第5話 洋装塩素
1
夢などであるはずがない。私は覚醒していた。いくら物覚えの悪い私でもそれだけは確かだと胸を張れる。
彼らは目の前で死んだ。しははバラバラ。なぼのもふつちもそあんも出血が並でない。ろなしあに至っては首が落ちた。もう蘇生などという時限を通り越している。あいるだって私を解体する寸前にいなくなる理由は露ほどもない。私の記憶が間違っているのか。全部幻だったとでも。思考挿入的電光掲示板がしはだというのも今考えればおかしい。なぜあの時尋ねなかったのだろう。
私はろなしあに支えられて屋根の下に入る。じらふ以外の全員がすのこ場で待っていた。全員が最後に見たときと同じ服を着ている。怪我も汚れもない。この雨で外に出られなかった、とふつちが口を尖らせる。黙って帰っちゃったのかと思ったよ、となぼのが苦笑い。私を捕捉した時点でメガネを外した。そあんが泥遊び、と騒ぐ。私は首を振る。あいるが心配そうな顔で私をじいと見つめる。しははいつの間にかいない。じらふの居場所を聞いたら一同が首を振る。いつものことだから気にしないで、とろなしあに諭される。
「じらふだけ気にする」
「やっぱ餌付けかな。すごいや」
ろなしあは私が早朝から行方不明になっていて、と哀しそうな顔をした。違う。行方不明ではなく逃げていたのだ。他ならぬろなしあたち一同に追いかけられて死に物狂いで逃げた。私はそれを言えなかった。ろなしあが口を開くたびに心の底から私のことを心配してくれていたということが伝わる。もう演技でも本気でもどちらでもよくなってきた。生きていたならそれでいいような気がする。
浴室はなかなか快適だった。洗い場も広く浴槽が大きい。私が脚を伸ばしてもまだ余裕がある。とにかく気持ちを落ち着けよう。おかしかったのは私のほうだ。誰も死んでいないならそれでいい。気になるのはじらふだが生きていると考えていいだろう。よかった。早く顔が見たい。夕食時には来てくれるだろうか。浴室と脱衣場を結ぶドアが開いてなぼのとふつちが顔を出す。少し遅れてあいるがてとてと付いてくる。
「あのさ、一緒に入っていい?」
「構わないが」
「なんでこいつに許可とんだよ。俺らの風呂だ」
どう見ても怪我などない。なぼのには性器があるしふつちの背中も何ともない。
「にーさん、何してたのさ」
「そあんの言うとおりだろ。それか前世がカエルなんじゃね」
「んじゃ誘ってほしかったな。面白かった?」
「よく憶えてない」
「はあ? 大丈夫かよ。酔っ払って出奔か?」
三人には先に上がってもらう。並んで服を着るだけの勇気はなかった。密かに彼らを観察していたが特に異変はなかった。初日通りの人格がそこにあった。
私の服はもう着れないかもしれない。泥まみれ血まみれ。ろなしあが用意してくれた着替えは私のサイズだった。最初のときに申し訳ないことをしたからなんとか探してきてくれたらしい。引っ掛かる。駄目だ。疑っても仕方ない。
廊下が涼しい。雨の音がする。火舎の突き当りが食堂。じらふとろなしあ以外の全員が席についている。テーブルの上に料理が並んでいる。私は空席に腰掛ける。ろなしあがワインを持ってきてくれる。私はまったく食欲がなかった。肉を見るとカニバリズムを思い出す。赤ワインは血液にしか見えない。
「ジンライさん食べない?」
「そうだぞ。せっかくろなしあがお前の分まで」
「毒なら入ってませんと申しましてよ」
「なんなら僕が毒見しよっか?」
同じ鍋なりフライパンなりで作ったとしても私に盛られた皿にだけ毒を入れることは可能だ。あいるはトマトを食べている。人肉のみを食するのではなかったのか。どうしてそんなに普通にしていられる。私を殺そうとした人間たちはいったいどこに行ってしまったというのか。気持ちが悪くなる。食べ物を見るだけで嘔吐感を催す。私はじらふを捜す、と言って席を立つ。ふつちがどうせ来ないから、と言ったが無視して廊下に出る。
誰も追ってこないのを確認して私は土舎に行きじらふの部屋をノックする。返事がない。鍵がかかっていないので中をのぞいたが誰もいないようだった。玉座の後ろにいるのかもしれない。地下。
「行くな。死体の仲間入りになる」
電光掲示板に光が戻る。しはは玉座に腰掛けぼうっと空気を見ている。膝の上に黄色いアヒルがのっている。首から先もある。窓もドアも開いた音はしなかった。ここに入ったとき玉座は無人だったはず。私は食堂を出た時点でしはは椅子に座ってグレープジュースを飲んでいたはず。瞬間移動。
「地下はそれぞれの部屋の下にそれぞれ独立して備えた。快適に暮らすための獲物をそちらに送る。要らなくなったらダストシュート。あとは勝手に分解される」
あなたは、と私は尋ねる。
「毘澱しは。人の名前を憶えない、というのもどうやら本当。食事は採れるときに採ったほうがいい。火事場の馬鹿力にも限界がある」
しはが電光掲示板に思考挿入的にメッセージを送っても口が一向に動かない。聴覚的に刺激を受け取っていないのだから当たり前か。しかし私が受け取ったこれは私の眼前にいるしは以外から発されているように思える。あたかもそれは視覚的に安心させるためにわざと設置した人形のよう。
「触れるな。また犯されたいか」
私は伸ばした手を引っ込める。電光掲示板の文字のフォントが大きかった。その上切り替わる間隔が遅く、点滅する光の明度が高い。吃驚した。
「陣内ちひろ、じらふを捜すのをやめ、速やかにここを立ち去れ。私の最後の忠告。聞き入れないならどうなっても知らない」
どうして、と私は異を唱える。
「理由を言わなければ納得出来ないか伝説の名探偵。私の気が変わらないうちに走れ。道は最初にろなしあが示したから自力で思い出せ。あの道の先は崖ではない。そのまま見覚えのある道につながっている」
私は探偵と呼ばれて一時的に不快になるがぐっと堪えてあなたは味方、と尋ねる。
「いまはそう考えていい。状況は時々刻々と変化する。帰りたいなら理由を問うな。因果律を捨てろ。彼らに常識はない。あるのは」
電光掲示板の光がふっと消える。それと同時にしはが玉座から転げ落ちる。首があらぬ方向に曲っている。違う。首は首から上と首から下に分かれている。それだけではない。体のあらゆるパーツががらがらと崩れてばらばらになる。プールに浮かんでいたときより細かく解体されている。血は一滴も流れなかった。抜け殻。アヒルのおもちゃがかたかたと歩行する。ぜんまいで足が片方ずつ動く。それが止まったときアヒルの首も落ちる。
私は半ば反動的に窓から外に出る。雨はまだ降り続いている。雨足は多少弱まったが風が出てきた。すのこ場を突っ切ろうと思ったが思い直して土舎の脇を回って畑経路で行く。野菜が何もなかった。略奪の限りを尽くされたあとのようで、根っこを引き抜かれ葉を毟られ酷い状態だった。雨だけではここまで出来ない。人為的な。
「おにーさん、僕の話聞いてない」
じらふの背中が見える。髪が濡れている。Tシャツの首周りがずれて片方の肩が出ている。何となく近づきがたい。私は足を止めてしまう。
「おにーさん、逃げる?」
「逃げるよ」
「僕も連れてって」
じらふは日本刀を提げている。鞘に入っているようだ。
「駄目だと言ったら」
「言えない。僕はおにーさんのためにみんな殺す。ここ壊す」
「外に出たいなら出れると聞いたが」
「ひとりはやだ」
「ここにいる他の」
「嫌い」
「連れて行かないと言ったら私も殺すのか」
「殺す。おにーさん、選べない」
じらふは足元にあったポリタンクの集落を蹴って転がす。液体がこぼれる。暗くてよく見えないがおそらくガソリン。とにかく引火性の高い液体だろう。
「撒いてたのか」
「疲れた。雨降ってる。うまくいかない」
「腕は平気か」
「何の話」
あいるが私の背中にのせたあれはじらふのではなかったか。じらふが振り返る。私は頷く。頷くしか出来なかった。
「道わかる?」
私は首を振る。
「建物燃やす。田んぼまで走って。ろなしあに気をつける。あいるは本気。ふつち、なぼの、そあんは無視。すぐ死ぬ。しはは相手にしない」
「わかった」
「約束守る」
私は止まった腕時計とぐちゃぐちゃの財布と錆びかけのキーホルダを確認して駆ける。じらふの腕に巻かれた私のハンカチが気になる。あの部位はあいるが持ってきた腕の切り取り線と一致するような。
駄目だやめろ考えるな。思考は邪魔になる。
2
駆け出してしばらくすると電光掲示板が点滅した。レッドアラート。
「あなたは忠告を無視した。私はもう防げない。じらふが」
私は意味を取らない。
「聞け、名探偵。あなたの第六感は使うべきでない。従うなら破滅」
私は意味を取らない。名探偵と呼ばれたから。
「陣内ちひろ。じらふは」
まだ死にたくない、と私は答える。
「死にたくないなら私の言うことを聞け。じらふは待つな。先に行け。道は私が案内する。有効範囲がアスファルトまでとは情けない」
断る、と私は強く発声する。
「最終通告だ。私の」
私は電光掲示板を叩き割る。勿論比喩。発光ダイオード。赤と青の配線。プラスティック。湖に投げ捨てる。勿論比喩。水飛沫。波紋。泡。雨が已んだ。視界良好。目線の先には水田が広がっているはずなのにそうではなかった。
物干し竿。
どういうことだ。十字の建物も見える。私は火舎の脇を通って畑に出る。そこから真っ直ぐに走れば水田に出るのに。全速力で駆けても最後には物干し竿が見える。もう一度試してみる気は起きなかった。空間ループ。閉じ込められた。しはの名を呼ぶ。応答なし。もう一度。無音。私はとんでもないことをしてしまったらしい。
ガラスが割れる音。不気味な笑い声。いまは夜だ。一日中暗かったので夜を意識していなかった。夜んなると興奮する奴いっから。ふつちの発言がこだまする。それは誰のことを指していたのだろう。いまさら気になってくる。それがもし、じらふのことだとしたら。
凄まじい破壊音。音源が定位できない。反響して全方向から聞こえる。コンサートホールの中にいるが如き重低音に包まれる。割れた窓の穴から白い腕が伸びる。一本。二本。四本。倍々ゲームでどんどん増える。人間の腕より遙かに長い。それが私を中心に半径三十センチの場所まで近づく。私は動けない。腕も動かない。半径三十センチを境界に停戦協定を結んだかのように。腕の隙間から白目がのぞく。誰だ。問うまでもない。
毘澱しは。眼球がごろんと動いて黒目が中心に来る。私は謝る。声が出ないので脳の中で。電光掲示板を壊してごめんなさい、と繰り返す。あなたに従う、と繰り返す。駄目だった。黒目は私以外を捉えている。おそらく私の未来を傍観している。
また破壊音。今度は重いものが倒れてそれを粉々に粉砕している音。寒い。身体が末端から冷えてくる。すぐに芯まで到達する。無数の腕がすっといなくなる。霧のように粒になって消える。
「いたぜえ」
窓ガラスが一瞬にして塵になる。きらきら光る雪のようだった。ふつちだ。バッドを肩に背負って私に近づいてくる。私は後ろを向くことが出来ない。くすくす笑い。何かが背中に張り付いている。そあんだ。耳たぶをしゃぶられる。
「さっさといけそんでしね」
「にーさんぼくにだすまえにしんじゃやあ」
「なんだてめえしまりがわりいからたたなかっただけじゃねえの」
脚が動かない。重い。何かが下半身に縋り付いている。なぼのだ。ズボンのジッパを下ろして私の性器を握っている。遠くで何かを薙ぎ倒す音。あいるん、と直に聞こえる。そあんが私の耳元で囁く。じらふとあいるが殺しあっているらしい。日本刀対斧。
そあんとなぼのが絡み付いてくる。粘膜と粘膜で接しようとする。服はほとんど剥ぎ取られた。そあんに口を開けられ瓶からぬらぬらする液体を注ぎ込まれる。味を感じる前に喉を通ってしまった。口に入りきらなかった液体をなぼのが舌で舐めとる。ふつちがすぐ傍で素振りを始める。背中と腹に当たった。私は地に膝をつけてしまう。げらげら嗤い声。ふつちに打たれた左手と左腕が急激に痛む。やはりあれは幻ではないのか。脳が熱湯で茹でられているよう。眩暈。私はじらふの言葉を反芻する。無視。無視なんか出来ない。
「おみとめになったらよくってよ」
ノイズ交じりに聞こえた。私の記憶の中のろなしあの声に酷似している。眼を開けられない。私が彼らに何をされているのか認めたくない。遮断。
「じんないさまがきもちいいとおみとめになればよろしいの」
私は意味が取れない。
「きもちがいいのでしょうぷーるさいどでもあんなにたくさんおだしになって」
私は意味を取りたくない。
「おみとめにならないとおわれませんわおわりにしたいのでしょうそれともそあんがあなたにのませたくすりのせいぶんとこうようをつげたほうがよろしいかし」
ふつちなぼのそあんはむしすぐしぬふつちなぼのそあんはむしすぐしぬふつちなぼのそあんはむしすぐしぬふつちなぼのそあんはむしすぐしぬふつちなぼのそあんはむしすぐしぬふつちなぼのそあんは。
身体が軽くなった。私に圧し掛かる重力が減ったかのよう。冷風が通る。涼しい。寒いさむい。眼を開けたほうがいいのだろうか。葛藤。怖い。恐い。最初に見えるものが予想通りだったら私はどうすればいい。指の感覚がなくなってくる。認識。左指。親指ではない。小指ではない。人差し指ではない。薬指ではない。中指。私には。
「ありませんのね」
鋭く鈍く光る細いもの。先端から液体が滴る。透明な管の中に透明な液体。あっちにいるのがそあん。こっちにいるのがふつち。そっちにいるのがなぼの。どうして倒れている。なぜ地に伏している。どういう理由で空を仰いでいる。金属バッドがふつちの手から離れて転がる。白い手が拾い上げる。
我暮ふつち、荷戸なぼの、来尾そあんは無視。すぐ死ぬ。
「ああうるさいさいしょからこうしていればよかったのですねなんでしょうかじょうでもうつったのかしら」
玄狩あいるは本気。
「むこうもそろそろけっちゃくがつきますわまあやるまえからしょうはいがみえているのでおもしろくもなんともございませんのですけれどじんないさまはごかんせんなさいますいやですわよねあんなやばんな」
露壇ろなしあに気をつける。
「そんなおびえたかおをなさらないでそそられてしまいますわわたくしけっこうよくせいがきかないのすきなものがあるといちばんさいしょにたべてしまいたいたいぷですのねなんだかはしたないわじんないさまおにげにならないでくださいます」
熱風異臭ガス燃料爆発火炎酸化。
「うごけないでしょうこれとてもいいのからだがまひしてじゆうがきかなくなるのだけどかんじゅせいはにばいいいえごばいだったかしらこだいこうこくにだまされているのはわかっていますのよでもまったくこうかがないというわけではありませんから」
汗が噴き出る。熱いのは私の外部。火の粉がぱちぱちと音を立てる。
「びどろしはがわたくしのしょうかいをかつあいしたでしょうなぜだかわかりますかそうおわかりのとおりわたくしにはしんだんがついておりませんのびどろしはのつけたかるてをぬすみみましたらばじゅうふくしんだんでいっぱいでしたわとてもかききれなくてあらたながいねんやてくにかるたーむまでくしんしてつくっていっそわたくしのなをつけてろだんろなしあしょうこうぐんとでもしていただければよろしいのに」
こんなに間近でこんなに大きな炎を見るのは中学のキャンプ以来ではないだろうか。私は面倒なフォークダンスをサボるためにわざと足を捻った。もしかしたら痛くなかったのかもしれない。痛い、と嘘をついただけかもしれない。私は離れたところで丸太に腰掛けてぼんやり人間の動きを見ていた。隣に担任が座っていた。私の監視にしてはやる気がなかった。
あの時と決定的に違うところがある。遠かった。風向きが変われば暑かったが炎は私のいる世界の隣で燃えていた。いまは違う。私を取り囲む炎は私の世界で煌々と燃え盛っている。私は炎と同じ世界にいる。
「ここにふみこまれたけいいについてはびどろしはのせつをとりましてぐうぜんだったということでおちつきましたがここにふみこまれたいじょうはわたくしたちのあそびあいてとしてつとめていただきませんとよろしいですかじんないさまあそびあいてですのあそびあいてわたくしたちはかたちこそきょうどうせいかつのようそうですがじっさいはたまたまおなじあぱーとにくらしているあかのたにんにほかなりませんですからわたくしたちどうしではあそびあいてになりえませんわたくしたちにはちかしいあいだがらのたにんそうですわねともだちゆうじんこいびとかぞくよびなはなんでもよろしですけれどそういうかたがふかけつですしかしわたくしたちはこうかふこうかとてもあきっぽいところがございましてつきあってすぐにそのかたがたとおわかれしなければならなくなるのですちかにおへやがございましたでしょうあそこにいていただけるきかんはひとにもよりますがながくてみっかですわねにとなぼのはあいじょうというげんそうにうえておりますからたしょうながくおつきあいしたいとねがうみたいですけれど」
顔面が焼けそうに熱い。燃えないものが燃えようとしたときに発生する有害なにおいしか感じられない。屋根が焼け落ちる。煙が充満する。苦しいくるしい。息が。ろなしあの顔が見えなくなる。口腔内に異物感。生温い。粘性の。どろどろしたものが。
「あらわたくしまちがえましたわじんこうこきゅうはあおむけにさせてきどうをかくほしてからおこなわなければならないのにこれではただの」
前も後ろも右も左も。上下以外全方向が炎に包まれている。脳はぐらぐらと沸騰している。神経細胞が伝達を放棄する。溶ける融ける熔ける。
解ける。
「帰る」
「なにをおっしゃるのれいせいになっておかんがえになってもうあなたはわたくしとまじわりながらほのおにたべられておなくなりになるしかないのですよそれをきょひなさるというのかしら」
「ここを出たらここであったことは何もかも忘れる。誰にも言わない」
「いまさらそのようなことをやくそくされましてもておくれですのよ」
「約束する」
「ですから」
しはは相手にしない。
「あなたがビドロしはだ」
炎を斬ってじらふが現れる。刀を持っていない手で戦利品を提げている。髪を三房ほど掴んで。それを私の脇に転がす。あいるの首。顔面がぐちゃぐちゃで判別は出来なかったが私はあいるの首だと思った。ろなしあは動かない。ピクリとは動けたかもしれないが随意的には動けない。喉から刃先がのぞく。赤黒い錆びた鉄。回転させて抉る。じらふはそのまま何もない場所に放る。刃を抜くと同時に血液が噴き出る。
死体が五つ。
じらふはろなしあの体のあちこちに執拗に刀を突き立てる。ぐしゃぐしゃと気持ちの悪い音がする。私は眼と耳を逸らす。突き立てても手ごたえがなくなったのか、じらふは周囲をぐるりと見回す。ターゲット変更。転がっているふつちの死体を切り刻む。倒れているなぼのの死体をミンチにする。仰向けになっているそあんの死体を穴だらけにする。暑い。熱い。じらふの顔は愉しそうにも哀しそうにも見えない。炎のせいか多少上気しているようにも思えたが誤差範囲。慣れている。これと同じ事を習慣的に行っている。食事を採るのと大差ない。睡眠を取るのと大差ない。
四つの遺体がそもそも誰だったのか身内にも判断しづらくなった頃、じらふは刀を鞘に戻す。べっとりとついた血液は何かで拭き取ったかもしれない。一瞬だけ眼が合う。私の表層を舐めるような視線。じらふはぶるりと身体を震わせる。私は乱された服装を整える。取れたボタンは仕方ない。破れていないだけマシ。熱いあつい。皮膚が焼ける。まるで頬が燃えているよう。
「おにーさん、逃げる?」
私は頷く。
3
水田まで走って休憩する。熱風が肺の中に充満する。この距離でも焦げるように熱い。建物はほぼ焼け落ちどんな形だったのかわからなくなってしまった。広場はそもそも燃えるものがないとして畑も物干しも、プールは水があるからそこだけ遅いだろうか。
炎は周囲の木々に燃え移っている。一年分の降水量にも達しようかという雨が降ったのに燃え広がるのはあっという間。じらふの撒いた燃料の量が並でなかったことがわかる。放っておかなくても大規模な山火事になるだろう。そうしたらここは。
「走る?」
じらふは自分の身長ほどもあろうかという日本刀を担いでいるのにもかかわらず飛ぶように駆ける。息すら切れない。この休憩はじらふが私のためだけに取ってくれたものであり私さえ疲れなければこれは単なる無意味の時。そあんに無理矢理流し込まれた薬の影響がなかなか消えてくれない。ふつちに飲まされた塊より断然強力な気がする。神経の末端に見えない糸を結ばれて遠隔地から動きを統制されているかのよう。麻痺というより鋭敏。楽になる方法がひとつだけあるが一刻も早く逃げなければ炎に舐められる。私はゆっくり頷く。土手を登って森林に入る。真っ暗で視界ゼロ。
じらふに手を引いてもらう。とても小さい手。こんなに小さい手であんなに長い日本刀を振り回していた。振り回すだけではない。あいるの首を切り落としてろなしあの喉を一突きにした。筋肉だって発達途上。身長は私の半分。私が何かに躓くたびにじらふに腕を引っ張られるので転倒防止になる。体重の開きなんか四倍以上だろう。木の枝に髪が引っかかる。幹に衝突しそうになる。いまここでじらふに手を離されたら私は間違いなく命を落とす。迷いの森で迷子になって炎に食べられる。
足が勝手に速まる。下っているのか。いつの間にか山の天辺を通過したらしい。何となく情景を思い出す。ろなしあに案内されたときの。私は思わず右腕を触る。腕時計はあった。だが炎のおかげで溶けてしまったらしく形状がおかしい。手探りだから詳しくはわからないがこんな形ではなかったはず。
「岩場。ゆっくり」
私は崖の様子を思い出してゾッとする。昼間でも足が竦む幅と高さを暗闇の中進まなければならない。手に汗をかいている。じらふとつながる唯一の感触が滑る。いったん手を離して汗を拭いたいが一度話すと二度とつながれない気がして離せない。しっかり握れば握るほど汗の量が増える。
「平気。一歩ずつ。間に合う」
私は息を吐く。励まされて勇気が出た気になる。思い込みも大事。思い込みこそ大切。じらふは夜目が利くのだろうか。記憶で歩いているとしても鮮明すぎる。残り何メートルでアスファルトに着地できるのかアナウンスしてもらうことにした。ゴールの情報がないと安心できない。くすくすげらげら。私は聞こえないふりをする。聞こえるはずがない。あまりに鮮烈な記憶だから脳内で勝手に再生されているだけのこと。昼の名残的夢と同じ。気にするな。いまやるべき最優先は足を動かすこと。それ以外は妨害物。
げらげらくすくす。うるさい。黙れ。停止ボタンはどこだ。どこだ。どこに。
「七メートル」
「私が君を連れ出したら君はどうするんだ」
「迷惑?」
「一緒に暮らせということか」
「僕嫌い?」
「嫌いではないが」
「僕好き?」
「好きでもないが」
「どっち?」
「わからない。一緒に暮らすのは構わないが私には四六時中監視が付いてる。それでもいいか」
「ずっと観てる人?」
「私の体質を疑ってる組織の長から派遣された面倒な奴だ。そいつに説明しなければならないな」
「僕ダメ?」
「素性がはっきりしないからまずい。私の血縁関係は家系図並びに墓の場所まで洗われているから親戚というのはまず不可能だ。拾ってきたなんて言ったら君はそのまま保護になる。悪いがそうなると相当厄介だ。君がいた場所について洗いざらい白状しても信用しないだろうな。それに私は誰にも話したくない。そういう約束もした」
「六メートル」
「家出少年にしても保護だ。隠し子も無理だし。友だちというのも」
「隠れる」
「すぐにバレる。相手は一応そういうのプロだ。いい方法が浮かばない」
「甥」
「駄目だよ。私の血縁を捏造しても不可能だ。近所の子だとしても私と一緒にいればその相手の素性はすぐに調べたくなる。そういう奴なんだ。まったく考えれば考えるほどただのストーカだ」
「そいつ殺す。一緒」
「頼むからそれだけはやめてほしい。相手は国家権力を傘に着ている。そいつが死ねば間違いなく私が捕まる」
「ケーサツ?」
「そんなところだ」
「五メートル」
「君のことを訊いていいか」
「やだ」
「俺の独り言だ。不快だったら言ってくれ。やめる。両親は君を嫌っている。いなくなればいいと思っていた。そこにビドロしはが現れる。研究対象にする、とは言わなかっただろうが入院させる、と言ってカネを積んだ。親は周囲に難病奇病で隔離の治療が必要で已む無く、と説明すればいい。誰も損をしない。むしろ両者は得をする。君はどうしてビドロしはに気に入られたのだろうか」
「ドーナツ食べたかった」
「ドーナツをあげるから来い、と言われたのか」
「ふつち死ぬ。ドーナツ食べれない。おにーさん逃がす」
「すまないが俺はドーナツを作れない」
「作る。簡単」
「買ったのでは駄目なのか」
「いつもならやだ」
「作り方を教えてくれるか」
「四メートル」
「わかった。努力する」
「お腹すいた」
「今日は食べていないのか」
「ふつち死んだ。ドーナツない」
「ふつちはいつ死んだ」
「さっき」
「一度死んでいないか。地下で」
「おにーさん約束破った。地下探さない」
「それは謝る。悪かった。言い訳させてもらうなら偶然椅子の裏に」
「フツー見ない。地下探した」
「ごめん」
「三メートル」
「俺の記憶だと君とあいる以外は私の目の前で一回死んでいる。いや、しはは違うか。プールに浮いていたのはしはではなかった可能性もある。とにかくそれなのに俺がもう一度あの建物に戻ると皆生き返っていて何事もなかったかのように」
「酔って夢見た」
「そうかもしれない。夢の中で君はそあんを殺し、俺を逃がすためにあいるを足止めしてくれた。ありがとう」
「そあん弱い。あいる強い」
「君はほとんどあの建物付近に寄り付かないようだがどこに行っているんだ」
「散歩」
「どこに」
「いつも違う」
「今日は」
「湖」
「俺も行ったことがある。帰り道を探していたがふつちに見つかって追い返された」
「二メートル」
「ふつちは何をしに行ってたんだ」
「買い物。当番」
「遊園地にか」
「観覧車好き」
「一緒に乗るか」
「動かない」
「じゃあ動くようになったら」
「一メートル」
「飛び降りれそうか」
「せーの」
跳躍。着地。靴音。
「伝説の名探偵の名は伊達ではない」
鞘から刀が抜かれる。音は無かった。じらふが私と手を繋いだまま身構える。暗くても伝わる。殺気。電光掲示板が復旧した。以前より眩しい。睨んでいられない。
じじじ、という歯車の音。センタラインの上を黄色いアヒルが歩いてくる。一匹ではない。それが先頭。その後に無数のおもちゃのアヒルが列を成して向かってくる。兵隊のよう。おそらく兵隊だ。毘澱しはを運搬するための。
「じらふ、出るならひとりで行け」
「ドーナツ欲しい」
電光掲示板はじらふにも有効なのか。それとも音声も同時に発されているというのか。暗闇に浮かび上がる。行進するおもちゃのアヒルの上に膝を抱えている少女。しはだ。しはは顔を伏せたまますっと片手を差し出す。ドーナツ。一瞬で手のひらに召喚したかのようだった。じらふは空洞に刀を通し自分の鼻に近づける。一口食べたがすぐに吐き出し残りはしはに投げつける。当たらない。アヒルにも当たらない。空気に衝突しただけ。
「まずい。嫌い」
「それより不味いものを食べさせられるかもしれない」
じらふがしはに斬りかかる。よけた。というよりしはは太刀筋が予めわかっているようだった。じらふはその憂さを晴らすようにぎいぎい動いていたアヒルのおもちゃを薙ぎ払う。貫通。じらふはそれを引き抜いてしはに投げつける。当たらない。当たったかもしれないがしはは膝を抱えたままじっとしている。
「嫌い。消えろ」
しはがゆっくり顔を上げる。口から上が闇に覆われている。何も表現していない。最初から何かを表現するつもりなどない。アヒルは活動を停止する。消音。私はじらふに手を引っ張られる。多少苛立っているようにも思える引っ張り方。ろなしあが崖だと言った方向に。しはが崖ではないと言った方向に。じらふは何も言わない。私も何も言わない。走れば走るほど言葉が腹の底に沈む。
轟々という音。炎と木々の相性。
闊々という音。アスファルトと靴の裏の相性。
月が観たい。朔で構わない。空が上か下かわかれば探せるかもしれない。見る方向が半分になる。遠くがぼんやりと明るい。錯覚。錯視。身体が傾く。人工的な光。赤や黄色や緑や紫。点滅を繰り返す。軽快な音楽。愉快な曲調。
ろなしあは嘘を言っていない。確かに崖になっている。しはも嘘を言っていない。確かに見覚えのある道につながっている。
眼下に遊園地が見える。
4
残像。幻覚。幻視。
ついにあいつの姿が見えるようになった。
「ちっともきてくれないからもうひとりころしちゃったよ」
無生物の白。
「だれなのかきいてほしい」
未生物の城。
「こんどはさせんせいのあいじんオレからにげてあいじんのとこににげこんだもんだからちょっとむかついてねえ」
不生物の色。
「ああでもぜんざとしてそいつのへやのくーらぶっこわしたのなつまっさかりだったからあせだくだくすいどうだいばんばんしゅうりでかねもかかるかーいそ」
奇生物の泥。
「そしたらちょうどせんせいがくーらこわれてるのにそいつのとこいっちゃってさあボクとけっこんしたってのにまだあいじんといちゃいちゃいちゃいちゃでんわでよびつけてへやにいってべたべたべたべたああはらたつ」
非生物の黒。
「そだったああいいわすれてたねえワタシけっこんしましたといってもけっこんしきなんかあげないんだあひろうえんもしないんだあだれにもいってないからないしょでこんいんとどけかいてふたりだけですんでるどうせいってやつかなあゆびわもらってないけどああいうけいしきなんかどうでもいいせんせいをてにいれればそれで」
他生物の幌。
「ちがったちがったそうじゃないてにはいってないんだよねえどうすればいいでんせつのめいたんてーだよねえおたくせんせいったらがきころされてもあいじんころされてもひょうひょうとしてんのああこまりましたねえとかそんなありえないよじしゅしろとかいってくれたらするかもだけどさかすりもしないねてもねてるだけまあべつにあいがほしいんじゃないからいいんだけどね」
亜生物の頃。
「つぎはせんせいころそっかなあ」
死生物を診ろ。
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