第6話 仮装元素

     1


 ウサギの着ぐるみとすれ違う。ゾウもクマもタヌキもいた。本物との差異は直立二足歩行と仮面的に張り付いた微笑み。

 じらふはキョロキョロしている。いまさっきヒツジからもらった赤い風船を鞘に結び付けた。ふよふよと宙を漂う。園内に時計がない。誰かに尋ねてもいいが着ぐるみにしか会えない。着ぐるみは人語を発せない。彼らが着ぐるみである限り人語は知らないことになっている。私たち以外の客にも会えない。

 あたかもじらふのためだけに遊園地が開かれているかのよう。実際そうだった。泥だらけになった私の財布を取り出す機会はなかった。着ぐるみたちは、その模している動物が何であろうと、じらふの顔を捉えるとチケットもなく乗り物に乗せてくれた。じらふの提げている日本刀に目もくれず、仮面的笑顔で対応する。着ぐるみ文化では銃刀法を採用しないのかもしれない。私はどんなにじらふに強く勧められようが乗り物を拒否する。ベンチに座っているのすら億劫だった。おそらく夜。熱帯夜。

 崖の脇に梯子がかかっていた。工事現場でよく見かけるような外観。何度も手が滑りそうになった。じらふが下にいなければ私は手を離していただろう。力が入らなかったからではなく、そのほうが近道だから。地面に足が着いた瞬間私はうつ伏せで倒れた。脱力。背骨を抜かれて無脊椎動物になったような感覚。じらふが鞘の先で私を突く。潰れたカエルの生死を確かめているような叩き方だった。

 たったいま下りてきた山を見上げる。火はまだ見えない。しかし確実に火は広がっている。山火事。暑い。熱いあつい。原材料不明の薬の影響か。この地域特有の気温と湿度の影響か。どちらでもよかった。相乗効果。

 じらふがお化け屋敷に入りたい、と私の腕を引っ張る。危うく紙コップの中身を零しそうになった。キツネの着ぐるみが私にくれたものだった。さぞ疲れた顔に見えたのだろう。スポーツドリンク。不味くはないが美味くもない。いっそ零してしまえばよかったか。どうせならアルコールがよかった。一杯で気を失うくらい強いもの。トイレから帰ってきたら紙コップがなくなっていた。じらふが代わりに飲んでくれたらしい。何かを咀嚼している。親切な着ぐるみ一座にドーナツでももらったのだろう。

「観覧車は」

「いまダメ。またあと」

 巨大な観覧車だった。園内のどこにいても同じ大きさに見える。一周するのに何分かかるのだろう。明かりはついているが回転はしていない。私は最初に眼に入ったベンチに倒れこんだから知らないが、じらふは一番最初に観覧車に向かったのだと予想がつく。整備中だなんだと断られてしぶしぶ時間を潰しているのだろう。

 お化け屋敷というよりは廃病院のようだった。案内板にそのような語句も見える。変わった趣向のお化け屋敷があるものだ、と私はぼやける脳で感心する。入り口にネコの着ぐるみがいてじらふの肩を叩く。本当に怖いから気をつけろ、と言っているようだった。

 踏み込んだ瞬間、消毒薬とカビを同じ割合で混合したかのにおいが鼻をつく。照明は必要以上に暗く蛍光灯は無意味な間隔で点滅を繰り返す。床に怪しい器具やら人体の一部を模した偽物やらが散らかっている以外は紛れもなく病院の通路だが私は眩暈がするほどの既視感を覚える。ここに来たことがある。違う。さっきまでいた。

 ここはあの十字の建物そっくり。いや、そっくりなどというものではない。この施設は十字の建物の劣化版コピィなどではなく、ここがあの十字の建物なのだ。私はいま、あの山の上にいる。炎に食べられたはずのあの建物の内部に。暑い熱いあつい。頬が痛い。左。左手で触る。わからない。頬があるのかすらわからない。

 扉の配置もまったく同じ。入ってきた扉はろなしあの部屋。中廊下式で左右に三つずつ。突き当たったらすのこ場。そこから四方向に建物が伸びている。同じ。当たり前だ。私はまた戻ってきてしまった。

 隣にじらふがいない。私は急に怖くなる。何が怖いのかわからない。ありきたりな断末魔の悲鳴。私は現実に帰る。ここはあの建物のはずはない。呼吸を整える。

 じらふは向かって左の部屋を開けた。その際に悲鳴が聞こえるように仕掛けられていたらしい。種がわかればなんということはない。じらふが手招きする。ぬいぐるみの足が見える。クマとゴリラの混血のような。これもどこかで。なぼのの部屋だ。位置も同じ。私は恐る恐る内部をのぞく。ぬいぐるみが所狭しと散乱している。おそらく地球上のすべての生物がいるだろう。部屋の奥に何かが寝そべっている。全裸の死体の模型。下半身が人類そもそもの形をしていない。十代後半くらいの少年。血まみれの首がぐるりと動く。眼球が異様なほど飛び出ている。なぼのの顔がそこに。

「ちょうだいぼく」

 までで言葉が止まる。じらふがスピーカを斬りつけた。ばちばちというノイズ。断末魔の悲鳴。プールサイドで聞いたなぼのの悲鳴そのもの。あの時の声を録音して流したみたいだった。人体模型の喉に刀が貫通する。いくらお化け屋敷とはいえこちらに攻撃する機会は与えられているのだろうか。ゾンビを撃ち殺すゲームならまだしも。

 じらふの肩が震える。表情が弛緩。刃先に粘液が滴っている。暗くて色がわからない。人体模型を斬って血が出るだろうか。血ではない。血でないならその粘液は。

「ここ、僕の遊び場」

 私は意味が取れない。後ずさりする。背中にひんやりしたものが触れる。壁かドアか。どちらでも構わない。私は全速力で駆ける。最悪の催吐感。おそらく吐いた。失禁ならともかくお化け屋敷で吐く奴なんか聞いたことがない。すのこ場まで来て足を止める。どこだ。どこが出口。建物の壁が完全につながっていて庭に出られない。隙間がない。あの建物との違いを見つけて安心する。やはり違う。

 何かが光った。右の廊下。床に溝を掘りながら重いものを引きずっているかのよう。形が斧にしか見えない。シルエットが小さい。あいるならちょうどあのくらいの身長。左からピアノの音がする。ピアノを弾いているのではなくて鍵盤を破壊する乱暴な音。まるで柄の長い鈍器を振り下ろしているかのような。げらげらと愉しそうに笑う声。ちょうどふつちの振り回していた金属バッドくらいの。脚が冷たい。全裸の少女が絡み付いている。髪をふたつに結わえて。くすくす笑って。包丁ですのこをずたずたにするのはそあん。

「おにーさん、逃げる?」

 私は息が出来ない。右の火舎からあいる。斧付き。左の風舎からふつち。金属バッド付き。足元からそあん。包丁付き。後ろにはじらふ。日本刀付き。私はそあんを振り切って正面の水舎に駆け込む。脚が切れたかもしれない。

 あの建物と違ってドアがあった。鍵を閉めて走る。意味がない。壊す音。ぴたぴたという水の垂れる音。あといないのは誰だ。荷戸なぼの、玄狩あいる、我暮ふつち、来尾そあん。残りは。

「にげられませんわよせめてにゅうじょうりょうぶんいただきませんと」

 露壇ろなしあ。しかし姿がない。上下左右全方向から音声が反響する。この施設にとり憑く亡霊のよう。

 後ろのドアが破壊された。じらふが出てくる。廊下に何かが滴る。粘液。見たことがある。私はそれをさっきトイレで眼にした。ドアが音も無く開く。三つの遺体がすのこ場に横たわっている。誰がやったのか一目瞭然。

 ここはじらふの遊び場。久々津じらふが快楽を得るために毘澱しはが創った施設。私がここに入った時点で私も遊び相手として動かなければならない。逃げなければならない。悲鳴を上げて苦悶の表情を浮かべて恐怖に煽られて。じらふに性的快楽を与えるための道具にならなければならない。

 私は突き当たりに扉があるのを発見する。あの建物なら水舎にだけ廊下の突き当りには扉はない。あの建物なら突き当たりは風呂だがもしかしたらこの施設なら。私はそこへ走る。開かない。びくりともしない。違うのか。トリックアートなのか。しかし取っ手はある。押しても引いても開かない。じらふが近づいてくる。ろなしあの甲高い声が耳に障る。背中につうと痛みが走る。振り向きたくない。認識してしまう。じらふが私の背中に縦に線を入れたということを。

 私は床に膝を付ける。全身の力が抜き取られる。じらふが刃先で私の左指を一本ずつ突き刺す。痛みはない。びりびりと痺れるだけ。

「おにーさん、中指ない?」

「わからない」

「盗られた?」

「わからない」

「だれ盗った?」

「わからない」

「盗ったやつ殺す。だれ」

「わからない」

 じらふは壁を斬りつける。怒ったかもしれない。そんなこと言われても私は本当に憶えていない。どうして私には左手の中指だけ欠損しているのか。いつからなかったのか。最初からなかったのか。ある時突然なくなったのか。

 普通は気がつかない。私の左手を見たって私の左指に触れたって。なぜわかったのだ。彼らはなぜ。あの執拗な鬼立キリュウだって知らないはずなのに。

「なきさけんだほうがよくってよいのちごいをおしそうしたらでぐちをおしえてさしあげるわさあわめきなさい」

「なんでない?」

 左側に薄ぼんやりと質の違う明かりが見える。廃病院のように陰湿ではなく遊園地のように陽気な光。あの建物なら脱衣場のほうだが。出口。私はなけなしの力を出してのそのそと這う。指ではなく腕で這う。背中にじらふが跨る。首筋がひんやりする。刃を突きつけられている。背中が痛い。またあの痛さだ。私の周囲だけ重力が大きい。

 生温かい鮮血。生ぬるい白濁。

 気持ちが悪いきもちがわるい。

 やはり出口だった。イヌの着ぐるみが待ち構えていてご苦労様でした、といわんばかりにお辞儀する。勿論じらふに。私はまた地面にへばりつく。着ぐるみ一座は鞘に風船がないのに気づいたらしくサルの着ぐるみに風船を持ってこさせた。赤と青のふたつが新たにじらふに手渡される。

「観覧車動く?」

 私の体が宙に浮いた。着ぐるみ一座によるものだった。抵抗するだけの気力はない。じらふの命令により私は観覧車に連行される。おそらく私の死に場。あれが一周する何分かの間に私は息を引き取る。再び地上に戻ってきたとき私は死体となって外気に触れる。心臓を抉られ内蔵を裂かれて脳に精液を注ぎ込まれ無言の絶叫とともに。

 着ぐるみ一座は意気揚々と私を観覧車の籠に放り込む。背中が椅子と椅子の合間のガラスに衝突。じらふが遅れて乗り込む。扉が閉められる。着ぐるみ一座は満面の仮面的笑みで手を振る。

 よい旅を。

 私にはそう聞こえた。

 籠がぐわんと横揺れしてゆっくりと上昇する。着ぐるみ一座が遠ざかる。じらふが私の正面に屈む。もう殺したくて殺したくてしょうがないということが視覚的に伝わる。何がそんなに気に入ったのだろう。私なんか殺したって面白くない。大した興奮もないはず。私は顔を上げる力すら残っていない。左手は指すら粉々。背中に一筋の傷。暑い熱いあつい。冷たい。

「夜になるとここは君の遊び場になるのか」

「いつも僕の遊び場」

 まただ。また私の出掛け先。表沙汰にならない行方不明事件が起こっているのだと見ていい。隠蔽しているのは言わずもがな毘澱しは。そのためにこの遊園地は創られた。脳内電光掲示板はスパークすら已んだ。沈黙。

「なんで指ない?」

「なんでかな」

「ゆったらあと一周我慢する」

「変わらないよ一周だろうが二周だろうが。好きにしてくれ」

「抵抗しない。つまんない」

「しは以外の五人は君の遊び相手か」

「死んだ。新しいの探す」

「住まなくていいということだな。あれは私をここに連れ出すために」

「遊びたかった。一緒」

 よかった。鬼立に説明しなくて済む。それだけでかなり気が楽になる。

 籠はいまどの辺りにいるのだろう。顔を上げる気力がないのでわからない。わからなくてもいいかとも思う。じらふが刃先で私の腕を撫でる。赤い線が浮き出る。黒かもしれない。

「俺を殺したら君はどうする」

「捨てる。要らない」

「そうじゃない。俺を殺したあと君はまた誰かを殺したくなるだろう。山を下りるのか」

「おにーさんみたいな人探す」

「そうか。わかった」

 刃先が私の腹に刺さる。何度も何度も抉られる。気が遠くなってくる。視界が真っ赤になる。私はぼやける頭で刃を掴む。手が滑る。たかが血液如きで。力勝負なら端から負けている。隙もないに等しい。じらふの気を逸らす。

 簡単だ。中指の話をすればいい。私の中指がいつなくなったか。誰に盗られたのか。誰が持っているのか。すべて推測という名の創作。案の定ほんの一瞬力が弱まった。

 私は刃を自分の腹から抜いてじらふの肩に突き立てる。角度が悪かった。深く刺さらない。一度抜いてとにかく刺さる場所に刺す。血が飛び散る。私の血かじらふの血か。混ざる交ざる。

 赤と白。

 白と赤。

 途切れ途切れの声。じらふが動きが鈍くなる。私の動きが鈍くなる。痙攣。麻痺。眩暈。転倒。意識混濁。情景のスローダウン。天空が徐々に遠い。地上が徐々に近い。落ちる墜ちる。堕ちる。

 着ぐるみ一座が見えた気がした。あの動物はなんだろう。

 きりん?


     2


 絶対に逃げると思っていた。

 最近オープンしたての話題の遊園地だけあって平日でも大いに混雑している。カップルならはぐれないよう手でも何でも繋げばいいがまさか私たちがそうするわけにはいかない。考えただけで身の毛もよだつ。

 なんでも一山切り開いたらしく敷地が広大すぎて一日中遊んでもすべてのアトラクションを回るのが困難だといわれている。広いだけならまだしも経路がまるで迷路のようになっており、予備知識なしでこれば案内板を眺めようが園内地図を受け取ろうが迷うのは至極当然。しかし予備知識なしで来るような人間はそもそもこの遊園地で遊ぶ気がないため迷い人続出、という状況は充分に回避できている。

 要するに、主としてその二点が落とし穴だった。あいつはそれを狙っていたとしか思えない。まんまと引っかかって私はいま多少落ち込んでいる。

 上着は車内に置いてきたが、さすがの全天候型の私もネクタイにワイシャツという格好で長時間炎天下の中歩き回ると汗が垂れてくる。適度に水分補給をしながらあの賢しい探偵を捜す。ひとりで帰るというのはあり得ない。私が諦めた頃を見計らって飄々とした顔でなんだお前、くらいの軽口で登場するのが最もあいつらしい。

 つまり今日の遊園地訪問は私をからかうためにわざわざ連れ回したに過ぎない。一瞬真剣な表情になったから完全に騙された。そんなわけで私は二重に落ち込んでいる。

 以上のことを鑑みると、動き回れば回るほど探偵の思う壺だろう。汗をかかない私に少しでも汗をかかせようとしているだけなので私は涼しい店内で時間を潰すことにする。念のため、出口の警備員にあの探偵の外見的特徴を話しておいたからもし外に出ることになれば連絡が入るだろう。抜かりない。

 ここの観覧車はひときわ大きい。どの位置から捉えてもまったく規模が衰えない。一周十五分強といったところか。暇だからひとつの籠に狙いをつけて計っていた。ひとつずつ色がグラデーションしている。

 ふと思いつく。あれに乗って見下ろせばあの底意地の悪い探偵を発見出来るかもしれない。まあ、発見出来ない可能性のほうが高いが園内の様子がある程度模式図として描けるかもしれない。大いに利点だ。そうと決まれば話は早い。コーヒーを飲み干して建物の外へ。観覧車が大きすぎるせいでなかなか辿り着けない。見えているのに、という状況はかなりストレスだ。真っ直ぐに突き進めない、というのも充分ストレッサーになり得る。

 道が入り組みすぎているため何度も立ち止まって園内図を見直した。スタッフに尋ねようにも出会うのは圧倒的に着ぐるみが多い。着ぐるみだけで動物園が出来そうなくらいの種類がいるのではないだろうか。

 ようやく麓が見えた。五組ほど並んでいる。アトラクション数もそれなりなので人口密度はいい具合に分散されるのだろう。スタッフはすべて着ぐるみ。最早そういう遊園地なのだと諦めることにした。チケットを買おうとしたら見覚えのある顔がちょうど籠から降りてきた。

「陣内」

 探偵はぼんやりした様子でとぼとぼと足を進める。私の姿が見えていないらしい。真正面にいるのにもかかわらず。暑に当たったかひきこもり。

「大丈夫か。高所恐怖でもあるまい」

 私が探偵の眼前で手をひらひらさせても見えていないようだった。声も届いていない。目の焦点がこの世にはあっていない。何を見ている。何を見てきた。

 まさか。

「何かあったんだな、おい。どこだ、どこで」

「なんだお前」

「なんだお前、じゃないだろ。何か見つけたんじゃないか。どこだ」

「帰るぞ」

 この常識外れ極まりない探偵は日ごろから抜けているがいまは一段と腑抜けている。声色もいつも以上に低い。やっと聞き取れる音階。表情が凍っている。猫背で眼が半分開いていない。一人で観覧車に乗って居眠りをするだろうか。このボケ探偵ならままあり得るかもしれないが眠っていたにしては様子がおかしい。

 初めて見る顔だった。完全に他者を拒絶している。他者どころか自分すら、空気さえ避けて進みたそうな雰囲気で隣に並べない。そういえば駐車場まで戻るのに一度も道に迷わなかった。探偵の背中に唯々諾々と付いてきただけだから今の今まで気がつかなかった。

「運転」

「ああ、すまない」

 探偵はすでに助手席にいた。私の顔を見るのが苦痛と言わんばかりにずっとウィンドウの外を見ていたのは往路とまったく同じだが纏っている雰囲気がまるで違う。私の発した質問はすべて無視され、存在すら認められていないかのような疎外感を感じる。私はついに追及を断念する。

 探偵の住むアパート前まで戻ってきてしまった。駐車するや否や陣内は無言で降車する。私も何となく外に出る。暑い。私は久し振りに暑さを感じる。

「鬼立」

 探偵が部屋の入り口で足を止める。身長差のせいで近づけば近づくほど威圧感だが今日はいつも以上にそれを感じる。探偵の背中が見える。

「悪いがしばらく話しかけないでくれるか」

 私はそれを帰れ、という意味だと受け取って車に戻った。経験上、一日に二度出掛けても死体に遭遇する確率は変化しない。むしろ低下する。この超常現象的探偵の体質によるなら、朝起きて最初に出掛けた場所こそその能力が発揮された結果である。それにあまり執拗に追い詰めても無意味に機嫌を損ねるだけで寡黙がさらに加速して推理を披露しなくなるため利点はない。

 だが今思えばあの発言はそれを超越した深い意味を含有していたのだ。私は落ち込む暇も与えられなかった。あまりに突然すぎる。そしてあり得ない。常識ということばはこの男には内蔵されていない。

 次の日、探偵のアパートを訪ねると家具や私物、冷蔵庫の中の食品に渡るすべてが昨日のまま保存されていた。まるでここだけ瞬間凍結されたかのようだったが、布団の中は蛻の殻だった。温度も残っていない。出掛けたにしては変だ。探偵は朝が弱く午前中にまともに活動など出来ない。

 とにかく本日における本来の目的を完遂するという名目で、大家に勘違い是正挨拶がてら菓子折りを渡しながら探偵について尋ねると、家具は適当に処分して欲しい、と昨夜来月分の家賃を持ってきてそれっきりらしい。今月分をもらったばかりで変だとも思ったが、探偵はどこに行くとも何をするとも言っておらず、いつもと様子が違って大家は何も尋ねられなかったようだ。

 寡黙でぶっきら棒なのはいつものことだと私は助言したのだが、大家は首を振った。それ以上のものを感じたらしい。それを説明して欲しいと迫ったがうまく言えない、といわれ私は仕方なく諦めた。そうでなくとも私は善良な市民の口を割らせるのが不得意だ。

 私は探偵の部屋を探ることにする。昨日着ていた服装のまま出て行ったらしくTシャツとジーンズが一着ずつない。財布とキーホルダも持っていっただろう。あとはハンカチ。物に執着しないずぼらな探偵も気に入っている腕時計はあいつの腕から離れたのを見たことがない。そのくらいか。完全に普段着だ。

 旅行と言うわけでも。いや、ほぼ手ぶらで飛行機に乗り、なかなか帰って来ないと思ったら、実は海外で暮らしていたという経歴もあるため安心できない。通帳と印鑑、パスポートをあれだけ一緒の引き出しに仕舞うなと教えたのにもかかわらずまだ実行していない。

 置いていったのか。ということなら辛うじて国内か。空き巣に入られたら可哀相だからこれは預かっておいてやろう。

 処分して欲しい、ということからここには戻ってこないと見たほうが賢明だろうか。しかしそうすると家賃の前払いはどういう意図なのか。然るべき引越しをしなかった迷惑料か。新規入居者が現れない限り探偵の部屋は探偵の部屋のまま保存してもいい、と大家も言っているので二ヶ月すぎたら私が立て替えておくか。

 どうもやっていることがちぐはぐに思える。やはり遊園地で何かあったとしか考えられない。その後も何度か訪問してみたが、特に何の変哲もない平和な行楽地を維持している。訪れるたびに満面笑顔の着ぐるみに遭遇して頭が麻痺する。

 平和ボケ遊園地と言えば、探偵がいなくなって二日後の深夜に遊園地の裏山で大規模な土砂崩れがあって少し騒ぎになったが、連日降り続いていた洪水的な雨によるものなので特筆すべき事項とは言えない。マスコミが遊園地の取材がてら面白おかしく報道するものだからそれに踊らされる一般市民が多すぎて困る。その山は遊園地のオーナの私的所有物であり、遊園地の裏山といっても敷地外の一辺が崩れてきただけなので被害らしい被害は何もない。誰が住んでるわけもなし。

 さて、どうするか。

 伝説の名探偵を見失ったと報告すれば私は出世できないかもしれない。


     3


「小学校のときだったか、君は知らないかもしれないが図工というのがある。中学でいう美術みたいなものだがこれも君は知らないか。学校は、まあ、行ってなさそうだな。とにかくそういう科目がある。君のいたあの建物にも学校の教室みたいな部屋が幾つかあっただろう。入ったことないか。黒板があってそれに向き合う形で机と椅子が並んでいる。誰が先生をするんだ。ああ、違うのか。そういう部屋があるだけか。よくわからないな。そうだった。指の話だ。ないよ。ほら。途中からなくなっている。そもそもなかったわけじゃないさ。あったよ。小六までは。早い話が、図工の時間に手元が狂ってすっ飛ばしただけだ。糸ノコてわかるか。それで板を切ってた。何を作ってたのかは憶えてない。やたら血が出たのだけ憶えている。学校中で大騒ぎされたか。指持って病院行けばくっつくんじゃないか、て指を捜したんだが部屋のどこにもない。窓は開いてないし。廊下も方向的にあり得ない。とすると答えはひとつ。誰かが俺の指を持ち去った。そのとき図工室にいたのは俺のほかに五人くらい。一人ずつ訊いても駄目だった。全員が首を振る。だから俺の左の中指はいまもないままだ。誰が持ってったかは実はわかってる。何となく予想がついた。そいつに怒鳴ってもよかったんだが面倒でな。仲がいいわけでもないし。その一週間後に修学旅行があったんだが俺は行かれなかった。違うな。行かなかった。そいつと一緒にバスに乗るのが厭だったのかもな今思えば。親には仮病使った。あっちは勝手に指がなくなったショックだとか思ってくれたから簡単だった。その修学旅行のバスがな、転落したって聞いたときは寒気がした。すぐにわかったよ。あいつがやったって。海に真っ逆さまだ。助かったのは勿論あいつだけ。最悪だった。たった三日やそこらの間に担任並びにクラスの人間があいつと俺以外全員死んだ。せっかく忘れてたのに。君らのせいだよ。クラスの奴らは俺が殺したも同然だ。俺が行かなかったからあいつが怒って全員皆殺しにしたんだ。俺への見せしめに。あいつの名前なんか忘れたよ。もしかしたら君らの知り合いじゃないか。君らに追いかけられたときあいつの顔がよぎった。適当に名前、あ、駄目だ。忘れてくれ。俺ももう一回忘れる。偽名だったら絶対にわからない。本名との差。ないよ。俺が憶えてないんだから君らに名前を言われてもわからない。いい。忘れ」

 私は籠が開くなり転がり降りる。着ぐるみ一座は動かないじらふを引きずり出すのに夢中で私の事など気にもかけていない。走った。とにかく遊園地の外に出れば何とかなる。鬼立に連絡すれば。

 駄目だった。走っても走ってもまったく同じ場所に出る。観覧車が常に同じ方向に見える。月のように呪術的に付いてくる。観覧車の麓に着ぐるみ一座が勢揃いしている。なぼのの部屋を思い出す。あそこにいた動物たちが着ぐるみ一座だったといまさらわかる。そあんがメガネを託したオカピも、クマとゴリラの混血も集っている。私が逃げられないことを知っているから高をくくって無視している。じらふの救命が最優先。無理だとわかっている。無駄だと思うが。

 私は呼吸を整えて園内案内図を眺める。駄目だ。急激に視力が低下したらしくこの距離から文字がぼやける。触れられる距離にあるというのに。描かれた地図を穴が空くほど睨んでもどの道を行けばどの道につながっているのか判断できない。憶えられない。記憶の引き出しに致命的な穴が空いている。

 なぜ。

 そんなこと自明。

 憶えたくない。さっきのあれを記憶に残さないために私自身で穴を開けた。指を切り落としそうになりながら糸ノコを使って。ぽっかりと。意識した途端急に気になってくる。私は何をした。私はさっき観覧車の中で。じらふを。

 ころした?

 おかした?

 わからない。わかりたくない。思い出せない。思い出したくない。私はじらふから刀を奪ってどうした。それで何をした。本当に刀を使ったのか。刀以外のもので。感触が残っている。鉄の錆びたにおいが鼻にこびりついて離れない。両方だった気もする。その証拠に私はもう熱くない。すっかり冷えている。ずっと燃えるように熱かったはずなのに。いまは汗が冷えて寒いくらい。極めて平常。赤い粘液と白い粘液が瞼に焼き付いている。眼を瞑っても浮かび上がる。網膜に刻まれた映像のようで。赤が血液なら白は何だ。白の粘液。

 わからないわからない。

 脚が動かなくなってくる。私を支えているのは単なる棒二本。走るしかない。あの山を背にして走れば絶対に外に出られる。私は山を下りてきたのだからその反対側に遊園地の出入り口があると考えるのが正常。正常。正常とはなんだろう。異常の反対。

 異常者。

 脳の中で攻撃欲と性欲の中枢は隣り合っている。だからなんだ。防衛機制の合理化でさっきの行為を正当化しようとしている。だからなんだ。抑圧で記憶を封じていまこの危機を乗り切ろうとしている。だからなんだ。正当防衛で仕方なく殺したから私は非難されるべきではない。だからなんだ。

 みんな死んだ。クラスメイトもなぼのもふつちもそあんもあいるもろなしあもしはも。じらふも。

 全員私が殺した。

 ああそうか。やはりそうだったのか。そうでなければこの冷静状態は変態。欠乏状態を満たした。用済みになったから殺した。滾る熱を鎮めるために。

 じらふがふずいいてきにぴくぴくとしかけいれんしなくなったのをかくにんしてみじかいずぼんをおろすこきゅうのおとがしなくてあんしんするていこうされることもないわたしはいっこくもはやくねつをさましたいだしたいからにしたいしかんだねくろふぃりあそれもほもせくしゃるきんきゅうじたいだからありうるかおとこだけしかいないならおとこをたいしょうにするほかないただそれだけのことたとえとしはもいかないしょうねんだったとしてもいまここにはじらふしかいないのだからちゅうにうかんだこのかごのなかにはわたしとじらふいがいにはだれもいないせまいどうしてうまくいかないこれだからみけいけんのじしょうはいらいらするちがでたっていいどうせしんでいるこれいじょうひどくなるとしたらせつだんすることくらいだがわたしはそんなことにきょうみはないとにかくいまはそんなことよりいまははいらないはいれちぎれてもいいわたしはいたくないじらふだっていたくないもうじらふではないのかなんだしたいいたいにくのかたまりあなだただのあなわたしがきおくのひきだしにあけたあなとおなじわたしはしゃせいするしろだしろはこれだったようやくきづくわたしはいんけいをひきぬくもうりようかちもないにほんとうをにぎってそこにころがっているにくにつきたてるしんだころした私がやった。

 ハンガドライヴは洋服をかけるハンガを運転することではなくてなんだったか。いまは交感神経優位だろうと思う。リラックスとは程遠いから副交感神経優位ではない。単に消去法。空腹は感じない。そんなことなど感じていられない状況下にある。いま何か口に入れたら確実に戻す。要らない。何も要らないから。誰とも戦いたくない。逃げるのももう厭だ。圧倒的に負けたい。一網打尽に捕まりたい。肝臓の貯蔵グリコーゲンはとっくに尽きた。いまは筋肉を分解してエネルギィを取り出している。生命維持が最優先だから、運動するしないの筋肉に構っていられない、とかいう勝手なプログラムを破棄したい。

 余計なことを考えても私がおかしいということは揺るぎない。きっと脳が狂っているのだと思う。脳が狂っているという段階なんかとっくに通り越したという可能性もある。脳が狂ったという状況を越えたらどうなるのか。簡単だ。

 ゆらゆらする。頭がぐらぐら。胃がドーナツ。喉はがらがら。指がストップ。移動テンポが壊滅的。しかし一度足を止めたらもう二度と動かせなくなる。足の動かしたかを忘れる。だから止められない。足を動かすことにおけるメリットが消えないうちに。そんなにしてまでどこへ行こうというのだろう。知らない。知るわけがない。一体ここはどこなのだ。それを初めて意識する。生まれて初めてそんな事を考えた気がする。

 まずい。常軌を逸する前兆だ。いや恐れることはない。すでに逸しているのだから。これ以上逸れる軌道もあるまい。

 目が霞んでくる。痒い。眼球を取り替えたい。ドライアイ。3Ⅰ。独英。深海を彷徨っているように薄い霧がかかっている。水晶体を覆う透明な膜が汚れている。虹彩。高裁。私は穢れている。

 動物ではないから植物なのだろう。他の範疇をついぞ失念した。緑だから植物か。緑色の動物はいるか。だいたい緑とは何だ。思い出せない。

 回路遮断。ぴた。思考停止。ぶち。生命維持のためすべての余剰行動は制限させていただきます、どうかご了承ください。

 ふかぶか。

 ああはいはい、さっきも思ったんですがね、そういう勝手なことされると困るんですよ、別に私はせーめーいじをしたいわけじゃないし、性命遺児?

 ■たい。

 がではくだだろうかたいならかがしいとえたからそういうがれたのかもれい。

 にをるはどこだはのにいているからをかせばにくのかしがからいがしい。

 のかしまずのにがいているかをますをけてくださいがきませんけどではのにってのいをてください。

 ばらばらのいまずをけますがいているはがえるですえるというがからいんですけど。

 ですかなら。

「かな」

「うようながするけど」

「がい。くない」

「いてようか」

「おいこらるな」

「いてるくせに」

「がくるよ」

「れるね」

「これは?」

「れるかてようか」

「はない?」

「■しい?」

 たい。

 のい。

 った。

 い。

 い。

「おにーさん、また死ぬ?」

 背中が厭に重い。

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自衛散ル栄位照ル 伏潮朱遺 @fushiwo41

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