寄ってください」

 をジェスチャで伝える。ゲルマン系の顔をしているが英語を話していた。ほんの少しだけ聞き取れたことが妙に嬉しい。

 なるほど。その手もあるのか。

 英語、と思う。

 カメラを返してまた走る。お礼は日本語だった。それもちょっと嬉しい。くしゃみばかり出て肋骨が危険だ。一本くらいいってしまってもおかしくないが誰かにおかしいと言ってほしい。旅行先で病院だなんて絶対に厭だ。後々の笑い者必須である。そこまでおチャラけキャラになった覚えはない。

 ようやく目的の場所。長くて大きな橋の片岸。

 欄干に片手をのせて、花弁が流れゆく水面を見つめている。

 漆のような黒い髪。頭の上部で纏めている。着物は黒地に白い文様。花だと思うが如何せん名前がわからない。帯は鮮やかな濃緋。

 ゆっくり振り返る。

「遅かったですね」

「すみません。運命的に人を待たせてしまう性質らしく」

 ここまで来るのに何十人とすれ違った女性たちと違って顔に白粉はないが透き通るように白い。まるで雪のようだ、という陳腐な形容を思いついたので却下。唇も不自然でないくらいに薄っすら何かが塗られている。

「修学旅行ですか」

「班行動からはぐれて道に迷った挙句携帯電話のバッテリィも切れたどうしようもないヤツ、という運びを想定しております」

「処罰はあるの?」

「班員の心の広さにかかってますね」

「上手く行くようお祈りしています」

 足元も花びらだらけ。

「歩きましょう」

「どこまでですか」

「桜のないところまで」

「それは難しいですね」

「桜は好きですか」

「散り際なら」

「私もそうです。こんな満開はちょっとね」

 人力車がすぐ横を通っていった。車も速度を落とさず通過する。人が轢かれそうな光景が間近。

「修学旅行はいつまでですか」

「えっと」

 しまった。

 スケジュールは欠片も頭に入っていない。何泊何日なのかすら思い出せない。すべて班員任せだとこういうことになる。泊まっているホテルまで帰れるだろうか。

「気を遣わなくて結構ですよ」

 バス転落。

「いえ、本当にわからなくて」

「では質問を変えましょう。どこを観てこられましたか」

 困った。

 そちらの設問のほうが難しい。寺と神社、としか答えられない。ただ流されるままに付いてきて、流されるままに景色をぼんやり眺める。花粉症のせいにしても責任転嫁甚だしい。

「すみません。わかりません」

 橋の中ほどまで来た。

 止まる。

「指は完成しました」

「え、俺の」

「見ますか。少し歩きますが」

 作品の一部に。

「いや、やめときます」

「カラス君の指もありますよ」

「え、実物じゃないでしょうね」

「確かめてみては?」

 大量の桜が運ばれていく。

 目的地は。海か。

「海の見える家にいます」

「アトリエも」

「もちろん。いまから雪が楽しみですわ」

「春にも降るんじゃないですか」

「どうでしょうか。そうだったら素敵ですね」

「ピアノを弾けますか」

「押せば鳴ります。鍵盤ですから」

「ピアニストになりたかったって」

「そんな時期もありました。カラス君のほうが上手でしょう? それで満足です」

「ピアノの先生だったんですか」

「そういうときもありました。だいぶ昔ですけど」

「ユサ先生とは」

 口元が上がる。

「それは大人の事情ですよ」

「結婚してたって」

「ミヤギ先生にはそう言いました。あまりにも私のことを詮索なさるのでつい」

「離婚というのは嘘ですか」

「結婚をしなければ離婚は出来ません」

 雪かと思った。

 桜だ。

 似ている。人間のいる場所まで到達する動きがそっくり。

 降る。散る。

 言葉も似ている。

「どうして場所がわかったんですか」

「指のこと? そうね。どうしてでしょう」

「地名ですか」

「カラス君らしい選択です。あのお名前はとても素敵。それを私に伝えたかったのでしょう」

 朝霞。

 春日部。

 浦和。

 川崎。

 新宿。

「最後のは残念ですね。入間、もしくは熊谷あたりにしておけばよかったのに。あんな危険なことをして」

「あなたに気づいてほしかったんです」

 きっと最終手段。

「気づいていましたよ。箱根の時に見たでしょう」

「ならどうして」

「カラス君だって私が捕まっても気づかなかった。どうしてだと思います?」

「ハヤシひゆめは偽名ですね。だから」

「偽名と本名に差異はある?」

 橋を渡りきった。赤い布のかかったベンチがたくさんあるが、どこも人で埋まっている。その脇を通って河辺に降りる。

「これからどうなさるおつもりですか」

「娘も死んでしまいましたからね。ひとりです」

「本当の娘なんですか」

「本物と偽者に差異はありますか」

「わかりません」

「紛れもなく私の娘です」

「ユサ先生の?」

「どうでしょう」

「亜州甫さんの?」

「調べてみては?」

「両方ですね」

 早志ひゆめは。

「エイヘンえんでさん」

 左手を握る。

 冷たい。指はツララだった。

「カラス君に聞かれましたか。それとも先生?」

「トルコさんです」

 遊離する想い。

 かつ消えかつ結びて。それは泡ではなく。

「言いにくいのですが、ユサ先生はあなたのことはそれほど」

「私のせいで離婚されたのよ。その、トルコさんといいますのねお名前は。めておさんが付けられたのでしょう、素敵」

 散る散る。満ちる。

 まるで雪。

 雪だろう。雪にしか思えない。

「フィンは指ではありませんのよ」

「フィーネ、ですか。曲の終わりの」

「永遠の欠片と書いてナガカタとも読みますが、私はエイヘンのほうが気に入ってた。エイヘンは嬰変ですから」

 くしゃみが出そうなのを我慢する。

 よほど変な顔だったらしい。笑われた。

「一番最初の作品は小学校の図工の時間。糸鋸って案外指を持って行きたがるの。板を切っていたときだったかしら。クラスメイトの指が飛んだわ。その子は痛がっていたけど私は見捨てて指を拾いに行きました。図工室の隅に中指が転がっていたの。その子、どうしちゃったかしらね」

「バスのときも?」

「もう何年になるのでしょう。運転手さんが居眠りでもしたのかしら。海に転落したの。他の子はもうほとんど死んでいてね。だから指だけ持って帰って。遺体は海に」

 生き残った唯一の生徒は。

 彼岸人の指を手に入れる。

「探偵さんはさすがですね。どうしてわかったのかしら」

「図工の時間に指を切ったせいで修学旅行に行かれなかったからじゃないでしょうか」

 指が。

 離れる。

「出鱈目ね」

「出鱈目です」

「探偵さん、両手に包帯をしてらしたでしょう。あながち嘘でもないかもしれませんね」

 微笑。

 雪と桜の差はない。

「返しませんよ。私の作品ですから」

 白と黒は。

 復って。

 旋って。

 ナチュラル。

 本位記号。

 本意はたまよばい。

 霊魂たましいの淵から深海の果てまで。

「海はやめたほうがいいですよ」

「海がいいの」

「運転手の手元はあなたが狂わせた。そんな都合のいいバスは出ていない」

「そっくりカラス君に言っておいて。私がいなくなったら間違いなく真似をする。何のために入院させているのかわからないわ」

 天才博士。

 修学旅行。

「海に飛び込むために頼んだんですか。外に出たのは」

「法律のことはよくわからないの。でも本当みたいね。先生も仰ってたわ。あなたと関わると死にたくなくなるって」

 聞こえる。

 海を奏でる。

「先生に分析していただきたくて無理を言ってお家においてもらったことがありました。すぐに追い出されたのだけど、アトリエにいたときに別れを言うためにわざわざ来てくださって。そのあとも場所こそ陰険でしたがずっと付きっ切りで私を診てくださって。そのときにね、ようやく私を分析してくださったのだけど、ふふふ何て仰ったと思います? 指を切り落とすのは去勢なんですって。莫迦みたいだと思いません? まるで私がありもしない自らの男性性器を取り去りたくて仕方ないみたい。去勢したらしたで要らない性器を捨てるのかと思えば私はそれを作品として蒐集している。でもそれは欲しかったわけではなく没収したにすぎないのだそうよ。悔しいんですって。切り落としても切り落としてもなくならない。いわば象徴的去勢。私が本当に切り落としたいのはありもしない私の男性性器。もう、わけがわからなくて。先生ふざけていらっしゃるのね。口から出るのはいつも虚言ばかり。絶対に本心を教えてくださらないの。どうして結婚なんかなさったのかしら。先生には結婚という制度は向かない。愛人がいたのに結婚なさったのよ。だから私はそれを奥様に教えて差し上げただけなのに、怨まれるのはお門違いでしょう? 先生は私のことが嫌いなんです。私がピアノ講師をしていたときも練習してこないカラス君を叱ったらそれをやめろと仰るの。どうして先生に口を出されなければいけないのかわからなかったけど、今思えば単にカラス君を庇っていらっしゃっただけだったのね。でも先生も先生です。あの時カラス君はいくつだったと思います? 中学生になったばかり。そんな子に薬を盛って無理矢理組み敷くのもどうかと思いますけど、うふふふ。もう可笑しくて。去勢ですよ去勢。どうしてそういう勝手なことを仰るのか全然わからないの。意地悪しているのよね先生」

 凪ぎ。

「先生のことは私だけの秘密にしようと思ってたのに。どうしてかしらね。あなたには何でも話してしまいたくなる。そうでした。これも先生が仰っていました。さすがですね先生」

 波並み。

 笑う。嗤う。

「ハヤシひゆめのお名前は拡まって?」

「やっぱり。ヤギくーん」

 聞き覚えのある声がして振り返る。

 制服の女子集団。といっても二人以上は集団なのであしからず。そのうちのひとりが両手を振りながら走ってくる。

「へ?? れっくん?」

「そっちも修旅? 奇遇だね」

 氷見ヒミれくとだった。高校は私服以外あり得ないと言っていたのに、なんちゃって制服だろうかそれは。白いセータに淡い水色のブラウス。細めのリボンはスカートは同じ柄。チェックのスカートの丈がやけに短い気がするが、向こうにいるお仲間も大差ないので、これが彼女の標準なのかもしれない。

「え、お仕事は?」

「こんな楽しい日にするわけないじゃん。それより聞いたよ、天使の」

「ちょ、ダメだって。これトップシークレット」

「そうなの? あっちゃあ。もう話しちゃったよ、あの子らに」

「うっそお」

「あー、じゃ訂正して」

「無理だって」

 なんだかどっと疲れた。何もこんなところで氷見に会わなくてもいいと思う。エネルギィ吸い取り型の彼女は早く、と急かす友だちにすぐ行く、と返事する。

「というわけでごめん。これから回るとこいっぱいあって」

「だろうね。楽しんどいでよ」

「ううん、その言い方だとヤギ君は楽しくないみたいだぞ? ダメダメ。高校最大の思い出作りだからね」

「わかりました」

 氷見が見えなくなってから、早志ひゆめがいた辺りの場所を見たが誰もいなかった。

 橋の上で周囲を見渡す。それらしい着物の女性は見当たらない。氷見が呼びかけた時点でいなくなっていたものと見ていいだろう。目敏い氷見に尋ねられないので変だな、と思っていた。

 出来れば海から遠いところにいてほしい。

 雪女は海に入ったら溶けてしまうのだから。

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SEA and So on 神淵の踪音 伏潮朱遺 @fushiwo41

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