第4話 表装酸素
1
うまく走れない。よろけてふらふらする。拘束されていた手首がじんじん痛む。じらふに手を引いてもらってるが何度も転びそうになる。雨が瞼に攻撃する。眼が開かない。叩きつける雨水が耳に入る。音が聞こえにくい。寒いのに暑い。熱いのに寒い。咳き込むと肺が締め付けられる。足が縺れる。どこへ向かっているのか。出口はないのに。
足音が付いてくる。そうか。逃げているのか。追ってくるのは包丁とくすくすという笑い声。どろどろの道。根っこに躓く。じらふが支えてくれる。どうして私を助けてくれるのだろう。私を逃がしてくれるのだろう。どう考えてもじらふは向こう側の人間。私が部外者で異邦人。餌付け。違う。それは私のほう。気に入られたとしても仲間を裏切ってまで私を助けるか。あり得ない。何か報酬を期待しているのだろうか。いや、それもあり得ない。じらふは何かに執着するように見えない。あってもドーナツ。しかしドーナツはふつちが作っていた。私はドーナツなんか作れない。じらふは何を考えているのだ。わからない。
「じらふゆるさないとまれとまれわたしのじんらいさんをかえせにどとどーなつくえなくしてやる」
もっとわからないのはじらふ以外。どうして私を殺そうとする。私を殺すことで彼らは何らかの快感を得るのだろうか。そうとしか。駄目だ。推理してはいけない。仮説検定は禁じる。
しはを殺したのがそあん。ばらばらに切り分けてプールに浮かべた。そあんを殺したのがふつち。金属バッドで後頭部を一撃。プールに投げ捨てられたが実は生きててふつちを殺した。包丁で背中を抉って。なぼのはあいるに殺された。人体の一部を切り取られたショックで。あいるは睡眠中らしい。満腹になったのだ。なぼのから切り取った肉片と何者かの指をしゃぶって。
「おにーさんきこえる?」
じらふが走りながら振り返る。私は頷く。その動作だけで頭がずきずき痛む。
「そあんぼくがころすおにーさんまもるよゆうないじぶんでかわす」
急に止まったので私は地面を滑る。腕に力が入らない。そあんが向かってくる。もう五メートル以下。じらふは足元に落ちていた枝を拾ってすれ違いざまにそあんの腹部に突き刺す。ほんの一瞬だった。私の瞼が正常に瞬きを行えていたら見逃していた。そあんが自分の腹部とじらふを見比べてくすくす笑う。
「こんなんでしぬかばかどーなつぎれであたままわってない」
じらふは私に一瞥をくれる。
「どこみてんだよばあかしねえ」
じらふは向かってきたそあんの手首を掴んで、その包丁をそあんの喉に突き立てた。赤黒い液体が噴き出る。血の雨。そあんが泥水の上に横たわる。私は両手で後ずさりする。背中に何かが当たる。硬い。木か。違う。
じらふの発言が思い起こされる。今になってようやくその意味がわかる。私が地下に連れて行かれたときにもうひとり人間がいた。その人間が私を地下に運んだ。その人物の攻撃をかわせという意味だった。
「まあじんないさまこんなばしょで」
じらふはこちらを見ない。背を向けて。赤黒い粘液が飛び散る。そあんの首に念入りに包丁を突き立てている。私は声が出ない。動けない。脚が震える。暑い。熱い。寒い。ろなしあが私に腕を回す。顔が近い。暑い熱いあつい。背筋は凍るほど寒いのに。
「みんなしんでしまいましたわああさみしいなぐさめてくださいます」
私は首を振る。やめろ。離れろ。湿った服に肌が吸着する。着衣水泳。
「あいるがおきるまえにしてしまいましょうかふつちがいのちがけでのましてくれたくすりもじゅうぶんすぎるほどにきいているようですしね」
「や、め」
「やめろだなんてそんなことおっしゃらないではじめてしゅくはくされたよるはあんなに」
ろなしあの両手が私を撫で回す。なめくじとヒルを足して二で割ってもこんなに気持ち悪くない。そあんとなぼのも似たようなことをしたがそんな比ではない。ろなしあは私の皮膚の一部になろうとしている。
「しらないならおもいださせてさしあげますわきおくにないなんてひどい」
確かに私は全裸で寝かされていたがそんな記憶はない。眠っている間にそんなことをしたというのか。いやだ。例えそうだったとしても私は知らない。私の所属しない外の世界で起こったことだ。感知し得ない。ろなしあが私の膝の上にのる。私は動けない。動くという選択肢が浮かばない。黒塗りになって消されている。感覚遮断が間に合わない。ふつちに無理やり飲まされたあの塊がいけない。何だ。あれは何だ。下剤でないならひとつしかないではないか。その証拠に体中が火照って仕方ない。これだけ長時間雨に打たれれば体温が奪われてもよさそうなのに私は熱くてやってられない。熱い。心臓が過剰に収縮する。脈拍が上がる。汗も呼吸も。屈してしまいそうだ。屈する相手が強すぎる。むしろ負けたい。負ければ楽に慣れそうな気がする。それがまやかしだということもわかっているのに。ろなしあの表情が弛緩する。鈍い音。私の耳の中から聞こえる。脳だろうか。脳が勝手に作り出した音だろうか。眼前のろなしあの口から赤いものが見える。舌か。舌にしては黒いし細い。液体。粘性の。垂れて。首が横に。
「おきた」
ろなしあの口がそう動いた気がした。首だけが私に向かって倒れてくる。そあんとなぼのがよぎる。同じ。もっと酷い。思わず払いのける。ろなしあの首が地面に転がる。長い髪が箒のように広がる。首から下も少し遅れて私に倒れこんでくる。切り口から赤黒い液体が噴出して私の顔やら上半身に降り注ぐ。錆びた鉄。私はろなしあとつながっていることに気づく。それを必死で引き抜いて地面に捨てる。
小さい影。辺りは暗いのに影が見える。幻視。何かを引きずる気味の悪い音。雨がこんなに激しいのに。幻聴。じらふを探したがいない。そあんの死体もない。後ずさりするだけでそんなに離れたというのか。強烈な視線。あいるが自らと同じくらいの大きさの斧を提げて私をじいと見ている。私は首を振る。意味がない。斧の先に僅かに赤いものが見える気がする。雨が降っているのに。もう流れてしまったはずなのに。あれはもともと染み付いているのか。あいるは微動だにしない。眼で距離感と力の加減を測っている。私を解体するために。何かが飛んでくる。それがあいるの頭に当たる。
「おにーさんぼくのいったこときいてない」
私は脱力する。じらふが私とあいるの間に立ってくれる。泣きそうだった。おそらく泣いている。雨がそれを隠しているだけで。
「あいるじかんかかるはしってあっちまっすぐ」
私は最後の力を振り絞って立ち上がる。それと同時に駆け出す。途中何度も転んだ。泥が口の中に入る。何度も嘔吐する。胃液も出ない。泥と唾液。あっち真っ直ぐ、の意味がわからない。真っ直ぐに進めるわけがない。木が邪魔をする。雨が邪魔をする。進んでも進んでも同じ景色。迷った。こんなところで迷いたくない。そもそもどうして迷った。迷い込めない場所だと誰かが言っていた。おかしい。私に運がないのか。逆だ。いつもの延長。私が歩くと必ず死体に巡り合う。それとしか思えない。目の前で五人も死んでしまった。これからまたもうひとり死ぬだろう。負けたほうが死ぬ。
彼らは全員私が殺したようなものだ。私が関わらなければ彼らは生きられた。私がこんな場所に迷い込んだりしなければ。
もういやだ。
私は探偵ではない。探偵などと名乗った憶えはない。探偵と呼ぶな。ようやく名前を思い出す。
キリュウだ。
鬼が立つでキリュウ。
2
「平日の真昼間から寝腐れるな、探偵」
「俺は探偵じゃない」
私はやおら寝返りを打つ。カーテンを開ける音。眩しい。私は窓と反対側に寝返りを打つ。寒い。布団が取り上げられたらしい。
「起きたらどうだ。もう昼が過ぎる」
「警察は暇な上にやましい」
「警察が暇なことに越したことはない。それに俺は陣内ちひろを監視するという仕事を本部から直々に命じられている。なんらやましいところはないな」
鬼立はこの暑いのにスーツの上下を着込んでいる。ネクタイもしっかり締めて。それについて文句を言うのがわかったのだろう。鬼立は速やかに私の視界から消える。以前暑いからその格好をするな、と訴えたら見なければいい、と言われたからそれを実行した。つくづく意味不明な。
「ほらコーヒー」
「要らない」
「いい加減眼を覚ませ」
「お前が淹れたから飲まない」
コーヒーをかけられるかと覚悟したがさすがに理性の塊を装っているだけのことはある。僅かに手首が動いただけだった。代わりに顔が引き攣っている。鬼立はコーヒーカップをテーブルに置きメガネのブリッジに触れる。銀縁なので光の加減でやたら眩しい。私は布団を取り戻して頭から被る。
「陣内」
私は返答しない。誰がするものか。
「そうやって閉じこもってたら死体に出会わないとでも思ったか。とんだ単細胞だな」
「単細胞で構わない」
「警察に協力するのは市民の義務だ」
「国家権力を笠に着て」
布団が取り払われる。私は耳を塞ぐ。
「協力しろ」
「断る」
「外に出るだけでいい。知ってるだろお前の体質」
鬼立はわざと禁句を言った。言われると激昂する台詞を使って私を奮い立たせようとしている。以前はよく引っ掛かってまんまと外出させられた。
「俺が殺してるかもしれない」
「何を寝ぼけたことを。そうじゃないだろ。証拠は何も」
「俺が出掛けるだけで人が死ぬなら俺が殺していることになる」
「妄想だ。確率の問題だろ。お前が出掛けようが出掛けまいが殺人事件は起こる。その現場にたまたまお前が居合わせただけの」
「自信がない。無意識に完全犯罪を起こしているのかもしれない。警察が無能だから気がつかないだけで」
「下らない。それに警察は無能になった憶えはないな」
目覚まし時計の音。腕時計の音。冷蔵庫の音。
「違うだろ」
「俺じゃない。俺は殺してなんか」
「だったら気にするな。そういうもんだって諦めろ」
私は布団から出て顔を洗う。鏡に情けない顔が映る。私ではないから鬼立か。熱めのシャワーを浴びて着替える。玄関で靴を履く。
「付いてくるな」
「監視だ。どこに行く」
「なんで覆面パトカーなんか」
「ただで乗せてやるんだ。文句があるなら車を買え」
「公共交通機関がある」
「碌に駅名も覚えられない奴がよく言う。最寄り駅の名前はわかったか」
私はしぶしぶ助手席に乗る。覆面パトカーの割に目立つのであまり乗りたくない。車内がうだるほど暑い。鬼立を見たくないので窓の外を眺める。ウィンドウを下げたら怒られた。だったらクーラをもっと強くしろ。
「腹は」
「いい。食欲ない」
「バテられたら困る。それにお前の食事代くらいこちらで」
「税金の無駄遣いだと思わないのか」
「それだけの働きをしてるだろ。いっそ警察に勤めないか。そういう話も出てる」
「そういうことをしてるから国民に愛想を尽かされるんだろう」
「目的地は」
「ない」
赤信号で止まる。鬼立の運転が鈍いから。
「やる気あるのか」
「ない」
鬼立がイライラしているのがわかる。ステアリングの裏をこんこん突く癖がある。青信号に気づくのが遅れて後ろの車にクラクションを鳴らされる。急にアクセルを踏むから私はシートベルトに締め付けられる。
「さすが現役警察官。模範運転だ」
「目的地を言え」
「コンビニ」
「ふざけるな。そこに見えたからって」
「喉が渇いた」
鬼立は私に聞こえるよう舌打ちして乱暴に駐車場に入る。歩行者を轢いたら洒落にならない。辛うじて方向指示器を点滅させたが左右確認はしなかった。私は付いてくるな、と念を押して外に出る。唯一の出入り口を見張れば私は逃げられない。それを言ったら納得したようだった。私はペットボトルを買って店から出る。鬼立が私を睨んでいる。助手席に乗り込んだらすぐに発進した。気は短冊より短い。
「もう一度だけ訊く。目的地は」
「どっかの現役警察官括弧性別男括弧閉じ、が付き纏うおかげで俺は多大な精神的苦痛に苛まれている。こういう場合は民事裁判でいいか」
「ほう、久し振りに喋ったかと思ったらよくもまあ」
「大家さんが心配してくれている」
「じゃあ近々挨拶に行ってくる。僕はこれこれこういうもので仕方なく陣内君に付き添ってるだけなんです、てな」
「これこれこういうものじゃ誤解は解けないな。俺はますます精神的苦痛に押し潰される」
「どこぞの無口が意思表示をしないからそういう誤解をされるんだ。どうせ唯々諾々と聞き流してたんだろ」
「さすが現役警察官様は話術も達者でいらっしゃる。それは是非ご教授願いたいもんだが」
こんこんこんこん。ステアリングをつつく音。
「どうした?」
「いまは勤務中だ」
「へえ、勤務中だと出来ないような場所にでも」
「目的地は」
「やれやれ、昼間っから何考えてんだか」
「陣内」
「なんだ」
鬼立は絶対に限界を超えている。脳神経が一本くらい切れておかしくなっている。見なくてもわかる。四六時中私に付き纏うという仕事内容が祟って彼女と疎遠になっているらしい。風の噂もたまには頼りになる。仕返し。ウィンドウを下げたが大して涼しくない。生温い風が入ってくる。地球は確実に温暖化しているらしい。
「好きでこんなことしてるわけじゃない」
「なら辞めればいい。それだけの話だろう」
「なあ、頼むから協力してくれ。俺の昇進がかかってる」
やはりそういう理由だったか。興醒めではない。予想通りでいっそ清々しい。鬼立はそういう奴だ。私はウィンドウを上げる。
「俺をからかって気が晴れるならいくらでも付き合う。だから」
「遊園地」
鬼立が情けない顔を向ける。運転中なのをすっかり忘れている。ガードレールにぶつかりそうになって慌ててステアリングを切る。間一髪。
「遊園地?」
「最近県内に出来たろ。そこ」
それがいけなかった。
私の第六感はすでに磨耗していた。
3
転んで走って走って転んで息が出来なくなっても走ってようやく辿り着いたのがあの建物だった。
土舎のじらふの部屋から出て、すのこ場を突っ切ってプールに。地下に引きずられてじらふに助けられる。そこからどう走ったのかを憶えておくべきだった。おそらく帰り道を順調に辿っていたのだろう。私はじらふの言うとおりあっちを真っ直ぐ、進んだつもりだった。それなのに雨霞む向こうに浮かび上がったのはプールのある区画。私は逃げられないことを悟った。どこまで行こうが所詮迷い人。正しいルートなど最初から存在しない。必然的に帰り道もあるはずがない。
力が抜けて足から崩れる。雨はひたすら降り続き地面に土砂の川を作り出している。咽喉がからからに干上がっている。この水は飲めないだろうか。そんなことを考えてる辺りからしてもう脳は正常に働いていない。そもそも脳は正常ではなかった。第六感でこれから死体になる人間を発見する能力がまずおかしい。この能力から解放されるなら私はなんだってする。何をすればいい。何をすれば。
「まず礼を言う。私の創り上げた世界を蹂躙してくれてありがとう」
と聞こえた。違う。聞こえてない。聴覚刺激ではない。近いのは脳内に侵入した強制思考挿入。それもテキスト形式の。電光掲示板のように右から左へと文字列が流れる。イメージ。脳内で再生される映像に過ぎない。誰だ。誰がこんな。首に力が入らない。眼球だけで上を見る。脚が二本。細い脚。スカートの裾のような。
「名前は」と光の点滅。
陣内ちひろ、と私は答える。実際に声に出したのかわからない。口が動いただけなのかそれともそう思っただけなのか。例え声に出したとしても雨音に掻き消されて聞こえやしない。
「ちひろと書いてちーろと読むのか。面白い」
どうしてわかったのだろう。私はそれを尋ねる。
「私たちは無言の会話をしている。真空管の中で筆談をするようなもの。あなたは丁寧にルビを振ってくれた。誤読を防ぐために」
確かによく間違えて読まれる。ちひろ、と書いてあれば誰だってそのままちひろだと思うだろう。しかし間違えて読まれることがわかっているなら最初からちーろという表記にすればいい。かほる、ならメジャだからいいが、ちひろはちひろ、という名前のほうがメジャだ。ちーろ、なんていう名前がマイナだから。
「気に入らないのなら変えればいい。本名と偽名の差は」
ない、と私は即答する。電光掲示板にもない、という文字列が流れる。私たちは同時に意見を表明した。ハモったというのだろう。
「私は毘澱しは。毘沙門天のビに、沈澱のデンと書いてビドロ。植物の葉で作られた養分を運搬する師管のシはそもそも篩という意味だったが常用漢字云々の流れでたけかんむりを省略された。それと同じくして沈澱のデンもさんずいを省略された。デンは省略される前のデン」
偽名、と私は尋ねる。
「ショック状態で頭が回っていない。最初に浮かぶべきはしはは死んだはず、という記憶との齟齬。どうして死体が喋るのか、いや死体が自分にメッセージを送りつけてくるのか、という問いを期待していた」
私は頭を掻く。勿論比喩。実際に掻いていない。腕が上がらない。相変わらず私の脳の大部分は眼前を悠々と行く泥水を飲めるかどうか検討している。
「問わないなら私は答えない。違う話をしよう。私はあなたを知っている。あなたが私を知らないだけで。私はよく知っている。伝説の名探偵」
探偵ではない、と私は訂正する。多少不快になる。
「あなたを主役に据えて物語を創れば探偵小説になる。謎解きが主軸となって凄惨な殺人事件の全容はオブラートに包まれる。次の巻になれば探偵は前の事件をすっかり忘れている。毎回リセットされる。なんという好都合」
私は溜息をつく。勿論比喩。実際には私はまともに呼吸も出来ていない。燃費の悪い嫌気呼吸でなんとか場を繋いでいる。口の中は砂漠のようで、食道から胃にかけてむかむかと吐き気がする。
「または自分で探偵を名乗らずとも役割的に探偵をこなす、という物語も多い。むしろそちらのほうが現実、というものに近くて探偵と助手、という古典的関係を超えたバリエーションも豊富。話が逸れた。戻そう。あなたは探偵だ」
探偵ではない、と私は主張する。会議の場だったら力の限りテーブルをどん、と叩き失礼しますも言わずに会議室を飛び出して長い長い階段を駆け下りていた。しかしいま私は泥と雨にまみれて地面に密着している。視界にぼんやりと映ったかもしれないスカートの裾はどこに行ってしまったのだろう。いまは小さな靴を履いた小さな足しか。
「あなたが解決した事件の犯人、と呼んでいいだろうか、彼らの一部に会ったことがある。私が望んで彼らの元へ出向いたこともある。そしてあなたに関する記憶、印象、その他すべてを出力させた。とても探偵とは思えない探偵だ、と」
探偵ではない、と私は怒鳴る。声が枯れるまで叫んだかもしれない。もし声が出れば、の話だが。声帯が機能停止届けを提出してだいぶ経つ。私はきっと自分の声を忘れた。
「時間があるから他の者について紹介をする。死亡順で行けばしはだがしはは私だから最後にしよう。とすると荷戸なぼの。荷物に戸口と書いてニト。近視遠視乱視の三重苦で已む無くメガネを使用している。本人はさほど気に入っていない。よって好意を寄せたあなたに会うときは外してしまう。外してしまえばあなたの顔などまったく見えないにもかかわらず。メガネをかけた自己像の否定。ホモセクシャル。しばしば退行も起き、退行時の記憶はほぼ保持されてのちに罪悪感となる。他人への依存欲求が強いため退行を起こして世話をしてもらいたいと考える。身体接触の延長としてのセックスを切望する。セックスにはア*ルを使用。ペ*スは使わないが精液に執着するためオーラルセックスも頻繁に行う。ペ*スを切り落とされてショック死するのも無理はない。それが仲のいいと思っていたあいるだったから尚ショックだろう」
それを聞かせてどうする気だ、と私は訊く。
「どうもしない。死者への手向けだ。聞き流せばいい。次は我暮ふつち。我が暮らすと書いてガボ。一見快楽殺人者に見えるがそうではない。彼は逃げる相手を追い詰めてその恐怖の表情を眺めるのを好むが殺す際に射精は伴わない。気が短いので一瞬で殺してしまうことのほうが多い。本人が野球という暗喩を使用していることからもその目的はボールに見立てた頭蓋骨を金属バットで粉砕することにある。自我が保たれていない不安定な状況下で他者を受け入れると自我が危機に曝される。それを何よりも恐れて相手を馬鹿にした話し方をする。一番の古株と思われるろなしあに表向きは従うことで自我の評価を高い位置に押し上げる。性欲はこの仮面的暴力性によって昇華されるため実際のセックスという行為に興味はない。むしろ嫌悪しているところがあり性行為に固執するそあんとなぼのを憎む。似た嗜好のろなしあを同列で忌避しないのは先の理由による。そのろなしが気に入っているであろうじらふのためにわざわざドーナツを焼く。彼の自我はおそらくこの中の誰よりも脆い」
私は聞いているふりをする。大学で心理学を齧ったのでおぼろげに内容は摑めるがそれがなんだというのだろう。診断が要らないわけではないがそれを超えたところに治療が存在する。あなたは○○病ですね、と病名を言ったところで本人にとっては何の解決にもならない。悩んでいる人はいまこの状況に苦しんでいる。それを何とかするのが。
「私はカウンセラではない。勿論精神科の医師でもない。私の観察結果を述べただけの話。私は彼らを治療する気はない。その義務もないし彼らもそれを望んでいない。本人の個人的苦悩がなければそれは病気とは言わないが、周囲の人間が困ったから已む無く連れてきた。本人への了承も事後承諾で取り付けたから倫理面も心配ない。次は見事なまでの死んだふりをやってのけた来尾そあん。来る尾っぽと書いてキシオ。窃視症や露出症、サディズムマゾヒズムの雰囲気も兼ね備える。生物学的男なら誰にでも発情する。彼らの精液を最後の一滴まで搾り取り、少しでも出が悪くなったり勃起に強度がなくなってくると彼らを絶望させた形で殺す。このことからふつちが言ったセックス自体に愉しみを見出すニンフォマニアというよりは、セックスを通して男性的原理の抹殺を試みているとしたほうがいい。セックス中もイニシアチヴは常に彼女にあり男性は厳重に拘束され身動きが取れない姿勢のことが多い。その彼女が真っ先にあなたを犯しに来なかったのは嫌っているろなしあが最初の夜にあなたに付きっ切りだった挙句、自分より格下に見ていたしはにまで先を越されたという憎悪があったから。彼女が嫉妬に駆られると視覚狭窄に陥り意に反して行動が制限される。独占欲も強く自己中心的、演技性も考えられる。なぼのは同属と認識していたがふつちは憎悪の対象だった。ここからも典型的な男性的男性に嫌悪を抱いていたことがわかる」
彼らをここに閉じ込めていたのはあなたか、と私は訊いてみる。本気で質問したかったわけではない。どうだってよかった。訊いてほしそうだったから訊いた。
「閉じ込めた憶えはない。出ようと思えば出られる。出口も一番最初に示した。逃げたい者がいれば止めない、追わない、一度逃げれば決して連れ戻さない。私は彼らに不干渉を貫いた。それでも逃げ出さないのだから彼らはここが気に入ったと見ていい」
あなたの狙い通り、と私は相槌代わりに言う。
「次はどちらだろうか。じらふとあいる。決着がついたかどうか私はまだ感知していない。あなたの意見を聞く。どちらが死んだか」
わからない、と私は言う。
「希望ならばじらふ。だがじらふのあの言いようから考えてもしかしたらあいる。私もまったくの同意見。彼らは双璧と言っていい。じらふとそあん、あいるとろなしあの戦闘を思い出してくれればわかる。じらふは慣れている。あいるは躊躇いがない。じらふが勝っていればあなたは助かるかもしれない。あいるが勝っていればあなたは間違いなく餌になる。あいるはカニバリズムに魅入られている。食事は人肉のみ。血液や体液も好む。構音になんら障害はない上に乳幼児期は言語を発したという証言もある。よって彼に言語的行動がないのはカニバリズムの副作用だと考えられる。または喋りたくとも喋ることが出来ないという転換性の可能性もある。自らの意志を伝える意志は残存しているためコミュニケーションは不全にならない。名をいうのを忘れていた。玄狩あいる。玄武に狩人と書いてクロカリ。ついでにじらふも言うとしよう。久々津じらふ。久しいを二つ重ねて津々浦々。それでクグツ。彼は」
電光掲示板の光が弱まる。ついに消えてしまった。眼前の足も瞬時に遠ざかる。何かを引きずる音。すごく近い。地鳴り。雷。生温かい液体が私の頬を伝う。血液か唾液。私は眼球を動かす。錆びた鉄のにおい。それは金属だろうか。見覚えがある。なぼのの性器を切り落とし、ろなしあの首を飛ばしたあれだ。斧。あいるがしゃがんで私の顔を覗き込む。私は眼を逸らせない。逸らしたら私の首が飛ぶ。斧はうつ伏せになった私の首の真上にある。見なくともそのくらいわかる。学習。斧を持っていないほうの手に何かを握っている。腕のようだった。細い腕。じらふの腕だ。あいるはそれを私の背中にのせる。いやに重い。ずっしりと厭な重さ。
「じらふは死んだのか」
それは私の声ではないように聞こえる。おそらく違うのだろう。私の口はそう言ったつもりだが本当にそう言えたかどうかわからない。あいるは首を傾げる。伝わらなかったようだ。じらふの生死くらいは知っておきたかったのに。
あいるは斧を固定したまま私の周りをぐるぐると回る。古代の生贄の儀式のようだ。いや、生贄ではないか。私はこれから死ぬのだ。走馬灯だかを期待したが私の脳はすでに機能していない。記憶の引き出しがどこにあるのかも探せない。単に思い出すようなことがないだけか。遺言を言うとしたらなんだろう。考えておけばよかった。あいるに聞かせる最後の言葉が浮かばない。美味しく食べてください、とかわけのわからないことが思いついて笑いたくなる。ブラックユーモアも甚だしい。そういえばろなしあの名字を聞いていない。それが心残りか。どうせ憶えられないくせに。最寄り駅の名前だってまだ駄目だ。
あいるの足が止まる。狙いを定めたらしい。ああ終わりだ。言葉が出てこない。私は非言語の世界にいる。
「露壇ろなしあと申します。露西亜に祭壇でロダン」
幻聴か。電光掲示板的メッセージではない。確かに耳から聞こえた気がした。思考挿入でもない。ろなしあの声だ。少女のような大人の女性のような。あり得ない。彼女は私の眼前で首を。私は恐る恐る眼球を動かす。背中の厭な重みから開放されていることに気づく。腕はどこに。それとも単に慣れただけ。
私は何かに支えられて体を起こす。脳が攪拌されているかのように頭がぐらぐらする。上体を起こすだけで精一杯だった。ろなしあの身に付けていた衣装にによく似たドレスの裾が見える。中央のスリット部分から白い太腿がのぞく。細い肩に長い黒髪がかかる。ちっとも濡れていなかった。まるでこの人間の上空だけ雨が降っていないかのような。
「まあ陣内さま、こんなところに。よかった。捜しましたのよ」
首から上はエメラルド色の傘で隠されている。私の記憶が現実なら首から上はそこにはない。しかしどうして首から上がないのに話しているのだ。言語は口から発声するのではないのか。それにもっと根本的に変なことがある。首を切り落とされた人間は死ぬ。ろなしあは首から上がないのに生存が可能とでも。
「もうすぐ夕食の準備が出来ますの。先にお風呂へどうぞ。そのままでは気持ちが悪いでしょう?」
私は失神しそうになる。
ろなしあの口元が弛緩した。
4
電話。盗聴。盗撮。
どれも妄想。
ついにあいつの声が脳内から聞こえるようになった。
「なんできてくれなかった」
知らない。
「めいたんていなんじゃないのかな」
知らない。
「ころしたよがきを」
知るわけない。
「よみちでつかまえてかんきんしてなぶりごろした」
知りたくない。
「がきのくせにボクがめをつけたせんせいとねやがって」
耳を塞いでも。
「あれぜったいわかってたびやくいりこうちゃごくごくのんじゃってさ」
集中阻害しても。
「ああそうそういうふざけたがきだけどいちおうワタシのこれくしょんについかしたからこんどみにきて」
他の事を考えても。
「いつかてんらんかいなんかひらけたらいいよねそのときはきてくれるよねそのおとくいのしっくすせんすでかぎつけてよお」
流れ込んで。
どろどろ。
雪崩れる。
「おたくがきてくれないとさオレがなんのためにこれくしょんふやしてんのかわかんないわけよいまなんぼんだろいまかぞえてみるねえちょっとまってまずおたくのからだよねえいいちにいさあんしいごおろおくしいちはあちきゅうう」
土葬。
水葬。
空葬。
鳥葬。
「わかんなくなっちゃった」
火葬。
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