第5話 Gischt Gespinst 掬って巣食って
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管轄なら警視庁。しかし彼らが駆けつけないわけがなかった。
埼玉県警ご一行。
「またか」
それはこっちのセリフだ、という言葉が喉まで出掛かった。
鬼立の普段着はスーツのようだ。そのくらい板について似合っている。銀縁のメガネが如何にも以下略。微笑とは縁遠い顔が標準装備らしいが、それ以外の表情が想像できないし、あまり想像したくない部類の代表例。
鬼立は何やら不服そうにちーろさんを見遣る。
「予想できてたか」
「犯人が俺なら」
舌打ちが聞こえる。
「あと任せる」鬼立が立ち去ろうとする。
「え、警部まさか」
「誰が調べるんだ、こんな数」
「僕たちに決まってるでしょう。駄目ですよ、帰っちゃ」
「管轄外だ」
「今更何言ってんですか。わかった。何か予定入れましたね」
「そうじゃない。陣内、まだ出るんだろ」
「おそらく」ちーろさんが頷く。
今度は溜息。
「早く捕まえてくれ」鬼立が言う。
「お前の仕事だ」ちーろさんが言う。
「もう、わかってますよ警部。警視庁がお嫌いなんですよね?」
鬼立が睨んだ。相当怖い顔だが緒仁和嵜は怯まない。
「昔なんかあったんですか?」
「さあねえ。陣内様はご存知ですか」
「大したことない」ちーろさんが言う。
「なら教えて下さいよ」
「陣内」鬼立が言う。
収容数二千人弱の巨大コンサートホールにいた聴衆ならびにスタッフや関係者、果てはミヤギ・クラヴィア社長まで事情聴取を受けさせられるとしたら一体何日かかるのだろう。それを想像して鬼立は厭になっているのだろうか。
ほぼどころか完全に全員が無関係だと思うがとにかく人が多すぎる。さらにエントランスロビィまでなら自由に出入りできたので逃げてしまった可能性も高い。
問題は第六曲目。
あの時会場に繋がるすべての通路が開け放たれていた。聴衆は須く、ステージ上に特殊な格好で登場した奏者に夢中だったため、人の出入りなど誰一人として気にも留めていない。
敢えて六曲目に。
それを龍華に話した。
「急に変な音がしたんですね?」
「ごとごとって。ともる様も聞きましたよね?」
「アスウラさんが弾くたびに聞こえました。あれは」
指が揺れる音。だったのか。
龍華が手を止めて首を捻る。小型ノートPCでメモを取っている。
「おかしいですよね。最初から入ってたなら」
変な音は。
「最初からするわ」
「あんな中に仕掛けられますかね。それに彼の新曲でしたっけ? その六曲目にわざわざ合わせるってのは意図が」
鬼立は真っ暗になった窓の外を眺めている。もしかしたらそこに映った自分と睨めっこしているのかもしれない。
全面的にちーろさんのおかげで、ホールから外に出られた。警察の指令ではとにかく外に出すな、らしいので聴衆は名前や連絡先、気づいたことなどを訊かれ、疑わしくない、に該当した者のみ順次解放されているらしい。
では疑わしい、に該当した人間はどうなるのだろう。
別室か。
気懸かりなのは自分で招待した十人。連絡を取ろうにも電源が切られているらしく繋がらない。まだ足止めを喰らって動けないのだろうか。なんだか申し訳ないことをした。
父はどう思っているのかわからないが、布縦原はスケジュール調整等、いろいろ面倒だろう。ミヤギ・クラヴィア主催リサイタル会場で発見されればそれだけ妙な話題がついて回る。
見当もつかない。
大丈夫だと信じたい。
「とにかく今回のアリバイは絶対よ」緒仁和嵜が言う。「もう釈放するしかないわ」
「模倣犯という可能性は」龍華が言う。
「指が出たとしか発表してないはず。また中指だったらしいからそれは却下ね」
黒い。
中指。
「でも五分の一ですよ」龍華が言う。「偶々当たったとか」
埼玉県警の二人は論議大会を開催中。ともる様はつまらなそうにソファに座っている。ちーろさんは再びだんまり。
「いつ帰れるんでしょうね」
「立ってないで座れ」ともる様が隣を空けてくれた。
「なんだか落ち着かなくて」
おそらく王様は、ラストの二曲が聴けなかったことにご立腹だ。
顔に書いてある。
「あの、アスウラさんは」
「やってない」ともる様は床を見つめたまま言う。
「俺だってそう思ってますよ。そうじゃなくて」
解放されるのか。
きっとあの凄まじい格好のまま話を訊かれている。どんな仮面で刑事たちに対峙しているのか、多少気になった。
「陣内、何かわかったなら言え」鬼立が言う。
「何も」
「何を隠してる」
「町田は相模原の隣か」
全員の視線が集まる。ここは吹き抜けエントランスロビィの片隅。
鬼立がちーろさんを射る。
「どういうことだ」
「なんで新宿?」ちーろさんが呟く。
「何が」鬼立が食い下がる。
「埼玉と神奈川にはなかったのか。いや、神奈川が後付けか」
意味がわからない。王様も怪訝そう。
「ちーろ、わかるように」
「すみません。まだ」ちーろさんが首を振る。
「次が町田なのか?それとも相模原か」鬼立が言う。
「そうじゃない」
「関係があるんだな。発見された場所と」
「今は言えない」
鬼立の口が微かに引き攣る。緒仁和嵜と龍華が吹き出す。
「裂けた」
「裂けましたね」
「そこ、黙れ」
龍華がキーボードを叩く。
「陣内探偵の指摘が出ましたので考えてみましょうか。まず一件目が浦和。二件目が川崎。三件目は朝霞。そして問題の四件目は箱根。五件目は春日部。で、六件目の」
「新宿ってわけだ」緒仁和嵜が画面を覗きこむ。「でもそもそもが埼玉、神奈川で交互だったからどう見ても飛地よ。それに今日のは東京だし」
「明日も東京ですかね」龍華が訊く。
「陣内様は?」緒仁和嵜も訊く。
反応なし。ピクリともしない。
「これ、地理的位置に着目すべきなのか、名前自体に共通性があるのか、どっちだと思う?」
「地図出しましょうか。ちょっと待って、と」龍華がキーをタッチする。
緒仁和嵜が眉を寄せる。
「駄目。結んでも面白い形になってない」
「じゃあどんな形ならよかったんですか?」
「星型とか」
「それは単にサキさんがお好きな形でしょう」龍華が息を吐く。「移動するだけで面倒な感じなので僕は後者だと思いますね。陣内探偵の有り難いをお言葉を参考にするなら遊んでただけ、らしいですから」
「タチハナの、探偵じゃない」ちーろさんが低音で唸る。
「その枕詞みたいな呼び名をやめていただけたら陣内様に戻しますが」
ちーろさんが目を擦る。
「下の名は」
「やたすえ、です」
「そっちで呼ぶ」
「じゃあ僕は陣内さん、で」龍華が満足そうに頷く。
「ちょっとずるい」緒仁和嵜が口を尖らせる。「私も陣内さんでいいですか」
「好きに」ちーろさんが吐き捨てる。
「私もサキってゆってもらえませんか」
「気が向けば」
鬼立が複雑な顔をする。
「あ、仲間外れになってるから拗ねてますね?」龍華が言う。
「士気が殺げるからやめろ」鬼立が言う。
「それは警部だけですよ。僕らは最初からやる気満々です」
関係者専用、と英語で書いてあるドアが開く。そこに寄りかかっていたため危うく後ろに倒れそうになった。
「ゆーすけ」
聞き憶えのある落ち着いた声。飴色レンズの入ったメガネの隙間からのぞく瞳は灰青。癖毛だが細くてほうじ茶を零したような髪。日本人にしては体格も大柄で、眉も濃く顔のパーツがくっきり。スーツを着込んでネクタイはやや緩め。
「ホタテが捜しに行ったはずなんだが、会ってないか」
全然知らない。
そういえばリサイタルが終わったら、という約束が。
「帰るぞ。ここにいてもつまらん」父が出口へ向かう。
「え、でも」うっかり王様を見遣る。
「ともる君も。ほら」
「社長。あ、ゆーすけさんまで」
「よかった。逃げてませんね」
「えっとね、実はこれから用事があって」
「日を改められないのか。話がある」父が言う。
それは是非回避したい。
「ともる様と一緒に行くところが」
「ともる君の家なら明日にしてくれ。もう遅い」
こういうところだけ保護者のような発言を。
ちーろさんが父に頭を下げる。
「私の一存でゆーすけ様をお借りするわけには」
「何に使うんだ。役に立たないぞ」
ひどい。父親とは思えない。
「僕からもお願いします」ともる様も加勢してくれた。「今日ここに呼んだのも」
「それでか。ともる君が呼んだなら来るか、ふうん」
父はようやく見知らぬ三人に気づいた。ニューフェイスを捉えるとよくやるあの目線で。
「誰だろう」
「申し遅れました。埼玉県警の緒仁和嵜です。ゆーすけ君は先日長野で」
「まさか」父は俄かに眉をひそめて他の二人を見る。
「同じく龍華です」
「鬼立です」
「ちょうどよかった。亜州甫君を返してもらえないか。迷惑している」
「すみませんが、管轄外なんです」鬼立が埼玉県警を代表して言う。「ここは新宿ですので」
「警察なんだから何とかなるだろ。ホタテ、捜してくれないか」
返せ、と言って返してもらえるのなら苦労しないのだが。
布縦原短く返事して父が出てきたドアに消える。
「あのさ、父さん」
「まったくなあ」父が頭をかく。
「え、知って」
「兄嫁様だよ。あれだけ騒がれれば耳にも入る」
なるほど。そういう経路も。
「で、いいんでしょうか」
「いいも何も」父が言う。「白髪ジジイまで熱心だからな。その、ハヤシさんといったか。彼女は犯人じゃないんだろ」
「ええ」
「話題づくりにしては肝が据わってるよ。お前もそのくらいしないと復活できないぞ」
軸が大幅にずれている。
「これで亜州甫君の新曲がヒットするな。彼は奇抜でいいよ。国内にはちょっといないタイプだ。絶対売れると思っていた」
ともる様が顔をしかめる。
当然だろう。
「いくらで返してもらえるのかな」父は事もなげに言う。
「え、私に言われましても」緒仁和嵜は鬼立を見遣る。
「キリュウ君。ここの管轄の人に会いたい。連れて行ってくれるかな」
「サキ。連れて行って差し上げろ」
「私ですか? 警部のほうが」
「誰でもいい。オニワサキ君だったね。頼むよ」
「命令だ」鬼立が言う。
緒仁和嵜は言いたいことを呑み込んだと思われる。あなたが行きたくないだけでしょう、と。しぶしぶとすたすたの中間の歩調で父をどこぞへ案内する。
「やれやれ」緒仁和嵜が見えなくなってから、龍華が肩を竦める。「誰と確執があるのか、そろそろ吐いて下さいよ」
「そんなものはない」鬼立が言う。「それよりさっきのは誰だ」
「ミヤギ・クラヴィア社長の右柳そーすけ氏ですね。ゆーすけ君のお父上でもあります」
鬼立から非難の視線が突き刺さる。視界の隅でともる様が息を吐いたのが見えた。
「亜州甫かなま氏が所属する事務所でもあり、本日のリサイタルを主催したのもここです。何せ国民の聴覚を」
「それはいい。社長ってのは皆ああなのか」
「比べるサンプルがありませんからね。それに僕だってミヤギ・クラヴィア社長には初めてお会いしたくらいです。あの方滅多に外部に顔を出さないことで有名ですし、マスコミに写真が取り上げられることも稀なんです」
「ふうん、金か」
「そう考えるのが妥当でしょう」
スタッフオンリ、と記されたドアが開く。布縦原が戻ってきたようだが渋い顔をしている。まさか。
「アスウラさんは」
「いえ、平気ですよ。彼は単なる第一発見者ですし」
「え、でも」
ついてきていない。ドアもすぐに閉められた。
「すぐに来られます。それより社長の姿が」
「あ、うん。それがね」
金で解決するらしい。それを伝える。
「そもそもが濡れ衣ですからね」布縦原は特に動じなかった。「早めに解放されるにはそれも已むを得ないんじゃないでしょうか。明後日からのことも」
「あさって?」
「アスウラさんは来週から各地巡回ですよ。実はこれが東京公演で、あと三箇所ほど回ります」
「じゃあ今日出来なかったのって」
「仕方ないですけどそこまでですね。それも追々始末つけるつもりですが、おそらく希望者には返金もあり得るかと」
また。
お金。
「ともるさんも残念でしたね」布縦原が言う。「どうします? もしかしたらチケットが余ってるかもしれませんが」
「早いのは」ともる様が訊く。
布縦原が手帳を取り出す。パラパラと捲って。
「祝日の月曜ですね。大阪ですが行かれますか」
「ちーろ、片付くか」
「ともる様がお望みであれば」
「ちなみに最終公演は長野です」布縦原が言う。「来週の日曜になってしまいますがそれでもよろしければ。たぶんこちらなら確実にチケットが用意できると思います」
「長野?」
「ええ、アスウラさんの希望で。最後はどうしても長野で、と仰られたのでそういうスケジュールに」
ともる様が怪訝そうな顔をする。おそらく昨日のことを思い出している。
「じゃあそっちで」ともる様が言う。
「二席ですね」布縦原がにっこり笑った。
「二席?」
「はい。ゆーすけさんも一緒のほうがよろしいかと」
「え、俺も行くの?」
「行け」ともる様が言う。
「ええ~」
ピアノ組曲なんたら再び。
「お前も気に入ったんだろ。ちょうどいい」
「よくないですって。俺の都合とか」
「何か用事があるのか」
「それは」
ない。
こともないのだが。
これは。
さすがに言えない。
「それって日曜の夜中だよね。終わるの」
「今日と同じ時間に会場ですから、22時頃には」布縦原が手帳を見ながら言った。
ぎりぎり。そんなすれすれまでもう一度あれを観たり聴いたりしなければいけないのか。
拷問だろう。
「それまでに何とかしろ」ともる様が命令する。
「了解」ちーろさんが膝を折る。
「え、ちょ、決まってる?」
「当たり前だ。Aを聴かずに帰れるわけがない」
「えい?」
「ああ、そうか。説明するって言ったな」
ともるが遠くを見遣る。警察関係者が出たり入ったり、聴衆が順次外へと誘導されている出口に向けられる。
「さすがに片付けたか。アスウラさんの新曲の六曲目のタイトルだ。実はひとつひとつ」
突然勢いよくドアが開いた。
寄りかかっていなくて良かった、と心から思う。
「あれえ、僕待ち?」亜州甫かなまが出てきた。「困ったなあ。投げちゅーくらいしかあげられないよ」
噂をすればなんとやら。いやむしろ、この人のせいで足止めを喰らっているような気もしてくる。絶対そうだ。
「大丈夫ですか」ともる様が言う。「やっと解放されて」
「介抱? 何の話?」
ここにいる全員の頭の上に疑問符が見えた。王様が珍しく第一声を発したというのに、それを根こそぎ除草するが如き。
女装。
先ほどのステージ衣装とはまた違った意味で華美。ピンクと紫を練り合わせような艶のある生地に、縦横無尽に唐草模様が走っているチャイナドレス。スリットが腰まで到達しており脚がほぼ露出。腿まであるタイツもしっかり見える。黒いグラブが二の腕まで達している。髪は高い位置で結わえており絶対に鬘だがちっとも違和感がない。アイシャドウも口紅も彼のために製造されているのでは、と錯覚させる。
昨晩ドラッグストアで偶然会ったときとは、また違った意味で会いたくなかった。
「社長さん捜してるんだけど、いないねえ」亜州甫かなまはきょろきょろしながら。「天使くんのジャーマネさん、知らない?」
「あ、はい。おそらくアスウラさんの件で」
「ケーサツ行ってくれたの? わあ、嬉しいねえ。これはお言葉に甘えてさっさと帰んなきゃさ」
亜州甫かなまの前に龍華が立ちはだかる。
「僕は埼玉県警の龍華といいますが、ちょっと待ってください、とこちらの鬼立警部が申しておりまして」
「あなたが、アスウラかなまさん。幾つか質問を」
「なんかさ、刑事ドラマみたい。カッコいいねえ」
鬼立がわざとらしく咳払いする。龍華がメモの用意。
「指が発見されたというピアノはあなたしか触っていませんか」
「そんなのわかんないよ。あれさ、社長さんに頼んで持ってきてもらったわけだし。社長さんに聞いて」
「そういう意味ではなく、演奏中はおひとりで?」
「僕のソロリサイタルだからね。ホントはそっちにいる悪魔くんと天使くんをステージに立たせたかったんだけどねえ」
目線。
なぜかウィンク。
「それだけ? お前が犯人か、とか聞かないんだね」
鬼立はおそらく白けている。外見は限りなく女性なのに中身はまるっきり法則性がない。対応の仕方に困っている。
「そっちの小柄な人は? 僕の個人情報ならホームページにだあらだら書いてあるよ。僕の一日が丸わかりなブログもあるし。ファンになっちゃったならラヴメールでもちょうだい」
「これですか」
亜州甫かなまがノートパソコンを横取りする。
「うん、これ。お気に入りに追加しといてあげるね」
「そうしていただけると」
「壁紙も配ってるからもらってくといいよ」
「どうもご親切に」
なんだか龍華は扱い慣れている。怯んだり否定したり嫌がったりしてはこの突飛な人の思う壺なのかもしれない。だが。
とても真似できそうには。
「眠くなってきちゃったよう」亜州甫かなまが大あくび。「あ、悪魔くん。ごめんね。最後まで弾いてあげられなくって」
「いえ。長野公演に行けるかもしれませんので」
「ほんとう? それは嬉しいねえ。天使くんも来れる?」
「必ず連れて行きます」
訂正する気力すらない。
「頼もしいねえ。んじゃあ長野は特にガンバんなきゃなあ。天使くんのジャーマネさん、タクシー拾ってよ」
「あ、はい。只今」布縦原が返事する。
駅はすぐ近くだが歩くのが億劫なのだろう。しかしその格好でウロウロされるよりは迷わずタクシーに乗ってもらったほうが平和でいいかもしれない。
布縦原に連れられて一緒に裏口に向かう。亜州甫かなまがぽわぽわ欠伸をしていたため、ともる様は別れの挨拶をし損ねた。
「帰していいのか?」鬼立が言う。
「僕が決めることじゃありませんよ」龍華が言う。「それと、警部。なんかビビってませんでした?」
「誰がビビるか。何なんだ、あれは」
「ううんおかしいな。女性でしたっけ?」龍華がディスプレイと睨めっこして首を捻る。
鬼立も横目でちらちら見ては顔をしかめる。
「趣味なのか」
「そういう情報はないはずですが」
「あ、たぶんプロモーションではないかと」見兼ねたので口を挟んでみる。
女性と見紛うのも無理はない。素振りと言動をそれらしくすれば絶対に騙せる。
「宣伝であそこまでやるのか?」鬼立が言う。
「はあ、そういう人なんです」
鬼立がこの世の終わりを間近に控えた、人類最後の生き残りのような表情で頭を抱える。
「じゃあ何か。アスウラかなまってのは」
「男です」龍華が言い切る。
「女装癖の?」
「癖なのかどうかまではちょっと」
「警部、偏見は取り払って」
「帰らせろ、もう」
いまちょうど、次の日になった。
2
「おはようございます」
「ずいぶんと遅い朝だな」ともる様はリビングでお茶を飲んでいた。「何か食べるか」
「いただけるなら何でも」
「ちーろ、用意してやれ」
「了解」ちーろさんがキッチンに向かう。
その隙にリビングの新聞をちら見。いま上になっている面にはなさそうだ。
「なんだ。見たいなら見ていい」ともる様が顎でしゃくる。「大した進展はないが」
「え、じゃあまだ」
釈放されていない。
「どうしても真犯人とやらの顔を拝みたいらしい。それが済まないうちはどうもな」
「でも昨日のは絶対に不可能では」
ずっと警察にいたのなら。指を潜ませることは。
「共犯がいる、ということになってるらしい。それをテレビ欄から捲ってみろ。出てる」
ソファに腰掛けて新聞を膝に載せる。字面を追うのすら厭だった。見出しは仰々しいし書いてあるのは全部知った情報。それでも所々は伏せられている。警察とマスコミこそ共犯だと思う。
「アスウラさんは?」
「大丈夫だ」ともる様が頷く。「今頃着いてるかもな」
「大阪ですか。でも昨日の今日じゃ」
「一日前リハだよ。月曜に大阪で、金曜が名古屋。最終公演が日曜で長野だ。逃げるなよ」
「あの、やっぱり」
「はっきりしない奴だな」ともる様が溜息をつく。「行きたくないなら理由を言え。それが妥当なら許す」
なにもそんな言い方をしなくとも。
哀しくなってしまう。
「でもチケットは」
「取れた。お前が寝こけてる間に」
ますます泣きたい。
マネージャが優秀だとこういうとき困る。大体ゆーすけのマネージャとしての役職はとっくに解任のはずなのに。マネージャが必要になるような活動はしなくなって久しい。きっとあの社長が金に物を言わせているからいけない。人事権を掌握するあの女帝がいけない。きっとそう。
違った。
自分がいつまでもマネージャだと思い込んでいるからいけなかった。
中榧ともる、陣内ちひろの関係とは違う。こっちは完璧に主従。交わされる言葉は、王の命令と従者の返事のみ。既成の型があるから楽でいい。迷いも考えも要らない。王は王として思いのまま振舞えばいいし、従者は従者としてそこに跪けばいい。
わからなくなってきた。
いい匂いがしてきた。それにつられてダイニングに足が向く。テーブルの上に美味しそうな朝ご飯(起きて最初に採る食事は朝ご飯だ)が。
「どうぞ」ちーろさんが言う。
「上手ですね」
「このくらい出来ないと」
「いただきます」
何だか羨ましい。
何が羨ましいのかはわからないが。
「今日はどうする?」ともる様が言う。
「あれ、警察じゃ」
ともるが顔を背ける。すっかり忘れていたらしい。それを必死に誤魔化している。
リサイタル会場から帰る頃にはすっかり深夜。例によってまたしても寮は門限。絶対に見てもらえない自信があるルームメイトに無駄メールをして、泊まらせてもらった先はともる様宅。畏れ多すぎてなかなか寝付けなかった。夜になると室内に移住する習性のある真っ黒な生き物のせいもある。
「あ、お父様とお母様は」
「もともとここにはあまり帰ってこない人たちなんだ」ともる様が言う。「それより今何時だと思っている?」
時計をちら見しなくてもわかる。
「それは、本当に、すみません」
寝かしておいてくれたのだろう。俺が起きるまで、起こさずに待っていてくれたのだ。
「早く食え。相模原は遠い」
「父さんは何か言ってましたか」
「どうして俺に訊く。お前の父親だろう」
「いや、寝てる間に」
連絡が来てないかと思ったのだが。
「訊いたらどうだ」
こちらから尋ねるのは気が引ける。それに。
話か、と思う。
そろそろリハビリを終わりにしろ、と言われることはわかっている。だからこそ会話の席を設けたくないのに。
「ともる様ってお父さんとどんな話しますか」
「なんだ藪から棒に」ともる様が眉を寄せる。「普通だ。特に変わった話はしない」
「フツーってなんでしょうね」
ともる様が振り返る。
ダイニングに背を向けて座っていた。
「中間だろうな。周辺じゃなくて真ん中の部分」
「それってどこですか」
「どこって」
ケトルが笛を吹く。ちーろさんが火を止めてお茶を淹れてくれる。最初に王に持っていったのはさすが。
「熱いうちにどうぞ」
「お前はどう思う?」
「普通ですか。わかりません」
ともる様が湯飲みを持とうとした手を引っ込める。脊髄反射。思いの外熱かったらしい。
「すみません。すぐに」
「茶が温くてどうする。そういう気遣いは無用だといった」
「申し訳ございません」
ちーろさんは深々と頭を下げてキッチンに戻る。どこぞの社長の頭髪を思わせる番茶。王の好みなのだろう。緑色のお茶を飲んでいるのを見たことがない。
「さっきの答えだが」ともる様が切り出す。
「俺もわかりませんよ」
「アスウラさんのことか」
「え?」
そう来るとは思っていなかった。
それに、こっそり考えた事のある議題。
「驚かなかったな」
「ともる様こそ。指の件も」
ピアノの中に入っていたほうではない。
通じるか。
「減らないとか言ったんだったな、あれ」
さすが。伊達に長年付き合っていない。
「吃驚したに決まってる。ちーろを抑えるのに大変だった」
おかしいと思った。
袖からステージに来るだけであんなに時間がかかるわけがない。
「噂では聞いてたよ。確かに最近名が売れてきたばっかだが実力はある。ちょっと変わり者という但し書き付で」
「現代音楽ですよね、あの曲」
ともる様がCDケースを目の前に置く。椅子に腰掛けてから手に持っていたリモコンをオーディオ機器に向けた。
再生。
聞き憶えのあるようなないような。
「昨日の説明がまだだった。中の解説出せ」
ジャケットは両手の写真。鍵盤の上に置かれた妙に白い手。
「しーあんどそーおん?」
「お前、よくそれで世界一位獲ったな」ともる様が息を吐く。「シィ・エンド・ソウ・オンって読むんだよ。それと一応副題もある」
両手の写真下部に。
神淵の踪音。
「これって」
「面白いだろ。音が似てる」
1ページ目は亜州甫かなまの顔写真。まともな仮面装着時に撮影されたようだった。完璧な微笑でこちらと眼を合わせようとしている。そこに略歴と簡単なプロフィール。
2ページ目はアルファベットの羅列。収録曲のタイトルが書き連ねてある。全七曲だったが一曲ごと長いので演奏時間は一時間以上だろう。
これが先週発表されたという新曲の。
ちょうど全休符になった。
「生で聞かないと故障かと思いますよね」
「な、行きたくなったろう」
「なんか、ともる様にしては裏工作気味ですね」
「六曲目を聞かせたいんだ。どうにかできないか」
「どうにかって」
出来る出来ないの次元だったら。
最初から降参。
しかし今回は、事情がちょっと違う。
「今日中に答えを聞くから」
停止。
リモコンがテーブルに置かれる。
「あの、これってドイツ語なんですよね?」
3
着替えたかったので寮に寄ってもらった。行き先は神奈川県警なので通り道になり得る。ややフォーマル服では居づらい。
「やっと帰ってきたね」
「え、ちょっとなんで?」
漆黒の瞳に誂えて作らせたかのような真っ黒のフレーム。以前は伊達メガネだったがいつの間にか度が入るようになった。裸眼でも何とか見えているらしいので俺みたいに強力な視力矯正は要らない。身長はほぼ平均だが如何せん様々な部位が細すぎる。肌は病的なくらい透き通って白く、反動なのか髪は烏よりも黒々と鈍い。派手だから、という宣言どおり寮では制服を拒否し、薄めの色のワイシャツを着ている。今日は藤色だった。これほど紫の似合う人間は彼以外に存在しない。
スガちゃんが玄関で仁王立ち。
「もしやと思ってメールをチェックしてよかった。危うく君に逃げられるところだったよ」
完璧に待ち伏せされていた。だがこれから帰るからメールはしていない筈なのに。得意の読心術は空間すら飛び越えるのか。
「えっとですね、実は急いでて」
「何をしてるの?」
「うん、いろいろ」
「巷で大騒ぎの指事件と何か関係がある?」
駄目だ。この人に嘘は吐けない。
「今日はいいよ」
「へ? あの」
「日曜まで拘束しないさ。僕だって休みたいし」
口ではそう言っているが。
眼が。
「ダブルバインドに苦しんでないで用事済ませて出掛ければ? どうせ誰か待たせてるんだろ?」
寮は一人部屋から三人部屋まで三種類あるが、一人部屋以外も内部は個人の空間が存在する。そちらに入って服を替える。このままここでぐだぐだしたいような気に駆られたが。
王様から催促の電話が鳴る。
「今すぐ参りますゆえ」
「そうじゃない。駅の反対側で昼食べてる。一時間くらいしたら迎えに行くからそれまで時間潰せ」
「え、そんな」悠長な。
「不満か」
「早く行ったほうがいいと思うんですが」
「さっき聞いたらいまは困るらしい」ともる様の周囲がざわざわする。昼食を採っている場所が騒がしいのか。「ちーろが行くと聞きつけた警視庁の奴らが手を回していろいろしてるんだろ。おそらく埼玉県警の連中も揃う」
「じゃあそれって」
「合同捜査本部だな」
頭が痛くなってきた。刑事物ドラマのような展開。
「さすがに六人も続けば警察の威信も地に落ちる。躍起になってるんだよ。予防出来ればいいが警察ってのは基本的に後手だ。マスコミにも煽られるし世論もな」
すべてちーろさんの受け売りだとは思うが。まるで王様がひとりで考えたかのような。
お見逸れします。
「でもそれならちーろさんだけ行けば」
「俺が行きたい」
なんという凄まじい命令。
もう何も言えない。
「ええ、どうぞ。じゃあ俺は」
「彫刻家はいいのか」
「いいのかって、ううん」
ちーろさんが行くのならそれだけで百人力。
「四件目だけじゃない」ともる様が言う。「昨日のは俺とお前が一番の証言になりうる。なにせリハーサルから見てるんだ、あのピアノを」
そうか。だが記憶力はあまり自信がない。
「いいな」
「はあ」うっかり返事をしてしまう。
絶対に行きたくない。それならミヤギ・クラヴィア本社のほうがまだマシだ。どこぞの社長は話題になるから、と大喜びかもしれないが、話題になって嬉しいのは某女帝だけ。
まさか。右柳めてお御一行も来やしないか。
「行かないの?」ドアの外から声がする。
着替えも終わったので顔を見せる。
「誰から電話?」
「えっと知り合い」
「へえ、僕には秘密なんだ。散々サボっておいて。新入生のワガママな部屋割り調整は結構大変なんだよ?」
眼を逸らしても凍りそうだ。
「明日は出てね。それが約束できる?」
「た、たぶん」
「君の役職名を言ってみて」
「R学園高等部、生徒会副会長でござい」
「信任投票であれだけ人気出しといて。そういうことすると裏切ったことにならない?」
王様とは違った意味で恐ろしい。さながら氷の女王。
早志ひゆめ。
そっちは雪女か。
肩に手が。
「また解離してる。戻ってきてくれるかな」
「は、はい」
「助けたいの?」
「へ?」
「捕まった人さ、こないだ君が見に行った彫刻家の人だよね。その人が犯人じゃない気がするなあ」
この人はやっぱり。
天才だ。
もう。
「全部、聞いてくれる?」
縋るしか。
「行かなくていいの?」
「一時間戴きました、王様に」
「ふうん、大層な知り合いがいるんだね」
ソファに座って、話す。
天才の好みの話し方は、まず結論から。
理屈はいいから主観で喋って。客観情報ていうのは所詮主観の一部なんだ。人を介する以上完全な客観はあり得ない。それならとことん客観から遠ざかろう。
それが天才の理論。絶対にわからない。誰にもわからない。
しかし、彼なら絶対に解いてくれる。
早志ひゆめを救える。
「行方不明者が六人以上いるってことになるよね」スガちゃんが腕を組む。「それについては聞いてないの?」
「そこまではね。それに」
被害者は無差別。そこから犯人は割り出せない。
陣内ちひろの理論。
「探偵もいるんだ。ますます面白いね。ここで君を待ってて正解だった」微笑んではいるが。
脳は。本気で。
「僕は推理小説マニアでもミステリィ好きでもないから一般論は知らない。でも中指だけってのが気になるね。ちょっと見て」
右手を開いて。
「切り取るにしたってこの指は切り取りづらいと思わない? どうやったって人差し指と薬指が邪魔になる。僕だったら親指か小指よくても人差し指で妥協するなあ。つまり」
中指を立てて。
「これが欲しかった」
「欲しい?」
「フェティシズムって知ってる? 物に執着するパラフィリアの一種なんだけど好きな人が身に付けてる毛皮とか衣服を蒐集して、それ自体で性的に興奮できる人のこと。それっぽい感じする」
またそういう流れに。
「または快楽殺人とかね。知らないと思うけど殺すのが愉しいって意味じゃないよ。暴力シーンとか人の悲鳴で性的に興奮して射精することだ。世間一般では誤解されてるけどね。まあどちらにせよ男性的な犯人だよ。被害者は全員女性じゃないの?」
「うん、指の感じだとそうじゃないかって」
凄い。あっという間に探偵と同じ段階まで。
「その彫刻家の庇いたい男性。これが犯人だ。そうじゃなきゃ自白なんかしないよ。もちろん警察もその線で調べてるよね?」
「え、どうだろ」
ちーろさんはそう言っていたが、捜査の状況までは。
「日本の警察は優秀なはずだけど。おかしいなあ。なんだか犯人にしてやられている感じだね。それで六人も」
「ねえ、スガちゃんも来ない?」
「どこに?」
「実はこれから警察に行くの。証言しに」
「へえ、その王様と探偵に連れられて。さしずめ君は頼りないお付きってとこかな」
言い得て妙。
「でもお気の毒。警察は一回お世話になってるからね。もう懲り懲りだよ、あんな組織」
「え、そんなことあったの?」
「知らなくていいよ。大したことじゃない」
なんだか気になる。
「今日も発見されるんだっけ、指。僕だったらもう一回東京にするね。警視庁にケンカ売るために」
「ケンカ売るためにやってるの?」
「そうじゃないけど。ううん、何ていうかな。埼玉、神奈川で来てた法則性をここでわざわざ崩すくらいだからね。気紛れだけど時々規則性が気になってそっちに歩み寄ってるんじゃないかな。正反対の二極は同居するから。ほら、サディズムとマゾヒズムって一見どっちかしかないように思えるけど、どっちかが凄く強いってことは両方が凄く強いってことになるんだ」
「え、どういうこと?」
「例が悪かったかな。そうだなあ。パーソナリティ論は話したっけ。類型論と特性論の話」
「うん、一応」
しかしよく憶えていない。
生徒会長はそれをすっかりお見通しのようで。
「類型論はタイプ分け。ユングの外交・内向。クレッチマの分裂気質・躁鬱気質・てんかん気質。それと日本人の大好きな血液型性格類型とかね。これは嘘っぱちだって話をしたんだっけ」
「えっと、信じてる人はステレオタイプの考え方をしがちだってだけのやつだよね。権威主義とかに弱くて」
「よく憶えていたね」スガちゃんが感心したように頷く。「そう、ABO式の四類型に分かれるわけじゃなくて、権威主義的思考かどうか、ただそれだけがわかる。科学的には何の証拠もない。じゃあ特性論は?」
血液型の話はたまたま面白かったから憶えていただけで。実は類型論すらよく思い出せない。
「いいよ。今日は特性論にちょっと触るだけだから。それと比較するとわかりやすくなるかなって思って出しただけ。そうだね、君を最もよく表している特徴の逃避傾向にしようか。ほら、もう解離してる。本当は警察だって行きたくなくて仕方ない。僕から責められるのも厭だ。回避=回避コンフリクトも発生しているね。逃げ場なしだ。可哀想に。ここに誰か優しい言葉を掛けてくれる人が現れたら間違いなく君はそっちへ飛びつく。違うかな」
頷く。しか。ない。
「性格を特性論で捉えると、その項目の有無と強さで判断だから君は逃避傾向という項目を持って且つ、それが飛び抜けて強いということになるわけだ。じゃあ僕で考えてみよう。僕も実は逃避傾向がある。だけど君ほどは強くない。つまりメータ自体は有るけど目盛りは君ほど振れていない。そういう状況だ。ここまでで質問は」
「スガちゃんも逃避傾向あるんだね」
「克服というと逃避傾向が悪いみたいに聞こえるから厭だけど自分で変えてみようと思ったんだよ。この目盛りをもう少しだけ下げられたらきっと我慢できるってね。生き延びるにはそうするしかなかった。だからいまもだらだらとこの世に留まってるわけだ」
「え、ちょっとやめてよ」
「大丈夫。友だちがいるから死ねなくなった。頼りない君を近くで監督しないといつ壊れちゃうかわからない。それが心配で黄泉の国になんて行かれない。河の途中で泳いで引き返しちゃうよ。ゆーすけ君はきちんと朝起きれただろうか、テストで赤点とってないだろうか、とかね」
「それって喜んでいいとこ?」
「もちろん」スガちゃんは氷の微笑みを浮かべる。「素晴らしいしがらみだ。感謝してるよ」
いまいち。喜べない。
「じゃあ本題。身近に逃避傾向のメータ自体がなさそうな人はいない? 僕が知らない人でも構わないからひとり思い浮かべて。その人に厭だったら逃げてもいい、とか絶対に逃げるなよ、て言って行動をコントロールできると思う? たぶん出来ないよ。今度やってご覧」
「え? 出来ないって」
意味がよく。
「メータ自体がないからなんだ。つまり逃避という考え自体が思い浮かばないことになる。人間は考えもしないことは出来ない。それに考えるのが面倒なのも人間だ。一度プログラムを作ってしまえば後々同じ状況が起こった場合すんなり対処できるからその内ストレスコーピング法が固定してくる。君でいえば逃避。これに頼り切ってしまう。他の選択肢がないと思い込んでね。こういうの視野狭窄っていうんだけど」
「えっと、待って。わかんなくなってきた」
「ごめんごめん。少し脱線した。今の部分は忘れていいよ。結論から言うと、メータ自体がない人は目盛りの上げ下げが出来ないってことなんだ。逃避のメータがある僕たちなら絶対に逃げるな立ち向かえ、だの無理せず逃げ帰っておいで、も効果がある。前者はすごく辛いし後者は凄く有り難い。そうじゃないかな」
確かに。
逃げていいよ、と言われる以上に嬉しい言葉はない。いま最も欲しい言葉はまさにそれ。
「だけど逃避メータがない人はどうだろう。おそらくどっちも何言ってんの、て感じだと思うよ。意味がピンと来ないんだ。考えたことがないからね、逃避なんて」
「他の言葉じゃないと駄目ってことだよね」
「それは実際にその人が何のメータで支配されてるのかを探る必要があるけどね。それがわかればもうお手の物だよ。そのせいで君は僕に逆らえない。何せ分析は完璧だから」
そういうカラクリがあったのか。
中学二年で大学に飛び級した天才には敵わないとか。脳の構造が違うからとか。そもそもが不可能だったのではなく、限りなく限界まで振り切っている逃避メータを見抜かれたから。
心理学恐るべし。
「これで、真逆に思われているサディズムとマゾヒズムが同居できるってわかってもらえた? だから規則性に則りたい、と気まぐれでふらふらしてみたい、も同居できる。これらは同じメータで単に差してる目盛りが逆なだけだからね。針の振れ自体は気分で変わったり、その気になればコントロールも出来る。これが個性になるわけだ」
「へえ、じゃあ逃避も?」
変えられる。
「勿論。もし逃避傾向に悩まされてるなら目盛りを動かせる。それをするために僕は
もう厭だ逃げたい、は立ち向かう、に変換できるのか。
俄かには信じがたい。何か他に必須になるメータがあるような気がする。それを持っていないと変換は望めない。基底条件になり得るメータ。北廉えとりにはあって、右柳ゆーすけにはない。
精神科通いのメータか。
違うな。
「あ、そういえばね。そのアスウラさんのリサイタルでユサ先生に会ったよ。知り合いみたいだった」
この場合の知り合いは非常に広範囲の意味だが。
「昨日いなかったのはそれが理由だったんだ」スガちゃんが言う。「へえ、ピアノ聴きに行くようには見えない」
「それってちょっと酷いんじゃない?」
「酷いも何も、情報が少ないんだからこっちで勝手に投影するしかないよ。それに先生はちっとも自分のことを話してくれない。結構防衛が高くてね。離婚したってことくらいしか」
「離婚、したんだ」
「らしいよ。ずっと前みたいだけど」
それはするだろう。
日本国の法律では認められないのだから。
「逃げられたんだって」
4
「下らなかった」
陣内ちひろに視線が集まる。
自分もつられて見てみたが、会議の冒頭に探偵の呼び名を訂正した従者はそれ以上何も言わなかった。眼すら閉じている。眠っているのだろうか。
「陣内。そういう態度は気に食わないな」
「見なければいい」
鬼立の口元が引き攣る。
裂けた、というらしい。
「あのな。何のために俺がこんなところまで足を運んだと」
「呼んでない」
緒仁和嵜と龍華が一歩ずつ後退りする。
「今度は何がわかった」
「何も」
「いい加減にしろ!」
狭い部屋に大声が反響する。どこぞの用心棒よりも幾分か高いトーンだったが相当の剣幕で怒鳴ったためか。
陣内が眼を開ける。
「まともに調べたのかお前らは」
「どういう意味だ」鬼立は、パイプ椅子に座ったちーろさんに詰め寄る。
構図的には見下ろしているはずなのにちーろさんの体格が大きすぎるせいで迫力負けしている。
「もう一回言ってみろ」
「今日は東京だ。早く見つけてや」
「警部!」
龍華が間に入る暇もなく鬼立はちーろさんの胸倉を摑む。
「なぜ何も言わなかった」
「必要がなかった」
更に強くつかんで。至近距離で睨む。
「鈍ったんじゃないのか、名探偵」
「そういう名じゃない」
「ちょっと警部。頭冷やして」
ともる様が外に、と眼で合図したので廊下に出る。
燻んだ空気が立ち込めている。どんよりという形容が相応しい。廊下の突き当りが窓だった。
会議が終わってからすでに半時間経つ。
今しがた様子を見に行った大きな部屋に沢山の刑事が集まり、互いの情報を交換し合い今後の方針を確認した。さすがにともる様と自分は別室で待たされたが、ちーろさんは是非と参加を要請されどんな活躍をするかと思いきや、最初から最後までさっきの椅子に座ったままピクリともしなかったという。発言を求められても目を瞑ったまま首を振るだけ。そして心強い筈の助っ人から何の助言も得られないまま已む無く解散となったとき、沈黙を保っていたは彼はようやく口を開く。その記念すべき発言は。
やる気あるのか。
だったらしい。
連日の捜査に行き詰まり、限界までストレスが溜まっていた刑事たちにはこれ以上ないくらいの挑発。もしこれを発したのがあのちーろさんでなかったなら乱闘騒ぎに発展したことだろう。
張り詰めた空気は良識ある人間が多かったおかげか何とか収まり、刑事たちは一斉に持ち場に戻った。だがちーろさんは一向に席を動こうとしない。その旨を受け取り、ともる様と一緒に部屋を覗いてみたのだが空気は未だぴりぴりしていた。
ただっ広い部屋の隅に、ちーろさんを囲む形で埼玉県警刑事が三人。それでもともる様の気配だけは感じ取ったようで、一度立ち上がって礼をしたが再び沈黙してしまった。鬼立の執拗な捲くし立てに厭きたのか、やっと発した言葉が。
下らなかった。
だったのだ。
鬼立が怒鳴ったのも無理はない。
破壊音。
部屋の中だ。
反射的にともる様がドアを開ける。なだれ込むように部屋内へ。
「見損なった。ここまで堕ちたか」鬼立が苦々しく吐き捨てる。
床に座ってそっぽを見つめるちーろさん。それに背を向けて立つ鬼立。横転したパイプ椅子を片付ける龍華。管轄の違う刑事に事情を説明している緒仁和嵜。
ともる様はちーろさんの正面に立って。
「わかったのか」
「言えません」
「命令でもか」
「辞めます」
俄かにともる様の顔が曇る。
「探偵に戻るのか」
「おそらく」
いみが。
とどかない。
「両立は出来ないのか」
「出来ません」
「探偵じゃないと犯人が暴けないんだな」
「そういうことになります」
鬼立が反応。
ちーろさんを射る。
「陣内」
「最後の指が見つかったら連絡してほしい」
「最後?」
今日が。
「もう出ない」
「絶対なのか」
「東京だ。早く」
名の知らない刑事が廊下に出る。
駆ける音。
「場所は」鬼立が訊く。
「わかったら真っ先に言ってる。それとひとつ頼みがある」
息を呑む。
戦慄。
こんな顔が。
あったのか。
「ハヤシひゆめとやらに会いたい」陣内ちひろが言う。「
5
夕方になってしまった。
なんだかもの哀しくなってきたのは単に空が紅いせいではない。黒くて大きな鳥が不気味に鳴いているせいでもない。もちろん、全国の警察を統括する凄まじい建物から早々に追い出されたせいであるはずがない。
王様が。
淋しそうだから。
ことばは。
いみがない。
ひたすら車内で待っている。ドライバが帰ってくるまで。関係のない者は進入を拒まれる。それが良かったのか悪かったのかは。
情けないお付きの俺にはわからない。
ウィンドウを叩く音。緒仁和嵜だった。
スイッチで下げる。
「お腹空いたでしょ。どう?」
「あ、えっと」
隣を。
「ともる君も一緒に」
黒い後頭部が。
見えるだけ。
「行ってこい」
「でも」
「腹は減ってない」
無理に勧めないほうがいい、と長年の勘も囁く。
「いってきます」
車から降りる。駐車場を抜けて少し歩くと。
喫茶店。
「デートみたいね」緒仁和嵜が笑う。「ゆーすけ君、彼女いる?」
「見ての通りです」
「それってどっち?」
「ご想像にお任せってことです」
「わかんない子だなあ」
からんとベルが鳴る。人の入りはまあまあ。広くもなく狭くもない店内の中ほどに座る。薄暗い。コーヒーの香り。ランプのようなオレンジの明かりが頭すれすれまで下がっているため落ち着かない。
「さっきウロウロして見つけたの。結構いい雰囲気だよね」
聞こえるか聞こえないかぎりぎりの音量で曲が流れている。ジャズのようだ。特有のピアノの弾き方。注文を言ってから耳を澄ます。
ジャズは詳しくない。しかしなかなか心地よい。
揺れる。
自然に。
「何の話しよっか」注文を終えてから緒仁和嵜が切り出す。
「ともる様以外で」
「陣内さんもNG?」
「俺が口出せる筋合いじゃないんで」
緒仁和嵜が肩を竦める。
「軽井沢で出た死体の身元がわかんないんだって。そんなことってあると思う?」
凛とした眼が真剣そのものだった。
「それって俺に話しても」
「別にいいよ。君、口堅そうだし。頭よさそうだし」
何か勘違いされている。
「R学園でしょ? 有名私立じゃん」
「いや、凄いのは大学だけで。R学園自体は大したこと」
「嫌味に聞こえるなあ、それ」
アイスコーヒー。
グレープジュース。
「愚痴ってるね、わたし」緒仁和嵜は眼の周りをマッサージする。
「お疲れですね」
「すぐ眼に来るの。ああ、コンタクト出したい」
「ハードですか」
「あれ、君も?」
「柔らかいほうを」
「ふうん。どうしてわかったのかって思わなかった?」
「訊いていいですか」
グラスを移動。
ことんと音がする。
「コンタクト知らないとハードか、なんて訊かないから。あの気の利かない龍華だとさ、出してきていいですよ、とか言うの。そういう問題じゃないのよね。疲れたってことなのに」
氷を掻き混ぜる。
からんと音がする。
「他の五本もね、誰のかわかんないんだって。それっぽい行方不明者がいないらしいのよ。そんなことってある?」
「えっと、俺も考えたほうが」
「私はお手上げ」緒仁和嵜が頬杖をつく。「いない人ってことなのかなあ」
「そんな人いるんですか」
「いないわよ。戸籍があるんだから」
「戸籍にいない人とかって」
「あり得ないわ。それって日本人として認められてないってことなの。産まれてから一週間以内に申請しないと」
いない人。
「ホント変な事件。誰かひとりのっていうならわかるのに。一本ずつ置いてってさ。全部済むまで十日かかるの。でも」
今日で終わり。
伝説の名探偵はそう言う。
「一週間。七日。七本で終わりなんて」
「アトリエにあった死体なんですが。女性でしたか」
天才の推理を確かめる。
緒仁和嵜はいったん目を逸らして。
「年齢は十代後半から二十代前半。全裸でね、棺桶ほどに掘られた穴の中に、こう、胎児みたいに丸まって。土の代わりに雪で埋まってたらしいからちょっと凄いわよね。死因は毒殺。ていってもそんなに大した毒じゃないの。ドラッグストアに売ってるようなちゃちい毒よ。両手の中指が根こそぎ切り取られていた以外は特に外傷なし。綺麗なもんよ。眠るように死んでいたってやつ」
ピアノが即興の音色を奏でる。
「一緒に埋まってた糸ノコの刃に遺体のものらしき血液が付着してたわ。それと指紋もね。それ」
「早志ひゆめ氏のですか」ボリュームを落として訊いた。
唸る旋律。
「それが難点なのよ。彼女の指紋しかないの。これじゃあ犯人ですよって言ってるようなもんじゃない。フツー拭き取るわよ」
「他に何か」
「そうね」緒仁和嵜の目線が一旦上がる。「見つかった糸ノコの本体はこれまたアトリエの地下にね、見たでしょ。下のフロア。そこに隠すでもなく堂々と。そこで指を切り取ったらしいわ。血も飛び散ったままだったし」
「生きてる間に切ったってことですか」
「まさか。てゆうか生きてる間ってあなた、恐ろしいこと言わないでよ。ああ、気持ち悪い」緒仁和嵜は首を振って顔をしかめる。
言ってから気づいた。
スプラッタだ。
「ホラーとかってもう考えただけで駄目。実は死体も好きじゃないのよ。刑事課なんかにいるけどね」
注文したものが揃った。いいにおい。食器の磨耗具合がこの喫茶店そのものを表しているようでよかった。
「ああもう、あとにすべきだった」緒仁和嵜が料理を見て首を振る。
「ミートソースはハズレでしたね」
「言わないで」
しばらく黙ってパスタを食べた。相変わらずピアノは即興。それがジャズなのだが譜面を辿らない奏法というのはどうも慣れない。遙か上空を天使に連れられ浮遊している最中、たったいまから自由ですよ、と突然手を離されたかの如く孤独。せめて一瞬だけ躊躇って哀しい顔をして欲しいのに。天使はにっこり微笑むだけ。
無慈悲だ。
「オニワサキさんて」
右手を前に。
「待って。呼びたいならサキって言って」
「気に入ってないんですか」
「これ、書くのも面倒なのよ。小学校の書初めとか習字なんてもう最悪。どんなに細い筆を使っても真っ黒になっちゃうの。テストも出遅れるし。下の名前も冗談みたいに」
「さきさんとか」
「惜しい。りさき、よ。オニワサキりさきって呪文みたいよね。言いづらいったらないわ。自己紹介で絶対に噛むもの」
唱えてみる。
確かにつっかかる。
「結婚しちゃえば解決なんだけど」緒仁和嵜が息を吐く。
「意中の方でも」
「いないのよね。警察関係は絶対に厭だし。でもそうじゃなければ出会いの場なんてないじゃない。まさか犯人てわけにも」
「探偵は如何ですか」
「それって陣内さんってこと? 駄目よ。好みじゃないの」
「ではどういう方が」
緒仁和嵜はフォークでパスタの残りをつつく。
「君さ、私のこと聞いてばっかり。自分の話もしようよ」
「何を話せば」
「それは気を利かせるの。そっちで考えて」
と言われても。
中榧ともるの話だって陣内ちひろの話だって指事件だって。どれも遠慮したいけど。一番したくない話は。
右柳ゆーすけの話なのに。
見抜かれた。
完璧な相槌だったはずだが。
「何とかしてくれないかなあ、陣内さん」
今頃、早志ひゆめに会っているだろうか。
早く。
見つけろ、と。
指が。
中指が。
突然、緒仁和嵜が立ち上がる。そのまま建物の外に出て行ってしまった。窓の外に姿を発見。電話をしている。
からん。ドアを開けたときの音がして。
「お金、ここに置きますね」緒仁和嵜の声がした。
奥にいる店員が返事。緒仁和嵜の強い眼線がこっちに。
「ごめん。ちょっと」
「わかりました」
おそらく見つかった。
最後の指が。
自分の分の会計をしようと思ったら彼女が払ってくれていた。おつりを受け取らなかったようなのでそれを預かる。
風が。
冷える。
黒い車に戻る。
黒い頭を見る。
動かない。
じっと黙って。
顔が下を。
そうか。
眠ってしまった。
珍しい。
誰もいなくなって。
緊張が解けたのかもしれない。
「ゆーすけ」
ビックリした。起きていたという事実ではない。
名前。
初めて呼ばれた。
フルネーム呼び捨て以外で。
「なんですか」
「ちーろは」
「まだですよ。俺もいま戻ってきたところで」
車内はぬるい。見えなくなりつつある太陽のせいではなくて温室効果の名残だろう。時間差で効いてくる迷惑な暖房のようだ。
「本当に探偵だったと思うか」
「ちーろさんがですか。刑事さんたちがそう言ってますしね。伝説の名探偵って」
「俺は違うと思う」
ウィンドウが白く曇る。
「ちーろは探偵じゃない。違う。絶対違う」
「違いますかね」
「違う。俺はそう思わない。だから探偵じゃない」
なんとも強引な理屈。
王様らしい。
「じゃあ探偵じゃないかもしれませんね」
「当たり前だ」
結露再び。
「絶対に認めない。探偵なんかにさせるものか」
わかってしまう。
届いてしまう。
伝わる。ぜんぶ。
言葉は要らない。
表情も要らない。
存在で。
染み込んでくる。
想い。思い。
重い。
これが特技だと思う。誰にも言わないけど。誰にも言ったことないけど。誰にも言うつもりもないけど。
頭の中が。
揺らぐ感覚。
そこから熱が。
拡がって。
脳が。
放電する。
全身で感じる。
指も。
何もかも震える。
咽喉の奥が拒絶する。
無音を発する唇。
眼球も固定。
そのときだけは。
自分はいなくなる。
他人に。
なって。
沈むことが出来る。
代わりに。
なれればいいのに。
身代わりなら。
慣れてる。
最初から。
代理人。
右柳ゆーすけは。
他の。
誰かだった。
偶に名前を思い出して。
困ったなと思う。
そうか。
右柳ゆーすけだっけな、と。
指を切り落としたのが。
早志ひゆめでもいい。
指を置いたのが。
誰なのかは。
もう。
霧散してしまえばいい。
忘れられた指が。
出現したのだ現世に。
だからこそ。
持ち主が見つからない。
当然だ。
この世の指でも。
この世の物体でもないのだから。
アトリエの遺体も。
彼岸の物質。
痛い。
異体。
慕い。
死体。
殺されたわけでも。
殺人事件でもない。
指が。
七本の中指が。
誰かに会いに来ただけ。
誰に。
それを捜していたのが。
埋まっていた裸体。
見つからなくて。
哀しくて。
絶望して。
棺桶に入ったのだ。
死ぬのを手伝ったのが。
早志ひゆめという彫刻家。
せめて中指だけでも。
そう願って。
糸ノコで。
血が飛んで。
さようなら。
名前のない彼岸人。
中指は。
生きて。
彷徨って。
誰かを探している。
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