SEA and So on 神淵の踪音

伏潮朱遺

第1話 Cistern Cession 留まって止まって

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 何を考えているのかわからない。

 知り合った他人は大抵そう言う。

 こちらとてわからないように振舞っているわけではないのだからそんなことを言われても対応のしようがない。指摘するということは改善を求められているのだと思うが、これは改善するしない以前の問題で生き方なのだと諦めてもらうほかない。それができなければ離れてもらうしかないだろう。

 事実、近づいてくる人間と遠ざかる人間は常に同人数。何を期待して接近してきたのかは不明だが、見事に期待はずれらしく残る人間は誰もいない。

 特に気にしていない。四六時中付き纏われては迷惑だし、頻繁に連絡を取り合うような面倒な関係とは馴染めない。こちらが冷めた態度で臨んでいるのは相手には苦痛らしく、一緒にいてもあたかも偶然に同じ歩行ペースで隣り合ってしまった通行人の如く感じられるようだ。そのせいだったかもしれない。

 離婚したのは。

 そもそもなぜ結婚したのかが思い出せない。子どもができたわけでもない。愛があったわけでもない。政治的意図があったわけでもない。年齢に危機感を覚えたわけでもない。

 彼女とは。

 どうやって知り合ったのかも思い出せない。大学が同じだったわけでもない。職場が同じだったわけでもない。偶然の悪戯如きで結婚するような感覚も持ち合わせていない。思い出したくないだけか。

 それもありえない。忘れたいような過去は何もない。耐え難い行動や言葉を受け取った覚えもない。結婚や離婚の際も何も思わなかった。これが結婚でこれが離婚かと認識したくらい。顔も声も忘れていない。職業も住居も、その立ち居振る舞いから癖まであらゆるものを映像化できる。

 だが実際にふたりで行った行事については何も印象にない。なにひとつ共同作業をしていないという可能性もある。肉体関係があったかすら不明瞭。体について何も思い出せないのだからおそらく数えるほどしか寝ていないのだろう。

 彼女に云われた言葉で唯一憶えているものがあった。

 あなたは通過させる。

 意味がよくわからなかった。おそらく尋ね返すのも面倒だったのであろう。この発言が意図するところはわからないままになっている。

 いまでもふとした隙間にこれがよぎる。

 通過。

 通り過ぎる、の意。

 すれ違う。通行人。彼女も通過していった。

 そうか。思い出せないのではない。

 記憶していないだけなのだ。

 それに行き当たったとき、すでに彼女の姿はなかった。




 第1章 Cistern Cession 留まって止まって



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「ふざけるな右柳ミヤギゆーすけ!!!」

 苦笑すらできない。つい先日久し振りに会った友人が予言したとおりになってしまった。声色や動作まで模写していたため、むしろ怖かった。予知夢の類に近い。

「もう何年触ってないんだ。言ってみろ」

「最後にともる様に会ったの、いつでしたっけ」

 みるみるうちに眼前の口角が痙攣する。

「まさか」

「三年ですかね」

 眼下のテーブルが揺れる。ともる様が叩いたらしい。

「どういうことだ。やめたなんていったら」

「やめた、かもしれないようなそうでないこともないような」

 今度は椅子が揺れた。ともる様が立ち上がる。

「やめたんだな?」

「優秀なジャーマネはそう思ってないみたいだけどね」

 隣に座っている男を見遣る。三十歳目前だったと記憶しているが二十代前半でも充分通用する。出会ったときからあまり外見が変わっていない。癖毛混じりの黒髪。真面目一本槍のような黒縁メガネ。真っ白のワイシャツにそれに相反するが如き真っ黒のネクタイ。ボトムも靴も同じ黒。常に正装を心掛けているせいで見ているこちらは堅苦しくて仕方ないというのに。ホタテさん。

 案の定、何か言いたくてうずうずしている。しかしこの会合に立ち会う条件としてみだりに口を挟まないと約束させたため、自らの手首を凄まじい力で握ることで何とか耐えている。表情は見るも哀れというほどに引き攣っていた。

 ともる様もホタテさんを見る。ホタテさんはこちらを凝視している。溜息しか出ない。

「いいよ、喋って」

「単なる活動休止です」

「そうだろ?」

 視線が痛い。やはりこの会合に出席するべきではなかった。

「どうなんだ。言え」

「充電期間ですよね?」

 思わず後ろの壁を見る。代わりに何か言ってくれればいいのに。

 無理か。

 季節は春待ちの三月。陽気もうらうらとほの暖かくなってきて気も漫ろ。学校は春休みに入り新学年に向けての準備期間と。来年度から三年になる。進路だなんだで忙しくなるのは眼に見えているのでいまの内に遊んでおきたいのは普通の感性。しかしそう簡単にはいかなかった。

 実は副生徒会長なる大層な役職に就いている。学校内の大多数、それも教職員においてもほぼ全員がまさか、と首を傾げた予想外の人選。生徒会規約上、生徒会長並びに副は学年によらず立候補すれば誰でもなれる権利を有している。選挙が秋にあるとはいえついこの間入学したばかりの一年が当選できるほど甘い仕組みではない。過去の因習から行くとやはり長と副は最高学年から出るのが普通であり、これまでもそのような突飛なことはなかったらしい。が、同学年にとんでもない人間が入学したことによってこの伝統はもろくも崩れ去る。スガちゃん。

 もはや伝説になりうる、と勝手に思っているのだがあながち過言でもない。彼は入学早々生徒会長に挨拶に行きがてら自らの意志を高々と表明した。生徒会長になる、と。

 これからがまた延々長くなるので端折ると、巻き込まれたのだ。スガちゃんによると、自らが長になるには俺を副にする必要があったとのことだがたぶん間違いだったといまでも思う。副会長になんてなりたくなかった。人の前に立って先導するという大逸れた役職は自分には向かない。陰でこそこそそうですね、と言いながら苦笑いしているのが相応しい。それなのに、簡単に当選してしまった。

 対立候補を寄せ付けないほどの圧勝。票数では文句なしお前が副会長だ、と判を押されたようなものだがそこからがまた長い。簡潔に言うと職員会で問題になった。意味するところはお前に副会長が務まるはずがない、と糾弾されたにほかならない。だが生徒会はその名の通り生徒の自治に基づいた、とかいう有り難い標語が掲げられているおかげか教員側に選挙結果を覆す力はなく事勿きを得たわけだが、ちっとも事勿きを得たくなかった。辞めさせてほしかった。

 辞退という選択肢がなかった理由も長いので割愛するが、一言で述べるなら逆らえなかっただけのこと。そして、いつの間にか副会長の役職名で呼ばれるようになっていた。

 というわけで春休みは生徒会の仕事が山積み(会長談)のところを頭を限界まで下げて抜け出して、旧友というか腐れ縁のともる様に会っているのだが、いまになって選択を誤ったことに気づく。これなら会長の冷たい視線を浴びながら雑用に勤しんだほうがマシだったと思わざるを。

 もちろん、ともる様に会う、ということは当然目下重大問題であるらしきこの事柄についての話であることは重々承知していたのだが、人間というのはどうも未体験の事象において多大な期待をしてしまいがちなのか違う選択肢があるなら、と軽い気持ちで飛びついてしまったところに自分の浅はかさをひしひしと感じる。

「真面目に聴け」ともる様が言う。

「そうですよ。今日こそははっきりとですね」ホタテさんも言う。

 このタイミングで助けてくれるのならメフィストフェレスでもいいのに。とありもしないことを考えてしまうところからして逃避傾向。やたらと心理学に詳しい寮の同居人から指摘されるまでもなく自分でもそう思う。

 逃げたい。助けて。

「やっぱり、ゆーくん。奇遇ね」

 救いの手。メシアか。と思って見遣った先に見覚えのあるようなないような姿。

 外見から判断するにはあまりにも危険。女性というのはそういうものらしい。しかしお世辞でもなくおべっかでもなく本当に何歳なのかわからない。果ては四十代、少なく見積もっていいなら十代後半でもいける。いつ見ても年齢がぼやける。声で知り合いだとわかったのだ。すぐに記憶と照合できなかったのは服装が違ったせいで。

 いつもなら和服にとんもないアレンジを加えた、眼のやり場を著しくなくすと同時に相手の視線をもれなくある一点に固定してしまうという恐ろしい衣服を身に付けているのだが、本日はそうではなかった。よく考えたらあちらが異常なのだ。部屋着と言ってしまえば差し支えないだろうか。ここは彼女の暮らすあの洋館ではない。よって、違う服を着ざるを得ないのだと推測される。とにかく外出着は初めて見た。

 なんというか。

「地味でしょう?」

 先に言われてしまった。というよりは先手を打たれた。

「えっと、めておさん。どうして?」

「いちゃいけない?」

「いえ、そういうことではなく」

 思わず正面のともる様のを見る。案の定、放心。

「はじめましてかしら。ミヤギめてお、と申します。いつもゆーくんがお世話になって」

「どうも」

 明らかに動揺している。普段必要以上に堂々としているともる様にしては珍しいコマンド。こんな一般通俗的な反応などお眼にかかったことがない。

「あら、よく見たらもしかして。“悪魔の誘響”さん?」

 ともる様がぎこちなく頷く。恥ずかしいわけでもはにかんでいるわけでもない。眼の前の人物の行動に圧倒されている。

「ちょうどいいわ。ゆーくんも、こっちいらっしゃい」

「え、なに?」

 ぐいぐい引っ張られてテーブルの合間を進む。いま気づいたが周囲の眼線が痛い。ともる様が大声を出した段階で注目の的だったはず。ひそひそ話は辛い。

 奥まった席だった。三方が壁。英単語が書かれたプレートがついている。意味するところは予約席。なるほど。これだけで納得がいく。彼女は説明などしない。尋ねても誤魔化されてすぐ違う話題にすり替わるだけなのでこちらで推理するほかないのだ。

「こちら、私のお友だち。ハヤシひゆめさん」

「ハヤシは木が二つではなく、時間が早いのハヤにこころざしと書きますの。よろしくお願い致します」

 名乗ってから紹介された女性を見る。めておさんも髪が長いが質が違う。めておさんは弾力と芯のある黒髪だが早志ひゆめは柔らかくて細い感じだった。前髪が横一文字に揃えられているため奥ゆかしい日本人形の印象。髪は結わえられておらず服装も藍の着物。めておさんの着物ように改造されていないきちんとした着方だった。

 ようやくともる様が口を開く。自己紹介を求められたため已む終えなかったのだろう。眼がまだ不審を呈している。ホタテさんは立場上、名前を言うだけに留めたようだ。

「ちょうど捜しに行こうかと思ってたのよ。なかなか帰ってきてくれないものだから」

「はあ、それは」

 学校まで押しかけられなくて本当によかった。

「これから時間あるかしら。ともる君もよかったら」

「何をするのですか」嫌な予感。

「どっちにしようかしら。フィンはどう?」

「いきなりアトリエにお連れするのは失礼ですから」

 フィン、というのは早志ひゆめのことか。めておさんは人に名前を与えるのが好きらしく、彼女の口利きで雇用された人間はたいていその恩恵にあずかっている。もちろん断る権利はないのでそれと引き換えに雇ってもらっていると考えれば安いものかもしれない。本名ではやりにくいという人間も少なからず雇用しているのである意味好都合だろうか。

 ホタテ、というのもそのひとつ。彼が昔何をしていたのかは長い付き合いのおかげか薄々わかってきたが、下の名前はそのままでよかったらしい。名付け側の基準がいまいち不明。

「じゃあ決まり。ホタくん、車出せる?」

「え、あの定員オーバでは」

 彼の車は四人乗りだったはず。どう考えても一人余る。

「困ったわね。少し遠いのだけど」

「俺は電車でも」

「そう? 電車代あるかしら」

「どこですか」


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 少しどころかだいぶ遠かった。一時間半近く電車に揺られた挙句、山をスイッチバックしながらゆっくり上る乗り物に半時間。ようやく辿り着いたときにはお昼を過ぎて。

「よくついてきましたね」

「話がまだだった」

 なぜかともる様も電車で来てくれた。あの謎の女性二人と職務上無言に徹するドライバと一緒に密室にいたのでは息が詰まると思ったのだろう。ある意味正解だがついてこられる側としては気が重かった。

 だが突っ込んでほしくない話題には触れてこない。わざと避けたくれたのだと思う。二時間もその話題を封印していたためだいぶお冠。眉間にエネルギィが溜まっている。それとも単なる疲れか。そう思って先の質問をぶつけてみたのだがもちろん前者だったらしい。

「どうしてやめた」

「やめたかったからですね」

 駅を出て坂を上る。これが結構急。春休みなのに閑散としているのは場所のせいなのか。一応有名な観光地なのに。少し冷える。

「寒いですね」

「話を逸らすな」

 バレた。この手は使えないのをいま思い出した。とっくに使い古されている。

「標高のせいかなあ」

「右柳」

 窓口で入場券を買おうと思ったら首を横に振られる。高校生と印刷された紙を二枚くれた。これを向こうにいる人間に見せればいいらしい。

「ここはなんだ」

「あれ、ご存じない?」

 ともる様はキョロキョロしている。たぶん目的地に興味がなかったのだろう。

「美術館か」

「けっこう有名なんですけど知りません?」

「知らない」

 だろうと思う。彼が詳しいのは音楽関係。自分の周り、つまりピアニストに関わる事象だけだ。

 半券を千切ってもらいエスカレータを降りる。これがまた長かった。普通の二つ分くらいあったと思う。トンネルを抜けるとそこは雪国ではなく広場。

 パノラマで周囲に点々と何かが設置されている。これがここの展示物。館内にある美術品もあるがそのほとんどは外で雨曝しになっている。正面に見える巨大でカラフルなものの前に人間が立っている。ホタテさん。

「待ってなくてよかったのに」

「そう言いつけられました」

 雇用主は絶対。それがホタテさんの信条。

「だいぶ待ったでしょ」

「半時間弱ですか。大したことありません。それよりも、ともるさんは? お疲れでしょう」

「いや、特には」

 突如開けた景色に圧倒されていたのか、ともる様の返事が遅れる。美術館と名の付く場所へ足を運ぶのが稀有なのだろう。もしかすると初めてかもしれない。最初の美術館がこれでは既成観念も何もない。

 ホタテさんの後に続いて順路を進む。といっても順路の自由度は大きいので、めておさんのいる場所まで案内されるだけのことだと思う。

「何で外にあるんだ」ともる様が訊く。

「どっかのイギリス人が彫刻は外にあってこそ、とか言ったらしいですよ。それでこういう面白い展示になってるわけで」

「傷むだろう。いいのか」

「それも含めて彫刻、らしいですんで」

 ともる様が眉をひそめる。やはり理解できないらしい。

「俺はこういうの好きだな。へいすけじーさんのおかげかもしれないけど」

 突然、ホタテさんが足を止める。

「まさか彫刻家に鞍替えですか?」

「考えすぎだって。ほら、じーさんの大学。こことおんなじことしてるでしょ。昔それ見ただけだよ」

 ともる様とホタテさんが似たような顔をする。疑り深い連盟でも発足すればいいと思う。

 枯れた芝生内にたくさんの展示物が。ここに来たのは初めてではないが見覚えのないものが追加されている。反対に、前はあったのに、という彫刻もある。地味に入れ替えがあるらしい。敷地はかなり広い。おかげでここを訪れている人間の数がぼやける。人口密度が小さくなってしまうのだ。橋のようなものを通過して更に進むと建物が見えてきた。その中に入る。ようやくわかった。

 早志ひゆめの正体。

「ご苦労様。ともるくんもありがとう」

「めておさん、ここ」

「ビックリした?」

 めておさんが眼を遣った先にでかでかと文字が飾られている。そこにあったのは早志ひゆめではなく。

「気づいたわね。フィン・ドゥア・モル。これが彫刻家としての名前。私がつけたのよ」

 やはり。早志ひゆめでさえも、めておさんの恩恵に与っていたか。

「ゆっくり観ていってくださいね」

 いつの間にか早志ひゆめがいた。手に印刷物を。一枚ずつ手渡された。企画展の簡単な紹介。

≪指先による指先の創造≫

 確か建物の外にも同じタイトルが掲げられていた。これがこの企画展のテーマなのかもしれない。順路に従って作品を観ていく。

「指か?」

「ですよね」

 怪訝そうなともる様と眼を合わせる。全作品の十分の一も見ていないが早くも感想がまとまってしまった。

 気味が悪い。

 おそらく石膏かブロンズ。手首まで模られているのは稀でそのほとんどが指だけ。第一関節、第二関節、第三関節と実に様々な部位まで作られた指が薄暗い館内に展示されている。

「何で指なんだ」ともる様が小声で発する。

「さあ、それはあっちの人に」

 入り口付近にいる早志ひゆめに眼を遣る。こちらには気づかず小声でめておさんと話をしている。ホタテさんは数歩遅れて観賞をしているが考えていることは同じらしく首を傾げている。

「前衛彫刻でしょうか」

 ホタテさんが追いついた。

「へいすけじーさんに聞いてみれば?」

「あの方はあまり帰ってこられないので」

 直系の祖父だいすけじーさんは三人兄弟で、その長男が彼に当たる。ちなみにだいすけじーさんは三男。へいすけじーさんは、出身大学に記念館的美術館が存在するほどの有名な彫刻家。めておさんが住む洋館にも彼自作の噴水があり、浴室は丸ごと彼の設計による。他にも様々な公共の場所で彫刻を見かける。列挙するのに疲れてしまうほど。もしかすると、この美術館にも作品を寄贈しているかもしれない。

 その作風は独特、奇抜というよりはよくわからない。タイトルも無題かわざと意図を悟られないように複雑な単語を組み合わせて新語を作り出しているため、ブロンズや石が何を形作られているのか誰にもわからない。作者本人ですらわかっていないかのような口ぶりで。きっとそれが持ち味なのだと。

「でもこれ、指じゃん。ちょっとじーさんのとは」

「そうですね」

 そこが右柳へいすけと早志ひゆめの大いなる差異。

 右柳へいすけの彫刻は、見方によってどんなものにも見えるがゆえにそれが何なのかわからない。鑑賞者の主観によって何にでも化けることができる。本人は小生意気な若いもんが、と煙たがっているが解説者に言わせるとそういうことらしい。

 だが早志ひゆめのものは、誰がどう見ても指。指にしか見えないというよりはこれは指そのもの。決して指以外のものは表現していないし、指を見せることで鑑賞者に指以上のものを想像させようとしているわけでもない。

 指。

 これはそれしか語っていない。

 なんだか気持ちが悪くなってきた。適当だが順路はすべて回ったので入り口に戻る。感想を求められたらどうしよう。

「気持ち悪かった?」

「へ?」

 めておさん、なんということを。それも作者である早志ひゆめの眼の前で。例え思ったとしても決して言ってはいけない感想では。思わず彫刻家を見てしまう。

「いいの。展示しているときもスタッフが三人ほど具合が悪くなってしまって。本当はここの入り口にも交代で人が付いているはずなんだけど誰もいないでしょう。そういうことなの」

 そういえば順路の途中にあった椅子に誰も腰掛けていなかった。まさか監視員全員が具合が悪くなったのか。

「そろそろお腹が空いたわ」めておさんが先導する。

 いま気づいたがともるの顔色が悪い。蒼白いというよりは不可解なものに巡り合ってどうすればいいのかわからなくなっている状態に近いのだと推測されるが。

「この分だと期間短縮かもしれない」早志ひゆめが言う。

「諦めたほうがいいわ」めておさんが首を振る。「ここを借りれただけでも良しとしましょう。いけなければどこかに口利いてあげるし」

 橋から見えたもうひとつの建物に入る。こちらは軽い食事ができるようだ。サンドウィッチを買ってもらった。ガラス張りの空間なので野外がよく見える。芝生に座ってピクニックをしている家族連れもちらほら。

 腰掛けるとそのまま滑り台の如く滑って床に到着してしまいそうな白い椅子に座ってサンドウィッチを食べる。パンがライ麦で美味しかった。白くてふよふよ柔らかいパンよりこっちのほうが好み。

「ところで、大丈夫ですか」

「平気だ」

 口調はいつものままだがともる様の顔色は依然優れない。どちらかというと人に弱みを見せたくないタイプなので強がっているのだろう。今更遠慮する仲でもないのに。

 ともる様との出会いは小学三年。あの時からずっと変わっていない。喋り方はなんだか偉そうだし、その王様の如き堂々たる振る舞いから皮肉で呼び始めた「ともる様」という呼び名もいつの間にか定着してしまった。身長は気にしているらしく決して高いとはいえない。唯一の比較対象である俺が一八〇センチとかいう男子高校生平均を著しく上回る身長なため尚のこと気になってしまうのだろう。一七〇センチない。今日は違ったがたいてい制服を着ている。

 ともる様の通う高等部は日本にはない。かといって国外にあるのかといったらそういうわけでもない。ここが高等部だ、という敷地がないのだ。あるのはデータを管理する建物。そこにレポートという形で定期連絡を入れ、自分が三年間で何をしたのかということを報告する。

 芸術系の学校なので、およそそれに携わるプロフェッショナルを目指す人間が揃う。もちろんすでにその道に進んでいる早咲きだって少なくない。ともる様も、すでにピアニストとして活動を始めており、コンクールやらリサイタルやらで忙しいはずだ。

 有名人なのである。そういえばここにいるホタテさん以外の人間は知名度はわからないが有名人といって差し支えない。

 右柳めてお。伯母。俺の父さんの兄こーすけさんの妻にして、父さんが社長を務める会社「ミヤギ・クラヴィア」の人事を完全に掌握している。その命令には社長すら逆らえない。人前に出たくない社長に代わって社交界やメディアに顔を見せる。おそらくこれが弱みとなっているのだ。めておさんがパーティだの金持ち集会だのに出ない、と言えばいろいろに齟齬が出る。それで父さんは渋い顔をしながらめておさんの言い分を聞き入れるしかない。

 そんな最強の伯母にはもう一つの顔がある。それはここでは伏せる。本人もその名前は捨てた、と言っているのでわざわざ蒸し返すこともない。それにその話題で話されると俺の身が持たない。

 結局ともる様は一口も食べなかった。残した本人の希望で俺の胃に入った。

「困ったわね。ともるくんは無理かしら」めておさんが言う。

「何が無理なんですか」

 そもそもなぜここに連れてこられたのか。いまなら訊けるかも。

「アトリエって」

「さっきの展示観た? 最後のケースだけ少し余裕があったでしょう。実は開催期間中もそこに少しずつ作品を足しているのよ。つまりそのモデルにあなたたちを使いたいってこと」

「俺の指を?」

「ピアニストがよかったのです」

 ようやく早志ひゆめが口を開く。ほとんどめておさんが喋ってしまうため当の本人が補足説明になってしまっている。それとも無口な人種なのか。

「でもピアニストなら」

 何となくともる様を見る。

「無理にとはいいません。ナカヤ君、厭なら」

 ともる様が顔を上げる。すぐに首を振った。

「そうよね。そんな顔じゃねえ」

 早志ひゆめ。哀しそうな顔。

「元ピアニストってのは駄目ですか」

「あら、ゆーくんやる気?」

「構いません。“天使の妙音”ならば私も嬉しいです」

 昔の名。

 もうとっくに忘れ去られたものだと。

「じゃあ善は急げね。早速やっちゃいなさい」

「え?」

「先ほどの建物の二階を借りているんです。そこで指を見せて下さい」

 曰くつきの企画展示会場へ戻る。ともる様は案の定ついてこなかった。二度も見たくないだろう。めておさんとホタテさんもともる様が心配だといって残った。

 ふたりきり。

 何となく意識してしまう。

 会場には先ほどと同じく誰もいなかった。野外彫刻には客がいるのにこちらには誰も近づかないらしい。なんだか可哀想な気がしてくる。モデルを引き受けたのだってきっとそういう感情が働いたのだろう。

 同情。もう少し深い。

「本当にいいのですか」早志ひゆめが訊く。

「断る理由がなさそうなので」

 奥まったところにあった階段を上がる。二人が並んで上るには狭い幅。着物の袖が気になる。この格好であの指を生み出すのだろうか。

 どこぞの有名な彫刻家はアトリエに人を入れないため製作工程を見せてもらった事がない。単に性差別かもしれない。彼は女性にだけ著しく優しい。

「なんか」においが。

「気になりますか」

 早志ひゆめが窓を開け放つ。注射の前に腕に塗りたくられるアルコール系のにおいがする。しかし特に何があるわけでもない。広さは学校の教室くらい。もう一回り広いか。天井が低いので狭い感じを覚える。

「そちらに」

 指示されたのは部屋の隅にあった折りたたみ式の椅子。階下に点々としていた椅子と同じもの。そこに腰掛ける。

 早志ひゆめが箱を持ってくる。蓋がなく、両手で抱えるほどのプラスティックの容器。その中に。

 指。

 の模造品。

「すみません。失敗作をついここに」

「いえ、本物かと」

 本当に指かと思った。人間から切り落とされたばかりの指。それがコンテナの底にごろごろしている。多少気分が悪くなってきた。

「手を出して下さい」

「腕は」

「できれば肘まで」

 シャツを捲り上げて前に出す。血圧を測るが如く台があったのでその上にのせた。

「利き手は?」

「一応両方」

「では好きなほうで」

「ご希望は」

「本当は両方がいいんですが迷惑では」

「型を取るんですか?」

「いえ、それでは単なる複製になってしまいます。私はモデルの方の指を見せていただいて紙粘土で形をつかむのです」

「一本どれくらいでしょうか」

 値段を訊いているみたいで気味が悪かった。

「五分もあれば」

 そうなると片手で二五分。両手になると五十分。確かに長い。

「あ、じゃあ左で」

「わかりました」

 ふと階下にあった展示物を思い出す。自分の指もここに加えられるのかと思うとなんだか複雑な心境。

「少しひんやりします」

「え?」

 見覚えのある光景。注射直前のあれ。やはりその匂いだったのか。

「そのままでもいいのですが何となくやってしまって」

「別に気になりませんし」

 とはいったものの注射よりもすごい。腕だけではないのだ。早志ひゆめは指に用があるのでそちらを丹念にをこすっている。爪の間も水かきもスースーする。鼻が麻痺した頃に消毒が終わった。早志ひゆめは紙粘土を捏ねている。静かなので声を発してみる。

「あの、どうしてピアニストを?」

「指を使われる職業の方にお願いしているのです」

「俺のほかには?」

「公表しないという約束でお引き受けいただいたので」

 それはそうだろう。彼らの勇者的意思をこっそり尊敬する。

「じゃあ俺のも?」

「はい。それはもちろん」

「でもめておさんが知ってますね」

 早志ひゆめが苦笑する。

「めておさんには感謝しています。ここまでたくさんの協力者にお願いできたのもぜんぶめておさんのおかげで」

 なるほど。その流れで自分もターゲットにされたのか。

 知らないうちに薬指まで完成していた。よく考えたら一本五分は早い。それに粘土自体も形をつかむどころではなかった。もうそのまま作品にできそうなくらい精巧。

「すみません。中指をもう一度いいですか」

「あ、はい」

 気に入らなかったらしい。早志ひゆめはそれを箱の中に放る。無残に切断されたかのようなあの群れの仲間入り。作る際に凝視されるのはいいとして触られるのはやはり緊張してしまう。握るのでも観察するのでもない。

 辿っている。それが相応しい。

 作る対称と同じ指を使って指を辿る。輪郭線をなぞっているよう。それが終わるとすぐに粘土に移る。みるみるうちに指の完成。一本失敗したようなので計六回繰り返した。

「できました。ありがとうございます」早志ひゆめが微笑む。

 テーブルから指が生えているのかと思った。思わず自分の左手と見比べる。

 同じ。

 むしろ向こうのほうが本物のような気がしてくる。

「えっと、終わりで?」

「できましたらあの場所に飾らせていただきます」

「それ、もう一回見てもいいですか」

 階段を下りる。腕がまだスースーする。気分が悪くて展示物をあまり憶えていない。せめて自分の指が置かれるであろう場所くらいは見ておきたかった。

 順路の最後だった。ただし順路といっても敷居で区切られて入り組んだ道ではなく開けた空間の中で最も出口に近い大きめのショウケース。めておの言ったとおりそこだけやけに間が空いていた。

 指が置いてある。

「あれ、これ」

 ショウケースの中は透明なプラスティックの板で区切られている。下の布が白になっているものが八つ。黒になっているものが五つ。何かの形によく似ている。

「あ、鍵盤」

「わかりますか」

 多少拡大されているがこれはピアノの鍵盤。丁寧に黒鍵まで再現してあるものの、底部からの高さが白鍵と一緒だった。つまり真上から見ればピアノらしき雰囲気だが見る角度を変えるとなんだかよくわからなくなる。実物にはない仕切りのせいかもしれない。

「ということは俺は何の音に?」

「ミです。ミヤギなので」

「他の人もそんな感じで?」

「ええ、当て嵌まらない方は何となく」

 おそらくその人が黒鍵に配置されるのだろう。白鍵の上にある指よりも黒鍵の上の指のほうが断然少ない。

「じゃあ五本全部同じ音に?」

「いえ、基本的に一本ずつです」

「え、でも」

 五本作っていたような。

「一本だけでは可哀想な気がして」

「へ?」

 早志ひゆめがショウケースを見つめる。

「この展示が終わったら五本一緒にします」

 わかったような、わからないような。

 もう一度指を見てみる。

「本当はピアニストになりたかったんです。でも才能がなかったらしくて」

 返答ができない。ここで自分が何を言っても嫌味にしか聞こえない。なりたくてもなれなかった人間だっているのだ。そんなことはわかっている。

 また。

 思い出す。

「そろそろ戻っても」

 返事がない。早志ひゆめが止まっている。

 眼線はショウケース。

「あの、そろそろ」

 眼に留まって。

 止まる。

 ちっとも気づかなかった。作られた指があまりにも精巧だったから見逃していた。

 指の模造品の中に。一本だけ。

 色の違う。

「あれは」

 早志ひゆめは口に手を当てて止まっている。眼を見開いたまま。

「ハヤシさん」

 駄目だ。指に釘付け。

 電話。誰もいないから勘弁。

 早く。

「終わった?」

「めておさん。なんかまずくて」

「なあに? 二人でいちゃいちゃしてるの?」

「違います。いいからとにかく美術館の人を」

 確認。まだ。

 留まって。

 止まって。

「指が」


     3


 事情聴取というのを初めて受けた。ドラマかなんかはたいてい警察の視点だからいいものの、実際に受けてみるとちっとも面白くない。陰湿としか言いようがない。繰り返し何度も同じことを聞かれる。さっき話しました、では通用しないのだ。中でも酷かったのが早志ひゆめへの対応。

「ですから関係者なわけがないでしょう」めておさんが応戦する。

「ならばどうしてこの中から発見されにゃいかんのだ。ここに隠していたんだろ。他の指も紛れているに決まっている」

「よく考えて下さい。もし万一フィンが犯人とやらならわざわざ展示場に飾るでしょうか。アトリエのほうが好都合だと思われますが」

「アトリエがあるのか。それはどこだ」

「話を掻き乱さないでいただけますか。一刻も早くフィンを解放して下さい」

 刑事らしき脂ぎった中年相手にここまでいえるのはさすがめておさん。しかし国家権力を笠に着た彼らには耳がないらしくまったく効き目がない。

「どうせミヤギ・クラヴィアも関係しているんだろう」

「どうしてそう考えるのですか」めておさんが言う。

「はん、金のある人間は趣味が高尚だからな。何をするのかなんかわからんよ」

 ついに社名まで出されてしまった。ここまで来ると無能というよりは妄想。

 展示物に背を向ける形でともる様が立っている。無理矢理引っ張ってこられたのでまた具合が悪くなっているのだと思う。ホタテさんも突っ込んだ質問はされなかったらしい。そもそも彼らは指すら見ていない。連れてこられるのがお門違い。

 第二発見者の俺からは何もでないと踏んだらしく早々に解放というか追い出されたが、早志ひゆめはまだここの二階で繰り返し陰険な追及を受けている。それをやめろということで階段を見上げてめておさんが闘っているのだ。勇ましいとしか言いようが。

「大丈夫ですか」ともる様に尋ねる。

「見ないようにはしているが」

 思い出すのだろう。一度見れば一週間は残りそうな映像。

「外出れないのかなあ」

 少し遠くにいるホタテさんに聞かせるつもりで言った。その声の意図がわかったらしく近づいてくる。

「おかしいですね」

「なにが」

「普通はこんなにすぐ私服刑事は来ませんよ。殺人事件ならともかく指でしたっけ。それが見つかったくらいですから」

「そんなもんなの?」

「はい。どちらかというとお待ち兼ねのような」

 ホタテさんがぶつぶつ呟いている。

「さすが、詳しいね」

「ちょ、ち、違いますからね。私がご厄介になったんじゃありませんよ。ぜんぶ向こうが」

「はいはい。わかってるって」

 ホタテさんの過去。警察と仲良くならざるを得ない知り合いと一緒にいた。それが優等生にしか見えない彼の脛の傷らしい。

「そういえば、ちーろさんは?」

「とっくに呼んだ」ともる様がさも当然のように言う。

「あ、呼んだんだ」

「呼ばないと帰れないだろ」

「え、それはどういう」

 帰り道がわからないとかそういうことではないだろうに。ともる様が睨んでくる。

「帰りたくないのか」

「それはもちろん。ええ」

「じゃあ大人しくしてろ」

 ますます意味がわからない。ちーろというのはともる様の護衛として中榧(ナカヤ)家に雇われている男。護衛というのは片時も離れてはいけないのでは、と思ったが今日のような極めて親しい間柄の人間との面会ならば、ということでひとりで出掛けさせてくれたのだろう。そうでなければ数メートル後からこっそり尾行してくるか、この近くで待機しているかのどちらか。後者か。

「いつ呼んだんですか」

「ここに来る前だ。そうしないと戦車で捜されかねない」

「あ、それはまずいですね」

 いまのは頭の固いともる様における精一杯のジョークではない。本当にやりかねないのだ。彼はホタテさん以上に任務に忠実である。その彼が主人ともいえるともる様の父親から言われていることはただひとつ。

 ともるを守れ。

 ただこれだけ。

 しかしこの言葉は大きい。守るという言葉の概念はとても広いので拡大解釈をしている感も否めないが、彼はこのためなら何だってする。ここでは戦車の有無は問題にはならず、街を練り歩くくらいは簡単にやってしまうだろうと。

「来たな」ともる様が眼を瞑ったまま言う。

 噂をすればなんとやら、建物の外が騒がしい。制服警官が情けない顔をして飛び込んできた。そのまま体勢を立て直す暇も惜しんで走り出す。二階にいる刑事に報告に行ったのだろう。デストロイヤが降臨した、と。

「あの、止めに行かなくて」

「いい。まあ見てろ」

 どういう意味だろう。ホタテさんと顔を見合わせて首を捻る。ともる様の顔がやけに得意げなのが気になるが。

「ともる様!」

 という大音量とともに入り口から大柄の男が。陣内ちひろ。

 ちひろと書いてちーろと発音するので注意が必要。身長は二メートル弱の長身。左眼のすぐ下に頬半分を覆うほどのガーゼ。火傷の痕を隠しているらしいがかえって目立つ。短髪で明るめの焦茶。指の先から二の腕まで手袋のように両側に包帯を巻いている。その理由はいまだに不明。丈の長い象牙色のコート。所々が染みになっている。もしかすると血痕かもしれない。明らかに堅気ではなさそうだが堅気なのだ。この人の過去こそ気になって仕方がない。

「ご無事で」ともる様の前で膝を折る。

「そうでもない。早く何とかしろ」

「了解」

「え、ちょっと」

 ホタテさんの言いたいことはよくわかる。公務執行妨害。同じく心配だったがそれはすぐに杞憂に終わる。複数いた刑事が残らず降りてきた。

 早志ひゆめを連れて。

「じ、陣内さま」

「どういう騒ぎだ」

 先ほどまで威張り散らしていた私服刑事の腰が揃って低くなる。制服警官や鑑識も陣内という名前に反応したのかワンテンポ遅れて敬礼した。

 なにが、起こっているのだろう。

「ともる様を解放しろ」

「ええ、それはもう。中榧様は早々にお帰りいただくようにとさっき。な?」脂ぎった中年が隣の小柄な刑事の腕をつつく。

「は、はい。どうぞ」

「と、申しておりますが」

「違う。まだ出るなといわれた」ちーろさんが鋭い視線で刑事たちを威嚇。

「い、いえ。実はいまさっきですね。はい、決まりましてちょうどその連絡にと」

「嘘だな」

 刑事がひいと悲鳴を上げる。どういう関係なのかちっともわからない。

「そっちの女性も解放してやってくれ」ともる様が言う。

「了解」ちーろさんが刑事を睨む。

「実はこの展示場でですね、指が発見された次第でして、つまりこの作品の持ち主である彼女にお話を」

「違ったんだな?」

「重要参考人、として」

「あなたが犯人ですか」ちーろさんが早志ひゆめに尋ねる。

「あの、私」

「違うじゃないか」

 滅茶苦茶な運びだ。ちーろさんらしいといえばらしいのだが。

 王様は満足そう。

「ともる様?」

「俺も知らん。でも役に立つだろ」

「はあ、まあ」

 ホタテさんが迷惑そうな顔をしている。おそらくちーろさんの素性について何か思い当たったのだろう。それが推理によるものなのか知識によるものなのかは定かではない。そしてきっともうひとつ考えている。

 相棒と真逆だ、と。


     5


「ちーちゃん、すごいわね」めておさんがキラキラした目で見つめる。

「これもともる様のため」陣内さんはさも当然のように答える。

「昔何してたのかしりたいわ」

「言えません」

「素敵」

 ミュージアムショップをうろうろする。特に目当ての物がないが本日抜け出したお詫びとして生徒会長様に何か購入したほうがいいだろうか。だが何を買えばいいのかわからない。食べ物では喜びそうにないし美術館的な土産にしようにも芸術には好みがある。

「右柳」ともる様に呼び止められる。

「なんでしょうか」

「見たのか」

「何をです?」

 ともるが顔をしかめる。

 わかった。

 通路に出る。人のいなさそうな場所まで行く。

「何か知ってるんですか」

「ちーろがな」

 そういえばあの後も刑事の胸倉を摑まん勢いで詰問していた。何かを聞きだしたに違いない。

「てゆうか、ちーろさんは」

 いったい何者。

「それは置いとけ」

 一定距離から睨みを利かせているちーろさんと眼が合う。ともる様と一対一で話して唯一睨まれないのが俺。そのうち敬礼まで返されるかもしれない。

「これが初めてじゃないらしい」

「指が?」

 ともる様が小声で話せ、というジェスチュア。

「秘密なんですか」

「向こうではな」

 マスコミにも秘されているらしい。テレビや新聞を熱心に見ないせいかと思ったが警察側も様子を見ているのだろう。

「もう四件目だと。だから躍起になってるらしい」

 それで対応が早かったとでも言いたいのだろうか。ホタテさんの疑問はこれで解消された。

「でも」

 死体ではない。それに同じ人間の指という可能性も。

「三件とも違う人のものらしい」

「じゃあ今日のも」

 頷く。

「たぶんな」

 息が。

 できなくなる。

 早志ひゆめは、めておさんと買い物に勤しんでいる。どちらかというとめておさんが一方的にリードしているようだ。年齢は多少隔たりがあるかもしれない。めておさんほど顔の広い人間はいないので、たぶんその繋がりだろう。

 違うのだと、信じたい。有り得ない。

 めておさんと眼が合う。荷物が増えている。

「あら、何も買わないの?」

「何買っていいかわからなくて」

「誰に買うの?」

「鉄壁なクールビューティ」

「ちょっと待っててね」

 何か選んでくれるらしい。任せたいような任せたくないような。

 早志ひゆめは出口近くの椅子に腰掛けている。

 なにも。

 いえない。

「中止だろうな」ともる様が言う。

 企画展。それもあった。

「何とかならないですかね」

「あれだけ大騒ぎされちゃな。こっちもいろいろあるだろ」

 警察。美術館。

 両方が彼女に味方しない。

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