第2話 Dissonanz Destruktion 音して落として

      1


「なにこれ」

「えっと、なんだろ」

「君が選んだんじゃないってことはわかったよ」

 めておさんが選んでくれたのは時計だった。しかもあの有名なDで始まるスペイン画家の絵を模した時計。溶けている。

「見づらいけど、デザイン的にはいいよね」

 ふうと息を吐く。春休みなのに実家に帰らない勢は結構いる。それだけ親元から離れたい人間が多いということだろうか。

 寮のルームメイト、スガちゃんは移動の気配がない。失礼な言い方だろうが実家があるのかどうかすら不明。二年連続生徒会長という快挙を成した人物だけあって肝が据わっているというか何を考えているのかよくわからないというか。

 対立候補が出なかったのだ。よって秋に行われた選挙は事実上の信任投票となり、これまたこれ以上要らないというほどの票数が集まりもう一年副会長をやることになってしまった。職員ももはや黙認するほかなく、俺に期待しない代わりに生徒会長であるスガちゃんにあらん限りの期待をかけている。それで正解。どうせ何もできやしないのだ。放っておいてくれ。

「ところで、何だかすごいことに巻き込まれたんだね君は」

「はあ、お恥ずかしながら」

 誰かに話したかったので、口が堅そうな上にいろいろな意味で頼りになりそうなスガちゃんに相談してみた。美術館。

 指。

 早志ハヤシひゆめ。

「フィン・ドゥア・モルか。知らないな」

「もしかすると結構マイナなのかもね。でもあの美術館で展示やれるなんてねえ」

「それが君の伯母さんの力じゃないの?」

 思わず苦笑い。大いに有り得る。

 ともる様はしぶしぶ家に戻った。話が終わってないということは重々承知しているし、そもそも昨日はその話題で呼び出されたのだ。近々また呼び出しをかける、という約束で別れたので何だか落ち着かない。日にちを指定してもらえばよかった。絶えず心の準備をしなければいけないではないか。

 過度にストレスがかかったのか凄まじい夢を見てしまった。そのせいもあって朝から気が重い。今日は何もしたくない。遠回しにそう伝えたら。

「精神科に行こうか」

 と言われてしまった。

「えっと、そこまで」

「何か勘違いしてない?」

「へ?」

「僕が行くんだよ。それに付き添うかって云ってるの」

 そういう意味か。いちいち心臓に悪い物言いの人だ。

 着替えをして外に出る。学園の敷地内は制服で、と定められているが外出の際は着替えたほうがいい。しかし、このいいは俺にとってのいいではなく、スガちゃんにとってのいいである。彼はここの制服が気に入っていないらしく寮に戻ってくるとすぐに着替えてしまう。面倒でなくていいと主張しても撥ね退けられてしまう。

「派手なんだよ」

「そうかなあ」

 エメラルドグリーンのシャツが目立たないといったら嘘になるかもしれないが制服とはそんなものだと思う。幼等部からいるせいかこの色にもデザインにも慣れてしまった。だが外部から来た人にとっては多少気になるらしい。

「もっと地味な服がよかった。紺のブレザーとか学ランとか」

「学ラン? スガちゃんが?」

 想像できない。むしろ何だか危険だ。

「アブノーマルな思想だね。出演料取ろうかな」

「それは困った」

 スガちゃんは高等部からここに通っている。実は彼は高校に通う必要はない。ここに来る前は大学にいたのだ。しかも天才しか入れないという凄まじい場所、R大学にいた。

 彼は天才少年ということで、これまた天才しかいないS学院という超有名進学校の首席であり、中学に上がってすぐR大学からスカウトがかかった。かくして彼は中学二年にして大学一年になったのだ。そして二年間で休学届けを出した。

「精神科ってさ、前にスガちゃんが」

「そう。発作は平気なんだけど偶に会いたくなるんだよ」

「そんなもんなの?」

 R学園高等部の裏。ここにスガちゃんのトラウマが存在する。

 そこのすぐ隣にO病院がある。R学園やR大学も広い敷地を有しているが、O病院もそれに劣らずの建物がぼこぼこ建っており精神科も別棟が存在する。

 建物内。独特のにおい。思い出してしまった。アルコールは。

 早志ひゆめ。つい左手に眼が行く。

「大丈夫?」

「あ、うん」

「やっぱ少し話聞いてもらえば?」

 気が進まない。精神科という標榜にビビっているのではなく、スガちゃんと同じ先生という点に臆しているのだ。

「厭なら僕でもいいけど」

「そっちのほうがいいかな」

 眩しい廊下。ここに来るのは初めてだ。そもそも病院に縁がない。縁があるというのも妙だがスガちゃんは縁があるのだ。彼はここに知り合いがいる。

「外科医だっけ」

「この棟にはいないよ。会いたいの?」

「そうじゃないけど」

 何となく思い出しただけ。すこぶる腕のいい先生らしい。

「あ、先生。おはようございます」

 いつの間にか着いた。人の後に考えもなしにただついてくるとこういう現象が起きる。

「ああ、ええ、どうも」

 声からしてやる気のなさそうな感じだった。白髪混じりのぼさぼさ。寝癖かもしれない。年齢は若いような気もするし年寄りのような気もする。ノンフレームのメガネと口周りの無精髭が年齢を不明瞭にさせる。

「そちらは、ええと?その、お友だちですか」

「はい。付き添いに」

北廉ホスガ君の友だちで、右柳ミヤギゆーすけといいます」

「ミヤギ。ああ、あの」

 それで通用してしまうところが、この名字の利点というか面倒なところというか。

「聞いてますよ、ええ。えとり君の唯一の友人だそうで」

「え、そうなの??」

「そうかな。いいじゃないか、それで」

「いいとかって」

 そういう問題ではない。これを言いふらされているとしたら何だか居た堪れない。決して悪い意味ではないということはわかるのだが、なんとも言い難い。相手が、ということにしてスガちゃんと別れる。

 今更気づいた。付き添いの意味はなかった。

 とすると何を思って連れてこられたのだろうか。やはり心配してもらっているのだろうか。いいほうに考えよう。

 時間つぶしに病院の中を歩き回るとしても存外大きいのでまたここに一人で戻ってこられるか不安。正式には大学病院ではないがほとんどR大学の付属にしか見えない。R大学医学部出身の医師が大多数なのだ。公立の病院と違うところは研究施設ということ。難病奇病の類がうじゃうじゃ集められる。やはり探検は得策ではない。ソファに座ってぼんやりするほかないか。

 待ち時間というのは長い。まだ三分も経っていないのにもう飽きてしまった。廊下は病院のスタッフが稀に通る。

 気分が鬱々としてくる。夢を思い出してしまう。手を見ると。

 早志ひゆめを。

 無限ループ。

 どうなっただろうか。めておさんに聞いてもいいがはあ、としか返答出来そうにない。知ったから何ができるわけでもない。むしろ向こうに任せたほうがいいと思う。

 ともる様。スガちゃんの付き添いが終わったら連絡を入れてみよう。もうひとりくらい聴いてもらいたい。

 夢。

 本当に怖かった。まざまざと思い出せる。

 壁に寄りかかったら眠くなってきた。駄目だ。このまま眠ったらきっと。

 あの続きが。

 首を振る。頭が熱い。本当に具合が悪いのかもしれない。

 遠くでドアの開く音。

「お待たせ。君の番」スガちゃんが立っていた。

「へ?」

 さっきと言っていることが違う。まさか。

「嵌めた?」

「大正解。行っておいで」

 背中を押される。その先には。

 さっきの医師。

「ではお願いします」

「ああ、ええ。でも無理矢理はですね」

「是非、きっちり」

 抵抗する気力もないのでしぶしぶ部屋に入る。中を見てビックリした。普通の診察室と全然違う。仰々しい医療器具が圧倒的に少ない。あったのは大きな椅子。しかも座り心地が良さそう。

「そこにですね、どうぞ」

 やはり気持ちがいい。このまま眠ってしまいそうだった。駄目だ。夢が。

「えっと、右柳ゆーすけ君でしたっけ。呼び名に抵抗がありましたら、その、仰って下さい」

「はい?」

「こう呼ばれるとですね、虫唾が走るとかその、あるでしょう。それがあるのならね、云って下さると」

「特に、ないんで」

「はあ。ならどうしますかね。えとり君はえとり君でないと厭だといわれたのでね、訊いてみたわけなんですよ、はい」

 内容が本当に遠い。わざとやっているにしても違和感がない。これが素なのだろうか。妙な先生だ。

「私はですね、ユサといいましてはい。結ぶに少佐とか大佐とか階級があるでしょう。つまりですね、そのおわかりの通りその佐ですよ。ではゆーすけ君にしておきますかね。えとり君がそう呼ぶのでね、そっちのほうが私としてもまあ、言いやすいといいますか、ええ」

 疲れる。早急な結論大系を望むスガちゃんが、どうやってこの先生とコミュニケーションをとるのか気になってしまう。

「右柳というと、その、明日でしたか、リサイタルというのですかね、ありますでしょう」

「え?」

 ちっとも知らない。

「それを聴きに行こうかとですね、思ってるんですよはい」

「はあ」

「有名な方だと聞いているので、そのご存知かと思って、まあ話題を出してみたとそういうわけです」

「いや、右柳といっても俺は」

「そうですか、はあ。幅広い会社ですしね」

 ミヤギ・クラヴィア。全国民の聴覚を蝸牛管から支配している音楽系会社最大手。音や声といった耳に関することならそのすべての業務において提携可能な巨大企業。父さんが現社長であり、行く行くは継ぐだの後継者だのという話が出ていないわけではないが。

 継ぐのが面倒なわけではない。あの会社に含まれるのが厭なわけではない。

 ピアノ。また。

 流れ出す。

「やはり気が進まないようですね、ええ。終わりにしましょう」

「あ、すみません」

「本当は、その、私みたいな他人よりですね、友だちのほうが頼りになりますからね、はい、えとり君に話してみてください」

 頭を下げて廊下に出る。

「早かったね」スガちゃんが言う。

 頷く。

「じゃあ先生。会いたくなったらまた」スガちゃんが手を振る。

「ええ、その、お待ちしてますよ」

 頭の中で。あの曲が消えない。

 夢。

 混ざる。

 指。

 指。

 見てはいけない。聞いてはいけない。感じてはいけない。

「大丈夫?」

 気づいたら外に。

 首を振る。

「何度も呼んだんだけど」

「あ、ごめん」

 携帯電話の電源を入れる。

「僕でいいなら云ってね」

「ありがと」

 スガちゃんはそれ以上言わない。嬉しいような悲しいような。

 メール。

 予想通り。

「ちょっと出てくる」

「いってらっしゃい」

 手を振って走る。目指すは。

 王の御前。


    2


「遅い!」

「いや、実は」

 この場所に来たことがないわけではない。道に迷うほどここら一帯に建物が隣接しているわけでもない。駅まで辿り着ければある意味一目瞭然なのだ。つまりは駅まで辿り着けなかっただけの話。

「乗り換えの駅を間違えまして」

「言い訳はいい。こっちは会ってもらう身なんだ。そこを弁えろと言っている」

 受付でカードをもらって首にかける。必要はなかった。これがないと追い出されるらしい。が、俺に限ってはあんまり当てはまらないのがすごく嫌だった。

 吹き抜けのエントランスロビィは慌ただしい様子で、何人もの人とすれ違ったり前を横切られる。避けるのが一苦労。

「彫刻家の人だが」

 ともる様があまりにも普通に切り出したので吃驚した。思わず周囲確認したが、誰も部外者など気にも留めず走り回っている。例によってちーろさんが数メートル後からついてくる。

「本人に責任追及できないが、美術館側がな」

「臨時休館とか?」

「いや、一応観光地だろ。それで」

 床を見る。自分が映りそう。

「中止、ですか」

「本人がそう申し出たらしい」

 早志ひゆめ。

 居た堪れないのだろう。展示物の中から本物の人間の指。

「あそこに飾られてたのはそのまま」

「一通り調べられて追々返還だそうだ」

「壊されたりは」

 ともる様が眼配せする。扉。

「一旦やめだ。余計なこと言うなよ」

 重い扉だった。防音なので二重。天井の高すぎるホール。この建物の中で最も収容人数が多い。三階席まである。照明は煌々と点いているがほの明るい程度。オーケストラも楽々できそうなほどの広いステージ。そこにグランドピアノがひとつ。一階の最後列に出たので通路を進む。

「ところで誰に会うんでしたっけ」

「知らないのか」ともる様が言う。

「ええ、名前もさっき知ったくらいで」

「呼ぶんじゃなかった」

 ステージの上にも幾らか人がいて銘々に何かをしている。誰かが声を出すたびそれが反響する。

「ここで待ってろ」

 ともる様はステージに上がり袖のほうへ。ちーろさんも後に続く。置いてけぼりにされてしまった。

「きみ、見学?」

 ステージの上にいた人に話しかけられる。たったいま気づいたというような口調。

「あ、はあ」

「あれ、もしかして天使の」

「うそ。なんで」

 ステージの奥にいた人間が次々こちらに向かってくる。あっという間に全員に囲まれてしまった。

「わかった。ライバル視察?」

「違うだろ。ほら、さっきの子」

「え、悪魔の? まじ。揃って?」

 向こうで勝手に話を盛り上げているので苦笑いに徹することにした。顔に意識を向けさせないために髪をオレンジにしているのにやはり効果が認められない。煩いマネージャの言いつけどおり伊達メガネをしてくればよかったか。

 袖からともる様が出てくる。その後ろに。

「準備まだ?」

「こんな感じで如何でしょうか」

「そだね。位置は悪くないんだけどさ、肝心のこっちはどうなのよ」

 グランドピアノの蓋を開ける。

 ラ。

「やっぱ駄目。替えてきて」

 スタッフと思しき人々が顔を見合わせる。

「あの、もう三回目で」

「じゃあ社長さんに言ってよ。ピアノくらい捨てるほどあるでしょうに」

 ラ。

「この変な音聞こえないんかな」

 ステージ上の人員が走り出す。銘々方々へ消えた。

 静かになる。

「ごめんね、悪魔くん。滞ってて」

「いえ、見せていただけるだけで」

「そう? ま、気長にやろ」

 ともる様の顔が嬉しそうだ。いつもの王族的振る舞いが見受けられない。すっかり民に成り下がって。

 改めてニューフェイスを眺める。身長は自分より少し低い。痩せ型というよりは単に無駄に肉がついていないだけなのだろう。ワイシャツは第二ボタンまで開けてだらしなくネクタイを締めている。ステージの下から見上げているためいまいち顔がわからないが眼力が凄かった。前髪が所々長く、その合間からのぞく瞳は。

 何かで満ちている。なんだろう。

「やーっぱ“天使の妙音”じゃんかあ。嬉しいねえ、僕の応援に来てくれたってわけ?」

「はじめまして、右柳ゆーすけです」

「そんなん知ってるって。天使くんのこと知らないピアニストなんかモグリにすらならないって」

 突然、ステージから飛び降りる。眼前に。

「僕、アスウラかなま。知らないかなあ。最近勃興してきた若手だからさ。ま、憶えておいてよ」

 握手を求められたので応じる。

「いい指してんね。見せてよ」

「え?」

 左手の中指を咥えられた。

 急いで手を引っ込める。

「わーお敏感だ」

 悪寒。

「えっと、先生」

「せんせい? 誰よそれ」

「え、アスウラさんです」

 大声で笑い出してしまった。その声がホールに響き渡る。何か変なことを言ったのだろうか。

「やめやめ。アスウラさんでいいって。僕さ、先生アレルギィでさガッコなんてまともに行ってないってわけよ。おまけに病院なんか大っ嫌いだしさ」

 ステージの上に眼線。

「そうそう。悪魔くん。その変なピアノ替えたらさ、一曲聞かせてよ。ショパン辺りでいっからさ」

「いいんですか?」

「僕のなんか明日聞いてくれればいいの。だからわざわざフライングして呼んだわけよ」

「ありがとうございます」

 ともる様は本当に嬉しそうだ。その隙にこっそりティッシュで指を拭う。唾液分泌量が殊のほか多い。

 ピアノを入れ替える間、ステージ脇で待つことになった。こちらはやや薄暗い。奥に扉があるが確かそちらに楽屋。パイプ椅子を用意してもらった。それほど狭くない。中央にアップライトピアノも置いてある。明日、ここでリサイタルがあるらしき彼は漢字で。

 亜州甫かなま、と書くらしい。

「どーせ芸名なわけよ。気に入ってるからいんだけど。そっちの悪魔だの天使だのもそうでしょ」

「あ、いえ、あれはですね」

 横眼でともる様を確認。

 言っていい、と目線で合図をもらった。

「ちょうど同い年の二人をセットで売り出すために誰だったか、とにかく勝手に考えられた煽り文句のようなものでして」

「へえ、ユニット組んじゃえば」

「俺、脱退してますんで」

「そうだ、それそれ」

 亜州甫かなまが身を乗り出す。思わず反射的に仰け反る。

「ありゃあ、警戒モード? ちゅーでもするって?」

 ともる様は何も言わない。顔色すら変えない。

「何で辞めちゃったのさ。僕とか残念なわけよ。同業者って多いほうが切磋琢磨できちゃうしねえ」

「すんません、ノーコメントで」

「悪魔くん。いつもこんなん?」

「はい」

「そんじゃあフランスから戻ってきたくもなるわなあ。さっさか吐いたほうがいいんじゃない?」

 ステージが騒がしい。袖に人が入ってきた。

「お電話です」スタッフらしき人が言う。

「だあれ?」

「社長から」

 亜州甫かなまが携帯電話を受け取る。

「我慢? ムリムリ。音が厭なの。即行取り替えてよ。そんなん知らないよ。うん、そ。早くしないと明日弾きたくなくなるし。けっこー気紛れなわけ」

 ついつい隣を見る。

「なんだ」ともる様は律儀に返事してくれた。

「社長ってまさか」

「お前の父親に決まってるだろう」

「ですよね」

 聞く意味はないが敢えて尋ねたくなることというのは存在する。きっとこれはそれ。

「あの」

「なんだ」

 言語化が躊躇われたので膝上の左手に眼を落とす。

 指。

「俺もやられた」

「え?」

 どの指だろう。うっかり両手を凝視する。

「気にするな。別に減るもんじゃなし」

「それは」

 そうだが。そういう問題ではない気が。

「天使くんのパパに怒られちゃったよ」亜州甫かなまが言う。

 電話は終わったらしい。袖から人が出て行く。

「どうなりましたか」ともる様が拾う。

「次でラストだってさー。それでも駄目なら電子ピアノにしろっていうんだよ? 超一級の嫌がらせじゃない?」

 父さんのやりそうなことだ。納得がいった。

「天使くんも弾こうか。そうしない?」

「え?」

「悪魔くんの後でいいから。そだな、曲はやっぱ」

 それは。

「すみません!」

 大声を出してしまった。

 二種類の視線。

「あ、その。ちょっと」まずった。

「ここじゃ弾けない。いまだから弾けない。自分とピアノしかいなくても弾けない。その全部ってわけ?」

 黙って頷く。

「なんだ、ホントに辞めちゃったの」

「右柳」

 と、ともるの口が動いたように。俄かに帰りたくなってきた。亜州甫かなまが急に立ち上がる。中央にあったピアノの前に座って荒々しく蓋を開けると。

 ラ。

「変な音だけどま、いっか」

 おもむろに曲を弾き始める。何の曲か。

 すぐにわかってしまう。

 出来るだけ聞かないように。

「天使くんの十八番で悪いねえ」

 わざわざ言わなくとも。

 わかっている。聞かない。

 消えた。

「こりゃ根が深そーうだ。やめるわ」

 亜州甫かなまがピアノから離れる。ステージに出て行った。

 俺も立ち上がる。

「そのまま帰るなよ」ともる様に言われなくたって。

「わかってますって」

 袖の奥のドアから外へ。両脇に扉が見える通路。楽屋。

 息を吸う。

 なにも。

 眼の前で弾かなくてもいいのに。

 首を振る。思い出しては駄目なのに。

 トリガ。スイッチ。

 息を吐く。

 話すには。

 記憶と口だけあればいいのに。

 出来ない。したくない。

 話して解放されるのならとっくに喋っている。

 ずかずかと。

 踏み込んでくる。他人は。

 いなくなればいいのに。

 壊れる。

 壁が冷たい。

 夢。

 指。

 床に。

 座る。

 音。

「右柳」

 ともる様が隣に。

「そんなに厭なのか」

「厭です」

「何が厭なんだ」

「ぜんぶ」

 ピアノも。十八番も。

 指も。

「明日は空いてるか」

「どですかね」

「絶対聴きに来い」

 頭の上に。何かが触れる。

「あれは弾かないだろうがな」

「そのほうがいいです」

 チケット。

「お金は」

「今日の分でいい」

「どうも」

 ポケット。

「何弾いたらいいと思う」

「十八番」

「飽きた」

 思わず。見上げる。

「なんだその顔は」

「ともる様にあるまじき発言で」

「リクエストしろ」

「参ったなあ」

「参るな」

 考える。までもない。

 それから三十分後にステージに戻る。ちーろさんが呼びに来てくれた。彼は遠慮して扉の外に出なかったのだろう。そういう所がいいところだと思う。

 徐々に暗くなる。ステージだけに照明が当たる。最前列に座った。亜州甫かなまがなぜか隣に。

「ごぉめんねえ」

「何に対して謝られているんでしょうか」

「指しゃぶった件だったり」

「恒例行事なんですか」

「愛すべきピアニストに会うとついやっちゃうんだよね。コントロールは利かない感じで」

 ともるが袖から出てきた。

 礼。

「十八番?」亜州甫かなまが訊く。

「そっちのオレンジ頭にお聞きください」ともる様は、

 椅子に座って。

 響。

「天使くんのリクエストってことね」

 スタッフと思しき人々が続々とホールに入ってくる。突然のイベント開催についてはこの会場にいた誰もが気になるらしい。一階席がちらほら埋まる。

「さっすが、悪魔くん。響きが違うってね」

 リストのラ・カンパネラ。何となく聴きたかった。

 中榧ともるならどう弾くのだろう、と。

 悪魔の誘響。あながち間違っていないと思う。ともる様の持ち味は光速の指捌き。もはや人間業ではない。まるで悪魔の指の如く。その速さは単に技巧的に留まらない。流れるような響きで甘美な世界へと誘う。まさに言い得て妙。

 外見も黒っぽい。制服も真っ黒。トップもボトムも髪も真っ黒。黒が好きなのかもしれない。

「いい響きだねえ」亜州甫かなまは至極満足そうな声で呟く。「天使くんと逆」

 鐘の音。ラ・カンパネラ。

 また。

 腕を上げている。

 置いていってくれ。もう。

 決して追いつけないところまで。

 吐息。

 隣?

 手が。

 指。

 真ん中の。触れて。薄闇に。

 眼だけ。

 視。

 音して。

 落とす。

 響。消。

 礼。

 拍手。歓声。

 黒い悪魔。

「アスウラさんは」

「え?」

 隣は蛻の殻。

「さっきまで」

 吐息。指。掻き消す。

「トイレじゃない?」

 どよめき。スタッフらしき人々がステージ前に集まってくる。拍手はまだ止まない。照明が徐々に戻る。

「リクエストしたくせに感想もなしか」ともる様が言う。

「言葉なんかでは言い尽くせない感じで」

 ともる様がふん、と嗤う。

「やあやあ素晴らしかったねえ」

 袖から。

「亜州甫さん」ともる様が振り返る。

「ごめんね。急にここから聴きたくなった。良かったよ。悪魔くんはやっぱこういう曲がいいね。明日飛び入りゲスト頼みたくなっちゃったなあ」

「いえ、明日は亜州甫さんの」

 亜州甫かなまがピアノに近づく。

 ラ。

「リハやろっかな」

 ざわざわ。ともる様がステージから飛び降りる。顔は、見たことないくらい。

 晴れやかな王族。


    3


「明日来んだよね。早めにおいでよ。僕のゴリゴリの緊張を解しに来てくれない?」

「いいんですか」ともる様が嬉しそうに言う。

「いいよお。ホントはこれから長々仲睦まじくお話って思ったんだけどあっち」

 眼線の先に人々の群れ。

「まだ打ち合わせとか言ってさ。これ以上何すんだって感じなんだけどねえ」

「では、失礼します」ともる様が会釈する。

 俺はなんとなく頭だけ。

「じゃねー」

 亜州甫かなまは大げさに手を振っている。ふざけているようにしか見えない。それが素か。

 お昼は弁当をもらって一緒に食べた。こういう場所でお馴染みの冷たい弁当。亜州甫かなまは不味くて吐きそ、とか文句を言って近くのコンビニまで人を走らせていた。

 駐車場。ちーろさんの車。

「乗れ」ともる様が言う。

「今度はどちらに」

「着けばわかる」

「それは恐ろしい」

 後部座席。ともるの隣。

「もしかしなくても明日は迎えに?」

「当たり前だ。今日みたいに遅刻されたら困る」

「しませんよう」

「信用できない」

 窓の外を見る。

「ちーろ、何か進展は」

「ハヤシひゆめ氏は実は最初に指が出た段階から怪しいとされていた人物で、ようやく尻尾を出した、とあいつらも勇んで」

「かなりまずいのか」

「ほぼ確定かと」

「え?」

 そんな。指の彫刻家というだけで。

「指が出ただけですよ?」

「指が出ただけ、じゃない。指が出た、だ。これ以上の状況証拠はない」

 確定。重すぎる言葉。

「それでこれから」

 警察に?

「違う。アトリエだ。奴らもそっちでガサガサしてる」

「何か見つかったんでしょうか」

「どうだ?」ともる様がちーろさんに訊く。

「捜索中です」

 知らない景色。

「指、捜してるんですかね」

「死体だ。指が出たならそっち捜したほうがいい」

「でも」

 死体ならどこへなりとも捨ててしまったのでは。

「全部中指らしい」

 ともるの顔を見る。

「お前が見たのもそうじゃなかったか」

 思い出す。確かに細くて長い指だったが。

 自分の手を見る。

「この三つって、切り離されたら見分けつきませんよね」

 人差し指。中指。薬指。

「わかるんだと。それに腐蝕を遅らせるために丁寧にコーティングされてる」

「なにで?」

「知るか」

 それで。肌の色ではなかったのか。

「どういう意味だと思う?」

「え、意味ですか」

 中指を。

 切り取って。

「メッセージじゃないですか」

「捕まえてみろって?」

「はい」

 ともるがううん、と唸って腕を組む。

「ともる様は?」

「わからない」

 思わず吹き出す。

「笑うな。わからないものはわからない」

「ええ、その通りです」

 信号は青。

「中指に意味があるんでしょうか。それとも切り取ることに意味があるんでしょうか」

「切ったことないからわからん」

 何だろう。この王様は。

「質問したのはともる様ですよ」

「わからんから訊いたんだ。真面目に考えろ」

「でもそれは」

 警察の仕事。何の変哲もない高校生にはどうしようも。

「このままでいいのか」

 早志ひゆめ。おそらくこのままなら。

 容疑者。

「納得いかない」ともる様が言う。

「カッコいいですね」

「茶化すな。お前は悔しくないのか」

「それは、まあ」

 助けられるものなら。容疑を晴らせるものなら。何だってしたいが。

「はっきりしない奴だな。正直に言え」

「ともる様こそ」

「俺はそういうのが嫌いなだけだ。お前だってそうだろ」

 わかった。嗾けている。自分が先頭立って行ってることにしたくないのだ。他人を引き込むことであくまで流れ上、ということにしておきたいのだ。なんともワガママな王。

「はいはい、私めも微力ながら協力させていただきますよ」

「なんだ、その言い方は」

「いえいえ。ともる様の偉大な心意気に惚れた一家来の下らない発言などお気になさらずに」

 ともるがそっぽを向く。

「そういうのをやめろ」

「何がですか」

「家来とか、そういうのだ」

「じゃあ何でしょう」

 眼。悪魔の如く鋭い。

「ライバルだ。俺の唯一認めたピアニスト。もっと誇りを持て。その低姿勢が腹が立つ」

 ピアニスト。もう。

 違うのに。

「右柳ゆーすけ」

「はい」

「俺のために頭を使え」

 凄い。

 殺し文句。

「仰せのままに」

 窓。まさか。

 ハイウェイ?

「え、ちょっとどこまで」

「軽井沢だ」

「それって結構遠いんじゃ」

「だから明日迎えにいくと言ったろう。寝坊されたら困る」

 そういう意味もあったのか。まんまと手の平の上で踊らされている気が。

「どうせ生徒会だなんだとサボりたいんだろ。ちょうどいい」

「よくないですよ。ああ、スガちゃんになんて」

 生徒会長の凍るような眼差しが浮かぶ。まざまざと。

「乗りかかった舟だ。諦めろ」

「無理矢理乗せられたんですが」

「知らん」

 駄目だ。ここでは。ともる様が法律。彼の支配する国なのだ。

「彫刻家は嵌められたんだ。よくあるだろ」

「お詳しいですね」

「まあな」

 こっそりミステリィ好きなのだろう。指の展示を観て気持ちが悪くなっていたはずなのに。もう忘れたのかもしれない。

「じゃあどうやってあの美術館に?」

「それはな、業務員用出入り口だ。一見入り口はあそこしかないように見えるがあのでっかい彫刻だのなんだの見ればわかるだろ。確か建物の陰にそれらしき扉があった。そこから侵入したんだろ。塀も低いし。昇ろうと思えば登れなくない」

 帰ってからずっと推理していたのかと思うと。何だか複雑。

「でも入ったとしてもケースには」

「スタッフに紛れ込んでたんだよ。それしかない」

「ああ、なるほど」

 確かにそれなら怪しまれずにショウケースの中にこっそり本物を忍び込ませることができる。それに具合が悪くなったスタッフも幾人か出たと聞いているのでそのどさくさに紛れれば。可能。

「凄いですね。もうそれで」

「いや、でも何かおかしいんだ」

「何がですか」

 ともる様が足元の箱を開ける。クーラボックス。

「何がいい」

「何があるんですか」

「アルコール以外ならなんでも」

 さすが用意がいいというか完全装備というか。

「じゃ、グレープで」

「言うと思った」

 投げられる。

「普通に渡してください」

「意地悪したかった」

 王様の娯楽は傍迷惑。

「いただきます」

 パックのジュースだった。ともるはペットボトルの烏龍茶。本当にわざわざ用意してくれたのだろう。県外へ強制連行する餌にしては安い。

「で、おかしいというのは」

「あの彫刻家は本当に気づいてなかったのか」

 それは。

「いくら指にそっくりに作れたとしても自分の作品だ。開期中ずっとあそこに通い詰めてるとは考えがたいが、そうでなくても気づくだろ。ど素人のお前がわかったくらいなんだから」

「あの、ともる様。ハヤシさんを疑って」

「そうじゃない。きっとあの時、あのタイミングで発見したんだろう。つまりだ」

 指。

「俺たちがあそこから出て、昼食ってる間に入れられたことになるんだよ」

「え、まさか」

 そうなると。さっきの推論は。

「駄目なんだ。あらかじめスタッフに紛れるとかそういうのは使えない。彫刻家もやはり最初に俺たちが訪ねたときにはなかった、お前と一緒に見たときに初めて気がついた、と言ってる。それにケースは厳重に鍵がかかってるんだ。なあ、ちーろ」

「はい。全部のケースに」運転席のちーろさんが答える。

「管理してるのは」

「ハヤシひゆめ氏です」

 それならもう。

「自作自演か、共犯ってことに?」

「そうは言ってない。とにかくいちいち不明なことが多すぎるんだよこれは」

 そういえば。美術館は。

 四本目。

「いままでの三本はどこで」

「全部ここ一週間だ。埼玉で一日一本」

 牛乳瓶みたいで厭だった。

「最初のは月曜。そこの公園の噴水はピアノ噴水って呼ばれてるんだが、その鍵盤の上にテープで固定されてた」

「え、鍵盤? 噴水に鍵盤があるんですか」

「もちろん本物じゃない。大きさもあっちのほうが断然大きい。噴水っていうよりは滝なんだ。高い位置から水がこう、七つ出て、鍵盤を模された石だかなんだかの上に落ちる」

「音もするんですか」

「しても不協和音だろ。七つ一緒に押すな」

 確かにちっとも耳に心地よくない。煩い上に迷惑なだけだ。

「でもよく見つけましたね。水が邪魔で見えないでしょうに」

「いや、滝といっても所詮は噴水の類だ。水の量は大したことないし落ちてすぐに一段下の溜め池に流れ込む。いつもそこに散歩に来る犬連れた子どもが発見したらしい」

 それは。何というか。

「二本目は火曜日。また埼玉。ジュエリィショップで売り物の指輪をわざわざ填めて置いてあったそうだ。店員が発見した」

 気味が悪い。

「それで三本目は水曜日。これも埼玉。家電量販店の売り物のキーボードの上にぽつんと。パソコン物色してた客が発見した」

「で、美術館と繋がるわけですね」

 連続三本は同じなのに。四本目になって突然。

「どうして急に神奈川に」

「犯人に訊け」

 今日はどっち。それともまったく違う場所で。

「ちーろ、連絡は」

「ありません」

 不可思議な事件だ。

 ピアノ噴水。

 指輪。

 キーボード。

 指の彫刻。

「あ、これって」

「一応、指に関係して置いてるな。指を置くべき場所として故意に選んでるように見えるが」

 ストローを吸う。いつの間にかジュースが終わっている。足元にあったビニール袋に入れた。おそらくこれがゴミ袋。

 ともる様はそれらをちーろさんに聞いていろいろ考えを巡らせていたのだろう。警察しか知らない情報なのに。

「あ、警察は」

「そろそろ公開せざるを得ないだろう。今日発見されれば五人が死んでることになる。連続誘拐殺人だ」

「実際に誰がいなくなってるとか」

「そこまではな」

 さすがのちーろさんでも教えてもらえていないのか。

「まあ知ったところで解決には結びつかないしな。そういうのは大体無差別に攫われる」

「性別とかは」

「指の感じだと若い女性じゃないか、と考えられてるがな」

「え、わかりますかね」

 思わず自分の指を見る。

「骨張ってないってことだろうな。ただそれだけだ。もちろん男という可能性だってある」

 猟奇殺人。

 なのか?

「ともる様こそどうなんですか。何か考えたり」

「こういうのはミステリィ小説にはよくあるんだよ。発見される地域の法則性。しかも決まって同じ部位が、それに関係する場所をわざわざ狙って。だが実際には稀なんだ。こんな手の込んだことをするのは明らかに怨恨からくる殺人じゃない。愉しんでる」

「快楽殺人ってことですか」

 ともるが案の定、という厭きれた顔をする。

「え、快楽殺人じゃ」

「お前は快楽殺人の定義をどう考えてる」

「そんなの、愉しんで殺してるって事ですよね。殺人自体が愉しいから怨みのない通りすがりの他人でも簡単に殺して」

「一般ではな。確信犯と一緒だ。誤用がそのまま第一義になったいい例だよ」

「じゃあ違うんですか?」

 愉しんで殺すイコール快楽殺人じゃないのか。

「先進諸国にはある。日本にはまだあんまり馴染んでないだろうな。馴染まれても困るが、まあ万一あったとしても警察側で規制をかけるからそう報道されないと思う」

「え、だからつまり」

「ちーろ、代わりに言え」

「快楽殺人の定義ですね。はい。人を殺す際に性的に興奮して射精を伴うこと。だから射精を伴わない殺人は厳密には快楽殺人とは呼べず、別名淫楽殺人、セックス殺人とも言うことからもそれがわかる。女性には見られず」

「もういい。そういうわけだ」

「へ、はあ。そんななんですか」

「例え快楽殺人だったとしても放送できないだろ。そういう理由があるんだよ」

「はあ」

 全然知らなかった。知らなくてもよかったかな、と一瞬思う。

「で、この事件は」

 快楽殺人なのか。

「わかるわけないだろ。実際に殺す場面見てないんだから」

「それは、そうですが」

 ともる様がようやくこちらを見る。

「俺は、犯人は男だと思う」

「どうして」

「なんとなく」

「勘ですか。それともプロファイリングの結果とか」

「警察側の考えは知らない。でもたぶん男だ。それとあの彫刻家の周辺の人間だと思う。本人が知ってるかどうかはさておき」

「そこが怨恨てことでしょうか」

「罪をなすり付けたいんだろ。そういうことだ」


     4


「ちょっと待て。どういうことだ」

 説明するのが面倒というよりは求められてもしたくないに近い。こういう状況になることは場所柄予想がついていたが、確率的には低いと見込んでいたため多少ビックリできた。玄関から出てきたのは、有名彫刻家にしてゆーすけの祖父の兄。

 右柳へいすけ。

「まさかお前も」

 ポーチまで追い出される。

「何しに来た」

「ですから、俺は強制連行なわけで」

「嘘を吐け。こんなところまで押しかけて、狙っとるんじゃなかろうな。フィンさんが離婚しとるのをいいことに」

 それは貴方では、という言葉を呑み込む。大叔父はふん、と鼻息を漏らして建物を見上げる。

 別荘地によく見られるやや小振りの家。傾斜地に立っており外観は白く二階建て。驚いたことに雪が相当残っている。国内有数の避暑地なだけあって三月だというのにかなり寒い。薄地の春服では全身鳥肌が立つ。

「で、ハヤシさんは」大叔父に訊く。

「無事に決まっておる。わしが来たんだ。警察なんぞの好きにはさせんよ」

 早志ひゆめのアトリエに行くと思っていたのだが到着した場所を知ってうんざり。よく考えたら警察だの鑑識だのがガサガサしている場所に訪問するというのもどうかと思う。これ以上他人に顔を憶えられたくなかった。

「入れてもらえませんか」大叔父に言う。

「厭だといったらどうするんだ」

 何となく路肩に駐めてある車を見る。ウィンドウから顔を出しているともる様と眼が合った。

 言わんとしていることは重々伝わる。そもそも建物内に入れてもらうための交渉に行ったのだった。今更認識しなおす。

「楽器いじり風情が雁首揃えてなんだ。きちんと説明せい」

「したら、入れてもらえるのでしょうか」

「内容次第だ。大体お前が一緒というのが気に食わん」

 ドアの開く音。ともる様が痺れを切らしたようだ。怒りの形相で近づいてくる。

「遅い。早く話をつけろ」

「どこかで見た覚えがあると思えば、ナカヤの長男か。フランスにおったんじゃなかったか」

「どっかのオレンジ頭が眼に余るほどいい加減だと風の噂で聞きまして、うっかり帰ってきたんです。もちろんすぐに戻りますが」

 睨み合っている。

 その隙に逃げたかった。

「ふん、なんだ。わしゃてっきり箔付け程度のコンクールにすら入選できんかった腹慰せに故郷に慰安旅行にでも来おったんかと思っとったがな。違ったらしいな」

「ご心配どうも。感謝いたします、ミヤギ大先生」

 まずい。あまりともるを罵倒すると。

 ふと確認。

 その護衛は、

 いつでも飛び出せるようにドアに手をかけている。

「あ、えっと仲良くしましょうよ」

「うるさい。黙れ」

 がステレオで聞こえた。

 もはやどうすればいいのやら。似た者同士ですね、なんて口が裂けても言えないし。言ったところで何の意味もない。

 玄関の扉がそっと開く。

「いったい何の騒ぎですか」

 女性だった。黒っぽいスーツに同色のミニスカート。髪はショートで目つきが凛としている。

「ミヤギ先生、そちらの方たちは」

「おお、すまんなサキさん。ちと孫がの。訪ねてきてしまって」

「お孫さん?」

「あ、俺です」ともる様にあらぬ疑いをかけてもいけないので自分から言った。

「え?」

「不遜な孫での。迷惑だとは思うが」

 ちっとも態度が違う。明らかに違う人間である。これが大叔父の性差別の現状。ともる様も同じことを考えているに違いない。

 この助平ジジイ、と。

「とにかく中へ。そこでは寒いでしょう」女性が言う。

「そうだな。まあ上がっとくれ。よく来てくれたな」

 ともる様の顔が引き攣っている。当然だと思う。

 入ってすぐ二つの階段があり右側が上へ、左側が下へと続いているようだった。玄関から少し低い位置に一階がある。フローリングの床に白い壁。

「二階へ上がるでないぞ。わしのアトリエだからな」

 頼まれても行かないし、と思いながら左の階段を下りる。左右に似た造りの扉がひとつずつ。正面の扉はおそらく洗面所だろう。大叔父は迷わず右側をノックする。

「どうぞ」

 中から声がした。か細いような弱々しい声。

 和室だった。六畳くらいだろう。入り口から向かって右が襖、左の障子を開けると窓からベランダに出られる。正面の障子は畳からやや高い位置にあり、窓が壁よりも外側に飛び出しているためその合間に腰掛けられそうだった。事実その上に和服の儚げな女性が座っている。

 早志ひゆめ。

 後ろの雪景色に溶け込みそうなほどに白い。着物は紺色で黒髪だけが妙に目に残る。肌と対比しているせいかもしれない。

「寒いだろうに。窓を」大叔父が言う。

「いえ、寒いのは好きなので」

「そうか。だが、実はわしは寒いのが」

「すみません」細い指がガラスに触れる。

 風が来なくなった。しかし部屋はかなり冷えている。なまじ外よりも寒いのは二方向の窓が開け放たれていたせいか。大叔父がすぐにエアコンのスイッチを入れた。

「ちょっと、あなたも何よ。寒くなかったの?」サキと呼ばれた女性が声を上げる。

 早志ひゆめがいないほうの窓、つまりベランダに出られるほうの窓の前に小柄な男が立っている。そちらの窓を閉めたのは彼。身長は先ほど玄関で顔を見せた女性よりもやや低め。年齢も若そうだ。

「僕も寒いほうが好きですよ」とは言っているものの唇がうっすら青紫。おそらく早志ひゆめの意志を尊重したかったのだろう。

「刑事か」

「おそらく」

 という、ともる様とちーろさんの小声会話を聞きながら適当に座る。奥にいた刑事らしき男から座布団を受け取った。

「一気に増えましたね」男の刑事が言う。

「暢気なこと言ってないでさっさと済ませる」女の刑事が言う。

 男は足元にあった小型のノートパソコンを覗き込む。慣れた手つきでキーボードを叩くと顔を上げた。

「自己紹介をどうぞ」

「え?」

 思わず隣を見る。ともる様はどうでも良さそうだった。

「名前と年齢、それとここに来た理由を」

 おそらく女性のほうが先輩なのだろう。男のほうが腰が低いしPCでメモを取っている。

 仕方がないので刑事たちの意に従う。ともる様もぶっきら棒に述べてちーろさんを見遣った。大柄の用心棒は反射的に頭を下げる。

「陣内です」

 刑事の顔色が変わった。

 驚きというよりはなぜ、という雰囲気。

「まさか、あの」男の刑事が言う。

「うそ、箱根のあれはやっぱり」女の刑事が言う。

 ちーろさんは県外でも名を轟かせているらしい。ともる様がようやく楽しそうな顔になった。この瞬間を待ちわびていたに違いない。

「申し遅れました。私は埼玉県警の緒仁和嵜オニワサキといいます。お会いできて光栄です、陣内様」

「同じく龍華タチハナです。よろしく」

 そして刑事たちは同時に立ち上がって敬礼をする。

 さっぱりわからない。

「では念願の復活と」龍華の声が弾んでいる。

「ともる様が気にしておられる。それだけだ」

 刑事は顔を見合わせる。

「あの、陣内様はもう」緒仁和嵜が言う。

「そちらの彫刻家の方を返してもらいに来た」

「それは、ですね」緒仁和嵜の表情が曇る。

「只今調査中です。それが済み次第」龍華が援護するも。

「今終わらせろ」

 緒仁和嵜が突然部屋を飛び出す。

「あ、たぶん電話です」龍華が説明する。

 陣内はまだ龍華を睨み付けている。彼は美術館に駆けつけたあの脂ぎった刑事のように怯まない。それどころか二マリと笑って見せた。

「お前。ああ、そうか」ちーろさんが眉をひそめる。

「警察なんて、とかお思いですか」龍華が言う。

「いや、いい。適任は他にもいる」

「恐れ入ります」

 どういう関係だ。

 言葉遣いからしてちーろさんよりもこの刑事のほうが格下なのか。でも無理に染み付けたわざとらしい敬語のようなにおいもする。

 ゆーすけは隣を見る。

「知るか」ともる様が言う。

 足音。緒仁和嵜が戻ってきた。

「龍華、出た」

「本当ですか?」

 刑事二人の視線が。

「早志ひゆめさん、ご同行願えますか」

 空気が。

 凍結する。

 まさか。

「どうした」

「すみません、陣内様。急ぎますので」緒仁和嵜が部屋の外に。

 早志ひゆめを連れて。

「ど、どういうことかね、サキさん」

「右柳先生はこちらでお待ちを」

「しかしだね」

 大叔父も外に。

 残ったのは。

「ともる様、何が」

「出たんだろ、決定的な証拠が」

「だから何が」

 ちーろさんが龍華を見つつ。

「行かなくていいのか」

「一緒に行きましょう。一応関係者ですから」

 外で。

 パトカーのサイレンが。

「指なし死体が出ました」

 消えない。

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