第7話 His Besuch 音ずれて訪れて

     1


 音が吸い取られる。

 無音の世界で。

 無色の夜を食む。

 天は黒。

 地は白。

 混じることのない境界で。

 淵を辿って。

 道を踏み外す。

 闇に白い息。

 光に黒い跡。

 頼りになるのは。

 プリンの如き脳細胞だけ。

 記憶は残らずデリート。

 勘アンテナがへし折れ。

 経験はシミュラークルと化す。

 オリジナル無き模倣が。

 繰るって。

 狂って。

 心地よい麻痺。

 感覚が末端から消え失せ。

 もうすぐ中枢も。

 耐えて。

 絶えて。

 音。

 ツララが落ちた。

 姿はない。

 壊れた音がする。

 急勾配。

 転落する快楽。

 靴の裏では心許ない。

 十本の指。

 援護を頼む。

 滑り台。

 長い。

 永い。

 空から舞い降りるは。

 白き死者。

 黒き使者。

 寒風。

 熱風。

 廃墟の硝子。

 ヒビ入り。

 縦横無尽に。

 蜘蛛の巣が張り巡らされる。

 天井と床。

 冴え渡る氷に。

 隠遁されて。

 出現する結晶。

 迎え撃つ魔窟。

 鍾乳石と見紛う滝壺。

 留まって。

 覗く。

 家具は。

 迦具土にくべられて。

 炎が揺らめく。

 溶けて。

 融けて。

 時計のように。

 刻まれる。

 訪問者は。

 顔もない。

 名もない。

 幻影。

 限りなく気体に近い存在。

 期待されない。

 機体。

 廃れた螺旋を。

 巻いて。

 捲いて。

 捩れる。

 燃え上がる焔。

 ぱちぱち。

「おめでと」

「知ってたんですか」

「プロフィールはほぼコンプしちゃってる」

 隙間風。

 吹き付ける窓。

「外は大雪?」

「吹雪です」

「それで真っ白ね。傘も意味ない骨ってわけか」

 重力に打ち震える。

 哀れな椅子。

「何しに来てくれたの? ①“天使の妙音”は如何にしてピアノから遠ざかったか、を延々と論じてくれる。②“天使の妙音”復活最初の記念すべきバースデイ公演今夜実施につき出張サービス。③僕にべた惚れで脳に滾る想いを是非十七のお祝いに。どれ?」

「隠し④自殺を止めに来た、です」

 揺蕩う甘美。

 閃く魔境。

 前髪の合間から。

 虚ろな瞳。

「天使くんにはわかっちゃったわけね。いつ気づいたの?」

「七曲目が終わったときです」

 浄化と荒廃。

 交配と情火。

 震動する。

 神童。

 慕い。

 姿態。

 死体。

 したい。

「悪魔くんにさ、何て言って出てきたの?」

「寄る場所があるので先に帰ってください、と」

「へえ、そんなんで納得してもらえた?」

「怒号が飛ぶ前に全速力で逃げたんで」

 伝わったとは思ってない。

 伝達の意志がないから。

 受信できないはず。

「じゃあ尾行されてる?」

「寒がりなのでおそらく諦めたかと」

 黒き王族は。

 白き探偵に。

「よくわかってるんだね。いいなあ」

 足元が洪水。

 まるで海のよう。

「シィ・エンド・ソウ・オンのシィだけどさ、本当は海じゃなくてアルファベットのCなんだ」

「ハのCですか?」

「忘れちゃった。コピィかな」

 模造品。複製品。代替物。身代わり。

「ねえ、相手の子はさあ、何て言って誘ったの?」

「憶えてません」

「じゃ、君が誘った?」

「それはないですね」

「服脱いでよ」

「いや、寒いんで」

「風邪引いちゃうよ。乾かしたほうがいい」

 指差し。

「あっちにね、ガタがきた洗濯機があるから」

「乾燥機は」

「僕に似て気紛れだからね。動いてくれるかな」

 壁を頼りに進む。

 円形の鏡は。

 遠景を映して。

「折角だから僕も脱ごうかな」

「あの、折角の意味がよく」

 視覚増強中につき。

 増えて。

 殖えて。

 不得手。

「結構プレイボーイなんじゃないの?」

「確実に勘違いですね」

「んじゃあ、素で接してよ。それが見たい」

 形骸の骸に。

 魂は宿っていない。

 レプリカ。

 消しゴムを連想させる。

 素肌。

「寒いですよ?」

「こうすればいいじゃん」

 背筋が凍りつく。

「③は厭なんですけど」

「①も②も厭なくせにね。隠し④なんて認めらんないし」

「③て具体的に何をするんでしょうか」

「肉欲」

「離れてください」

「振り払えばいいよ」

「出来ないのわかって言ってますね」

「そ、弱みに付け込んでるわけ。なんなら心中しちゃう?」

 一緒に死んでくれない?

 本当だ。よく似ている。

 さすが精神科医。

「寝れば自殺はやめてもらえますか?」

「どだろ。やってから考えるよ」

「今の状況だと選択肢は一つってことですね」

「増えるかなあ。君のテク次第、とでも言っちゃおっか」

「自信ないですね」

 回転。

 舞わって。

 廻って。

 指を。

 口に。

「僕は中指が好きなんだ。箸を持つときもシャープペンを持つときも人差し指を宙に浮かせて、中指と薬指の間に挟む。持ち方がおかしいって親に何度も注意されたけど、直す気なんかなかった。スイッチだってコンタクトだって中指を使う。キーボードを叩くのもほとんど中指だよ。でもピアノだけはそうはいかない」

「連続性が必要だから、ですね」

 唾液。

 滴るのは。透明というより。

 鈍色の琥珀。

「悪魔くんの域に達せたなら案外上手くいくかもしれないけど、生憎僕の指はちっとも動かないし、楽譜を読むのも時間がかかる。これがドだからえっと、て数えていかないとわからない。ピアノを始めたのは三歳だけど曲を奏でるというよりは、楽しく歌ったりメロディを聞いてそっくりなぞるのがほとんどだったからさ。グループレッスンて知ってる? もう流行りじゃないのかな。だから耳だけは自信がある。絶対音感とか相対音感とかそういうんじゃなくてね、なんていうのかな。音色に執着するって言うんだと思う。完全に聴覚中毒だよ」

「えっと、グループなんとかっていうのは」

「やっぱ知らないんだね。困ったなあ。何から来る差異だろう。君は先生と一対一でしょ。そうじゃないんだ。子どもがわらわら七、八に対して先生はたった一人。狭い教室にね、真っ白のエレクトーンが十台くらいきつきつであるんだ。あらかじめ五線譜の書かれたホワイトボードの真ん前に先生の真っ黒なエレクトーンがあってね。そっちのほうが断然性能がよかった。どーんと大きかったしね。でも僕はエレクトーンは好きじゃなかった。真っ黒いエレクトーンの右にね、それよりもっと黒いピアノがあったんだ。アップライトタイプだったけど先生だけそれが弾ける。だから僕はいつも、ピアノがよく見えるエレクトーンを取った。先生に近いってのもあったからたいてい競争だったんだけどほぼ指定席になったよ」

「そういう施設ってことですよね」

「ぼろい建物でね。ここみたいにびゅうびゅう隙間風が入ってくる。借りてたんだと思う。アルミの安っぽいドアを開けるとつるつる滑る廊下が真っ直ぐに延びてて突き当りがトイレ。楽器を保管するための雑庫もあった。入り口のすぐ脇に変色した木造の下駄箱があってね、そこに靴を入れるんだ。スリッパに履き替えて右手の引き戸を開ける」

 機械の唸り。

 水流の渦。なにもかも。

 雪で霧散する。

「レッスンは週に二回だったかな。あんまり憶えてないけど母親が後ろで見てるんだよ。さながら参観日だよね。ピアノの後ろが開いてるから必然的にそこに集合するんだ。そうすると僕は針の筵なわけ。自分の子を見ればいいのに遠くてよく見えないから仕方なく僕を見るんだ。代わりに世話を焼いてくれたりしてね。その音じゃないよ、とか。わかってるよ、そんなこと」

「わざと間違えたとか」

「どうだったかな。一人だけ変な音出せばやり直しだからね。なんせグループで揃わなきゃいけない。今思えばよくもまあ協調性ゼロの僕が長々とそんなところにいたと感心するよ。小学校後半だったかな。そろそろグループレッスンは卒業だっていって個人レッスンに移行になった。今度は街中から外れて完全に民家の一軒家」

「通ってたってことですよね。先生がそこに住んでて」

「ううん。先生の家が遠かったからその家を借りてたんだ。真っ白いグランドピアノもあったしね」

「え、どういう」

 真っ白いグランドピアノ。

「その家自体は全然関係ないよ。別に先生の知り合いとかそういうんじゃなくて、なんていうのかなあ。空き部屋があるからそこを不動産屋に委託して賃貸に使うとか、そういう感じじゃない? 個人レッスンに移行する際も一緒にレッスンしてた子たちはバラバラに先生斡旋されてたし。やめちゃった子もいたかもね」

 両手の中指を。

 引っ張られる。

「いい指だなあ。僕のと取り替えたいくらい」

「面倒ですね」

「そうでもないよ。ほじょーちゃんの知り合いにスッゴイ腕のいいお医者さんがいるんだって。その人に頼もうか」

「もしかしてO病院の?」

「よく知ってるね。あ、そうか。そこで知り合ったんだっけ」

 生徒会長の知り合いの外科医。

 会ったことはないが噂だけなら。

「君はどうしてピアノを始めたの?」

「さあ、それがよく」

「社長さんの影響? あの人一応ピアニストじゃん」

 わからない。考えたくないだけだろうか。

「実はヒントを頼りに調べちゃったんだけどさあ。天使くんのお母さん、ドイツに住んでるんだって? 超有名な人じゃん。僕知ってたよ」

「兄もそうらしいです」

「お兄さんもいるんだ。へえ、そっくり?」

「いや、会ったことないんで」

「お母さんにも?」

「それは一回だけ」

 世界一にさせられたときに。

「レールが厭になった?」

「わかりません。でもピアノが弾きたくて始めた、てのとは一番縁遠い気がします」

「ふうん。僕はまさにそれ。どうしても弾きたい曲があってね。それを弾けるまでスキルを上げるぞ、て意気込んでね。個人レッスンになったからようやくって思ったんだけど。人生はそう上手くいかない」

「先生が厳しかったとか」

「それもあるね。結構スパルタでさ。練習してかないと何のために来たんだ、一週間無駄にして、て怒られたよ。ここへは練習をしに来てるんじゃない、練習の成果を見せに来てるんだ、とも口酸っぱく言われた。そんなこと言われたってね、厭だよ。練習は嫌いだし、音符なんか読みたくない。そういえば音符読むのが遅いって何度も叱られたよ。そういう練習してこなかったから仕方ないとか適当な理由をつけられたけど、どうでもいいよ。それに僕が弾きたいのはバイエルとかツェルニとかブルグミュラとかそんなんじゃない。そんな指の練習みたいなつまらない曲一生懸命弾いたって何の意味があるんだって思った。基本なんかね、後からついてくるよ」

「そればっか弾いてて、なかなか弾かせてもらえなかったってことでしょうか」

「当たり。気づいたら中学生になってた。それでもまだ駄目だって言うんだよ。ソナチネとかさ、どんどん出てくるわけ。いつまであるんだよこの階段。その頃かな、白いグランドピアノにさよならして先生の家に通うことになった」

 身体が冷える。歯が震える。

「これ被っていいよ。遭難したカップルみたいなことしよーよ」

「家具壊して燃やすんですか」

「蝋燭があるよ。これね、水に浮くんだ。ほらね。けっこうロマンティック」

 マッチ。燐のにおい。

 焦げ臭い。

 炎上。煙い。

 明かり。

「用意がいいですね」

「ケーキがなくてごめんね。僕ケーキ嫌いだから。さっさか吹き消していいよ」

「また今度にします」

「ううん残念。暗くなった瞬間に押し倒そうと思ったのになあ」

 浮かび上がる。

 水面。

 水と火は歩み寄れない。

 こんなに近くにいるのに。

「で、どうなりましたか。先生の家に移ってから」

「あれ、興味持ってくれてる? 嬉しいなあ。そこね、真っ白い家でね。完全に新築。でもあんまり広くなかったなあ。先生は結婚しててね。入るとすぐに階段があるんだ。でもそっちじゃなくて一階。リビングの先にある部屋。お洒落な窓があってね。これまた白いグランドピアノ。嫌な予感がしたよ。僕は黒いピアノのほうが好みなのに。実家にあったのは年代物のアップライトだけど黒かったし」

「その、ずっと弾きたかった曲は」

「なんとかね。いつだったかなあ。中学が半分以上終わってたかも。そんなに難しい曲じゃないんだよ。小学校で充分弾けるくらいの曲。友だちの妹が弾いてたの聞いたときはどうしようかと思ったね。その子いくつだったと思う? 聞いてビックリ。十歳にもなってない。これは卑怯っていうよりなんだろう。ううん、馬鹿馬鹿しくなった。だから独力で練習したよ。もちろん先生には内緒で。だって教えてもらったらまた時間がかかる。音符読めないだの、ここはこう弾くべきだ、とかね。思った通りに弾かせてくれないんだ。酷いときなんて独断で楽譜書き直しちゃうような人だった。でもそれがいまの僕に生かされてるのかもしれないね。額面どおりに弾くものか、てさ。天邪鬼なのかなあ」

 炎に翳す。

 指。

 変なにおいは蝋が溶けるせい。

「その曲って」

「言ったら弾いてくれる?」

「あ、じゃあ取り下げます」

「潔いっていうか、ううん、やっぱり腰抜けな感じだね。とにかく目的が叶っちゃったから、途端つまんなくなったんだ。だからやめちゃった。先生とはそれでお別れ。どうなったのかよくわかんない」

「てことは、やめてもう一回?」

「ピアノは好きだったみたいでね。自分なりにアレンジ加えて有名な曲は一通り弾いてみた。面白かったよ。横槍入れられないだけでここまで楽しいのかって思った。そうこうしてるうちに君たちの噂が聞こえてきた。スッゴイ小学生がいるってね」

 天使の妙音。

 悪魔の誘響。

「ともる様ですね」

「悪魔くんだけじゃないよ。天使くんだって。だいたい君たちのせいなんだ、僕の職業をピアニストにしちゃったのは。君たちに会うには、て考えたときにそれしか浮かばなかった」

「ミヤギ・クラヴィア社員てのは?」

「だめだめ。僕はスーツを着たくないから就職活動をしなかった人間だよ? 私服でもおっけー、かつ君たちに会える。これはもうピアニストしかないじゃん」

「だいぶ掛かりましたね」

「本当にそう。奇抜なことしてたら狙いどおり社長さんが目を付けてくれた。でもそのときすでに天使くんはピアニストやめるだのなんだのって大騒ぎの時期だったからね。なんとか悪魔くんとは接触できたけど君はさ、すっかり音沙汰なしでね。本社に殴りこみに行ってもよかったんだよ。僕の純真を散々弄びやがって、て」

 吸い込まれたのかと思った。

 闇に。

 違う。火が消えただけ。

 後頭部が冷たい。背中はもっと冷える。

 下腹部が重い。

「見える?」

「まだ」

「僕はよーく見える。この瞬間のために眼を瞑ってた。そろそろ限界なんだけど、どうする? ピアノ弾いてくれたら考えないでもないけど」

「じゃあどうぞ」

「そんなに厭?」

「そんなに厭です」

 撫でる。這う。

「ねえ、どうしてやめちゃったの?」

「①ですか。遠慮します」

“天使の妙音”は如何にしてピアノから遠ざかったか、を延々と論じてくれる。

「②はもっと厭なんだ」

“天使の妙音”復活最初の記念すべきバースデイ公演今夜実施につき出張サービス。

「そうなります」

「③ならいい?」

 僕にべた惚れで脳に滾る想いを是非十七のお祝いに。

「消去法ですが」

 軽くなった。明かりが戻る。

 煙い。

「深いね」

「どうですかね」

「僕がずっと弾きたかった曲さ、天使くんの十八番なんだ」

 上体を起こす。

 芯が凍りそう。

「初めて聞いたときはビックリしたよ。こんな優しい弾き方もあるんだって思った。楽屋で言ったこと憶えてる? 天使くんは行間を奏でるのが上手いってヤツ。悪魔くんは音を結集させて響きにするのが得意だから一つ一つの音はすごくドライ。だけど天使くんは音一つ一つを本当に大事にしてる。妙音てさ、そういう意味じゃないのかな」

「父さんから聞きましたか」

「やっぱり社長さんだったんだ命名。そんな気がしてた。あの人結構面白いよね。君に似てないのは反面教師だから?」

「そんなつもりはないんですけど」

 眼を擦る。ドライアイにはつらい。

 深夜。

「またコンタクト出す?」

「出したら眠っちゃいそうです」

「そのほうが都合いいなあ。ホテルを思い出すね」

「あの日、本当は何してたんですか」

 ドラッグストア。

 アルコールのにおい。

「あの日だけじゃないよ。君は生で二回も目撃してる。それでもあの日に拘りたい?」

 美術館のショウケース。

 グランドピアノの内部。

「寝た振りだったんですね。俺が眠ったの見計らって」

 腕が。肩に。

「やっちゃった」

「指は誰のものだったんですか」

「人間だよ」

 眩暈。駄目だ。

 女王と会話しているみたい。

「それでいいじゃん。もしかして場所のこと気になってる?」

「狙いがあったんでしょうか」

「君はどう考えるの?」

 息が熱いうちに届くほど。

 接近。

「誰に気づいて欲しかったんですか」

 スローモーションの。

 瞬き。

「もういいや。君が気づいてくれればそれで」

「ハヤシひゆめさんじゃないんですか?」

 停止。

 止まって。

 留まって。

 眼。

 あの時の。

 橋の上の。

 そっくり。

 止めたい。

 厭だ。

 あの人も。

 何とかなったんだから。

 きっと。

「ユサ先生の前の奥さんは」

「違うよ」

「じゃあ」

「そうじゃないんだ。そうじゃない」

 空洞の裂け目から。

 亀裂が走る。

 床を。

 見つめる。

「中指だけ偏愛してるのは僕。先生は指全般が好きなんだ。親指も人差し指も中指も薬指も小指も平等に愛してる。一本だけ作ることもしない。保管だって一緒のケースに仲良く並べるんだよ。だからフィン・ドゥア・モルなんていい名前で呼ばれて。君の叔母さんがつけたんだってね。僕もつけてもらえばよかった」

「頼んであげます。俺が言えば」

「そうだね。戒名にしてもらおう」

「ともる様はどうすればいいんですか」

「生で聴けたからもういいじゃん。あれが完成したら死のうと思ってたんだ。君たちが長野に来るなんて言うもんだからさ、予定よりもだいぶ長生きしちゃったな」

 イレイサ。触れればたちまち。

 消滅。

 構わない。

「服乾いたら出来るだけ遠くに行ったほうがいいよ。本当に心中したいんなら話は別だけどね」

「一緒に出てください」

「逃避行でもする?」

「アトリエの庭に埋まってた人は」

「天使じゃない?」

「誰の子なんですか」

「神の子」

「殺したのはアスウラさんですか?」

「そう思いたいなら思えばいいよ」

「ハヤシさんですか?」

「先生に聞けばどうかな」

「そう言ってます」

「なら信じてあげようよ。疑ってかかるのがさ、警察の仕事なんだと思うけど」

「あなたを庇ったんじゃないんですか。ハヤシさんはあなたの」

 電子音。

 しばらく已まない。

「終わったみたいだよ。取りに行こう」

 立ち上がる。移動。

 顔面に。

 絡まって。

「わ、え、なにこれ」

 粘性の。

 糸。

 意図が。

「気をつけてね。もともと壊すための住居だから」

「火事ですか」

「ボヤが出る」

「五人の焼死体が発見される」

「ひとり足りない」

「死なせません」

「じゃあ服なんか着ないでよ」

「ホテルに行きましょうか」

「ラブホ?」

「未成年でよければ」

 丸い鏡。ビビ割れている。

 なにひとつ。

 まともに動くものはない。

 服も湿っている。

「やっぱ駄目かあ。もう一回やれば上手くいくかな」

「ユサ先生の家に行きました」

「へえ、よく入れてくれたね。ほじょーちゃん、そういうの鬱陶しがるのに」

「そこでピアノを習ってたんじゃないんですか」

「誰に?」

「ユサ先生の前の奥さん」

 口元が。

 歪む。

「本当にほじょーちゃんが結婚してたと思う?」

「そう聞きましたけど」

「僕はそう聞いてない。誰かと一緒に住んでたってのは聞いた。知ってるはずだよ? ほじょーちゃん、虚言癖あるんだ。相手に合わせて一瞬で構築する嘘はホント綺麗。アラベスクみたいだよ。僕も以前は騙されたけどよく聴いてるとわかる」

「饒舌になりますね」

「そ。どっちかというと口数少ないほうだからね。そうしないと内部を保てないんだ。すぐに侵入されちゃうから」

「あなたも侵入したんですね」

「も? 他に誰?」

「前の奥さんです」

 響き渡る。空間を歪曲する。

 高笑い。

「結婚なんかしてないよ。するわけないじゃん。だってほじょーちゃん」

「アスウラさんが好きだから、ですか」

「違う違う。そうだったらちょこっとだけ嬉しいけど、もうどうでもいい。ひとりが好きなんだよ。誰にも入れない領域ってのは誰しも持ってるけど、ほじょーちゃんのは格別に大きい。だから結婚なんか出来ない。病院ですら浮いてるんだって。ひとりだけぷかぷか水面にいるんだ。みんなは海の底で楽しく集落を築いてるのに」

「淵にいる」

「うん。僕も淵にいる」

「ハヤシさんは」

「先生はいい場所にいる。そこに行きたかった。天より高くて海より深い。僕のいる淵なんか辺境だよ」

「何があったんですか」

「わかってるくせに。優しいね、わざと知らない振りして」

「お願いがあります」

「死なないで、とか駄目ね」

「弾いてくれませんか」

「何を?」

 連合を薄めるには新たな連合を形成すれば。

 いい。

「ベートーヴェンの」


     2


「怒らないでね」

「リクエストしたの、俺ですけど」

「まあ、そうだけどさ。また大声出されたら厭だから」

「あれは」

 フライング。

 まだ最初の音すら。

 鳴ってない。

 ラ。

「変な音」

「それって」

「ラが好きなんじゃないよ。ラは」

「中指で弾くから」

 ラ。

「読心術?」

「いや、そんな大層な術は」

 女王の得意技。

 これは仕組みが異なる。

 右柳ミヤギゆーすけのオリジナル。

「どうぞ」

「話しながらでいい?」

「器用ですね」

「使ってる場所が違うから」

 漆黒のグランドピアノ。

 椅子も黒い。

 もしかすると白鍵すら。

 黒いかも。

「ここまでどう?」

「全然違う」

 思えばあの時は。ステージ袖の不意打ちは。

 耳に入らないようにしていた。

「でしょ? 楽譜なんか読む気しないからCD聞いて音拾った。なんなら悪魔くんの十八番も弾いてあげようか?」

「それは一度聞きましたので」

「そだっけ? 記憶が混線してるんだ。じゃあの曲にしようか」

「ともる様作曲の?」

「うん。僕がタイトルつけた」

 しか聞き取れない。

 さっきもわからなかった。

 わざわざ文字に起こしてもらったのに。

 ドイツ語だから。

「それも聞きましたよ。ついさっき」

「おかしいなあ。どんどんわかんなくなってきてる。えっと、先生元気?」

「ハヤシさんですか」

「どこにいるの? 天?」

「会いに行きませんか。いまから」

「それもいいね。先生の近くにいれば安心なんだ」

 音が。

 ずれた。

 訪れ。

 染み込む。

 ことばは。

 いらない。

 化けるには。

 充分。

 堰き止められない。

 大量の。

 炎。

 沸騰しそうな。

 氷。

 揮発待ちの。

 雪。

「どうしたの? 泣いてる?」

 頬に手をやる。

 冷たい。

 手が冷たいせいかもしれない。

「コンタクトがずれたみたいです」

「せめて目薬とか言ってよ」

「ドライアイなんで」

 乾いた。

 笑い声。

「面白い子」

「本当ですって」

 伝説の名探偵なら。

 どうするだろうか。

 動けなくなっていた理由。

 ようやくわかる。

 誰も悪くない。

 結果だけ見れば。

 警察の仕事。

 裁判も必要。

 でもひとつは。

「時効ですよね」

「死体遺棄じゃないの?」

 早く。乾け。

「拍手は?」

 叩く。

「何の曲かわかりませんでした」

「だと思うよ。尾ヒレに胸ビレまで付けちゃったから」

「時限装置は何時に発火ですか」

「忘れちゃった」

 走る。

 暗い。

 喰らい。

 壁にぶつけた。

 コブなんか。

 いくつでも作ってやる。

 聞こえる。

 これはあの時の。

 新宿の。

 駄目だ。足が止まってしまう。

 脳が。

 情景が溢れて。

 まさか。あれを。

 聴いていた。

 いた。

 客席にいなければ知らない情報。

 金で揉み消した。

 天使の妙音に瑕は要らない。

 駄目。それはあとで。

 いまは。

 見つける。

 寒いとか。

 考えるな。

 音を。

 聴け。

 そうすれば。

 染み込んで。

 狂ってる。

 変な音だといったのは。

 そういう。

 まずい。戻れ。

「アスウラさん、もう」

「気づいた? 嬉しいな」

「やめてください。そこに」

「あと一曲くらい大丈夫だよ。僕が仕掛けたんだから」

 腕を摑んで。

 高く。

 多角。

 五角形。

「痛あい」

「離しません」

「どきどきするね、そういうの」

 腕を拘束したまま。

 乾燥機。

 ちょうど電子音。

「連れてってくれるの? 先生のところに」

「だから服を」

「凍死もいいね」

 びしょびしょじゃないだけマシ。

 コートを着れば気にならない。

「アスウラさん」

「着せてくれれば問題ないんじゃない?」

「逃げませんか」

「わかんない」

「どうすればいいんですか」

「どうもしないでいいよ。さようならとか言ってみる?」

「話します」

「何を?」

「やめた理由」

「①てこと?」

“天使の妙音”は如何にしてピアノから遠ざかったか、を延々と論じてくれる。

「②もやりますから」

“天使の妙音”復活最初の記念すべきバースデイ公演今夜実施につき出張サービス。

「それは嬉しいなあ。でももう遅いよ」

「遅くありません。まだ」

 首を。

 振って。

 降って。

「だめ。耐えられない。空気を吸うのも厭だ」

 口に。手を。

 摑む。

 寸前で。

「君のいないところで死ぬから」

「厭です」

「迷惑は掛からないよ」

「指紋が残ってます」

「残らず吹き飛ぶよ。頭蓋骨くらい残ればいいね」

 力を弱めて。

 衣装を。

「そうじゃないよ。下から」


     3


 膝まで埋まる積雪だった。

 外に出たはいいが坂が上れない。全面凍結と言う嫌味な言葉が瞼の上を重くさせる。

 叩く。

 頬。

「生き残りの蚊でもいた?」

「そんな感じです」

 見回す。時間がない。

 どれほどの規模かはわからないが。

 離れるに越したことはない。

「他に逃げ道ありませんか」

「わかんないよ」

「ハヤシさんに会いにいくんです」

「先生は僕なんか憶えてないよ」

 叫んでも意味なし。

 雪の精。呑み込まれる。

 電話。

「え、圏外?」

「だろうね。廃墟だし」

「電話ありませんか」

「文明の利器は乾燥機付洗濯機だけだね」

 已むを得まい。

「しっかり握っててください」

「力抜けちゃうよ」

 しゃがむ。

「のって」

「おんぶなんか久し振り」

「早く」

 肩に腕。確認して立ち上がる。

「厭きたら捨てていいよ」

「行きます」

 これでは乾かしたのが無駄。

 せめて両手が自由に使えれば安定するのに。

 傾斜が怨めしい。顔に雪が吹きつける。

 鼻の内部が凍る。

 眼が痛い。しばしばする。

 視覚増強の異物を外に出せ、と命令が来てる。

 ゴミが入ったのかもしれない。

 違う。眩しい。

 刺さるような。

 強烈な。

 光。

 黄色。粒子が見える。

 ヘッドライト。知らないナンバ。見覚えのない車種。

 ボンネットに雪が積もっている。

 少なくともまともな人間が乗っていないことは確か。

 どうする。

「あれ、あの車」

「知ってるんですか」

 のろのろ近づいてくる。

 フロントガラスが曇って。

 吹雪で視界最悪。

「ほじょーちゃんだ」

「え?」

 急停車。すぐにドアが開いた。

 傘は透明なビニール。

「間に合いましたか、ええ。よかった」

「先生、え、なんで」

「まあとにかく乗りましょう。その、積もる話はそれからで」

 背中の人間を後部座席に押し込む。

 車内は蒸すほど暑い。ドアを閉めてスタート。

「え、あの、どうしたんですか」

「言ったでしょう。私も長野に行くと、はい」

「でも」

 会場には。

「リサイタルにですね、行くと思いましたか。それでもよかったんですが、はあ、いろいろと寄る場所もあって」

 バックミラーで後ろを見ている。

「亜州甫君。その、まだ死なないで下さいね。どうしてこう、私の患者は決まって自殺願望が強いんでしょうかね、本当にねえ、困りますよ。院長に意見しましょうかね、面倒ですね」

 絶対に独り言だ。

「どうやって、ああえっと死ぬつもりだったんでしょうか」

「ピアノに爆弾が」

「過激ですね、はい。やはり亜州甫君らしい最期でしょうか」

「まだ死んでないんですけど」

「そうでしたか。それはすみません」

 横はぼんやり虚ろ。

 音は。

 聞こえていないかもしれない。

「先生の患者なんですか」

「そんな時期も、ええ、ありましたかね。はあ、その程度のよしみですよ」

「わかってたんですね」

「何をでしょう。その、いまいち」

 無理そうだ。糠に釘。

「スガちゃんに似てるってのはそういう意味だったんですか」

「あの、言ってる意味がその」

「俺なら止められると思ったんですか」

 自殺を。

「結果オーライでしょう、はい」

 悔しい。こっちは。

 どんな思いで。

「寒くないですかね、えっと」

「がんがん暖房お願いします」


     4


 雪の降り方はしんしんではない。そんな生易しい擬音は金輪際廃止すべきだと思う。

 再び鏡の間。溶けない氷の城。

「寒いですね」

「どうして言わなかった」

「言ったらついてきたでしょう」

 ともる様が口を斜めにする。

「謝ったほうが」

「いい。俺が行ったら亜州甫アスウラさんは」

 さすがとしか言いようがない。

 ぜんぶ透けている。

「陣内、時間がないんだ。わかってるな」鬼立キリュウが声を張り上げる。

 周囲を取り囲むのはツートンカラーの車。揃いも揃って頭に赤く光るライトを装備。それの点滅はやめてもらって正解。

 伝説の名探偵。

 最後の舞台。

「ともる様、やはり」

「しつこい。俺はここで聞く」

 ちーろさんは、一礼して部屋の隅にいる氷を見遣る。

「殺したのはあなたです」

 手錠で拘束されて椅子に固定されている。

 早志ハヤシひゆめ。

 須く視線が集まる。

「おい、どういうことだ」鬼立が全員の疑問を代表して訊く。「そいつは白と」

「白いだろ、雰囲気が」

 鬼立の口が裂ける。

「じゃあ、最初から」

「合ってる。残念だったな鬼立」

 緒仁和嵜オニワサキ龍華タチハナが息を呑み込む。

「それならなぜ」鬼立が食い下がる。

「言いたくなかった。いまも出来ることなら何も言いたくない」

 鬼立が距離を詰める。

「やる気あるのかって言ったのはどこの」

「俺は最初からない。お前らの仕事だ」

「いい加減にしろよ。猛吹雪の中こんなところまで呼び寄せておいて。掠りもしない管轄外に、しかも限りなく黒い容疑者連れてくるのがどれだけ」

「ちょっと警部、落ち着いて」龍華が間に入る。

 あの時の二の舞。

 ともる様は亜州甫かなまを。

 見ている。

「ハヤシひゆめ氏、代わりに話してくれませんか」ちーろさんが言う。

 俯いたまま動かない。

「ハヤシ氏」

「僕が話すよ」

「ああ、その、亜州甫君は」誰よりも早く結佐が反応する。

「誰も言いたくないなら僕が言えばいいじゃん」亜州甫かなまは、立ち上がって早志ひゆめに。

 対峙。

「忘れてますよね、先生」

 顔すら。

 上げない。

「やっぱり。駄目かあ。さっき死んどけばよかった」

 ツララのような。

 指。見ながら。

「あの雪の日、思い出せますか。盗んだのは僕です。どうしても欲しかった。あなたのステージに乗ってみたかった」

「亜州甫君、その」結佐が割って入る。

「もういいや。ほじょーちゃんも気づいてくれたし。天使くんだって、こんないい場所に案内してくれて」亜州甫かなまが、ちーろさんに向かって。「指を置いてったのは僕だよ。それを黙ってたかったんだよね、悪魔くんを傷つけたくないから。優しい探偵だね」

「持ち主は五つとも死体ですね」ちーろさんが言う。

「うん。そうみたい。知らない人の指。先生が」

「ちょっと待て。よく」鬼立が首を捻る。

 探偵は警部を見ずに。

 窓の外。

「先週一週間続いたあれは非連続だ。四件目の美術館と七件目の霊園以外はアスウラ氏による。そうですね」

「先生、ごめんなさい。返そうと思ったんですけど、居場所がわからなくて」

「馬鹿か。そんなことのために」

「鬼立、少し黙っててほしい」ちーろさんが言う。「やたすえ、次うるさくなったら外に放り出せないか」

「喜んで」満面の笑顔。

「龍華」

「雪の彫刻になりたいですか」

 鬼立はちーろさんと龍華に同量の怨念を送り込んでからそっぽを向いた。

「そうなると、除外された二件は」緒仁和嵜が肩を竦めて言う。

「ハヤシ氏。そろそろ話しませんか」ちーろさんが言う。

「先生」亜州甫かなまも言う。

 漆黒の髪が表情を覆っている。

「庇ったわけじゃないことはわかってます」ちーろさんが言う。「庭に埋まってた人間はあなたの娘ですね」

「そうです」

 ツララが。

 砕けた。

「私が殺しました。両手の中指を切り取ったのも私です」

「欲しかったのは中指ですか」ちーろさんが言う。

「いいえ。すべての指です」

 軋む。歯車。

「切り取れなかったんですか。切り取らなかったんですか」

「差がありますか。そのふたつに」

「娘は作品ではありません」

「作品です」

「雪に埋めたのもその一環ですね」

「もともと雪だったんです。指以外は」

「では指はなんなのですか」

 瞳で。

 凍りつく。

「作品です」早志ひゆめが言う。

 指しか。

 見えていない。

「嫉妬ですか」ちーろさんが言う。

「どうしてでしょう」

「アスウラ氏に先を越された悔しさに、あなたも」

 美術館。霊園。

 娘の指を。

「先生」

「カラス君なの?」

 亜州甫かなまが膝を折る。

「憶えてて、くれたんですね」

「ピアノは」

「ついさっき終わって」

「呼んでくれなかったのですね」

「とても聞かせられるようなものじゃなくて」

「どうして便乗したんですか」ちーろさんが訊く。

 目線。上に。

「許せなかったんですね。彼の名だから」

「理由をつけていただけるの?」早志ひゆめが言う。「そうですね。それなら一番理解されやすいです。皆さんにはそう仰ってください」

「芸術活動の」

「それもわかりやすいです。多面的な視野をお持ちですね」

 探偵が顔を背ける。

「何をしたかったんですか」

「探偵サンなんですよね。推理なさってください」

「わからないんです」

「わからないままではいけないの?」

「終わりにしたい」

 風の轟音。

 雪。

「人を殺したことはありますか」早志ひゆめが訊く。

「殺されかけたことなら」ちーろさんが言う。

「では視点の転換が可能です。あなたを殺そうとなさった方の気持ちになってみては?」

「何も」

「考えていなかった、と?」

 ちーろさんが頷く。

「死のうと思われたことは?」早志ひゆめが訊く。

「答えられません」ちーろさんが言う。

「ナカヤ君がいらっしゃるものね。無理なさらないで」

 王様はじっと。

 見ている。

「あります」ちーろさんが言葉を吐き出す。

「やめたのですね」早志ひゆめが言う。

「結論から言うとそうなります」

「ナカヤ君のおかげでしょうか」

「答えられません」

 微笑。水面がほんの少しだけ。

 凍結しただけ。

「ゆーすけ君」早志ひゆめが言う。「めておさんに謝りたいのです。伝えておいてもらえますか。ごめんなさい、と」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味です。ごめんなさい、だけ」

 ショウケース。

「俺は証人だったんでしょうか」

「そう考えてもらって構いません。あなたの指は、まだ飾れていないの。それだけ心残り」

「作ればいいじゃないですか」

「乱暴な言い方ですね。探偵サン、霊園の件はおわかりになりましたか」

「アリバイですか。最初からありませんよ。霊園に埋めたのは日曜じゃなかったんですから」

 柔和。

 粉雪のよう。

「あのお墓は毎週日曜に必ずお墓参りにいらっしゃるの。よかった。お彼岸が次の日だったでしょう? だから心配だったの」

「どこまでが計算ですか」ちーろさんが言う。

「偶然と必然に差異があるかしら」

「アスウラ氏」ちーろさんが言う。「本当の順番は、朝霞、春日部、浦和、川崎――いや、神奈川か、新宿じゃないんですか」

 龍華がPC画面から眼を離す。

「まさか、あの順番は」

「埼玉、神奈川という並びは単に発見された順序だ」

「そんな、え、そうなると」緒仁和嵜が画面をのぞく。「埼玉、埼玉、埼玉、神奈川、東京じゃない。うそ。ちっとも」

 法則性がない。

「四件目はハヤシさんがってことですよね」第二発見者として言っておこうと思う。

「私以外にいますか」早志ひゆめが言う。

 亜州甫かなまが歓喜と恍惚の表情を浮かべる。

「発見された順番がちょうど埼玉、神奈川、埼玉ときていたからちょうどいいと思ったんですか」ちーろさんが続ける。「次に自分があの美術館に置けば連続性が保たれるのだと。五件目が春日部になるから」

「そこまでわかりません」早志ひゆめが言う。「でも一週間、一日一本指が発見されれば素敵でしょう? カラス君の穴を埋めた、とでも考えられたら如何ですか」

「日曜は完全に狙い通りでしたね。あの墓の持ち主は」

「せっかくカラス君が土曜にピアノの中から取り出してくれるつもりなのですから、私も参加したかったの。そう思ってもいいわ」

「わかっていたんですか。指を置いていったのが彼なのだと」

「だって他にいません」早志ひゆめが眼差しを向ける。「カラス君、よく話してくれましたね。盗むくらいなら直接言ってくれれば良かったのに。あなたの作品を分けて下さい、と」

 指に。

 触れて。

「僕が死んだら、先生の棚に飾ってくれませんか」亜州甫かなまが言う。

「焼身自殺はやめてくださいね。残らないわ、なにも」

「天使はどうやって?」

「気づいたら冷たかったわ。そういうのがいいの」

 中指で。

「Aがいっぱいね」早志ひゆめが言うと。

 す、と。

 憑り付かれたように。

 立ち上がって。氷の鏡を。

 割る。

 外へ。

 ちーろさんが駆けて。

「アスウラかなま!」

 窓を開けて。

 外に。

 間もなく。

 鬼立も追って。

「警部!」緒仁和嵜が叫ぶ。

 ここは二階。

 そちらは崖。

 待機もいない。

 声が吸い込まれる。

 声なき声。

 落下。

 応援すら遅い。

 猛吹雪。暴風が吹き抜ける。

 ともる様は動けない。窓の外をのぞくのがやっと。

「五人、いや六人も同じようにして?」龍華が早志ひゆめに言う。

「娘は私が殺しました」

「では五人ですね」

「どうだったかしら。転がっていた死体から切り落としたのは憶えているけど。可哀想に。不慮の事故ですのよ、みんな」

「あなたが殺したんじゃなくてですか?」

「そんなに前のこと、憶えていません」

「時効なんですね」

「このつまらない金属、早く外してください。粘土が捏ねられませんの」

「娘さんは人間ですよ?」

「当たり前のことを仰るのですね刑事さん。あなたは行かなくてよろしい?」

「伝説の名探偵と我らがボスが組めば不可能はありません」

 白い塊が雪の女王を中心に舞をまう。

 さながら融合を求めるが如く。

 胎内に。

 還って。

 孵って。

「私はもう一度新聞に載りますか」

 緒仁和嵜が睨みつける。

「そうでしょうね。こないだの比じゃありませんよ。テレビだって週刊誌だって電車の中吊りだって、あなたの名前でいっぱいになります。どうですか? それでご満足?」

「お名前は?」

「緒仁和嵜りさきです」

「素敵なお名前。嬉しいです。あなたが一番私に近いわ。性別ではありません。おわかりですか?」

「ええ、わかりたくもありませんね。大嫌いです、そういうの」

「そういうの、というのは?」

「娘の価値を指にしか見出していない人よ」

「あなたも娘がいらっしゃる?」

「言わなきゃいけない?」

「いえ、黙秘で構いません。質問してもよろしい?」

「生憎私はね、人を殺したことも、死にたいと思ったこともないのよ」

「わかります。生にしがみ付かれていらっしゃるお顔ですから。私が尋ねたいのはそうではありません。あなたは人間の価値をどこに置いていますか? 指ではいけないみたいだから」

「脳ならいいのかしら。それとも思想?」

「どうしてそんなに怒っていらっしゃるの? 気にらないことがあるなら言ってください。善処しましょう」

「最悪よ、あなた」

 微笑む。穏やかな白。

 黒を滅する白。

 そうか。

 探偵が白だといったのは。

 そういう。

「先生、お久し振りですね」早志ひゆめが結佐に言う。

「ああ、ええ。わざと話し掛けられないものだとね、思っていましたが、そうですか。邪魔者をね、なるほど」

「お元気そうでなによりです。ピアノは処分されましたか」

「それはですね、はあ。近々ですかね」

「まだ焼き菓子が届きますか」

「困りますよその、私には口がひとつしかない。目も耳もふたつずつしかないのにですね。まあ、鼻はひとつですが」

「何を仰りたいのか、ちっともわかりませんわ」

「ええ、私にもその、皆目見当つきませんね」

「先生」

「あなたの先生になった覚えはですね、ありませんが」

「あの時の問い、憶えていらっしゃる?」

「さあ、亜州甫君と勘違いしていませんか、えっと」

「前の奥さんはお元気?」

「死んだという報せもその、届きませんのでね、はい。順風満帆ではないかと」

「つい先日お会いしましたわ。とてもお元気そうで。再婚はなされていないみたいですの。忘れられないんじゃないでしょうか」

「私への怨みですか、はあ、それは迷惑な話ですね」

「何か仰ってください」

「何も、えっとありませんがね。まあ期待されているのならひとつだけ」

「なんでしょう」

 鼻をすすって。

 わざらしく。

 くしゃみ。

「窓を、閉めませんか、ええ。凍えそうですよ」

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