第6話 Aisle Assoziation 弾いて攣いて
1
七本目は陣内の読み通り東京だった。
八王子。霊園の敷地内。墓参りに来ていた老人が地面に生えているのを発見した。それは指というよりは、すでに物質を超越した存在に見えたらしい。
しかも持ち主は。
アトリエの庭に雪とともに埋まっていた彼岸人のもの。
美術館に展示されていたのは右手。
霊園に土葬されていたのは左手。
これで。
終わった。
月曜にも火曜にも見つからなかった。単に見つかっていないのではなく本当にないのだろう。
七本の中指。
うち二本は持ち主に戻った。
残り五本は。
現世の物質ではない。
「よし、完成。あとは印刷すればいいね」スガちゃんが満足そうに言う。
生徒会棟の三階に位置する生徒会室。構内で最も時代錯誤感のある建造物なので部外者をみだりに踏み入れさせない、という観点では大成功。関係者でさえも入りづらいのだからその効果は絶大といえる。
「パズルみたいなのは君のほうが向いてるよ。僕はこういう人の欲望がどろどろしてるのは駄目だ。裏ばっか読んじゃう」
眼差しを感じる。
「何か、顔色悪いね。早起きさせたせい?」
「久し振りに頭使ったせいかと」
「いま思い出した。あれどうなった? マスコミは飽きもせず愉しそうに報道してるけど」
それは。
なんとも。
「まだ無理?」
「ごめん」
眩暈がした。
立ち眩みなんか初めて。
「大丈夫? 本当に具合悪いんじゃない?」
ノック。
「会長。首尾は如何ですか」
「今ちょうど出来たとこ。タイミングいいね」
誰の声かわからない。同じ生徒会のメンバなのに。もう三年生はいないのだ。だからあの人じゃないのに。
総務委員長は。
彼女の事を指していた。
彼女以外が総務委員長をやるなど考えられない。確かどこかの有名大学に行ったのだと思う。成績優秀申し分ないタイプだったので推薦された。早々に進路は決まっていたはず。
違う。もうあの時のメンバではない。
いなくなった途端に欲しくなる。いたときは意識しない。過去の特性。懐かしさに気づいた時すでに遅し。
切り替えられない。
さまざまが絡み付いて。
海草のよう。
嫌いなシーフード。貝類が一番嫌い。貝殻から気味の悪い部位を出して潮を吹くのが耐え難い。形もグロテスク。地球外生命体は貝類だと思う。こっそり地球を侵略しに来ている。貝に化けてチャンスを窺っている。深海の底で。
眩暈。
「ゆーすけ君」
がすごく遠くで聞こえた。
温かいと冷たいの中間。
それが正常。
メビウスの輪だから。
異常をひっくり返せば。
正常になる。
異常は。
おかしい。
なんだろう。
なにか。
聞こえる。
高音と。
低音が。
混ざって。
正常。
どっちかだけなら。
異常。
ピアノの音だ。
白い部屋。
入るとすぐに本棚。
楽譜がみっしり詰まってる。
誰も弾かない譜面。
死んだ音符。
茶色の床。
進むと黒い楽器。
グランドピアノ。
だれが。
誰が弾いている。
鈍いゴールド。
ウェーブのかかった髪。
白い腕が動く。
手首から先が見えない。
ないわけではないのに。
音がするだけ。
この曲は名前があるの?
誰の作った曲。
椅子に座って。
眼前は。
ピアノじゃなくて。
におい。かおり。といき。
おんど。
眼を瞑っても。
エンドレス。
耳を塞いでも。
ラビリンス。
厭だ。
本当は厭だったのに。
ピアノなんか。
やりたくなかった。
バイオリンでもフルートでも。
エレクトーンだって良かったのに。
どうして。
ピアノなんか。
父さん。母さん兄さん。
みんなピアノなんか弾いて。
一緒にしないでよ。
別の楽器を与えてほしい。
音がするならみんな同じ。
弦だって息だって。
電気だって良かったのに。
鍵盤は厭だ。
押せば鳴る。
天使の妙音は父さんがつけたの?
競争したくない。
蹴落として練習して。
面白くなんてなかった。
なにも。
したくない。
耳障り。
感触。
走る。
走って。
橋って。
橋の下に。
海草みたいなうねうね。
自転車のサドル。
ハンドルかもしれない。
パンクしたタイヤも。
自転車に乗ったまま。
飛び込んだのか。
凄い。
過激な死だ。
出来ない。
死は。
怖くて。
怖い。
代わりだった。
最初からいない人。
身代わり。代理人。
「何か、見えるのかな」
隣に誰かいた。
一見して真面目そう。
棲む世界の違う。
「さあね」
「落っこちないでくれよ」
「どうかな」
きっとお見通し。
頭がいいからだ。
「死にたいんなら違う方法をお勧めするよ」
ほら、脳の中が見えている。
メガネのせいかもしれない。
でも変だ。気づいていない。
押してみよう。
「俺のこと、見たことない?」
反応なし。なるほど。
寝ても覚めても勉強漬けだから。
世情には疎いのだ。
説明しておこうか。
「結構有名な中学生なんだ。これでもね」
「知らないね。何する人なの?」
やっぱり。
憎らしいくらい正直なのが羨ましい。
「ピアニスト。もうやめるけど」
「上手いの?」
駄目だ。そんなはっきり言われたら。
「もちろん。聴く?」
とか見栄を張ってしまう。
「特に興味ないんだ。ごめんね」
酷い。あり得ない。
そういえばおかしい。
今日は平日。真昼間に。
どう見ても同い年かもっと下。
「中坊?」
「君だって」
不服そうな顔。
「サボりじゃんか」
「俺はいいの。金持ちだからね」
実は裏口だから勘弁して。
学業よりも大事なこと。
それに従事させられている。
体育だって出られない。
指を使うから。
馬鹿馬鹿しい。
「カネで解決。綺麗なもんさ」
達観してみせる。
向こうの美学が知りたい。
「さあて」
どう返すか。
教えて。
「ねえ」
「何?」
「僕と一緒に、死んでくれない?」
ああ。
もうショートする。
跪きたいくらいの。
言葉。眼差し。
「いいよ。今すぐ?」
「その前にさ」
漆黒が。
告げるのは。
「ああ、うん。そうだね」
「できるの?」
「経験はあるよ。つい昨日だけど」
「一回だけ?」
「君は?」
「数えたことないんだ」
「そりゃあ、スゴイね」
狂いそう。
この人なら。
誰に化けてもいい。
「どこで?」
「どこがいい?」
「金持ちなんだろ?」
パーフェクト。
「そうだっけ?」
「言ったじゃないか」
降参。
「仕方ないなあ」
「無理しなくていい」
白旗。
「いいえ、お供しますよ。地獄の果てまで」
連れていって。
その氷の瞳で。
誰に。
なればいいの。
わかってる。
染み込んでくる。
脳も支配。
そんなことが。
あったの。
わかった。
その人の。
代わりになる。
いない人だから。
「ゆーすけ君!」
この声は。
ああそうか。
頭が痛い。
どこかにぶつけた。
「よかった。大丈夫?」
周囲確認。生徒会室。
移動してない。
椅子が床になったくらい。
「何分経った?」
「そんなの知らないよ。ホントに平気?」
「頭痛いだけ」
さすってみる。
コブができたか。
額なのに。
「総務委員長は?」
「何を気にしてるの?」
つい尋ねてしまったがよくわからない。
「コミヤさんなら違う用事があるって下に」
「コミヤさん?」
「メンバの名前くらい憶えようね。はいこれ」
B5サイズの紙を手渡される。
「名簿? 俺のために?」
「君がサボってたから受け取ってなかっただけ」
そういえばまともに出席した覚えがない。顔合わせすらうとうと居眠りして注意された。やる気がないにもほどがある。
「顔は明日ね。揃ってもらうから」
プリントアウトして二階に。印刷機を使って複製。総務委員長はいなかった。他の部屋かもしれない。
「これから時間ある?」スガちゃん手を貸してくれた。
「どっか行くの?」
「ユサ先生のとこ」
なぜ。嫌な予感。
「付き添いはさ、要らなかったじゃん」
「病院じゃないよ。個人的に」
「え、休みなの?」
「個人で開業してるわけじゃないし。医師だって毎日なんか勤められないよ」
なぜ連れて行かれるのかが不明。
連れていく。
そうだった。
どこなりともお供すると。
誓ったはず。
誰になったんだっけ。
ああそっか。
もう解約だった。
いない。
「ねえ」
「何?」
「俺の名前なんだっけ」
瞬きすらしない。
「つけてあげようか」
さすが。最高。
「右柳ゆーすけって」
名簿。載っていた。
生徒会副会長。
右柳ゆーすけ。
誰だよ。この偉そうな奴。
2
「何もありませんよ、ええ」
「構いません」スガちゃんはそれしきのことでは引かない。「何もないという状況を見たいんです」
「御持て成しは出来ませんが、まあどうぞ」
「お邪魔します」
アパートでもマンションでもなく一戸建てだった。閑静な住宅街の隅でとりわけ主張することなく佇む俄か洋風家屋。玄関から入るとすぐに階段が見える。
スガちゃんは迷わずそちらに。
「あ、その、えとり君?」結佐が呼び止めるも。
「こっちのほうが面白そうですね」
「戻っていただけませんか、はあ。掃除してませんのでね」
「それは尚更気になります」
ついに今いる位置から姿が見えなくなった。結佐は追いかけるのを諦めたらしく階段の中ほどで引き返してくる。
「いいんですか?」
「見られて困るようなものもですね、ううん。ありませんしね」
向かって右の奥が洗面所。廊下は玄関と平行に延びており、正面の扉から先がリビング。一人で住むには広いが三人が限度だろう。いわゆる2LDKで、突き当たりに襖が見える。そちらが和室。
「お好きなところにですね、かけてお待ちください」結佐がキッチンに消えた。
ダイニングのテーブルは椅子が四つ。キャパを四人に修正する必要があるか。リビングには大きなテレビとオーディオ機器。CDラックに見覚えのあるようなないようなジャケット。
簡単に想像がつく。無理矢理押し付けたのだろう。どこぞの氷姫と根幹が似ているかもしれない。
リビングの壁にドアがある。某生徒会長ではないから中に興味はない。彼はまだ部屋漁りをしているのだろうか。破壊音がしないだけいいが。
「ゆーすけ君も、ピアニストなのだとお聞きしましたよ」
「元、ですけどね」
情報源は、おそらくダブル。
亜州甫かなまと、北廉えとり。
「そちらにピアノがあるのですが、はい、よろしければ」
「いや、いまはその」
結佐が近づいてくる。ダイニングテーブルに菓子がのっていた。おもむろにドアノブに手をかける。
「え、でも、ピアノを?」
「私のではないんですよ、はあ。以前同居していた人間が使っていたのですがね、まあ要するに置いていったと、そういうことになりますね、ええ」
アイボリのグランドピアノ。
ひんやりした空間だった。スリッパの底が滑りそうな摩擦係数の床。二方向にフランス式の窓があるが日が差してこない。北と西にあるのだろうか。
「もしかして、前の奥さんの?」
「さあ、よくわかりませんね」結佐は素っ気なくそう言うと窓を開け放った。
冷たい風が吹き込む。換気だろうか。ぐるりと観察したところ空調が見当たらない。
前妻のものでないとしたら。
亜州甫かなま?
「一曲どうですか。調律はその、してませんけどね」
「先生こそ」
「何を聞いても同じに聞こえますよ。私はね、音楽から遠いところに棲んでいるような気がええ、するんですよ」
結佐が蓋を開ける。
ここから鍵盤は見えない。
「これ、どうやったら処分できるんでしょうかね。門外漢のものでちっとも見当がつかなくて、はあ」
「え、売っていいんですか?」
「置いていったということは要らないと判断して然りです。それに私には未練も何もない。結果、一部屋空くだけのことですよ」結佐は鍵盤を眺めている。「そちらの会社は、楽器を引き取ること、出来ますかね」
「はあ、たぶん」
「知り合いのよしみでですね、お願いできるとですね、私としても面倒でなくていいというか」
どうしよう。どうすればいいのかまったくわからない。
「その、急いでませんのでね、近々ということで」
「売る、てことですよね?」
「お金になるのならまあ、そちらのほうが」
誰に相談すればいいのだろうか。
布縦原に話せばなんとか。いや、彼は楽器売買担当ではない。そもそも雑務が得意なので専門的な仕事は出来ないのだ。社長である父に話すのは何となく気が引ける。ピアノだから。話題がそちらに傾きかねない。もっと楽器に詳しそうな。
曾祖父。
「わかりました。連絡してみます」
「そうですか。すみませんね」
部屋を出る。結佐がお茶を入れて運んできてくれた。ハーブティだろうか。不思議な匂いがする。
「えとり君、面白いものでも見つけたんでしょうかね」
確かに帰りが遅すぎる。
「あの、先生はスガちゃんから俺のこと」
「ええ、それはまあ。彼が話してくれるのでねその、記憶にも残りますよ」
「ピアノのことも?」
「はあ、一度も聞かせてくれないのだと、不平不満を」
またしても嵌められた。この分だと帰る時間すれすれまで一階に姿を見せないと思って間違いないだろう。
手元の菓子を見る。
「たくさん貰ったんですよ。その、私ひとりでは」
「あ、じゃあいただきます」
マドレーヌだった。三つほど種類がある。
「えとり君がですね、あんなに楽しそうなのは、私としても喜ばしいと、ええ」
「え、そうですか?」
「表情が全然違いますよ、はい。唯一の友人のゆーすけ君としてはその、どうですか」
思い出す。
三年前。
「いや、特に変化ないかと」
「では気のせいでしょうかね、はあ」
濃厚なバターの味。
「以前は病院に来るのも一苦労でですね、えっと、その建物がすぐ裏にあるでしょう。高等部の。そこが視界の隅に入っただけで、まあなんといいますか、発作が出てしまって」
知ってる。
染み込んできたから。
「でもいまは、ちょくちょく来てもらってですね。口数も増えましたし、高校も楽しいのだと、はい」
カモミールの香り。
「記憶の連合らしいです、ええ」
「はい?」
どうも結佐の論述大系は、独り言がそのまま会話になっている気がしてならない。自分だけわかって先に進んでいる。
「発作は、えっとご存知ですかね」
「何度か見てますので」
突然意識が途絶えて倒れる。しかしものの数秒で回復してけろりとしている。重くなると数分意識消失があるらしい。
「詳しくはですね、言うわけに参りませんので、はあ端折りますと、その建物とつらい感情が強固に結びつきましてね。それを記憶の連合と呼ぶらしいのですよ、心理学では。すっかりえとり君に教えてもらってその、片足を突っ込むくらいにはですね、まあ」
ゆーすけも過去何十回と講義を受けているが。
その話は知らない。
「それを断ち切ったってことでしょうか」
「いえ、そんなことは出来ませんよ。残念ながら、はい。ですが弱めることはですね、可能です」
テーブル上に粉が散らばる。焼き菓子はたいていこうなる。
「どうやるんですか?」指で拾いつつ話す。
「他にですね、もっと強い連合を作ればいいんです。つまりですね、それを考えると思い出されるイメージを多義にしてしまえば、はい、楽になるといいますか。辞書の第一義から外せばつらくないでしょう。ですから新たに第一義や第二義を作って、つらいイメージを薄めると」
それを。北廉えとりはしたというのか。
「遅いですね」結佐が上を見る。「何もない筈なんですがね」
「あ、たぶん。俺のために席を外してるんだと」
「はあ、強引な手段ですが。なるほど。えとり君らしいといいますか」
指。
指輪は当然。
ない。
「変なこと訊いていいですか」
「離婚ですか」
視線でバレた。
「えとり君にも追及されてるんですよその、話す気がないといっても無駄でしてね。そろそろ勘付かれてるでしょう」
性的志向だろうか。
眼があさって。
「実は、その菓子はですね、前の同居人から送られたものでしてね。私がバターベイスの焼き菓子を嫌いだと知ってわざとやってるんですよ。困ります、本当に。一昨年はスイートポテト。昨年はスコーンが届きましてね。病院で配ってたんですが、はあ、もう面倒になってきて」
嫌がらせ、なのだろうか。
「一年に一回ってことですか」
「結婚記念日に、です」
卓上カレンダに目が行く。
印は特になかった。いや、印なんか付けないか。
「忘れるなってことなんでしょう。法律上は離婚してる筈なんですがね、迷惑です。でもそれが私の連合ですね、きっと。早く食べていただけるとその、精神的に落ち着くと言いますか」
無理矢理口に入れた。
結構美味しい。
「えっと、今の話は」
「えとり君にですか。いいえ、話したのはあなたが初めてです」
ソーサにカップを戻す。
「秘密にしなくても構いませんが、まあ大したことでもありませんしね。ご自由に」
「離婚は先生から?」
目線。鋭い。
「どうでもいいことを訊きますね。覚えがありません。結婚した理由すらわかってないんでね、はい」
禁句というよりは、押してはいけませんボタンに思える。それは絶対に守られない。押して欲しいからわざと禁止するのだ。
結佐も同じだろうか。
やや染み込んで。
攣る。
強い。この人は。
相当の気配。
おそらく。
北廉えとりに匹敵する。
深淵。
「アスウラさんとお知り合いなんですよね?」
地雷か。はたまた爆弾のスイッチか。
「どのような答えを期待されてますか」
「奥さんと別れたのはアスウラさんが原因ですね」
眼が虚ろ。
どこかで見覚えのある。
眼差し。
「それを訊いてどうしますか」
「スガちゃんに話します」
「困りますね。えとり君との関係が崩れてしまう」
「どういう意味ですか」
「そのままです。患者と主治医。一応隠していますので」
「アスウラさんにですか」
「亜州甫君は単なる知り合いです。あなたと私のような関係ですよ。顔見知り程度の」
凄い。ブロックが。
抵抗が大きすぎて。
流れない。
「不思議な人ですね、あなたは。思考をそちらの脳に直接転送したくなってしまう。えとり君が友人だと認識する理由もわかる気がしますよ、はい。でもですね、通用しませんよ私には」
額を撫でられる。
冷たい手だった。
「思った通り、こぶが出来てますよ。どこぞで転びましたか」
生徒会室。
眩暈。
「超能力はここが熱を発生するらしいですよ」
「超能力はありませんけど」
「亜州甫君と何かありましたか」
「どういう答えをご期待でしょうか」
「彼は脆いんです。すぐに壊れてしまう水面の泡です。かつ消えかつ結びて。鴨長明の」
「方丈記でしたっけ」
「さすがR学園の生徒ですね。オレンジに染めているのは相手を油断させるためですか。実にいい方法ですよ、ええ」
爪が食い込む。
「あなたを気に入っているのだと風の噂で聞きましてね。“天使の妙音”はあなたのことでしょう。私としては戴けませんよ。えとり君と亜州甫君はとてもよく似ている。私が言うのだから間違いありません。嫌な予感がするのですが、気のせいでしょうね」
「考えすぎでは?」
「ホテルで一緒の部屋にいたのだと小耳に挟みましたが」
「記憶力いいんですね」
こぶを。
圧される。
「何もないわけないでしょう」
「それが何もなかったり」
「ヒビを入れたのはあなたですよ。長野には私も行きます」
「一緒に行きましょうか」
「いえ、先約がありますのでね」
離れた。血の気がない指。
流れていないのかもしれない。赤い液体は。
結佐が箱を持ってくる。
「これ、差し上げます。ミヤギ・クラヴィアの方にくれぐれもよろしくとお伝えください」
三つもあった。未開封の包み。
「毒入ってませんよね?」
「いまあなたが食べたでしょう。それで解決ですよ」
「白雪姫の原理では?」
「半分は毒で半分はそのまま、と」結佐が鼻で笑う。「なるほど、面白いですがそんな面倒なことしませんよ。処分に困った貰い物の焼き菓子を手もつけずに右から左に他人に渡すだけなんですからね」
そうか。さっきの話はまるごと。
虚構。
どこからが虚偽で。どこからが本当なのか。
わからない。
「ピアノの件は」
本音だろうか。
「要らないんです。あれがある限り私はこの山のような焼き菓子から逃れられない。彼女は、そう、あのピアノに食べさせようとしているのかもしれませんね」
「えっと、トイレ借りても」
「そちらを出て左ですよ」
廊下に出て階段を見上げる。
途中踊り場があり壁に扉。鍵がかかっている。階段はそこで左に直角に折れて二階へ。
ドアは三つ。どこだろう。
一番奥をノック。
「ゆーすけ君?」
いた。
そこは寝室だった。脚の短い地味な絨毯。二方向に窓。その壁が交わる位置にベッドがある。反対側にデスクと本棚。デスクトップ型パソコン。ドアのすぐ脇は背景に溶け込む箪笥とクローゼット。
なんとも簡素。
何もない、という意味がわかった気がする。日本人は期待より少ないとない、と言ってしまいがちな文化の中にいる。それが謙遜だろうか。
「どう思う?」
「何を探ってるの?」
スガちゃんはベッドの下を覗き込むジェスチャをする。
「何もない」
「だから、何を探してるの?」
「ゆーすけ君のベッドの下にあるもの」
「淀んだ空気?」
「残念だけど個体なんだ。材質は紙。ペーパ。もしくは円盤の場合もある」
スガちゃんは、プラスティックのゴミ箱を指して。
「そこ探してみてよ」
「え、なんで」
「誰かいたと思う」
「それはどういう意味でしょう」
「君は花粉症だっけ」
「そうだけど」
えとりは顔をしかめる。
わざと。
「誰か泊まってったよ。ユサ先生じゃない匂いがする」
「鼻いいね」
「化粧のにおい。気持ちが悪い」
「他の部屋も?」
「ここだけ。だから探ってるんだけど」
再びゴミ箱。
「ひっくり返したいなあ」
「何が出てきてほしいの?」
「証拠」
「だから、何の?」
えとりはゴミ箱を持って廊下に出る。後を追う。
「ここならいいか」
そのまま逆さにしてしまった。
「え、ちょっと」
「片付けは僕がやるから」
そういう問題ではなくて。
菓子の空袋。丸めたティッシュ。湿ったコットン。薄っすら口紅がついている。それと。
「やっぱりあった」
摑まなくてよかった。心から安堵。この人ならやりかねない。
「どっちのかな」
「え、そんなの」
「先生は男も相手できるよ」
頷けない。
「でも化粧」
「したい男かもしれない」
何を、したいのだろうこの人は。
「あっちの部屋に写真があった。すぐ目に付く場所にね。防衛の高いユサ先生にしてはおかしい。昨日泊まっていった誰かが見たあとそのまましまい忘れたか、もしくは嫌がらせのためにわざと出していったかどっちかだろうね」
「何が写ってたの?」
「見てみる?」
真ん中の扉。
窮屈で細長い部屋だった。左右の壁に背の高い金属製の丈夫なラック。全部で四段。その上に所狭しとものが陳列されている。部屋が薄暗いので一見何かわからない。よく目を凝らすと輪郭がおぼろげに。
「彫刻みたいだね。ちょっと気味が悪いけどさ」
しかし何が模されているのか判然としない。大叔父の作品を彷彿とさせるが彼の作品ではなさそうだ。大きさが違う。この部屋にあるのはどれも手のひらサイズ。大きいものでも充分小脇に抱えられる。それに比べ右柳へいすけの作品はいちいち大きい。人間が頭を垂れ汗を流して運搬する様を見たいがために巨大なサイズにしているとしか思えない。
「蒐集したのかな」
「そんな趣味あった覚えないけど」スガちゃんが首を傾げる。
「これ?」
写真立て。
「たぶん後ろの右端にいるのが結佐先生だろうね。猫背だし目元とか。雰囲気は何となく残ってるよ」
崩壊待ちの門柱が倒れてしまう前にとりあえず記念撮影。
そんな感じの写真。
ちらほら雪が残っている。ファインダ隅の松が寂しげだ。空はどす黒い曇天。年齢層は高校生くらいだろうか。制服の胸にリボンがついており、筒を持っているので卒業式かもしれない。前列に四人しゃがみ、その両脇に一人ずつ中腰、後列に四人。大半が笑顔だが日常が切り取られた写真とは思えない。どちらかというと非日常がこちらの世界に迫ってきたかのような不気味な錯覚。
結佐の年齢はやっぱり不明瞭。いまとさほど変わっていない気もするし、こんなに若い時期も、という気もする。敢えて間違い探しをするなら、メガネの有無と無精髭と頭髪の色。
やはり若かりし頃なのかもしれない。
「あれ、この人」
「知ってる人でもいた?」スガちゃんが目を凝らす。
前列。結佐の斜め前で膝を屈めている女性。
誰だろう。
ぎこちなく笑っている。
本当は笑いたくないのに、とでもいわんばかりの表情。
「誰?」
「ううん、気のせい」
「だよね。まあ知ってる人がいたらそれはそれで面白いけど」
「そろそろ戻らない?」
「そういえばどうして二階に来たの? 僕を呼びに来た?」
「トイレって嘘吐いて」
えとりは瞬きを多めにする。
わざと。
「君はごく偶にすごく怖いことをするよね。無自覚だから更に恐ろしい」
廊下に出る。
「ゴミ箱は片付けたほうがいいよ」
「気を引きつけといてよ」
階段を下りる。踊り場で止まって振り返る。
「ねえ、ここ開けた?」
「現状から判断すれば?」スガちゃんが小声で言う。
やはり気になっているらしい。スガちゃんは、至極不満そうな顔でドアを睨みつける。
「誰か監禁してるのかもよ」
「それ、冗談だよね?」
「訊いてみてよ」
階下。リビングに戻る。
結佐はいなかった。
「あれ、先生?」
襖が開いている。そちらを覗く。
「何してるんですか」
「そっちに行っていて下さいね、はい」
和室はリビングの床より一段高い位置にある。六畳ほどだろう。二辺が障子なので窓があると思う。中央に長方形の台があるおかげで部屋はほぼいっぱい。その周りに人間が座ればたちまち満員。
結佐は畳に膝をつけ、四つん這いのまま移動している。両手はそれぞれ雑巾掛けのように動く。
「何か探し物ですか」
「えっと、入らないでくださるとその、嬉しいといいますか」
「コンタクトですか」
「まあそんなところでしょうか」
「でも先生は」
メガネだ。
もしかして両方なのだろうか。
「ソフトだったら急がないと」
「コンタクトだといった憶えはですね、ありませんが」
だがどう見てもコンタクト捜索隊。
そうでなければ畳の目に潜む微細な虫、または切っている際に飛ばしてしまった爪を捜しているかのどちらかだろう。どちらにせよ掃除機のほうが役に立ちそうだ。
「へえ、こっちはもっとつまんないね」スガちゃんがきょろきょろしながら入ってくる。「訊いてくれた?」
「こっち」
「ああ、えとり君。二階探険ご苦労様」
「先生、またですか」
「え?」
えとりがスリッパを脱いでずかずかと畳に上がる。躊躇うことなく結佐のワイシャツのポケットに手を。
取り出したのは。
「癖は把握したほうがいいですよ」
「はあ、毎度すみませんね」
ここから。
見えなかった。
3
ともる様から連絡が来なくなって一週間。要するに亜州甫かなまの最終公演の日になった。
三月最後の日曜日。
「すごい積もってますね」雪が。
「先週ずっと降り続いたらしい」ともる様が言う。「今日も降るぞ」
「え、帰れなくなったり」
「そうなったら泊まりだな」
それは。
困る。
会場の時間にはまだだいぶあるが、例によって時間を潰すのが下手なので特に目的もなく無駄な散策をしている。車道と歩道の区別がない道路だがますます境界線がぼやけてしまっている。周囲の森林に紛れてしまいそうだ。
一面真っ白。積雪量は軽く一メートルを越えている。歩く場所が確保されていなかったらものの数分で雪だるまになってしまう。
「訊かないのか」ともる様が言う。
「進展がないんでしょ」
振り返る。
従者と眼が合った。
「ちーろさんは何て?」
「さあな」
「あれ、知らないじゃないですか」
「どうでもいい」ともる様が遠くを見る。
「どうでもよくなりますよね」
早志ひゆめが解放されないならば。
「辞めてないんですね」
従者。
「辞めさせない」ともる様が言う。
「辞表、目の前で破り捨てたんじゃ」
「書かせない」
歩くペースが速まった。ずぼずぼと靴が填まる。
「アスウラさんは到着したんですかね」
「待ってろ」
携帯電話も真っ黒。王様はそれを耳に当てる。
ちーろさんの服は白いが雪に拒絶されている。完全に異物だ。彼は空と地を交互に眺めている。気も漫ろというよりは上下から侵略する不遜の白い輩に眼を光らせているだけだろう。
雪が舞ってきた。
「ゆーすけ様」
「はい?」
ちーろさんに話し掛けられた。王様はまだ電話中。
どきり。
「なんでしょう」
「フランスも雪が降ります」
「そうなんですか」
「以前、ともる様に尋ねられていました」
意図がわからない。
「ゆーすけ様は寒いのは苦手ですか」
「あ、うん。いまもかなり寒い」
長野はすこぶる寒い地域。そう認識したので二度目は防寒具を着込んできた。この格好で神奈川をうろうろしたら季節を間違えていると思われる。もしくは温度を察知するセンサが故障しているか。
「私も寒くないほうが好きです」ちーろさんが言う。
「そ、そう」
「早く春になるといいですね」
「ちーろ、言いたいことがあるならはっきり言え」王様が口を挟む。「そこのオレンジを同行させようったってそうはいかない。お前は絶対辞めさせないと言ったはずだ」
「申し訳ございません」
「黙って勝手なことをすれば解雇に結びつくと思ったんだろ。それもさせない。いい加減にしろ。何かわかったのならさっさと埼玉県警にでも連絡を取れ」
「ともる様はハヤシひゆめ氏のことをどうお考えですか」ちーろさんが言う。
「どういう意味だ」
「ゆーすけ様を十とするならハヤシひゆめ氏はどれほど大切か、ということです」
ともるが眉をひそめる。
「それがお前にとってどういう価値を持つ」
「これからの行動すべてです」
王族からの視線。
そんな眼で見られても。
「えっと確かマグニチュードなんとかっていって」
「そんなもの訊いてない。お前はどうだ」
出た。返答に困るとそっくり人に押し付ける。
「俺が十ですか」
「俺が十だ」ともる様が頷く。
やっぱり。
しかし本人の前で言えるわけがない。この歪みも確かテクニカルタームだった気が。
「比べられません」
「なんだそれは」
「じゃあともる様はどうなんですか」
ちーろさんが真剣な顔で見つめている。
「俺の答え如何で彫刻家を助けるか助けないか決めるのか」
「はい」
「お前はそれでいいのか」
「私は探偵ではありません。ともる様の護衛です」
王様が顔を背ける。
「今までどうしてきた」
「殺された人の復讐代理人なのだと勘違いしておりました」
「厭になったのか」
「わかりません」
妙に視界が霞むと思ったら、睫毛に雪がついたらしい。
「全員十だ」
「それが答えですか」
「そもそも比較するだけ無駄だろう」ともる様が言う。「全人類の中からたった一人だけ救えるとしたら誰にするか。これを選択させるより愚かだ。もし俺が彫刻家を見捨てていたらどうしていた」
「答えられません」
ともるが雪を掬って投げつける。
頭を下げたちーろさんの腕に命中。
「どこまでわかった」
「言えません」
「クビにすれば言うんだな」
「出来ることなら言いたくありません」
「黙ってたら彫刻家はそのままだろうが」
ちーろさんが顔を上げる。
腕についた雪は払わない。髪も肩もやや白い。服は最初から真っ白だった。
「糾弾すべき人間がいないんです」
「小説のようだな」ともる様は、また雪を掬って投げる。
胸部に命中。
「探偵だけこっそり犯人に会えばいい」
「出来ません」
「許可する」
「したくないんです」
「刑事に話すのも厭だ。俺に話すのも厭だ。犯人と直接対決の末自首させるのも厭だ。なら他の方法を考えるしかないな」
雪玉が足元に飛んでくる。
「何ぼさっとしてる。亜州甫さんが待ってる」
「来てるんですか」
「ちーろ、転ぶなよ」
真っ白の道を逆戻り。五角形のホールは遠くからでも目立つ。チョコレートの両脇にウェハースが刺さったかのような外見。色も似ている。
守衛に事情を説明してスタッフ通用口から入る。眩しい廊下の右手側にドアが点々としている。全部楽屋のようだ。ともる様は突き当たりの扉をノックする。
「どーぞ」亜州甫かなまの声。
「失礼します」ともる様から入った。
「君らはさ、来るのが早すぎるんだよ。つられちゃったじゃん」
眼がちかちかする。雪を凝視した後に真っ白い部屋に入ったせいかもしれない。奥にアップライトピアノが見える。
格好はあまり描写したくない。
「ねえ、どっか行っちゃわない?」亜州甫かなまが言う。
「えっとユサ先生は?」
「ほじょーちゃん? どうして?」
「え、今日来られるのでは?」
「そうなの?」
またガセなのか。
「おかしいなあ。僕はチケットあげてないけど。君が気を利かせて手を回してくれちゃったりしてる?」
「あ、いや、特に」
やられた。
王族から視線。
「えっとですね。牽制球が思わぬところで超特大変化球だったことにたったいま気づいたといいますか」
「わかるように言え」
「悪魔くんは気にしなくていいよう」亜州甫かなまが言う。「それよりまたなんか弾いてくれない? 今度は僕のリクエストね」
ともる様がピアノに近づく。
「そいえば君らびっしょびしょだね。うっきうき雪合戦でもしてた?」
「いえ、そちらの方が」
悪魔の誘響。
「何を弾けば」ともる様がピアノの前に座る。
「雪やコンコン」
王様が困惑。
「あっれえ、アスウラさんのジョーク通じない? ならアレがいいや。君の得意な」曲名。
逸れた。
まさか。
「かじかんで指が動かないならぬくい手の僕が握ってあげるよ。ほうらおいで」
ともる様が国際コンクールで指が止まって弾けなかった曲。
代われるものなら。
代わりたい。
弾けないわけではない。
弾きたくないわけでもない。
「いえ、聞いてください」ともる様が息を吐きながら言う。
礼。
そんな。
弾いた。
攣いているのに。
横顔を。
見ていられないから。
指先を見る。
真っ赤だった。
それでも酷使。
動かないはずなのに。
動力は。
いったい何。
駄目だ。
染み込んでくる流動体に。
耐えられない。
王様にも。
女王にも。
拒絶されたら。
何に化ければいいのだろう。
天使の妙音は。
もういないのに。
そこに戻ろうとしているのは。
誰の意志。
いない。
いなくなったって。
意味がない。
見つけに来るだろうか。
まるで。
止めてほしいから自殺するみたい。
高いところからわざと石を落として。
下で見守る人の目を留めさせて。
連合が。
判明した気がする。
右柳ゆーすけ。
という名に巣食っている。
ピアノの音だ。
「いいじゃん。良かったよ」亜州甫かなまの拍手で我に帰る。
どうやら終わってしまったらしい。導入部分しか思い出せない。言い訳する元気もないので。
「聴いてなかったろ」ともる様が溜息。
「すみません」
凄い。アルゴリズムのよう。
「何なら聴く?」ともる様がリクエストを募ってくれるが。
「いまは駄目っぽいです」
「我が儘な奴だな」
響。
何の曲なのか。
判断する部位が壊れてしまったらしい。
わからない。
綺麗な曲だというのはわかるのに。
題名が浮かばない。作った人間も見当がつかない。
「知ってる?」亜州甫かなまが首を傾げる。
「え、どういう」
「既存の曲じゃないみたいだね。もしかすると悪魔くんの即興かも。大儲けだね、僕たち」
出来ない。
譜面どおりにしか弾けない自分には。
即興など不可能。
危惧の必要は最初からなかった。
すでに届かない場所。
「こういうのもいけるね」亜州甫かなまが満足そうに言う。「行間を奏でるのが天使くんの得意技だとしたらさあ、悪魔くんは行間を作らないんだよ。行間を弾くくらいならそこにあらん限りの音符をぶち込んでる」
比較するだけの。価値もないのに。
音が已む。
「それさ、今度譜面に起こしてよ。一聴き惚れってやつ?」
「機会がありましたら」ともる様がお辞儀する。
拍手だけしてみる。
「同じか」
「申し訳ありません」
王様は雪の塊のようなソファに腰掛ける。
「今日それ弾きたくなっちゃったなあ。ちょっと練習していい?」
「どうぞ」
「著作権は君のものだからきちんと名前言うからね」
ともる様が嬉しそうだ。
「本番前にピアノ弾くなんて初めてだよ。まずいなあ。どきどき緊張してきちゃったよ」
響。
まったく同じ曲なのか。細部が異なっているのか。
それすら不明。
「すごい」ともる様が息を吐く。
「え、じゃあ」
「実は即興じゃない。譜面はここにある」ともる様がこめかみをつつく。
「一回しか聞いてないのに」
それどころか亜州甫かなまは、会話しながら解説まで。
どういう脳だ。
「そっくり?」亜州甫かなまがにっこり微笑む。
声も出ない。頷くことも。
已む。
「タイトルは?」亜州甫かなまが訊く。
「いえ、まだ」ともる様が首を振る。
「んじゃ今決めて。もたもたしてると僕がつけちゃうよ」
「つけていただけませんか」
「いいの? 後悔するよ。処女作は大切にしなきゃあ」
「お願いします」
「ううん、そうだねえ」
響。
弾きながら考えるらしい。
「いいんですか?」この人に任せて、という意味で。
「俺の曲だ。タイトル命名権も俺にある」
やはり王族は名に縛られない。
内容が大事なのだとわかっている。
でもそれは。
自信があるから出来ること。
「世にも凄まじいタイトル来たらどうします?」
「どういう意味だ」ともる様が眉をひそめる。
「え、だって」
亜州甫かなまが考えることは。
予測不能だから恐怖の対象で。奇を衒いすぎというか。
「失礼だぞ、お前」
「まあ、あれはカッコいいですけど」
「だろ? タイトルセンスがあるんだよ」
「ともる様にはないんですか」
睨まれる。
「俺はいい」
「第二作は期待してますよ」
「右柳」
已んだ。
王様の双眸がわくわく。
「これ、ナチュラルだらけだね。狙ってる?」
4
二度と会いたくなかった。
あいつのせいで私は探偵と呼ばれ、探偵の名を捨てられないまま次元の狭間で彷徨うことになったのだから。
二度と会うこともないはずだった。
あの人のおかげで私は本名で呼ばれ、過去も素性も捨てて探偵ではない役割を与えもらえたのだから。
二度は会わなければいけなくなった。
あなたのおかげで私はちーろと呼ばれ、現在も未来も捨てられなくなって心から探偵を望まれたのだから。
誤読を誘うちひろという表記を正確に読むことが出来たのは、あなた以外にひとりだけ。
忘れもしない。忘れられない。忘れることが出来たら私はあなたに出会えなかったとしても。
「これで最後にしたい」
「出来ないくせに」視線が指を舐める。
「十年前埼玉にできた遊園地について知っていることを言え」
「へえ、そんなとこ行ったんだ。お宅には不釣合いだけどね。もしかしてさ、デートとか」
「知らないんだな」
「もし知ってたとしてもこんなとこじゃね。場所考えてよ。世界にお宅とふたりっきりなら話したって構わないけど」
「ビドロしは、という少女を知っているか」
「さあ、誰よそれ」
痛い。ないはずの場所が痛む。
切り口が痛いのとでもいうのか。
もう二十年以上前の。
「彼女のせいで俺はあんたから逃げられなくなった」
私は左頬のガーゼを外す。
「そうそう、それ。なに火傷? こないだ見たとき何事かと思ったけど。誰? 誰にやられたの? ずるいよね。ボクがお宅見失ってる間についたんだよねえ。ヒドイよ。お宅殺すのはオレだよ。教えて。いまからそいつ殺しに行ってあげるから」
「じゃあ自害しろ」
「え、意味わかんなあい」
「いい。知らないなら忘れろ。それだけだ」
「それだけ? わざわざ来てそれだけなんだ。つまんないなあ。こっちはどれだけつまんないと思ってんの。ねえ、やだよ。置いてかないでよ。ワタシは」
遠いと負い声。
近い誓い映像。
違った。違うと思っていた。あれはあいつとは無関係だ。あれは私が脳の中で体験したまぼろしの事象。なかった。悪質な白昼夢に囚われていただけ。あの遊園地だってとっくに廃業。
私は電話をかける。
「そのまま聞け」
「待て、お前いま」鬼立の声。
「すまなかった」
無音。
「一体、いつについての謝罪だ」
「ぜんぶひっくるめて謝っている。悪かった」
「心当たりが多すぎてそれじゃ足りないだろう。だいたいお前いまどこからかけて」
「ビネーの出身」
間抜けな間。
「誰なんだそれは」
「知らないならいい。謝罪の意味も込めてひとついいことを教える。二十何年か前の」
やっと探偵役から降りられる。
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