第4話 Fistel Festhalten 隠して斯くして
1
「これ、ウチのために?」
「うん何ていうかその」
単なる人数合わせ。
とは言えない。
何の因果か
今日じゃん。今日の今日いきなりで都合のつく人間が世の中に一体何人いるのかっていう。その行き先を悩みに悩んで、血迷いの果てに実家に帰ってきてしまった。というわけで。
「たまたま、ね」
「嬉しいわあ。ゆーくんがウチに?」
ぎゅうと抱き締められる。
息が苦しい。何が苦しいってそれは。
胸部の凶器。
「は、離して」
「デート? なあデートなん?」
「えっと違くてですね」
距離をとってくれた。
「あ、そか。セオちゃん?」
「ええ、実はこれから」
あと七枚もあるのだ。あの館に配って歩けばノルマは何とか。
「そらかんわあ。セオちゃんお留守やった思うえ」
「は、嘘でしょ?」
トルコさんが髪を払う。
毛先はバラバラで外耳の後ろの房だけ長い。色は茶に近い金。実は自分の地毛の色にことごとく近接している。彼女の役割上それを知らない筈はないので真似しているものと理解。嫌味でやっているわけではないし、こっちもまったく気にしていない。
むしろ気になるのはその衣装。
「留守ってどこへ?」
「そないなこと。あ、ちょお思い出したわ。確か生やす生やさないゆう友だちがケーサツ御用やゆうて」
「ハヤシさん?」
早志ひゆめ。
「せやったかなあ。ようわからへんよ名前は。そんで慌てて飛び出していったん」
長野県警か神奈川県警に殴り込みに行ったに違いない。彼女ならやりかねない。いや、絶対にやっている。すでにやっていたのだ。
遅かった。
「え、じゃああの家」
「すっからかんやで」
「うっそお」
まずい。そうなると確実に余る。
七枚も。
「だ、誰かいないの?」
「でやろな。何なら連れてこか? ウチも用あるさかいに」
足は玄関に向かう。
「あの、まさかその格好でとか」
「あかんかなあ」
「あかんでしょう」
床に密着した靴音が近づく。
「ご出発ですか」相変わらず蚊が鳴いてるような微かな声。
「なあ、エマイユちゃん見たって。これあかんかなあ。ゆーくんが変な顔するん」
「私にはよく」
「ほんなら何があかんの?」
脳天から爪先まで全部です、とは言えない。
右柳家に集まる女性たちはどうも服のセンスが逸脱しているようにしか思えない。
彼女の普段着は、それを製作した本人によると。
アラビアン・チャイニィ。
とかいう新たなジャンルを確立したらしいが、その布地が纏う地域性を完膚なきまでに破棄している。その突出した突飛さ加減が認められたのか某権力者に、遙かユーラシアの端と端に位置する東西アジアを見事なまでに結び融合させる距離感のグローバル振りはまさにシルクロード、とさえ言わしめた偉業を達成した前人未到のファッションデザイナ。
トルコ。
もちろん、彼女の名も某権力者こと
これが右柳めておによる右柳めておのための最初の名。しかし彼女はもはやこの名を放棄している。それでも尚その名を呼び続けることを許された存在。ちゃん付け、ということからも彼女たちの親密度の深さを充分に感じ取れる。
右柳家専属スタイリスト。
それがトルコ。
「これ自信作やってん。見せびらかしたいわあ」
有無を言わさずなところがよく似ている。
「じゃあエマイユちゃん。出来たら、でいいから」
「いいえ。ゆーすけ様から戴いたものを無駄にするわけには参りません。是非」
「そ、そう? 場所わかるよね」
「はい。以前一度ご招待を」
そうだった。
あの時も。
「じゃあ夕方にまた」
「いってらっしゃいませ」
エマイユ。
俺が育った家、つまり実家でベビイシッタ以外のすべての仕事をたった一人でこなしたメイド。主不在となった現在も実家のハウスキープに心血を注いでもらっている。
石畳を抜けて駐車場へ。
トルコのスタイリッシュな車に乗り込む。すぐに発進。
「いま電話したったら、何やあのマジメイドふたりは居てるみたいやね。んでZFR(ゼフラ)勢の血気盛んなんはセオちゃんに。冷めとるんはお仕事。そっくんのとこにてんやわんやしてはるのもおるらしわ。どないする?」
四つに分かれているのか。
ZFRの中核たる人員は、めておの為なら政権乗っ取りすら企てかねない狂信者たちなのでチケットをちらつかせたところで歯牙にもかけてもらえないと思われる。これは無理。仕事に勤しんでいる人種はおそらくチケットにも興味を示さないだろうから却下。それ以前にどこにいるのかがわからない。
そっくん。
というのは父・右柳そーすけのこと。トルコは右柳めてお並みに傍若無人なのでそんなふざけた呼び方が平気で出来る。呼ばれる本人ももう諦めている。所詮彼女らには敵わない。
父がどこで何をしているのかは知らないが、ミヤギ・クラヴィアの本社に出向くのだけは絶対に厭だ。そういうわけでこれも駄目。
やはりあの二人しかいない。
「れーちゃんたちは?」
「いまちょうど居てへんみたいやね。タイミング悪いさかいになあ」
そうなると本当にまずい。いとこの彼らがいるならマイナス3も期待できたというのに。心優しき二人が受け取ってくれると仮定しても。
残り五枚。
「父さんは来るのかな」
「なんやゆーくん。パパ恋しうなったん?」
「そうじゃなくてね。さっき渡したチケットの」
亜州甫かなま。
「明日や明後日やのゆう人ね。ウチあの人会うたことあるよ」
「え、いつ?」
「いつやったかなあ。本社ビルからかいに行ったときやったか。せやけどあんまなあ。お近づきになりたないタイプやわ、あれ」
それは心の底から同意。
今朝目が覚めたときにすでに亜州甫かなまはいなかった。荷物もなく早々にチェックアウトしたらしい。フロントに鍵を返しに行ったら料金は払われているといわれて一安心。あんな凄まじい部屋が一泊いくらなのか考えたくもない。
ホテルで朝食を採りたくなかったので外で適当に食べて実家に向かった。R学園やホテルのある相模原から電車で一時間。隣の区の山奥。マネージャに迎えに来てもらってもよかったのだが外泊がバレると大騒ぎなのでやめた。
ここに住んでいるのはふたり。
トルコさんはここの空気が好きだといって自らの創作活動の事務所として使っており、エマイユちゃんは建物維持のために住み込んでもらっている。純和風建築でメイド服というのも不釣合いな気がするがトルコのお手製なので慣れるほかない。右柳家に関係する女性はたいていトルコにオーダメイドで服を作ってもらえる。いや、オーダ自体は右柳めておなので与えられた衣装を着るだけなのだが。
「ぎょーさんもろたんやねえ。ガッコの子やらはあかんの?」
思い当たったがなんとなく呼びたくない。
メロディ。
「あ、ごめん電話」
「ええよう」
「はい、なんでしょうか」
「いまどこだ。まずいことになった」
ともる様。
「え、それは」
「彫刻家が自白した」
「うそ」
「嘘なわけあるか。もちろん自白だけなら証拠にはなりえない。それでもうひとつ最悪な事実が」
「指なしの?」
「ああ、実は四件目の指だった」
「え?」
美術館のあれは。
アトリエの庭にいた。
遺体の。
「五件目のじゃなかった。埼玉県警の勘は外れたよ。それを知らされた途端ちーろは考え込んでる。上の空だからとても運転させられる状況じゃないんだ。お前のついででいいからあのマネージャに頼めないか」
「はあ、それなら構いませんが何時ですか」
「会場が18時だろ。一時間前でいい。あまり早く行っても迷惑だろうし亜州甫さんもいない」
「え、いないって」
客はいいとして実際にステージに立つ人間が開始ぎりぎりに到着して平気なのだろうか。自分なら考えられない。確かに遅刻常習犯で通っているが授業とリサイタルでは次元が。
「だから一日前にリハを充てたんだ。亜州甫さんは少し変わってて当日は本番寸前まで会場に来ないらしい。有名な話なんだが社長に聞いてないか」
聞いているはずがない。
そもそも亜州甫かなま自体を知らなかったのだから。
「わかりました。どこに行けば」
「家にいる。悪いな、頼んだぞ」
切れた。
忙しいのだろう。それに口調が切羽詰っていた。
ちーろさんは何かわかったのだろうか。
「モルくん? ウチも声聞きたかったわ」トルコさんが言う。
「ごめんなさい。向こうもその」
「気にせんといて。裏やったか表やったかゆう人の、行くみたいやしなあ。そんときでええよ」
すごい呼び方だと思う。
さっきも明日とか明後日とか言っていた気がする。どうでもいい人の名は憶えないようになっているのだろう。
「世間はゆびゆび忙しないなあ。朝刊でかでか載っとったよ。連続指事件の彫刻家逮捕、ゆうて」
「え、そうなんですか?」
「知ってへんの? 新聞オモロないけどたまには読んだったらええのに。セオちゃんも出るし」
ちっとも知らなかった。新聞を読まないのはいつものことだがテレビすら見ていない。ホテルに泊まっていたせいも多々ある。
「あの、他に何か」
「せやねえ。新聞は健全な情報だけ上澄みされるさかい。つまらへんよう。如何わしい週刊誌でも買うてみる?」
「いや、それはあまり」
「こっちもセオちゃん出てはるよ。今度切り張り見せたるね」
それは週刊誌のほうが熱心とも粘着ともいえるねちねちした詳細情報があることないこと記されているに違いないがやはり読む気はしない。
逮捕。
これで終結なのだろうか。
「なんや暗がりやね。お囃子やのゆう人のこと気になるん?」
それは。
当然なのか。成り行き上の感情なのか。
早志ひゆめの自白。
本当に彼女がやったのだろうか。俄かには信じがたい。自分の周囲の人が人殺しだということを認めたくないだけか。
五人の中指を切り取る行為。
果たして異常といえるのか。
切り取りたい、切り取りたくない、という二択だったら。
間違いなく切り取りたくないを選ぶ。
切り取りたい人も。
いる。
わからない。
わかりたくないだけ。
「まあ今日は土曜やさかいに、テレビも暇潰しやしな。特集番組ゆうてやれ心理学やの精神科やの精神判定やので何やかやゆうとるのと違うん? 向こう着いたら見よか」
「それはあまり」
勝手なことを無関係な外野が叫んでる。
心理学に詳しいルームメイトはそう切って捨てる。
テレビに出たいがためにべらべらと。心の闇だの愛のない生育暦が原因だの過去にこんなトラウマがだの。マスコミ好みの論議を展開してくれる。
異常者。常軌を逸した。猟奇事件。
格好の餌食。
「セオちゃんに連絡してみてもええけど」
「いえ、いいです。もう」
「そか。ほんならこの話終わりね。せやからゆーくんももっと可愛い顔したってよ。ウチも哀しうなってまう」
苦笑いしか返せない。
砂利の敷かれた駐車場。車から降りる。
「今日はデリバリやったん。トランク開けてくれへん?」
「え、キリンとか出てきませんよね?」
「ジラフはないなあ。新しく入った子らの新規衣装。それと年代ものになったZFRらのおニュウ。ちょお自信作なん」
そういう用事だったのか。
実家に訪れた際にトルコは駐車場にいた。荷物の積み込みを終えたところだったのだろう。
トルコ自らのブランド名のロゴが入った大きな紙袋を運ぶのを手伝う。基本的にオーダメイドを貫いているためお得意様にしか服を作らない。それでも充分やっていけているのは彼女の才能によるものだろう。あとは某権力者の顔の広さに起因する宣伝効果か。
入り口までがまた遠い。ここにあと三つほど同じ洋館が建てられる。もう少し余りが出るかもしれない。仏壇のある離れも増設すればいい。
右柳へいすけ作の噴水を横目に見ながらポーチに近づく。
タイミングを計ったかのような。
「おかえりなさいませ、ゆーすけさま」
という高い声。
「えっとね、いつも言うんだけど俺の実家はこっちじゃなくて」
「お疲れでしょう。さあ、こちらへ」
扉を通過する際に荷物を残らず奪われた。視線誘導も完璧。手が軽くなって初めて気がつく。
スファエル。
雰囲気はクラスに絶対ひとりいる生真面目リーダ。似合いすぎるメガネのせいかもしれない。服装はファミレスで見かけるものと酷似しているような気がするが敢えて指摘しない。
右柳めておが君臨するこの洋館のメイド長。
「ちょおメガネっ娘、それこっちな」
「トルコさま。もしかするとこちらは」
「完成したったえ」
「ホントですか。それでは早速」
スファエルは深々と頭を下げるとスキップしながら奥へ向かう。お待ち兼ねの物品だったらしい。
館の外観は西洋の美術館。上から見るとやや長めの蒲鉾板に見えると思われる。色もそんな感じ。三階建てでエントランスホールは吹き抜け。二階に上がってすぐの空間で待つ。ロビィだと思われる。
「どうぞ、ゆーすけ様」
「ありがと」紅茶を受け取る。「アクロちゃんももらってきたら?」
「私はこの衣装が気に入っておりますので」
また違う雰囲気のメイド服。
両者ともモノトーンを基調にしているがエマイユの服のほうが装飾が多い。エマイユの服がふわふわだとしたら、アクロのはきびきびだと思う。
淹れてもらった紅茶を一口啜ってから。
「あのさ、突然だけど今日の夜って空いてる?」
「私はここに住み込ませていただいています」
「えっとね、そうなんだけど実はリサイタルのチケットをたくさんもらっちゃってね。出来たら、でいいんだけど」
ポケットから取り出す。
「ゆーすけ様が行かれるのでは?」
「うん、だけどいっぱいあるんだ。無駄にしたくないんだよね」
亜州甫かなまに脅迫されているから。
「他の方に渡してください。私にはとても」
「うん、まあそのね」
一筋縄ではいかないか。
階段を上がる靴音が近づく。
「ゆーすけさま」
衣装替えが済んだらしい。更にパワーアップした服装だが基本理念はそのまま継承されている。右柳めておが個々人から受け取ったイメージを具現化しているだけなので変化がないのは当たり前か。
「そちらは?」チケットに気づいたようだ。
「リサイタルのね。スファエルちゃんはどう? 今日の夜なんだけど」
「え、いいんですか」
「いっぱいあるんだ。だから」
「では是非」
残りを見せる。
「他に誰かいない? 行けそうな人」
「そうですね。今日はヘレンさまがお留守ですからZFRの面々は来ないみたいですし」
ヘレンというのは右柳めておの別の名で、正式にはヘレンカイゼリン。彼女が以前活躍していた場での通称らしい。ZFRはそのヘレンカイゼリンを信仰する集団名なのだが何の省略形だったかは思い出せない。
この館はゆーすけの従兄弟一家が住む家なのだ。おかえりなさい、では何かおかしいのだということに早く気づいてほしい。
「あと六枚ですか」スファエルが言う。「ホタさんは如何ですか?」
「それはもう抜いてあるんだよ。誰か捉らないかな」
「連絡網を回してみましょうか?」
「そんなのあるの?」
「はい、万一のために作らせていただきました」
ますますクラスリーダのようだ。
「あ、じゃあお願いしようかな」
「畏まりました。少々お待ちください」
スファエルがお辞儀してから階段を下りる。入れ違いにトルコが上がってきた。衣裳を見て満足そうに頷く。
「やっぱセオちゃんやあ。ばっちり似おうとるやん」
「こっちがいいんですよ」
自分の顔を指した。
「そらかんわ。布に失礼やね」
2
スファエル作連絡網のおかげで、瞬く間に残り六枚の受け取り手が見つかった。
「すっごい争奪戦でしたよ。やはりゆーすけさまが行かれるというのが大きいらしいです」
「え、じゃあ喧嘩にならなかった?」
「大丈夫です。私が仕切りましたから」
それなら安心。館におけるいざこざもすべて彼女によって丸く収まっている。伊達にメイド長の役職を担っていない。
「アクロさんも行けばいいのに」スファエルが気遣う。
「いえ、皆さんで楽しんできてくださればそれで」
「メイドの鑑だね。泊まりもたまには代わるよ?」
「ありがとうございます」
扉が開いてトルコさんが出てくる。新規衣装整理が終わったらしい。
「ほんならウチは戻るさかいにな。ゆーくんは」
「あ、駅までお願いできますか」
「どこいくん?」
「実はともる様のお家でして」
この館は千葉に位置する。ともるは自家用車でリサイタル会場横付けを希望していたが、先ほど確認したところマネージャはミヤギ・クラヴィア本社に居る。本社もリサイタル会場も東京にあるという前提条件を考慮せずとも、そちらに寄ってから迎えにいくというのは効率が悪い。そもそも
長年の付き合いから判断すれば。
単に一人で行きたくないだけ。
「ウチが送迎しよか?」トルコさんが言う。
「いや、衣装だけ借りれれば」
「それこそウチの出番やわ。ちょおじっとしとってな」
メジャ。
「やっぱ脚伸びとるなあ。せやけどまあこんくらいならいけるやもしれへんね。はい、終わり」
結局その場は最寄り駅までになった。服は丈を直し次第中榧家にわざわざ届けに来てくれるとも。
「ほっくんは忙しさかいに。ドライバくらいウチにゆうたってね」
「エマイユちゃんも連れて、ですか?」
「せやね。メガネっ娘でもええんやけど定員オーバやさかいに堪忍してもらうわ」
電車に乗る。中榧家に行くのは緊張するが了承は取れたのでびくびくする必要はない。だがあの家は。
番犬が怖い。
吠えはしないが主以外を捕捉した瞬間に飛び掛ってくる。凶暴そうな大型犬なので襲い掛かられたら、と考えるともう震えが止まらない。放し飼いをやめてくれ、と何度もお願いしたのだが聞き入れてもらえない。
門の隙間から覗く。何だがおかしい。前に来たときは黒いのが一匹しかいなかったのに。
門柱の脇に隠れて電話をする。
「着いたか」ともる様はすぐに出てくれたが。
「えっとですね、お犬様がですね」
増殖している。
「なんだ。まだ駄目なのか」
「そ、それはもう」
「いま行ってやるから」
玄関の戸が開いた瞬間に犬が猛ダッシュ。黒い塊が黒い人間の足元に寄り添う。門のロックを解除する。
「こんなとこまで悪かったな」ともる様が言う。
「近くまで来たので」
恐る恐るともる様の後に続く。犬の集団は主が視界にいるおかげか飛び掛ってこない。何とも有り難い。
殊のほか玄関に靴が多い。確かともる様の二人の姉はとっくに家を出て方々で暮らしている。両親は共に働いているので土曜はいないはずなのに。
「お客さんですか?」
「ちーろがな。人を呼ぶ体質らしい」
「え、まさか」
廊下を進んでリビングに入る。
「まあ、ミヤギ先生のお孫さん」
「ちょうどいいですね。一緒に会議とかどうですか」
ソファに腰掛けているのは見覚えのある顔ふたつと。
知らない顔。
「君が箱根のか。どうも、
彼がちーろさんの知り合いの。
年齢は刑事二人よりやや上。上司だということなので当然かもしれない。声がすごく低い。わざとトーンダウンしている声質。相手の出方を伺っている。
纏う雰囲気に何か違和感が。
「皆さん、ちーろさん待ちですか?」
「あっちだ。篭もって出て来ない」ともる様が眼を遣った先に。
扉。確か彼に与えられた部屋。
「ですからいま、天岩戸作戦でもしようかって話してたところなんですよ」龍華が言う。
「そう、私が舞って」緒仁和嵜が言う。
「僕が抉じ開ける」龍華が言う。
「前提に不備がある」
ボスに非難の視線が集まる。
「ほら、機嫌が悪いとすぐ僕らに当たる」龍華が肩を竦める。「邪険にされた腹癒せにしたってちょっと」
「警部、珍しく勘が外れたのはもう責めませんから」緒仁和嵜が宥める。
ともるが新聞を持って座る。
「見たか」
「いえ、でも載ってるってのは」
「また神奈川の輩ですよ」龍華が注釈をくれる。「ハヤシさんの身柄だって彼らが無理矢理もぎ取ったくらいですし」
早志ひゆめはそっちか。
右柳めておもそこにいるのかもしれない。
「でもそろそろ公開しないとまずかったしね」緒仁和嵜が言う。
指なし死体。
身元はまだ。
「残りの人は」
「まだよ」緒仁和嵜が言う。「ハヤシさんが自白したのだって神奈川の奴らに脅されて言っちゃった可能性が高いの。死体の場所がわからないんじゃ決め手にはならないわね」
「わざと黙ってるという線は」
「あなたハヤシさんを疑ってる?」緒仁和嵜が息を吐く。
「いえ、そういう意味ではなくて」
「別の事件、という意味か」
「はあ」鬼立に話しかけられたので吃驚して生返事してしまった。
「そうか」鬼立が頷く。「四件目だけ彼女が行い、残りは全部違う人間がやったということか」
「それもありですか、警部」龍華が訊く。
「でも何のために?」緒仁和嵜が言う。
「真犯人を庇うため、だろうな」
鬼立の発言時に静かにドアが開いた。
「ちーろ」ともる様が最初に声をかけた。
「陣内。わかったのか」鬼立も待ってましたとばかりに声をかける。
ちーろさんはともる様に一礼してから床に胡座をかいた。
「ハヤシひゆめは真犯人を知ってる。だから自白して警察の眼を自分だけに向けさせようとしてる」
「そんなまさか」
「ホントですか」
埼玉県警刑事たちが揃って顔を見合わせる。
「じゃあ神奈川の奴らは」鬼立が言う。
「とんだ阿呆だな」ちーろさんが言う。
「なんですか、警部。その嬉しそうな顔は」龍華が言う。
「キリュウ、早くしたほうがいい」ちーろさんが言う。
「出るのか」
「おそらく」
「え、何がですか」
「そんなの指に決まってるだろ」ともる様が言う。「ちーろ、神奈川か」
ちーろさんが首を振る。龍華が眉をひそめる。
「ちょっと待ってください」龍華がPC画面を見ながら言う。「昨日が埼玉だったら今日は神奈川でしょうに。順序は」
「たぶん今日、崩れる」ちーろさんが言う。
「確かか」鬼立が言う。
「もしかすると順序はどうでもよかった可能性もある」ちーろさんが言う。
「規則性はフェイクってことですか」龍華が言う。「つまり土曜に発見される指が神奈川だと思わせるためってことでしょうか」
「遊んでただけだ」ちーろさんが言う。
空気が。
止まる。
鬼立だけがちーろさんに眼を遣る。
「ハヤシひゆめは白か」
「白い」
「いちいち手間をかけさせる。行くぞ」
鬼立が立ち上がる。すぐに緒仁和嵜と龍華も続く。そのまま廊下に出てしまった。
「あの、どちらへ?」一応訊いてみる。
「神奈川県警だ。釈放させる」鬼立の鋭い眼線が刺さる。「陣内、付き添え」
「行きたくない」ちーろさんは座ったまま言う。
「お前は印籠になるんだ。利用させろ」
「断る」
「まだ何か隠してるんだろう。それを言いたくなかったら大人しく連行させろ」
わかった。違和感の正体。
鬼立は。
ともる様にそっくりだ。
「ともる様」ちーろさんが言う。
「好きにしろ。俺は警察じゃなくてリサイタルに行きたい」
「職務放棄の罰は帰ってからで構いませんでしょうか」
「そんな下らんものなど科さない。彫刻家の濡れ衣を晴らせ。これが命令だ」
「了解」
家の裏が駐車場。そこまで送る。
パトカーではなかった。
運転は龍華。ウィンドウが下りる。
「では
車が見えなくなるまで外にいた。
「いいんですか」
「お前の知り合いが来るなら問題ない」
どこまでも。
王族な人だ。
3
迎えに来てくれたトルコの車を降りて吹き抜けエントランスロビィに踏み込む。トルコに時間潰しを誘われたがともる様が困惑していたので断った。同じく気が早い人もいるようで脇のカフェはほとんど席が埋まっている。
空いているソファに腰掛ける。
「アスウラさんと連絡取れますか」
「かけてみる」
ともる様にピッタリな黒い携帯電話。
「駄目だ。つながらない」
「メールは」
「アドレス知らない」
「じゃあ待つしかないですかね」
「だろうな」
天気は曇天。
よいという概念は曖昧だ。いい天気イコール晴れと繋がるのは何だか頂けない。雨が降ると中止にせざるを得ない行事や職種が多かったせいだ。しかしいまは。
そうでもないのに、と思う。
雨が降ればいいのに。
雪ならもっといい。
寒くないから無理だろうか。
長野は雪かな、とも思う。
「ちーろは探偵なのか」
「え、なんですか急に」
ともる様が眉をひそめる。
「どうもな、違う」
「何がですか」
「探偵じゃないだろ」
「はい?」
「だから、探偵のイメージと」
「違うんですか?」
ともるがケータイを開く。メールを受信したらしい。
「定期連絡ですか」ちーろさんからの?
「あいつはメールが打てない」
どこぞの生徒会長のようだ。
「亜州甫さんだ」
「え? 向こうは知ってるんですか」
いまからおいで。
とだけ。
「どこに?」
「さあ」
「いたいた。よかったあ」
突如出現。神出鬼没を差し引いてとにかく良かったことがある。
格好がまともだ。
これだけでお礼を言いたくなる。
「いくらなんでもさあ、ちょっぴり早すぎるよ君たち。そんなに僕に会いたかった?」
「いえ、その」
時間の使い方が下手なだけで。
「アスウラさんは」
「僕はねえ、ここでランデヴなんだけどいないかな」亜州甫かなまは大げさに首を動かす。
天井にはいないと思うのだが高頻度で見上げている。ロビィにいるのは数十人ほどだろうか。しかし空間が広すぎるので混み合っている感じはしない。
カフェの出入り口に立っている人が、こちらを見ている気が。
「いるじゃん。こっちこっち」
猫背気味の男だった。
白髪混じりの頭髪だが、老けた三十代のような気もするし若い五十代のような気もする。フレームなしのメガネと、剃り残しにしか見えない無精髭が口の周りに。
「あれ、あの人」どこかで。
「知り合いか」ともる様が小声で訊くけど。
「なんだっけ。えっと」
名前が出てこない。
「や。ほじょーちゃん。おひさあ」亜州甫かなまが大声を上げる。
「どうも、その、ご招待いただき」
「なにゆってんのさ。僕とほじょーちゃんの関係じゃん。それよりいいの? お医者さんなんか忙殺されるって聞くよ」
「ユサ先生!」
思い出した。というか、ほとんどヒントのお陰。
「はい。ああ、ゆーすけ君じゃないですか、ええ」
どういうことだ。
この二人の接点が見出せない。
「え、まさかリサイタルって」
ウソ。
「はあ。アスウラ君のですよ」
「なになに?」亜州甫かなまが結佐の肩越しに身を乗り出す。「天使くんとねっとり親密な感じ?」
「いえ、私の知り合いのお友だちで、はい、昨日初めてお会いしただけですね」
「そっかあ。ぐーぜんだねえ」
笑えない。
点と線が繋がって。
「どのようなご関係ですか」
さすが王様。彼に遠回りという言葉は存在しない。
でもその質問だけはやめてほしかった。
「そっちで引き攣ってる天使くんが知ってるかも」亜州甫かなまが言う。
「へ?」
ともる様が怪訝そうな顔を向ける。
「し、知るわけないですって」
「うっそだあ。昨日僕と一晩中一緒にいたくせによく言うよ。ここからここまでお見通しされちゃってホント困ってるんだから」
いったい、どこからどこまでなんだろう。
ちっとも意味がわからない。わかりたくないのかもしれない。
「一緒にいたのか?」ともる様が詰め寄る。
「え、ええと」後ずさり。
「何か隠してないか」
「いや、そんな次元でもなくて」
まずい。絶対に言えないような行動をばしばししている。
かわせるか。
「僕ちょっと行きたいところあるんだけどさ」亜州甫かなまが先導する。
建物の外に出る。絶対に流されていると思うが反抗する気力もない。ともる様の訝しげな視線が痛すぎて。
「聞いていないが」
「言ってませんしね」
「寮に戻ったんじゃなかったのか」
「それに至るにもいろいろと事情があったりなかったり」
「はっきりしろ」
「なあに? 悪魔くんジェラってくれてる?」亜州甫かなまが言う。
「あの、アスウラさん。ユサ先生と待ち合わせをされてましたよね? それなら俺とともる様は邪魔になりますので」
「なにを遠慮してんのさ。大勢のほうが愉しいよね」
歩いて数分のカラオケに入った。厳つい格好の男四人で入るような場所ではないと思う。
浮きまくり。
この視線が本当に厭だ。
「一度来てみたかったんだあ」
お願いだから亜州甫かなま。結佐に過剰にべたべたするのはやめてほしい。
「ほじょーちゃん、何か歌える?」
「いえ、音痴みたいでですね。無理ですよはい」
「じゃあこれがいいや」
前奏。
ともるが反応した。
「おい、これ」
「え?」
ノリのいいテンポ。バックにピアノが共鳴する。鍵盤タッチが軽快だ。どことなく聞き覚えがある心地よいメロディ。
「ヒミの」
「あ」
氷見れくと。
ミヤギ・クラヴィア所属の超人気歌手。氷の結晶を思わせる透明で澄んだ声に自らの名前をかけて通称、
それを亜州甫かなまが歌っている。
「よく知ってますね」
「もらったんだ」ともる様が言う。「聞かないわけにいかないだろ」
おそらく本社でばったり遭遇したのだろう。その時に強引にCDを渡されたと見て間違いない。
氷見は自分と同じくR学園幼等部から中等部まで通ったが、高校は私服通学以外あり得ない、という理由でエスカレータを蹴って外部に出た変わり者。ともる様も会社の伝で知り合った。いわば幼馴染のような存在である。
「ああ、そうか。お前」ともる様が気づいた。
「はあ実は」
「道理で」
ともる様がフランスから戻ってきているという情報は彼女からもたらされた。ふざけるな右柳ゆーすけ、発言を完璧なまでに予言した凄まじい人物。一昨日呼ばれた際にストレスなく話が繋がった理由をようやくわかってもらえたらしい。
しかし上手だ。
絶対に裏声なのだが嫌味な裏声ではない。洗練された裏声というものがあるのならそれはきっとこれのこと。ファルセットてやつかな。
氷見れくとの歌は、トーン自体はそれほど高くないため男性にもなんとか発声できる音域である。だが如何せん、持ち味である透き通った声質とは裏腹にパワフルでアップテンポな曲調が多く、女声という共通点から幾分かメリットのある女性でも歌いこなすのは至難の業といわれている。それをほぼ完璧に近い形で歌えており、性別からくる違和感がまるで感じられない。
むしろ似ている。
声そのものというよりは、彼女の歌い方の癖をトレースしているのだろう。ブレスのタイミングと深度、音に込める気持ちの入れ具合、発声の根幹すらそっくりコピーできている。
目を瞑って聞けば、そこに本人がいるかと思った。
「これって嫌がらせですかね」こっそり耳打ちする。
ともるは首を傾げる。
もらったCD音源と照合しているのだろう。
間奏。
「ビックリしちゃったあ?」亜州甫かなまがマイクを外して言う。「アイスプリンセスと近しい君たちに聴いてもらおうと思ってねえ」
それでこんなところまで引っ張ってきたのか。
どこまでも行動パターンが読めない。行動パターンが滅茶苦茶だというのが彼の行動パターンだろう。
歌が再開。サビの繰り返し部分なのですぐに終わった。
「どうだった?」
「すごく上手でした」
これは本心。
ともる様は放心。結佐は拍手をしている。
「ねえねえ、本人が聞いたらなんていうかな」亜州甫かなまが言う。
「さ、さあ」
絶対に聞かせないでください。
とは言えない。
氷姫の負けず嫌いは悪魔を凌ぐ。
「君らもなんか歌える?」亜州甫かなまがマイクを無理矢理持たせようとする。
「い、いや俺は」
「悪魔くんは?」
「亜州甫さんがどうぞ」ともる様も受け取らない。
「そう? 遠慮しすぎだよねえ。まあいいや。機嫌がいいから特別にアイスプリンセスメドレーね」
4
「ゆーくんあっち?」トルコさんが言う。「遠いなあ」
「いや、俺を観に来たんじゃないでしょ」
「せやったかな」
亜州甫かなまに配れといわれた席は二階の右サイド。しかもステージが見下ろせるブロックの最前列をまとめて十席。決して安い席ではないと思うのだが、一気にそれだけ確保してあったとなると何らかの意図があったのだと考えざるを得ない。それとも身内辺りを呼び損ねたか。
「へえそれで、クマ」
「もう一目惚れしたってん。敗者復活戦も出来て一石二鳥やんか」
「これなあ、なんやゆーくんに似てへんかな」トルコが言う。
「ううん、どうだろ」
平面的なクマだった。
テディベアのようなリアルな熊ではなく、固有の名前がありそうなディフォルメされたキャラクタ。どことなく顔が情けない。拗ねたような表情。
「ほら、そっくり」
顔の真横に並べられてしまった。
「えっとそろそろ」
「せやね。ほんならまたあとでな」
実は決戦の舞台だったゲーセンは、亜州甫かなまに強制連行されたあのカラオケの隣接施設だったらしい。うっかり口を滑らせる前に退散するに限る。
決して苦痛ではなかった。
下手な自己満足的歌唱力とは一線を画す素晴らしい歌声だったと思う。限りなく生の氷姫ライヴ。聴覚は不満ではないのだが、費やされた時間が長すぎた上にブースから出させてもらえなかった拘束状態から来る疲労に対して異を唱えたい。
帰らせてくれ。
それを何度呑み込んだか知れない。
ガラガラなんて真っ赤な嘘だった。当日券が出なかったことからもそれがわかる。開始時刻が近くなってきたせいかほぼ全席がいろいろな色の頭で埋まっている。ブラック。ブラウン。ホワイト。グレイ。
結佐はどこに座ったのか。
見つけるのは絶対に不可能だが亜州甫かなまから招待されたらしいのでもらった十枚席の周辺かもしれないと思ったがそこには見当たらない。そもそも彼は何のために呼び出されたのかがさっぱりわからない。過剰なスキンシップの矛先くらいしか。
それか。
それで充分だろう。
「遅くなりました」
「さっきのか」ともる様が言う。
「はい。ここから見えますよ。二階の、ほら」
直線距離が遠いせいか向こうは気づいていない。
「でもよくこんなすごい席」
「頑張らせた」
神奈川県警派遣中の従者しかいない。彼が仕える王の命令ならばそれこそ命がけで達成しようと踏ん張る。
一階の最前列。さらにピアノを弾く人間が眼前。
こんな場所にいると、演奏される曲が目当てなのか奏者を間近で見たかっただけなのかわからなくなってくる。ともる様のことだから確実に前者であろう。それに後者は充分間に合っている。
「プログラムとかあります?」
「これも知らないのか」ともる様が言う。
「え?」
また亜州甫かなま特有のお約束が。
「気紛れで曲目が変更されるからもういっそプログラムはなしになったんだ。説明は入ると思うが」
「へえ、じゃあこの人たちみんな」
「それだけ亜州甫さんのピアノを聴きたいってことなんだろ。お前は聴くの初めてか」
「昨日のを抜かせば」
「あんなもんじゃない。あれはリハだから音を確かめてただけなんだ。弾く前にラの音出してただろ」
「あれって何なんですか?」
ラ。
「おまじないみたいな?」
「弾く前は絶対やるからな。そうかもしれない」
徐々に照明が落ちる。ステージだけ妙に明るい。
袖から人が。
一瞬誰かわからなかった。しかしそこから出てくる人間はひとりしかいない。
亜州甫かなま。
服装はさっきよりも更に格段にまともになっており、顔もいっそ別人だと名乗ったほうがいいくらいに異なる。
ようやくわかった。彼がこの巨大なホールを満席に出来た理由。あらかじめ彼の素性らしきものを知ってしまっていたためステージ上で着ける仮面の質がまったく想像つかなかったのだ。
足を運んだ客が九割方女性だという事実からある意味自明。純粋に曲を聴きに来ているのはともる様だけかもしれない。こっそり自分もそちら側に入れて欲しいような気もする。
溜息すら霧散する。
薄っすら微笑みを浮かべた顔は須く人を虜にする。素振りのひとつひとつが眼球を惹きつけて已まない。少なくともハード面は上質だと思われるのでソフトを入れ替えさえすれば。
いや、どうだろうか。
健全な肉体にこそ健全な精神は宿る、という謳い文句があるがこれは果たして如何だろう。健全、非健全についての定義からして危うい。多数決という民主主義制度によるなら少数派は逸脱とされるが、普通を定めることの意味がわからない。
眼が合った。
苦笑するほか。
白黒の演奏者は一礼して椅子に腰掛ける。向かい合うは真っ黒のグランドピアノ。ステージが真っ白なので対比が激しい。
モノトーン。
鍵盤の色。
中指で。
一回。
ラ。
最初の曲は、“悪魔の誘響”の十八番だった。おそらくともる様が視界に入ったため思いついたのだろう。
狂っているとは思わない。
亜州甫かなまは。
よくわからない。
譜面通りの弾き方とは程遠い。過去の作曲者が書き残した演奏上の注意である音楽記号をよくぞここまで無視出来る。思えば悪魔の十八番が最も譜面に近かった。その後はもはや絶望的。イントロクイズすら実施不可。アレンジ如何で全然違う曲になるのだと再認識させるにしても尚余りが出る。
ついに聴いたことのない曲になったときはもう駄目だと思ったがそうではないらしい。奏者本人が自らが作曲したのだとまともな仮面で言うものだから、隣に座っていた女性から吐息が漏れた。
いっそ職業を変えればいい。何をしに来たのか思い出せなくなって久しい。
ふと確認。
王様が至極満足そうな顔をしているのでまあ好しとしよう。家来の本望というやつかもしれない。
音が止まる。
ステージ上の人間が全身に拍手を受けながら袖に消える。いったん休憩になったらしく、照明が徐々に戻る。
「どうでしたか」
「訊くまでもない」
プライドの人一倍高い王族にここまで言わせられるのは稀有である。本音と建前を上手く使い分けられない人種なので褒めるときは本気で褒めている。
「お前、途中で寝てたろ」
「そんなまさか」
眠くなかったかといったら嘘になるが、力いっぱい鍵盤を叩く曲が多かったので睡眠導入口に辿り着く前にこちらの世界に引き戻される。それをひたすら繰り返していたとは言えない。
「真面目に聴かないなら迷惑だからな」ともる様が携帯電話を取り出す。
「ちーろさんは大丈夫でしょうかね」
「あいつより彫刻家だろ。どうなったか聞いてくる」
「俺は?」
「待ってろ。もしかしたら亜州甫さんが来るかもしれない」
それなら付き添う、と言おうとしたが、ともる様はすぐに人に紛れて見えなくなってしまった。背が低いせい、などと失礼なことを指摘するつもりはないので仕方なく意に沿う。
早志ひゆめ。
彼女が犯人でないなら誰が。
元探偵らしきちーろさんの推理なら。
彼女の知り合い。
離婚。
まさか別れた夫の筈は。
右柳めておがいるなら。
神奈川県警は大騒ぎどころではない。
無罪だったら。
冤罪。
あんなに大きく新聞に載って。
裁判。
「ゆーすけさん」
肩をつつかれた。ビックリして痙攣。
「やっぱりここにいましたね。いい席です」
「ホタテさん? え、仕事は?」
「誰も行けないとは言ってませんよ。単に時間通りに来れなかっただけで」
「そうなの? あ、でも」
チケットはすでに。
「構いませんよ。よく考えて下さい。これ、主催は」
ミヤギ・クラヴィア。
忘れていた。
「実は社長もお見えになってます。ほら、あの上。あとで顔見せて下さいね。ともるさんも一緒に」
「ええ~」
三階の特別席だ。わざわざ視覚的に確認せずとも容易く想像がつく。ここからステージを挟んで反対側に位置しており、演奏者の手元が見下ろせるという絶好の席。
何だかおかしい。
「え、いつの間にそんなに暇になったの?」
布縦原が不服そうにメガネのフレームに触れる。
「亜州甫かなまさんは、どこかの誰かさんがピアノから遠ざかったおかげですっぽり空いた穴を埋めていただいた素晴らしい方なんです。その感謝の意も込めて、彼のリサイタルは出来る限り足を運んでいらっしゃいます」
「へえ、どこかの誰かさんて誰だろ」
「さあ、どこぞのオレンジ髪の人じゃないでしょうか」
「すごい色の人がいるんだね。目立ち放題な感じ」
布縦原が溜息をつく。
「疲れたんじゃない?」
「あとで迎えに伺いますから」
それを捨てゼリフに布縦原は速足で行ってしまった。言葉に棘があったのは困ったものだ。説教されるやもしれない。
三階席を見上げる。
あの辺かな、くらいにしかわからない。天井が法外に高いのだ。首が疲れたのでマッサージする。
ともる様が戻ってきた。
「駄目だ。まだ揉めてるらしい」
「それじゃあ」
「釈放はな。真犯人を連れて来い、だそうだ」
当然かもしれない。
そうでなくとも早志ゆひめは重要参考人。
「これ終わったら来い」
「え、それは」
「なんだ。用事でもあるのか」
大有りだ。
しかしそっちをサボれる口実になり得る。
「警察が怖いんじゃないだろうな」
「それもありますが、はあ。ハヤシさんのためなら」
「悪いな」
おそらく、ちーろさんに言われた。
連れてきてほしい、と。
疑わしいとされた早志ひゆめを抜かせば。
第一発見者。
頼りになるのだろうか。もうあまり憶えていないのに。
照明が徐々に落ちる。そろそろ時間だった。
「まだ弾くものあるんでしょうか」
「次はかなり長い。こないだ発表したやつだろうな」
「え?」
「静かにしろ」
袖から人が出てきた。
衣装はそのまま。替えても替えなくとも構わないのだが、なんだかもう亜州甫かなま以外の物体な気がして仕方がない。
マイクロフォン。
「次は一応最後の曲になります。続けて七曲弾くのでとても長いです。知っている方もいらっしゃるかと思いますが、これから弾く曲はつい先週発表したばかりの新曲です。実は僕が作った曲の中で最高傑作じゃないかな、と自負していますので是非最後までお付き合いいただけたらと思います」
CDも出しているのだろうか。
ともるなら持っているかもしれない。
「ピアノ組曲」
から先は聞き取れなかった。
日本語ではなさそうな発声だったのであとで王に聞こう。それにしてもやはり別人だといったほうがいい。もしかするとこっちの仮面が本物だろうか。
不連続性。
途切れる。
彼の自信作とやらもまさにそんな感じだった。一曲ずつ完璧に独立しており組曲というカテゴリで無理矢理一緒にされなければ生涯同じ位置に並ぶことはないと思う。
一曲ごと名前が付いているらしいがそれも異国の言葉のようでちっとも聞き取れない。つい昨日、亜州甫かなまを知ったばかりの新参者にはある意味当然。
「ドイツ語だ」
首を傾げたのを見かねたのか、ともる様が囁いた。目線でお礼を言って曲に集中する。
すでに第一曲目は終わっており、いま二曲目が始まった。確かに一曲一曲がとても長い。たぶん一曲当たり十分強くらいなので全七曲だとしたら単純計算で七十分以上。それに一曲終わるといったん袖に戻ってしまうのでもっとかかる。休憩を挟んでもらったのは正解だ。不可思議なアレンジの後にこれは耐えられない。
どちらかといわなくとも現代音楽なのだが、眠くなるクラシックを大胆奇抜に編曲されるよりはましかもしれない。
ラ。
一曲目は流れるように麗かなメロディの最中、突然全休符が入るので耳慣れないといつが終わりなのかわからずハラハラする。計算ずくの中断だろう。その間は多少ざわざわするが奏者はずっと鍵盤の上に指を置いてじっとしている。まるで時が止まったが如く。さすがに終りか、と思わせる頃に何事もなかったかのように復活する。繰り返しドキドキさせるのがこの曲の狙いだろうか。
ラ。
二曲目はなんといっても不協和音。安定とは程遠い落ち着かない音がひっきりなしに鳴る。始まってすぐに不快になる人もいるだろう。そして曲の合間に譜面台の辺りから何かを落とす謎のパフォーマンス付。幸いステージに近いので確認したところ、ガラスの破片らしかった。もしかすると床に落ちた際に粉々に砕けたのかもしれない。それもあって徹頭徹尾、破壊音の集まりにしか聞こえなかった。
二曲目の後やはりいったん袖に戻ったが、床は片付けられることなく次に突入した。
ラ。
三曲目は前の二曲の反動からかとてもまともな曲に思えた。途中に全休符や謎のパフォーマンスがなかっただけでこれほどまで嬉しいものなのか。特徴としてはひたすら盛り上がり続ける。絶頂部分の更に先、もっと先を追求し続けているのでずっと鳥肌が立ちっぱなしだった。様々なゲームのラスボスがひっきりなしに登場するが如き緊張。息つく暇もなくエスカレート。そして最後は高音であっけなく締める。そこまで重低音が響いていたためか物足りない感が残る。まるでヒビが入ったかのような終わり方。
奏者が戻ってきた。アナウンス。
「またドイツ語ですか」ともる様にこっそり尋ねる。
「最初の以外はな。あとで教える」
ラ。
四曲目は持ってきたものからして先を予見させる。CDプレーヤだと思うが、コードが延びていてステージの両脇にある巨大なスピーカと繋がっている。それを足元に置き再生ボタンを押してから演奏が始まった。スピーカから流れたのは人声だった。しかもおそらく本人の声であり、歌というよりはピアノを引き立たせるためのコーラス代わり。ぱっと聞きは奏者の声とは思えない。幸か不幸か直前に彼の裏声を聞いていたためすぐに予想がついたが先に聞いた氷姫の声ではなかった。たぶんこれが自前の裏声だろう。ソプラノの音域がピアノと共鳴して不思議な効果を生んでいる。だがピアノ自体は何かに固執するように同じメロディを繰り返しているだけ。ループはすぐに厭きてしまう。全七曲のはずだからこれが真ん中に位置するわけだが間奏のような雰囲気。誰にも言えない秘密を隠しているから同じものしか聴かせられない、先を期待しろ、と唱えているような、あたかも繋ぎのような曲だった。
奏者はCDプレーヤを持って退場。これが一番苦痛だったかもしれない。しつこい裏声と無限ループはキツイ。
「これってCD化されてます?」
「入り口に売ってたろ。気に入ったなら買え」
何とも恐ろしい商売。大丈夫か、ミヤギ・クラヴィア。会社の行く末が危ぶまれるといったら跡を継がなくてよくなったりしないか。
駄目か。
今度は手ぶらだった。ガラスの破片は一向に片付けられる気配がない。
ラ。
五曲目は斬新で不気味な曲想だった。まったく異なるステージにいる二曲を、ぎりぎりで整合性を保ちつつかけ合わせている。ここまでの演奏で奏者に突き放されたと落胆し、深い湖の底で蹲る聴衆を漏れなく掬わんとする意志の向こうに、その聴衆をも取り込んでしまおうと張り巡らされた綿密な蜘蛛の糸が伺える。だが表面上はあくまで多少水飛沫が舞った程度。終了する頃には、聴覚はすっかり魔に巣食われている。最も劇的かつ過激な曲で、おそらくクライマックス直前。
これは好きかもしれない。四曲目に飽和したギャップだろうか。もしくは自分も。
囚われている。
「次が最高傑作らしい」ともる様が注釈をくれる。
「え、そうなんですか」
「楽曲解説にあった。亜州甫さんのお気に入りだそうだ」
とするなら。
五曲目は布石。
何が来るのだろう。出来れば手ぶらで帰ってきて欲しいが、素っ頓狂に手足が生えたような奏者のことだから期待しないほうが得策。
来た。
しかし奏者の姿ではない。インフォーマルな服装のスタッフらしき若者が五人。彼らはピアノを移動させる。
風。
扉が開けられた音だった。あっという間に会場と通路とを遮る物体がなくなり、必然的に聴衆がざわざわしだす。
「何が始まるんですか」
「生は初めてだろうからな。俺も知らない」
「え、CDは」
「ここまで表現できないと思うが」
確かに。
たった数分の間で変化した事象は三つ。奏者が一階席の聴衆に背を向ける形になるようピアノが移動されたこと。会場から外に通じるすべての扉が開け放たれたこと。残りは。
亜州甫かなまの格好。
これら準備の間に着替えてきたらしいが、一瞬誰かわからないという次元をもはや超越している。目を疑うどころか、今度こそ別人だと高らかに表明すべき。
ドレスだった。
丈が長く足首すら見えないマーメイドタイプ。純白と呼ぶに相応しい滑らかな生地。鬘を被っており、漆黒で艶のある髪が背中を覆い尽くす。化粧をしているのか顔面がほの白く、唇が血を啜ったが如く深紅。
普通、生物学的男性が女装をすると何やかや齟齬が出て見るに耐えなくなりがちだが、まったくと言っていいほどに違和感がない。
女性かと錯覚しそうになる。
胸元と背中が大きく開いたドレスが視線誘導を支配するが、背中は髪が覆い隠し胸元は背を向けて座るためすぐに解放された。ここからは奏者の耳すら見えない。トルコのいる二階席右サイドなら横顔が、父や布縦原のいる三階席ステージ後方ならば正面が捉えられるかもしれない。
両手に腕を覆うほどの真っ赤な手袋をしている。防寒のために填める毛糸製のものではなくお洒落のためのものだと考えたほうがいい。生地も艶々している。しかし手袋をしてようが素手だろうがもはや関係なくなってしまった。
手元は完全に見えない。
奏法を隠すためか。それにしては衣装が奇抜すぎる。趣向が凝りすぎてこれから演奏される第六曲目の異色さが際立つ。
白い肩が揺れ。
題目。
再び異国語。
裏声。
背筋に何かが走る。
電流。
はたまた。
ラ。
六曲目は。
ペダルを叩く白いヒール。
ごとごと。
吹き荒ぶ情熱的なタッチ。
ごとごと。
灼熱の氷の上を滑るよう。
ごとごと。
もはや彼らは混じり合い。
ごとり。
奏者はピアノの鍵盤たり。
ごとり。
髪が黒鍵、ドレスが白鍵。
ごと。
朱を塗りたくる十本の指。
ごとと。
異変に気づく。
ごっとん。
ともるも気づいたらしい。
ごととん。
亜州甫かなまが突然立つ。
無音。
消える。
そのまま。
ピアノの中に。
赤い左手が。
摘んでいたのは。
黒鍵。
細長い真っ黒の。
まさか。
「アスウラさん!」
ざわざわ。ひそひそ。がやがや。
ステージ。
よじ登る。
「駄目だよきみたち、まだ」
「これ」
「早くしろ、まずい」
細長くて真っ黒なものは。
黒く塗られた。
指だった。
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