第3話 Eiszapfen Eskalation 響いて罅入って
1
日が翳っていた。
パトカーが公道を遮断しているため、ちーろさんの車は使えない。あまりにも寒かったため同行を遠慮しようかと思ったが
シーズンオフの別荘地は本当にもの哀しい。雪と入り混じった森林の合間にドーム型屋根。その周りだけ妙に大賑わいだった。赤いランプもちらちら眩しい。
男性刑事――
突如、大通りが誕生した。
「じ、陣内様」
以上の言葉は出ないようだった。私服だろうが制服だろうが鑑識だろうがお構いなし。凄まじい威力を発揮する。
「もたもたするな」ともる様が言う。
「いや、何と言いますか」
本当に行きたくない。手を振ってお別れしたい。
死体。
「さ、遠慮せずに」龍華に無理矢理中に引っ張られる。
ドアを閉められた。
「あの、俺は」
「聞いてますよ。箱根の第二発見者なんですよね。その時のお話も含めて」
「え、でも」
「神奈川のおっさんたちは何言ってるのかわからないんです。ジェネレイションギャップでしょうかね」
板が敷かれたポーチを進んで玄関へ。入るとすぐはリビングのようだった。右手はキッチン。その奥に螺旋階段がある。そこから階下に繋がっている。ということはここは二階だろうか。なかなかお洒落な造りだが警察にガサガサされたのか物が少ない。
「サキさん、警部は」龍華が訊く。
「管轄外だからね。今頃口が裂けてるかも」
女性刑事――
「神奈川の奴らは」ちーろさんが訊く。
「現場でしょう」龍華が答える。「陣内様もご存知のはずです。彼らは僕らより教育が行き届いてますから」
「長野県警は?」ちーろさんが訊く。
「こっちは割と頭が柔らかくてね」緒仁和嵜が答える。「だからここまで入れさせてもらえてるのよ。感謝しなきゃ」
玄関から厚手のダウンジャケットを着込んだ男が入ってくる。髪の量が少ない。それでも大叔父よりは少し下だろうか。両手を擦りながら億劫そうに息を吐いている。
「埼玉の鉄砲玉はお前らか。まったくなあ、困るさやあ。私らの縄張りだで」
「お初にお目にかかります、
埼玉県警刑事が揃って敬礼した。
「いまさら敬礼されてもなあ。そっちの、えっとなんだ、キリュウさんか。いまごろ口が裂けとるだろな」
「ご尤もです」
長野県警刑事が息を吐く。単に寒いだけかもしれない。この部屋もとても冷える。ぱっと見たところ空調らしき装置が見当たらない。
「そちらがハヤシさんかね。連れてっていいかな」
「駄目でしょう。彼女はうちの」
「おいおい、ここはどこだ。これ以上好き勝手させられないよ。キリュウさんに報告がてら帰ってくれ」
「突き止めたのは私たちですよ。それに」
「あーあーわかっとるさや。一応なあ応援要請は来てたようだがいったんうちで預かるのが筋ってもんじゃないかえ」
玄関が開け放たれて冷風が入ってくる。どこぞで見たことのある脂ぎった刑事と小柄のペアだった。
「うげ、神奈川んとこの」
「うげ、なわけがあるかね。君たちはまた勝手に。こちら長野県警さんで? はあ、どうもこんにちは。私は」
「自己紹介なんざどうでもいいさや。神奈川の方々。わざわざご足労いただいたとこ失礼だが帰ってくれや。管轄外だで」
「そうは行きませんよ。そもそもうちで目を付けたのが最初ですよ? 箱根の件お聞きになりませんでしたか」
「とにかく、うちが先に」
「いや、こっちが」
「いまはな」
「黙れ!」
ちーろさんだった。
どすの利いた重低音。慣れているはずのともる様でさえビックリしたようだった。
しん、となる。
「何があったのか説明しろ」
早志ひゆめ。ずっと下を見ている。
「は、それはもう」神奈川の二人が反射的にへいこらする。「実はこの下がアトリエになってましてそこから外に出た庭といいますか、そうですね木の下ですね。そこに指を切断したと思われる刃が埋まってまして、一緒に中指を切り取られた死体もひとつ」
「なんでそちらさんが知ってるのかなあ」長野県警刑事が言う。
「ですよね」龍華も言う。
「おかしいわ」緒仁和嵜も言う。
確かに。一番遅れて到着したはずの彼らがぺらぺら話せるような情報なのか。不審そうな視線が集中する。
「まあ、縄張りの時代は終わったわけで」
「それなら尚更私たちの手柄だと思いますが」
「最後に到着した後釜に言われたくないですよね」
埼玉県警の二人が螺旋階段に手をかける。
「うわ、見事に何もない」
「常呂さん、貴方こそ大人気ないわ」
「越権行為だで。控えてくれや」
また騒がしくなり始めた。ともるが耳を塞ぐ。
「黙れといったのが分からないのか!」ちーろさんが怒鳴る。
更に低く大きかった。ともるが耳を塞いだというあからさまな行為が、いい意味でも悪い意味でも影響大だったらしい。
「ともる様、失礼致しました」ちーろさんが膝を折る。
「犯人なのか」
「どうなんだ」ちーろさんが龍華に訊く。
「決まりでしょう。ハヤシさん、そろそろお話ください。何かお話いただかないと容疑者のまま」
「君は捕まえる気があるのかね埼玉の。確保だ。さ、こちらへ」
「どさくさに紛れて何ですか、僕らの」
「それも違うよ。うちだ」
刑事たちが次々と早志ひゆめの手を取ろうとする。大叔父はそれを阻止しようと手を振り払う。
「や、やめてくれんか。フィンさんが」
「右柳先生」緒仁和嵜が代表して言う。「ここで死体が出ているんです。これ以上邪魔をされるなら公務執行妨害になりますよ」
大叔父が怯んでる間に早志ひゆめは外に連れ出された。龍華以外の刑事はいがみ合いながら移動する。
ゆーすけはともるを見る。
「無駄足だったな。帰るぞ」
方向転換。
なにも。
いえなかった。
2
薄暗い中を歩き、ちーろさんの車まで戻る。本当に寒い。日が落ちて気温も落ちたのだろう。
なぜか龍華がついてきたので訊いてみた。
「早志さんはどうなるんでしょうか」
「動かぬ証拠、死体が出ましたからね。おわかりかと」
逮捕。
無駄足、だったのかもしれない。
「でも今日はまだ指が」
「昨日で終わりだったんでしょう。もしかすると今日もどこぞに置くつもりだったのかもしれませんが阻止しましたしね。何せ一日中彼女と一緒にいたわけですから」
「タチハナの、本音を言え」突然ちーろさんが振り向いた。
つられてともるも足を止める。黒い車はもう目前。
「ハヤシゆひめ以外にありえません」龍華が言う。
「嘘だな」
なにを。
いいだすのだろう。
「じゃあどうしてついていかなかった」
視線が。
龍華に。
溜息。
「降参です、陣内様。さすが」
「他にいるんだな」
「僕はそう考えます」
思わず。
息を呑む。
どこかで何かが落下した音。
軒下のツララだった。
そんなに寒いのかここは。
意識した途端寒気が。
「誰だ」ちーろさんが食い下がる。
「そこまではまだ」龍華が首を振る。
「目星は」
「全然まったく。是非お力を貸していただきたく」
龍華が頭を下げる。
「お願いします」
「やめたい。そう言った」ちーろさんが言う。
「わかっています。ですが今回は」
「俺には向かない」
「お願いします」龍華はまだ頭を上げない。むしろ土下座してしまいそうな勢い。
ちーろさんがともる様の真正面に立つ。例によって膝を折る。
「ご命令を」
「お前はどうしたい」
「ともる様の意のままに」
「俺が死ねといったら死ぬのか」
「お望みなら」
ともる様が馬鹿にしたような嗤い方をする。
「お前の主人は俺じゃない」
「お父上のご命令では、私の主はともる様です」
「間接的だな。実に遠い」
また。
ツララが。
「そこの刑事」ともる様が龍華に訊く。「彫刻家は嵌められたんだな」
「僕はそう考えます」龍華が答える。
「じゃあ決まりだろ。ちーろ、とっとと調べろ」
「了解」ちーろさんが顔を上げる。
龍華はまだ。
「最後だ」
「ありがとうございます」
もう一度早志ひゆめのアトリエに戻る。パトカーはやや減っていた。どちらかというと引き上げの雰囲気なのでますます中に入りづらい。ちーろさんが道をこじ開けるからいけない、と責任転嫁。
リビングに入ると緒仁和嵜がいた。
「成功したみたいね、よかった」
「もうヒヤヒヤしましたよ、本当に」
緒仁和嵜がふふ、と笑う。
どうやら初めからそういう段取りだったようだ。
「お待ちしておりました、陣内様」緒仁和嵜が言う。
「下か」ちーろさんがのぞき込む。
「どうぞ、どこぞの県警のせいで何もありませんが」
「サキさん、ちょっと」下から大叔父の声がする。なんとも暇な。
「何か見つかりましたか」緒仁和嵜が階段を下りる。
面倒なので上から見守ることにする。ともる様もどこかから椅子を探してきて座った。
「行かないんですか」
「ちーろに任せれば問題ない」
「そろそろ教えてくれませんか」
ともるが欠伸をする。
わざとやった。
「帰るのは夜中だぞ」
「そういえばアスウラさんの」
「夜からだ。例え泊まったとしても充分間に合う」
ケータイを取り出す。圏外ではなかった。一安心。同室のスガちゃんにメールを送っておく。
帰れないかもしれません、と。
「ちーろはたぶん」ともる様が言う。「昔警察に多大に恩を売ったんじゃないのか。それも局地的にじゃなくて全国津々浦々で」
「たぶん?」
「直接聞いたわけじゃない。俺の家に勤める前だ」
「ちーろさんて何歳でしたっけ」
「お前のマネージャよりは上だろ。よく知らないがな」
「結構緩い感じですね」
「似たようなもんだろ」
右柳めておを思い出す。
彼女も気になっているだろう。もしかすると長野県警か神奈川県警に乗り込むかもしれない。
「ハヤシさんじゃなければいいですね」
「違うに決まってる」ともる様が頷く。
「あれ、さっきと」
ともる様が脚を組む。
「ちーろがそう思うならそうだろ」
「ご自分の意見をもたれたほうが」
「俺もそう思ってた。だからこんなところまで来たんだろうが」
無駄足。
先ほどは揺らいだのだろう。
死体が出れば誰だってそう思う。
「こっち来ませんか」龍華が階段の下から手を振っている。「狭いでしょう」
そっちには、
死体が。
「臆病だな」ともる様が言う。
「そういう次元では」
部屋内だというのに外と同じくらい寒い。いやそれ以上だ。風が下から来るので一階の窓が開いているのかもしれない。
諸々が庭に埋まっていたと聞く。
「寒くありませんか」キョロキョロしてみる。やはり空調の類はない。
「マラソンでもして来い」
「ご一緒に如何でしょう」
「俺は寒くない」
とは言っているが小刻みにカタカタ震えている。本当に強がりで形成されている人だ。
螺旋階段を見つめていてもつまらないのでウロウロしてみる。歩き回ったほうが暖かくなるだろうと期待。
ともる様の座っている位置、つまり螺旋階段に向かって後ろが簡易キッチン。ここも何だか閑散としている。試しにこっそり冷蔵庫を開けてみた。ほとんど何も入っていない。それにまた体が冷えてしまった。失敗。
階段とキッチンの周辺以外、ほぼパノラマで窓があるせいだ。暗くなってきたので内側の様子が鏡の如く映る。まるで姿見に取り囲まれているよう。
ツララ。
ここの軒下に出来たものだった。どこの窓から見えるだろう。ガラスに顔をつけて捜す。寒い。隙間風が顔に直接吹きつける。
あった。
螺旋階段から最も遠い位置。対角線。むしろ玄関に近い。窓を開けるわけには行かないので再びガラスに頬をつける。
また。
落ちた。
おそらく粉々になっている。道に面しているので下はアスファルトだろう。それとも雪の残った固めの土か。
ツララは。
指に似ている。
早志ひゆめの指だ。
氷のような白い指。
雪でもいい。
冷える。凍える。
この空間で。
指先による指の創造。
アトリエはもっと冷えそうだ。
冷蔵庫というよりは冷凍室。
材料は雪か氷だったのかもしれない。
溶けてしまうから。
寒い地で創らなければいけない。
一度創ってしまえば。
決して溶けることはない。
魔法の氷。
呪術の雪。
操るは雪の女王。
雪女。
そう。
早志ひゆめは。
雪女に似ている。
着物を着て。
黒くて長い髪。
哀しげな表情。
無口なのは。
熱を発生させないようにするため。
寒いのが好き。
そう言ったのも。
生まれ故郷だから。
この住居もきっと。
氷の城。
鏡は氷に似ている。
凛として。
冴えわたる。
綺麗な音。
空気が澄んでいるから。
音が。
いい。
曲が。
流れて。
だめだちがうそれはいやだきえて。
消えて。
響いて。
罅入って。
ツララ。
落ちて。
音が。
「右柳」ともる様が目配せ。
螺旋階段まで近づく。
「ホントですか警部。はい、わかりました」緒仁和嵜が顔から電話を離す。
眼線が。
「見つかったわ、五本目。場所は春日部、ネイルサロンのディスプレイに紛れ込んでたそうよ。丁寧にマニュキアまで塗られて」
「また中指ですか」龍華が訊く。
「それについてはどうやら凄いことになりそう」
一旦。
床に。
「ここで出た死体の指じゃないか、て」
「それって、まさか」
刑事二人が目線で会話。
「詳しくは鑑識結果待たないとだけど」
「キリュウさんの勘は当たりますからね」
龍華が緒仁和嵜から電話を受け取る。
「お待たせいたしました。はいはい、僕です。え、いますって。それはもうばっちり。ははは、どうでしょうか。一応言ってみますけど」
龍華がちーろさんに電話を渡そうとする。
「ボスが是非お話したいと」
「誰だ」
「キリュウっていえば」
「まだ生きてるのか」
「そういう言い方はなさらずに」
ちーろさんは、しぶしぶといった様子で耳につける。
「ボスになったのか。ああ、煩いから来なくていい」
電話は瞬く間に返還された。螺旋階段の上からちーろさんが見えなくなる。捜査に戻った、というやつか。
「あんまり邪険にしないであげてくださいね」龍華がわざと大声で言う。「警部が機嫌悪いと全部僕らに返ってくるんで」
3
ついに雪が舞ってきた。
凍結するだのなんだので、ちーろさんは急いで車を見に行く。ともる様がつまらなそうな顔をしているのでそのまま帰ることになった。
「三月中旬ですよ?」
「だからなんだ」ともる様が言う。
「春先じゃないですか。もう桜が咲くのに」
「こっちはこれからが雪の本場らしい。四月の初旬まで降るぞ」
「へえ、季節ってすごいですね」
ともる様が厭きれた顔を見せる。
吹雪とまでいわないが降下する雪の量が増えてきた。アスファルトも薄化粧。自分の育った場所でも雪は見られないわけではないが、今年はそれほど降らなかったので何となく久し振り。
「フランスも降るんですか」
「まあな」
返事が素っ気ないときは。
乗り気でないとき。
「ちーろさん、何かわかりましたか」話題提供のために声をかける。
「諦めろ。ちーろは考えてるときは喋らない」
「そうなんですか?」
「黙っててやれ」
そもそもちーろさんは、ともる様に話し掛けられるまで自発的に言葉を発しない。無口だと思う。早志ひゆめのアトリエに入ってから輪をかけて言語的行動が減った。最後に声を聞いたのは埼玉県警のボスらしき人からの電話。
指なし遺体は軽井沢。
その中指は春日部に。
埼玉県警二人は夜中捜査を続行するらしい。大叔父は協力する気満々で何やかや世話を焼いている。狙いは自らの別荘に緒仁和嵜を宿泊させることだろう。過剰に接近するために。
龍華だけ野宿かもしれない。
「ともる様はどう考えますか」
「何を」
「あ、いや」
漠然としすぎた質問なせいか、自分でもよくわからなかった。
「お前は関わりたいか」
「え?」
「ちーろ、次のパーキングエリアに入れ」
「了解」
そういえばとっくに夕餉時。
「腹減ったろ。気が利かなかった」
「いえ全然。何せ、いま思い出したくらいで」
「腹時計が狂ってるんだ」
「いろいろガタがきてますしね」
ランプウェイで減速する。雪が弱まってきたのは長野を脱したせいだろうか。駐車場近辺にはそれほど積雪が見られない。ボンネットが白く染まっている車は稀だった。
レストランに入る。視線を集めている気がするのはちーろさんの外見的特徴からくる印象のせいだと思いたい。
寒かったので体が温かくなりそうなものを注文した。
「さっきの話ですが」
「ちーろに任せることにした」ともる様が言う。
「え、じゃあ」
「もういい」
「そんな」
あんな寒いところに行ったのはともる様に強制連行されたからで。ともる様が早志ひゆめの濡れ衣を晴らしたいだとか。ともる様に協力しろと言われたから。
「つまり、頭使わなくて」
「いい」
何だか。
ひどい話。
「まあお前が個人的に考えたいなら邪魔はしない」
「理不尽ですね。急にぽい、した理由は」
ともるが手元のおしぼりに触る。
「厭きた」
「冗談でしょう」
「面白くなくなった。それだけだ」
彼のことだからジョークのはずがない。つまりこれは本気。嘘の可能性もあるが嘘を吐くとしたらそれは理由や原因部分に用いる。正々堂々、裏工作なしのフェアプレイが好きなのだ。
中榧ともるという人間は。
だとするなら。
「関わりたくなくなったんですね」
「そういうことだ」
「どうして」
「だから、飽きたといっている」
「面倒になりましたか」
「そうとってもいい」
眼が合わない。
ともるが窓の外を眺めているせい。
顔が映るだけなのに。
「俺のせいですか」
「そう思いたいなら構わない」
「何が気に入らないんですか」
ちーろさんは何も言わない。
「気持ちが悪くなった」
「そんなの」
最初から。
「麻痺してたらしい。ようやく気づいた」
指の彫刻の時点で。
やめているべきだった。
そういうことだろうか。
注文したものが続々と運ばれてきた。どう頑張っても調理時間を同じに出来る料理ではないので三人のものが同時に完成するように配慮したのだろう。気が利くというかお節介というか。
話が中断してしまう。
なにが。
いいたかったのだろう。
陣内ちひろの推理。
もしかして。
「行くときのあれは」
ともる様が手を止めて顔を上げる。
「全部受け売りだ」
そうか。
貪欲な探究心という彼持ち前の気質が今日の行動を突き動かす原動力だったに過ぎない。それが薄れる、何か決定的な事柄が生まれれば脆くも崩壊する。
たったそれだけだったのか。
長年慣れ親しんだ十八番を飽きたと言ったのも。
同じ原理だったのか。
この仮定が確かなら。
フランス。
そこで何かあった。
そう考えるしかない。
それでさっきの雪の話題を。
拒否した。
「まさか国際コンクール」
大叔父のあれは皮肉以上の。
ともる様が嗤う。
「あのときはどうしようかと思った。そうだよ。慰安旅行だ。逃げてきたんだよ、あっちから」
ちーろさんが食事行為を中断する。
「食べてていい」ともる様がすかさず言う。「お前はドライバをしてもらわなきゃ困る。さっさと食べて仮眠でも取れ」
「了解」
食事ペースが速まった。おそらくそれが、ちーろさん本来のスピードなのだろう。遅めのともる様に合わせていた。
本当に従者だ。
「予選落ちなら諦めもつく。まだまだ練習不足か、とも思えるだろ。レベルが違う、と他の奴らを畏怖する事だってできる。でも最後まで残ればな、ショックもでかい」
「二位ってことですか?」
ともる様がゆっくり首を振る。
「最下位だ」
「え、だって最後まで」
「やらかしたってやつだよ。緊張で指が動かなくなった」
「まさか。嘘でしょう?」
誰よりも本番に強い。
それは十年来の付き合いである自分が保証する。その反動なのかこっちは、本番にからきし弱いと方々からお墨付き。ピアニストをしていた過去においては出番前に胃が痛くなるのは必須。
そこを行くとともる様は完璧で何事にも動じずいつも完全なコンディションで最大限の力を発揮できる。むしろ例の王族的態度でからかわれていたのは自分で。
とにかく。
有り得ない。
「あのコンクール、知ってるだろ。受け取った順位がそのまま世界中における自分の順位だ。そう考えたら、指が止まってた」
ちーろさんが礼をして立ち上がる。
一足先に車に戻るらしい。
沈黙。
「何か言え」
「あ、えっと」
いえるはずがない。
なにも。
「お前に笑われるために帰ってきたんだ」ともる様が皮肉っぽく言う。「そういう顔をされると不服極まりない。取り消したくなる」
「そうは言われましても」
出場できるだけで頂点から数えたほうが早くなる。
そんな凄まじいコンクールに。
最後まで残れば。
「俺だったら絶対胃がなくなります」
「どういう意味だ」
「人を押しのけるのは、性に合わないみたいで」
「それでやめたのか」
「それも、あります」
グラス内の氷がなくなっている。部屋内は暖かい。
「他にあるんだな。それもそっちのほうがでかい」
「ええ、まあ」
「俺に何とかできるか」
思わず。
吹き出してしまう。
「笑うな。何が可笑しい」
「いや、お優しいなあと思って」
ともる様が眉をひそめる。
「弾けないのか」
「弾けないというよりは、弾きたくないに近いですかね」
「原因を取り除けば」
「取り除けるようなもんじゃなくて」
息を吐く。
「深いのか」
「アスウラさんみたいですね」
根が深そう。
ビンゴ。
「時間で解決できるのか」
「わかりません。そうだとしてもたぶん」
もう。
弾きたくなくなっている。
「そもそもどうして弾き始めたのか思い出せないくらいで」
「社長に勧められたんじゃないのか」
「それもあったような、なかったような」
母。
思い出した瞬間に。
忘れるようプログラムされた単語。
チラつく。
「俺には言えないのか」
「誰にも言ってません」
「マネージャにもか」
「おわかりでしょう」
外は。
真っ暗。
「早く食え」
「俺は終わってますよ。ともる様だけです」
「待ってろよ」
「もちろん」
王様は。
ゆっくりお召し上がる。
4
正門前で降ろしてもらったが、寮はとっくに門限なので構内に入っても何の意味もないことに気づく。乗ってた車はテールライトすら見えなくなっている。実家に行こうにも遠いし気が進まない。
困った。
夜遊びすると。
心配性のマネージャが辞表を出しかねない。彼の過去からして再就職は不可能だろう。それに相棒も一緒に辞めてしまう恐れが。相棒が辞めるとその彼と仲良くしている従弟が可哀想だ。
いろいろに齟齬が出ることが簡単にわかる。
溜息。
寮のルームメイトに連絡しようにも。
彼の携帯電話は不携帯な上に万年サイレント。携帯電話にまったく依存しないタイプなので、気づかないまま眠ってしまう。アトリエにいたとき送っておいたメールも意味がなかった可能性が高い。
他に友だちがいないわけではない。
だがそのほとんどは実家に戻ったと聞く。つくづく運が悪い。R学園高等部は全寮制だ。もちろん男子寮と女子寮は別の建物であるので女子に頼んでも意味がない。こういうときに同性の友だちを作っておくべきだったと後悔。
三月でなかったならば。
三年生が残っていたのに。
すでに卒業式も終わり、先週一杯で寮からもいなくなった。いまは新入生のために部屋割りを決めている段階。月末に新一年生が説明会に訪れる予定になっている。
その主催が生徒会なのだ。
環境委員の正副がそれぞれの寮長に充てられる。
前環境副委員長は夜間外出推進派だったため、理由も訊かずに門限を過ぎてからでも寮の入り口を開けてくれた。鍵は生徒証だが大元のロックを解除してもらわないことには中に入れない。そのパスワードを管理しているのが寮長。そもそも夜間外出を行いたいがために環境委員の副に立候補したという不届きな人物だった。
あのころは良かったのに。
という状況だろうか。
公にはバレていなかったが環境委員長は知っていた。当然だ。彼女は特に興味がなかったため告げ口をしなかったのだと思われる。他人に不干渉なタイプだ。
決して門限設定自体がいけないわけではない。
それほど仲が良くないのだ。
次期三年となる自分の学年にそれほど親密な人間がいない。その事実は三年生が卒業式を迎えたとき初めて気づいた。異性の友人ならば学年に関わらずごろごろいる。
同性の友人は。
今日、彼の病院に付き添ったときに再認識した。
友だち。
彼だけだ。
腐れ縁。
そっちのほうが相応しい。
ライバルなんて滅相もない。
同じ土俵に立ったことなど一度もない。一見セットに思えるあの煽り文句のような名前だって誰かが冗談で付けたのだ。一笑に付すことすら畏れ多くて敵わない。完全に名前負けした存在。
何だか情けない。
これが座右の銘なのだ。
目がしばしばしてきた。とっくにコンタクトレンズを出したほうがいい時間。それも何とかしなければ。ハードならいざ知らず入っているのはソフト。専用の洗浄液に漬けないとパリパリに乾いてしまう。更にまずいことにこれは使い捨てではない。例え使い捨てだったとしても替えがないことには捨てられない。
泊まる場所の前にコンタクトレンズの心配をしてしまう。
優先順位が滅茶苦茶だ。
ふらりとドラッグストアに入る。やはり優先順位がおかしい。そう思いつつ品定めをしている自分が可笑しくて仕方がない。
「あれ、天使くん?」
聞き憶えのある軽い声。
「この辺住んでるの?」
「い、いえ寮なんで」
驚くを通り越して逃げ出したくなった。
理由は自明。
「寮? 高校生だっけかあ。窮屈だねえ。門限とか厳しいんでしょうにさあ」
「それはもう」
「だよねえ。僕だったら学校にすら行きたくないわけで」
昼間見た感じと大いに違う。あの時は場所柄スーツを着ていたにすぎなかったのだろう。いま思えばここまでやるか、というほど崩壊した着方にその反抗心が現れていたと思う。
いまは。
とても描写できない領域。
「そんなんじろじろ見られると勘違いしちゃいそうだよ。それとも本気で誘ってる?」
「いえ、まったく」
「そ、ざんねえん」
絶対に夜のドラッグストアで遭遇したくないタイプの人間だ。いや、ドラッグストアでなくても会いたくない。逃げ出したくなったのは単に逃避傾向から来る自己防衛ではなかった。
浮いている。
というより場違いも甚だしい。
「何持ってんのかと思えばへえ、コンタクト。そういえば」
至近距離。
眼。
「入ってるね。ちいっとも気づかなかった」
「すいません、これ買いたいので」
「そんなん買わなくてもいいって。これから僕の泊まってるホテルに来ない? もうひとりでつまんなくって」
「いえ、その」
「寮は門限なんでしょ? わかってるって。だからそれを買ってから泊まるところ捜そうとした。バぁレバレ」
凄い。読心術が得意な寮の同居人に匹敵する。
それ以上か。
「ソフトじゃん。僕もおんなじの使ってるわけ。ケースだけ買えば洗浄液くらい貸すって。それとも僕とお揃いじゃあ厭?」
「悪いですし」
「泊まってくれれば文句言わないからさあ。ね? おいでよ」
「えっと、そのですね。他に泊まるところあるんで」
「ないない。その可愛いお顔に出てるよお。ここで親切なアスウラさんに捨てられたら野宿だって。大丈夫、僕はそんなひどいことはしないし出来ない」
「酔ってません?」
「完っ璧素面」
嘘だ。全身がアルコールくさい。
「どうせ明日会うんだからさあ今から一緒にいよーよ。悪魔くんも呼んじゃおっか」
「それは」
駄目だ。嫌な予感がビンビンするし。
傍目から見れば、酔っ払いに絡まれている哀れな高校生に見えるだろうか。むしろそう思ってほしい。それ以上のものは何もないのだと思いたい。
腕に絡みつく力が強すぎる。
諦めるほかないか。
「では、ご厄介に」
「ホント? このまま逃げたら怨んじゃうから」
解放された。
ケースだけ持ってレジへ。レジにいた店員は一部始終を見守っていたらしく憐憫の表情を向けてくれた。有り難いやら迷惑やら。
「んじゃあ、出発」
再び拘束。そのまま店の外へ。
「あの、出来れば離れていただけると」
「いいじゃん。カップルみたいでさあ」
「それが困るんですけど」
「彼女いないくせに」
「よくおわかりで」
「いたらその子のとこに行くでしょ。そうじゃないからね」
なるほど。その手があったか。
今更遅い。それに学外での友だちは有名人が多くて個人的に仲良くしているところを見られると無駄に金を消費しなければいけない事態に発展してしまう。要するにスキャンダル。
「どこ行こっかあ」
「あの、ホテルでは」
「いきなり積極的だねえ」
「えっと、そちらではなくですね。アスウラさんが泊まっておられるほうで」
亜州甫かなまの足がもたつく。
やはり相当酔っているのだろう。
「頭痛あい。帰れなあい」
「ホテルはどこなんですか」
周囲確認。駅の反対側。
R学園高等部がある東口は、大学やら病院やら研究所やらがぼこぼこ建っており空気からして学術的な雰囲気の街。R学園の名を冠する学校もすべて近接している。
それとは一変して西口。
歓楽街で間違えていない。
線路を挟むだけでここまで逆転するのか、というほどの差。前環境副委員長が夜間外出したくなるのも頷ける。だが彼の目的はそういう次元ではなかったということを訂正しておく。敢えて言うなら二次元と三次元の狭間。
いつの間にやら未成年がうろついてはいけません、な通りに。
「あのう、酔ってますよね?」
「聞いてなかった? 完っ璧素面てさ」
亜州甫かなまが不敵な笑みを浮かべる。
寒気。
「ビクビクしない。ちょおっと近道しただけだよ。気になるなら下向いて歩けば」
「こっから先にあるんですよね」
「あっち。ほらほら、あのビル」
暗闇の中に浮かび上がる一際明るい建造物。確かにあれはホテルだったと記憶している。疑う間もなく本当にその建物に入った。フロントで鍵を受け取って部屋に向かう。
最上階のなんたらスイートだった。
調度品が著しく異国の香り。どこの地方なのかわからないがとりあえず近場ではない。玄関口で出迎えてくれたすこぶる怪しいインテリアの像と眼を合わせないように洗面所に入る。
「そこにあるの、何でも使っていいよ」
亜州甫かなまの声がする。おそらく着替えをしているのだと思いたい。あの格好はこれ以上見たくない。
洗浄液を借りてコンタクトレンズを出す。
裸眼では眼前に迫られた顔すらぼやける。メガネは度入りと伊達と両方あるが使う頻度は低い。嫌いなのだ。
やたらと似合う人間と一緒の部屋で過ごしているせいか。
ぼやける視界と闘いながら亜州甫かなまを探す。ベッドの上にいた。横になっている。服はよく見えない。
「シャワーはいいの?」
「お先にどうぞ」
「一緒に入りたいってわけか。いいよ」
「違います」
顔が見えないおかげで言葉を額面どおり受け取ってしまう。そもそも彼の発言はほとんどが嘲笑で出来ている。
「遠慮せずにさあ。浴槽見た? ひっろいよねえ」
タックルされているに近い。
逆戻り。
「もしかして見えてない?」
「はあ、この距離で顔が見えないですね」
「へえ、やりたい放題ってわけかな。どっしよっか」
「どうもせずに」
衣擦れの音がする。
「あの、確かめておきたいことが」
「僕ならフリー」
「そうではなくて」
鏡に自分が映っている。
「性的志向といいますか」
「ああ、それなら心配ないよ。どっちもおーけ」
心配の次元に大いなるズレがある。
「俺はそうでもなくてですね」
「気にしないで。銭湯だと思えば」
プールを思わせる円形の浴槽。ぶくぶく聞こえるのは泡だろう。ジャグジィ付のようだ。
「早く脱いで」
「え、ちょっと」
服に手をかけられる。抵抗しようにも何をされているのかいまいちわからないため不利。
「ほっそいね。筋肉育ててみよーよ」
「やめてください。俺は後で」
「ただで泊めてあげるんだからさ、ちょっとはお礼しようよ」
「なら他の事で」
「ベッドのほうがお好み?」
「それも実は」
「やりたくて仕方ない?」
「違います。お願いですから」
腰に手が。ベルトだろうか。
まずい。
「僕だって全裸なんだからいいじゃん」
「よくないです。俺はひとりで入りたくて」
裸眼でよかった。心からそう思う。
「何もしないからさあ。一緒に入ってくれれば」
「何かするつもりでいたんでしょうか」
「いろいろねえ。溜まるわけだ」
「本気ですか?」
「天使くんならいいかも」
「冗談ですよね?」
「本気だよ。言ったよね、どっちもおーけ」
「あ、ちょっとホントに」
ボトムが。
「あと一枚」
「帰らせてください」
「コンタクトなしで?」
「持って帰ります」
手を伸ばしたが。
ない。
「こっちにあったりして」
見えない。
隠されたのか。
「とにかくさあ、入ろうって。シャワーだけでもいいし」
「何もしないんですね?」
「いまならね」
どういう意味だろう。
「僕が機嫌いいうちに脱いどいたほうが」
「あ、え?」
ない。
「アスウラさん」
「あっちにあるよ」
だからそれはどこなのだ。
「へえ、結構」
思わず隠す。
「もう遅いよ。お風呂はこっち」
腕を引っ張られる。
「大丈夫です。見えてますから」
「雰囲気はわかるんだ。ならいっか」
解放。
「タオルとかあります」
「隠すの?」
「いけないでしょうか」
水の音。シャワーだ。
「そこで洗ってよ。じろじろ見てるから」
「やりづらいんですが」
「どうせ見えてないんでしょ。僕がいないと思って」
今更どうしろと。
「ね、童貞?」
手に持ったシャワーノズルを落としそうになった。
「わっかりやすいなあ。あるんだ」
「え?」
「僕は鋭いからねえ。すぐにわかる。誰と?」
「黙秘で」
「学校の人かな?」
「どちらなりと」
「男は?」
今度は落としてしまった。
亜州甫かなまの高笑いが響く。
「それこそイエスって言ったようなもんだね。はあん。なんだその気あるんじゃん」
返答できない。
「君がタチだね。ネコはだあれ?」
無視して髪を洗う。
「だんまりは嫌いだなあ」
「わっ」
とんでもない部位に手が。
「触られたくなかったら話してよ」
「じゃあ触って構いません」
「いいの?」
泣きたくなる。
「僕はネコもいけるんだ。どう?」
浴槽から。
何かが出た音。
生温いものが。
背中。
「僕も相手してよ」
5
「ふうん、腰抜け」
半泣きが効いたのかもしれない。過剰な身体接触がなくなった。いまの内にタオルを探して体を拭く。
「うわ、ウソ泣きなわけ。凄い技持ってんね」
「お褒めいただき」
「つまんなーい」
服を持って浴室の外へ。髪が濡れているが先客が出ないことには如何とも。
こんなとこ来るんじゃなかった。
後悔先に立たず。
ベッドは厭なので大きなソファに腰掛ける。
「ドライヤ使えば?」亜州甫かなまがバスローブを羽織っている。
「機嫌悪いですか」
「見ればわかる。他の子拾えばよかった」
口調がつっけんどんだ。先刻のねっとりした喋り方よりはいいがその中間でお願いしたいものだが。
「その気ないなら最初から言って」
「言う暇が」
「まったくさあ。部屋だけでかいだけで面白くないっての」
本当に機嫌が悪そうだ。
ベッドの上に座るのが見えた。
「出掛けますか」
「いいよ、もう。萎えた」
「ドライヤ借ります」
触らぬ神に崇りなし作戦。
髪質は細いのですぐに乾く。地肌の辺りの色がそろそろ染めなさいという合図を出している。
「地毛何色なのさ?」
亜州甫かなま。
洗面台の扉を開けて仁王立ち。
「オレンジじゃないです」
「そんなことわかってる。これ以上怒らせないでくれる?」
「ゴールドですかね。ほとんど茶に見えるんですけど」
「半分? 四分の一?」
「四分の一って言うか」
分数の計算がよくわからない。
「へえ、社長さんの相手はどこの人?」
「ドイツ人と日本人の混血らしいですよ」
「なるほどね」
「あ、いまの一応」トップシークレット。
「わかってるよ。言わない。社長さんにも黙ってる」
「すみません」
ソファに戻る。
亜州甫かなまは冷蔵庫を物色して何かを持ってきた。自棄酒かもしれない。
「天使くん飲める?」
「真面目すぎるジャーマネに止められてますんで」
「その人明日来る?」
「どうでしょうか。チケットは俺しか」
「あげるよ。余ってるし」
テーブルの上に。
「十枚ある。今日のお詫びに配って」
「え、そんなに?」
「社長さんが張り切って広いとこ借りたせいでガラガラ空席があるらしいよ。つまりは僕の人気がないせいだけど」
「いや、でもあそこは」
収容人数が半端ない。全席を埋められる人間はそうそういないのでは。
「励ましてくれるんだ。やっぱ優しいね。僕を力ずくで振り払わなかったのもそうなんでしょ」
「それは」
単に断る勇気がなく。
「優柔不断なだけです」
「そういうのってモテるよ。学校で女の子いっぱい侍らせてんでしょ? ファンクラブとかありそうだけど」
「はい、実は」
「でも嫌われてもいる」
「覗いてませんか」
「R学園だっけ? ムリムリ。駅の反対側に出れないもん。あの高尚な空気だけで吐きそ。僕みたいなワケありはこっち側がお似合いなわけ」
「ワケあり?」
「見るからにエッジにいる感じしない?」
「エッジ、ですか」
亜州甫かなまがグラスをカラカラ鳴らす。
「生憎どのカテゴリにも入れてもらえなくて関所で引っ掛かる。だからその狭間の淵でふらふらしてる。そういう種族」
「アスウラさんだけで新しいカテゴリ作れそうですしね」
「そっか。それもいいね。でもね、結局僕ひとりしかいないからすぐ寂しくなって淵でふらふらしたくなる」
移動。
亜州甫かなまは、ベッドに寝転がった。
「飲みすぎた。つまみがいいせいで」
「つまみって俺ですか」
「そ、見せびらかすだけで触らせてくれないつまみ。健全すぎて反吐も出ない。あーあ、どうしてよりによって君なんか見つけちゃったんだろ」
「ちょ、ともる様ならやめてくださいよ?」
「だいじょー。悪魔くんは天使くんと違ってウブだから。時間かけてゆーっくり堕とすよ」
それこそ困る。
「あの、狙ってらっしゃる?」
「だって好みだし。僕のこと尊敬してくれてるし。可愛がってあげたくなっちゃう」
それでわざわざリハーサルに呼んだのか。
なんとも不純な動機が含まれていた。
「妬かないでよ。君は違う意味で興味津々だし」亜州甫かなまが上体を起こす。「わ、クラクラする。駄目っぽい。せっかく聞きだそうと思ったのにさ」
やめた理由だろうか。
「それ聞いたらともる様にちょっかい出さないでいただけますか」
「へええ、君も悪魔くん狙い?」
「違います。単なる腐れ縁でして」
「で、その腐れ縁のお目付け役に言わせると僕みたいなのは害虫ってわけだ。ウブな子のほうが好きなのになあ」
「すみませんがどうか本当に勘弁を」
返答がない。
静かになった。
「アスウラさん?」
ベッドを覗き込む。
目は閉じている。
掛け布団の上にいるのでその下に運ぶ。身長の割に軽い。やはり無駄な肉がないせいか。
ベッドはそれひとつなので大きなソファを借りる。多少足がはみ出るが我慢。棚の中を覗いたらタオルケットを見つけた。
寝息。
心かしか顔が赤い。
酔うとすぐ眠るタイプか。とすると外で会ったときに全身アルコール臭かったのはなぜだろう。酔いが醒めたところでホテルに帰ろうとしていたのかもしれない。
「アスウラさん?」
念のためもう一度確認。
反応なし。
生き死にを確かめているみたいで厭だった。
これで。
五本。
五人。
死人。
明日も発見されるのだろうか。
六本目。
中指。
亜州甫かなまに。
咥えられた指。
照明のスイッチを探す。おそらくベッドのサイドテーブルに。
あった。
足元だけ点けておく。
「おやすみなさい」
反応なし。
どうしてこう周囲には。
傍迷惑な人間が多いのだろう。
そういう星回りか。
寝よう。
6
またあの夢だった。
指が出てくる夢。
早志ひゆめが紙粘土を捏ねている。
何を作ってるんですか、と訊くと。
ツララです、と言われる。
両手を見たら。
指がツララになっていた。
溶けてくる。どんどん溶けて。
最後には。
なにも。
どうしよう、と早志ひゆめに言うと。
私が作りましょう、と答える。
瞬く間に指が十本。
でもおかしい。
ぜんぶ中指。
変ですよ、と言ったのに。
これでいいのです、と返される。
そして両手を見ると。
指はぜんぶ。
中指。
水に打たれた中指。
指輪を填めた中指。
忙しなく動く中指。
石膏で出来た中指。
爪が真っ赤な中指。
それが右手。
左手は真ん中だけ。
感覚がおかしい。
曲げてみたら床に落ちた。
それを拾ったのは。
亜州甫かなま。
ありがとうございます、と言い終わる前に。
口に入れてしまった。
噛む音がしないので舐めているらしい。
美味しいですか、と尋ねると。
ついやっちゃうんだ、と笑う。
また早志ひゆめ。哀しそうな顔で。
中指をもう一度、と頼まれたので。
いいですよ、と答える。
しかしどれも中指だ。
どれを作ってくれるのだろう。
ぜんぶ。
中指なのに。
声がする。
返せ。私たちの中指を。
お前の中指ではない。
返したいけど取れないのだ。
亜州甫かなまはもういない。
早志ひゆめは哀しげに佇むだけ。
何も言わない。
いつの間にか五人の女性に囲まれていた。
どの人も中指がない。
返せ。私のだ。
ごめんなさい。取れないのです。
ならば取ってやる。
引っ張られる。
五人に。
五方向に。
誤方向に。
亜州甫かなまが酒を飲んでいる。
さっきの指を、と言うと。
食べちゃった、と笑われる。
つまみにしたらしい。
もう一本くれないか、と近づく。
五人はもういない。
右手の指もなかった。
左手でよければ、と差し出す。
左利きですか、と早志ひゆめ。
両利きです、と答える。
なら両方、と亜州甫かなま。
ごめんなさい。左手しか。
その気がないなら言って、とおもむろに。
右の中指を引き千切って。
海に投げ入れる。
凪は波紋。
広がる。拡大。
同心円の形成。
浮かび上がる徴。
これ以上大きくなれば。
過剰。エスカレート。
デッドラインにつき。
呑み込まれる。
亜州甫かなまの高笑い。
囲む硝子に。
響いて。
罅入って。
ツララの如く散り逝く。
ここは神の淵。
名残る音。
7
「気づいてたよね。なんで無視したわけ?」
「指ならあんただが、まさか本当に」
「まあね。お宅の行方がわかんなくなって最高にむしゃくしゃしてたから昇華だろね。建設的」
冷える。底冷え。
「どうせ殺してないんだろ」
「ケーサツがもってったけどどうなったかな。ぐちゃぐちゃに解剖か。かーいそーに」
「そっちじゃない。前に言ってたガキだの愛人だの先生だの」
殺したよガキを。
ちっとも来てくれないからもうひとり殺しちゃったよ。
次は先生殺そっかな。
「憶えててくれたんだ。うわ、うれしいかも。ね、これから会おうよ。積もる話もあることだしさあ」
「俺を呼ぶためにあんなことをしたのか」
「はいはい、わかってることは訊かない。やっぱ鈍くなったね。かつての相棒殿が怒り狂うのも無理ない。ボクも失望」
結んで開いて。欠落感。
ないはずの場所が痛む。
幻肢だということもわかっている。
「捕まるんだな、わざと」
「そういう流れになってることだし流されてみようかなって」
「もしこれから誰か殺そうとしてるなら」
「やめろとでも? やだね、オレの作品なんだからどうしようとオレの勝手だろうがよお」
「俺は殺さないのか」
「へえ、やっと殺して欲しくなった? でもねえ、厭きた。先生もいっこうに相手にしてくんない。もうどうでもいいしさ。ところであれなに? お宅のご主人サマ? どういう気の入れ替えっぷりよ。昔のお宅ならへーこらなんてねえ」
切断。
呼んでいる。答える。
「何してたんだ」
「少し考えさせてもらっていいでしょうか」
「ああ、わかった。真犯人捕まえろよ」
あなただけには知られたくない。
「了解」
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