第3話 包装窒素
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酷い目に遭ってばかりだ。私は帰り道を探していただけなのに。
背中がじんじんして起き上がれない。鐘の余韻のように重厚に。足も痛い。走りすぎたせいか。金属バッドの打撃か。体中がどんより思い。あざだらけだろう。
周囲を見るまでもない。またあの部屋。私はベッドに仰向けで寝かされている。財布もキーホルダも腕時計もある。窓の外は真っ暗だった。まだ今日中なのだろうか。ドアが開いている。あいるがドアの陰に潜んでいる。私の眼をじいと見つめている。
「なんだ」
言い方が素っ気なかったか、あいるが怯えたように見えた。
「悪い。別に君が悪いわけじゃない」
あいるがベッド脇に近づく。一歩一歩跳びながら、けんけんぱ、のように。私は首を動かすのも辛かった。ビビッと電撃が走る。攣っている。あいるが私の左手を観察している。何か面白いのだろうか。
「君は帰り道について何か知らないか」
あいるが首を振る。申し訳なさそうな顔をする。
「いや、知らないならいい。ここに地下室はないか」
あいるは首を傾げる。やはり知らないか。
「起きていたらでいい。誰か呼んできてくれ。出来ればなぼのかそあん」
しはとふつちが厭だから消去法。
あいるは頷いて部屋を飛び出す。私は首を動かせないので天井を見るしかない。蛍光灯が切れかかっている。点滅するインターバルが開きすぎている。あいるがそあんを連れてきてくれた。二人とも走ってくる。
「元気?」
「そうでもない。聞きたいことがある」
「いいよ」
「帰り道を知ってるか」
「うーん」
「ここに地下がないか」
「うん」
「あるのか?」
そあんは誰も居ないほうを見てくすくす笑う。あいるが欠伸してベッドの上に腰掛ける。私の居ない場所に座ってくれた。なによりだ。
「知らないよ」
「あることはある。でも君はその出入り口を知らない。そういうことか」
「うん」
「誰なら知ってる」
「うーん」
「ろなしあか」
「うん」
「ふつち」
「うん」
「なぼの」
「うーん」
「じらふ」
「うーん」
「わかった。ありがとう」
「今日はお休み?」
「まだ今日なのか」
「うーん」
「何か飲みたい。頼めるか」
あいるが私の顔を見る。どうやら志願してくれている。何を持ってくればいい、と尋ねているようだった。
「酒は」
「ろなしあに言えばいいよ」
子どもにアルコールの買出しに行かせるようでいまさら気が引ける。実質上そうだろう。あいるはすぐに缶ビールを持ってきてくれた。私はゆっくり上体を起こす。背中に激痛が走る。そあんがオレンジジュースをちびちび飲む。ついでに持ってこさせたらしい。あいるも飲んでいるから気にしなくていいか。
「お風呂?」
「遠慮する。これ飲んだら寝るよ」
「ゲームしよう」
「いや、これ以上起き上がれない」
「だいじょーぶ」
止めようと思ったときすでにそあんは部屋から出ていた。どこからかトランプを持ってきて手際よく三つの山に分ける。そのひとつを私にくれた。
「じじ抜き」
よく見たら箱の下にカードが一枚ある。私は一回だけ、という約束で付き合うことにした。本当はやりたくなかった。そあんがくすくす笑うたびに、ふつちのげらげら笑いが浮かぶ。あの眼はまざまざと思い出せる。結果的に私は殺されなかったようだが、あれは性質の悪い脅しだったと考えたほうがいいかもしれない。勝手な真似をするな、という意味の言葉ならふつちからたくさん受け取っている。それの延長だろう。しかし私はどうしても帰り道を見つけたい。いつまでもここにいたくない。
「ジンライさん負け」
「悪いが陣内だ」
「ジンライ?」
端から勝負などどうでもよかった。私の思考は地下室への出入り口で占められている。そあんがじじのカードを見せてくれた。私の持っている最後のカードをペアになるのだからもうわかっている。あいるが私の肩をつつく。哀しそうな顔に見える。
「もう寝る?」
「寝るよ」
「おやすみ」
あいるが手を振るので私も振った。二人が部屋を出てから私はベッドに横になる。アルコールには強いほうなので一缶では何の意味もない。こんな中途半端なら飲まなければよかったかもしれない。どんどん気が弱くなってくる。そもそも私は気が弱かったのだろうか。自己暗示だ。気が弱いと思えば気が弱いし、そうでないと思えばそうでない。なんだかもうどちらでもよくなってくる。気が弱くたって強くたって陣内だってジンライだって。
うとうとしていたと思う。窓の外は相変わらず暗い。窓の外側に黒い画用紙が貼られているだけかもしれない。ペンキで黒に塗られているだけかもしれない。ここには時刻も日付もないのだ。私の時計は死んでいる。
腹に圧迫感がある。じらふがのっている。私のハンカチらしき布をひらひらさせて。
「返す?」
「そのほうがうれしい」
「欲しい」
「時計を返してくれたのは君か」
「取りに来ない。つまんない」
「ハンカチも」
「追いかけない。僕嫌い?」
「嫌いではないと思うが」
「好き?」
「好きでもないと思うが」
「地下見つける?」
「どこなんだ」
「入ったら出れない」
「どこかに続いてるはずだ。食料は」
「買ってくる。当番」
「まさか」
「当番だと居ない」
「地下が帰り道じゃないのか」
「違う。地下ダメ」
じらふが顔を寄せる。鼻先が触れそうだった。
「ダメ」
「わかった。地下は探さない」
「みんな会議。聞く?」
「悪いが起きれないんだ。それに会議なら部外者の私は」
じらふは私の腕を引っ張って無理矢理引きずり出す。凄まじい力だったため私はベッドから転げ落ちそうになる。
「ちょっと待て。背中が痛いんだ」
「バッド?」
知っている。
「ふつち上手。後ろ」
言われるままに背を向けると、じらふは私の服の下に手を入れて背中を撫でる。患部を探しているみたいだった。
「ちょっと痛い」
と言うが早いか背中に激痛が走る。私はベッドに倒れこんでしまった。眼から水が流れる。欠伸と同列だろう。私はしばらく呼吸しか出来なかった。視界が真っ白になって無音の世界に置き去りにされたみたいだった。
「治った」
ようやくじらふの声が聞こえてくる。私は恐る恐る体を起こす。本当だった。背中はもう痛くない。それどころか身体全域に圧し掛かっていた、絡みつくような気持ちの悪い重さが残らずなくなっている。体重が半分くらい減ったみたいだった。実際に半分になったらまずいが。じらふは廊下に出ている。
「行く?」
「いや」
「欲しい?」
「それはやるよ。血がついてて悪いが」
「あいるが欲しそうだけどあげない。包帯もらってたからずるい」
包帯はなぼのが洗ってくれたはずでは。
「ビール?」
「どこにある」
「こっち」
足が多少痛むが歩けないことはない。私はビールに釣られている。なぼのの言った餌付けは本当だったのかもしれない。火舎の台所に入る。冷蔵庫に入っていた缶ビールをじらふに手渡される。冷やされているということは誰か飲むのだろうか。私は缶を三つ抱えて向かいの風舎に入る。
じらふが静かに、というジェスチュアをした。鍵のかかってた部屋の前で立ち止まる。廊下が暗いのでドアの隙間から明かりが漏れる。じらふが壁に耳をつけた。真似しろ、という動作をされたが私は首を振る。そんなことしなくても話し声が聞こえるのだ。
「だからあいつ愉しくねっての。気絶すんだぜ超びびり」
「僕が留守の間になんだかなあ」
「お前も結局何もしなかったんだろ。興醒めだったんじゃねえの?」
床に何かを叩きつける音。液体と個体の中間のような柔らかいものが半壊。
「ちょ、まじ? うわ、えげつね」
「へえ、ますます参ったなあ。僕だってちょっぴり狙ってんのにさ」
「何ほざいてんだ? 空振りだったって聞いたぜ」
「趣向が間違っただけだよ。子どもには手が出せないみたい」
何かを握りつぶした音。粘液が飛び散るかのような。
「お前はどうよ。ま、うまくいってねえみてえだけど」
「さっきね、遊んでもらった。弱い」
「単にやる気がないのでしょう。誰かさんが勇み足するからよ」
「俺じゃねえだろ一番はこいつ。それにあんたはどうせ」
何かが引きちぎられる音。肉を裂いている。
「げえ、ダメだね俺は。野球のがいいね」
「さあてそんな野球少年に問題。野球は何人でやるのかな。鬼ごっこもさ」
「うっせマジてめえ黙れ。逆恨みかよ」
じらふがドアから離れた。潮時らしい。私はじらふに倣ってすり足で土舎の突き当たりに戻る。ベッドに腰掛けてビールを一気に二缶飲んだ。
混乱している。混乱しているのがわかる。
情報の整理が追いつかない。処理速度が間に合わない。
「ここ、ろなしあの部屋。おにーさん、僕の部屋来る?」
私は未開封の缶を持って廊下に出る。
2
じらふの部屋は土舎に入ってすぐ右だった。照明を点けないまま中に踏み込む。そもそも照明がないのかもしれない。私は窓の前に座って一息でビールを流し込んだ。月も星も出ていない。やはり外側から黒い紙が貼られているのだろう。
「逃げる?」
「無理だよ」
「僕が逃がす?」
「余計なことはしなくていい」
「逃がしてあげてもいいよ」
缶が転がる。体の力が抜けて落としてしまった。
どうせ空だ。
どうせ体。
「なかったふり」
「出来ない」
「おにーさん、死ぬ?」
「まだ死にたくない」
「ふりのほうが楽。ふりすれば少し延びる」
「延びるだけか」
「逃げればもっと延びる」
「出来るのか」
「僕出来る。見つかっても僕なら逃げれる。おにーさん、本気」
缶四本にしては速い。ふわふわする。そういう物質を投与されたみたいだ。
「君たちは」
「聞いたら帰れない」
「質問を変える。君はなぜ」
「こっちだとおにーさん、いま死ぬ」
「俺は」
部屋がノックされる。じらふが私の手に☓を書く。
「おい、意味ねえって言ったろ。蹴破るぜ」
じらふはもう一度☓を書く。
「にーさん、眠れないなら僕の部屋にしようよ。好きなぬいぐるみあげちゃうしさ」
また☓。私は震えが止まらない。
「遊ぼうよジンライさん。神経衰弱」
それでも☓。私は呼吸を止められない。
「陣内さま、お部屋を離れられると困りますわ。早くお戻りになって」
じらふは☓を書かない。窓を開ける。しかしそこから出るわけではない。外をのぞいているようだった。私の顔を見て首を振る。
「見逃してやったろ」
ドアを蹴飛ばす。
「僕に顔見せてよ、にーさん」
ドアを叩く。
「ジンライさん弱い弱い」
ドアを揺らす。
「陣内さま」
「おにーさん間違った。間違ったのに殺す?」
心臓が止まるかと思った。じらふがドアの前に立つ。げらげらくすくす。窓の外に誰かいる。ガラスに張り付いている。二つの眼が訴えるのは虚無。私はじらふの足元まで後ずさりする。しはだ。爪を立ててガラスを引っ掻いている。
「庇うのかしら」
「過程はどうでもいんだよ。結果的に」
「酷いよ。僕は純粋に気に入って」
「仲良くしたーい」
ガラスに何が当たった。どろどろしたものが流れる。血だ。離れたところから誰かが何かの破片を投げつけている。厭だ。考えたくない。その形は切り取られた人体の一部にしか見えない。窓枠ががたがた鳴動。顔が見えない。背が低いからだ。跳躍して血まみれの手形を付ける。あいるだ。口の端から液体が滴る。
「今日はダメ」
おそらくじらふの声。嗤い声が遠のく。私の意識も遠のく。酔いが回ったか。あんな少量で。
空気が湿っている。雨か。
ざあざあ音がする。雨だ。
最初に見た死体は誰だったか。次に見た死体は。その次は。その次の次。次の次の次。次の次の次の次の。
私の通り道には必ずと言っていいほど躯が転がっている。勿論私に身に憶えはない。実際私が殺ったという証拠は何もない。しかし流石に立て続けなので一時期警察に疑われ監視されたこともあった。私の行く先々に付き纏う行為が果たして合法なのか違法なのかではなく、私には警察官の知り合いが居る。どこで知り合ったかは忘れた。私のもの覚えが壊滅的だ、と指摘したのが彼だった気がする。顔を見ても時々名前を思い出せないことがあるし、今だって必死に記憶を辿って最初の文字が確か「き」だったことに気づく。その先は駄目だ。皆目見当つかない。
死体だけなら我慢できたかもしれない。或いは死体を発見するだけなら。警察に事情を説明するのは構わない。それで終わりならどんなによかったか。惜しむらくは一番最初に見てしまった死体。その彼や彼女がいけなかったわけではない。彼や彼女は殺された、と警察は判断した。
私は直感的に「犯人」を悟ったのでつい個人的に鎌を掛けてしまった。第一発見者というだけでおよそ関係ない私をいつまでも拘束する警察に怒りを覚えていたのだろう。もしくは死者のせめてもの供養にと。「犯人」は自首した。「事件」は解決に導かれたが、それがすべての元凶だった。
私はそれ以来、出掛ける先で死体に出会う。そして直感的に「犯人」を悟ってしまう。もう言わずに済ませることは出来ない。警察は私にそれを期待する。「白状」してしまえばすぐに「解決」するのだから、私も残らず喋って一秒でも早く自由になりたい。まるで拷問だ。私はなんら悪いことをしていないというのに。むしろ私は「いいこと」をしている気でいた。復讐代理人のような気でいた。それが単なる思い込みの延長だと気づくのはそれからずっとあと。
床で眠ってしまったらしい。板張りなのに背中はちっとも痛くない。じらふに感謝か。
暗幕のようなカーテンが閉まっている。窓の外を見る勇気はなかった。隙間から漏れる微かな光が鈍い。曇りなのかもしれない。違う。雨音。ドアにカギがかかっている。外からだ。体当たりする活力はなかった。窓から逃げるという選択肢はない。カーテンに近づけない。カーテンを開けた向こうにあるガラスが怖い。生気の欠片もないしはの顔。血みどろの肉片を投げるあいる。
しかし雨水で流れて、いや、例え流れ落ちていたとしても記憶で見える。実際になくたって私の脳の中に鮮烈なイメージが残っている。私にとってはそちらが紛うことなき真実だ。
私は殺されるのか。彼らの中の誰かに、というより寄ってたかってじわじわ死んでいくのかもしれない。私が何をしたと言うのだろう。私は彼らのことなどどうでもいい。ここを出たらすっぽり忘れてしまえる自信がある。この奇妙な集団について語ることは何もない。何のためにここにいるのか。どうして閉じ込められることになったのか。食料はどこから入手するのか。何もかも興味がない。
じらふの部屋はろなしあの部屋以上に簡素だった。天井に照明具がない。壁を触って部屋を一周したがスイッチらしきものはなさそうだ。ベッドもテーブルもない。唯一家具らしい家具は玉座のような椅子。それが部屋の角にぽつんとある。
背もたれと腰掛ける部分の角度は直角で、つやつや光沢のある布が張られている。色は赤と黒の中間。肘掛や脚部分に蔦のような模様が彫られており、古めかしい病棟を思わせる土舎には似つかわしくない。浮いた存在。椅子に腰掛けるじらふの姿が想像できない。雰囲気ならろなしあだろうが、もしかしたら譲り受けたのか。だとしてもどうしてこのような場違いな椅子がここに。
背もたれが壁に密着している。私でなかったら座っていたかもしれない。玉座の気分を味わうために踏ん反り返る。そうすると背もたれがひっくり返り、座る部分が背もたれの位置に来る。この椅子は背もたれと座る部分に差異がない。単にどちらが床に垂直か平行か。それによって役割が決まる。壁が刳り貫かれているので背もたれに付いた脚に気づかない。
薄闇の中、壁伝いに螺旋階段が下に続いている。どうやら地下のへの入り口を見つけてしまった。入りたくない。このまま何もなかったように玉座を戻しておきたい。出来る。いまなら間に合う。誰も見ていないのだから。私はゆっくり椅子を起こす。手が震える。息が上がる。どうして私は余計なことを。
「みいつけた?」
そあんだ。地に寝そべって私を見ている。さっきはいなかったはず。眼球がぎょろぎょろ動く。衣服と呼ばれるものを何も纏っていない。白い肩と白い腕。結わえられた髪が揺れる。
「おいでちかはここ」
私は眼が逸らせない。
「みんないるよさがしてた?」
私は筋肉が動かない。
「じんら」
私は玉座を元に戻す。何の意味もない。そあんが背もたれとの隙間からのぞく。血走った大きな眼球が私を捉える。小さい指が私に向かって伸ばされる。
「しはやった」
意味が取れない。
「ろなしあもふっちもなぼちゃんもあいるんも」
意味が。
「ずるいみんなわたしだけがまんじらふがいちばんずるいなんでなかよく」
白い塊が近づいてくる。玉座が横転する。粘液が床に滴る。それが血だとわかるまでにだいぶ時間がかかる。主に腹部と膝付近が赤黒い。怪我をしているのか。
「ちだれのかわかる?」
私は思考を凍結させる。そんなことをしなくても元より動かない。
「あのひときらいだからいいよねわたしのあそびあいてだもんね」
私はカーテンを開ける。私は窓を開ける。
「ぬれちゃ」
土砂降りだった。構わない。すのこ場を突っ切る。振り返るまでもない。ぺちゃぺちゃという音。そあんが追ってくる。プールが見える。こちらに逃げるつもりはなかった。間違えた。視界不良。二五メートルプールに何かが浮いている。水が赤くなっている。うねうねと赤い線が揺らめく。絵の具だったらどんなにいいか。ペンキだったらどんなに。
死体。
うつ伏せで雨に打たれている。おそらくうつ伏せだ。顔がないのだから。顔が潰されているのか。だが髪が。後頭部だろう。体と腕の距離が離れすぎている。どうして脚が頭の上にあるのだ。どうして指が向こう岸にあるのだ。
「だいじょーぶ?」
すぐ後ろに人間の気配。振り向きたくない。何かが私の指を撫でる。雨にしては冷たい。液体にしては感触が残留する。
「まだころさないよじんらいさんはまだあそんでない」
「だ、れ」
やっとそれだけ言えた。私の指はまだ何かに触れている。私の眼球は水面に浮く赤い液体に固定されている。知りたくない。わからない。
「だれならこわいだれならいやだだれなら」
脚の力が抜ける。私はおそらくプールサイドに膝をつける。髪が長い。長い黒髪が赤い液体に絡まる。プールで遊んでいた人間なんかひとりしかいない。黄色いアヒルの首がない。雨の攻撃が激しいらしく転覆している。急に息が苦しくなる。鼻も口も空気を吸い込めない。首を絞められているのか。違う。私は水の中にいる。プールだ。そあんが私の背中を押した。私の手が何かを掴む。すごく冷たい。細い。腕。
死体の腕。
したい脳で。
水の外に出ても水が降り注ぐ。プールから上がれない。岸にそあんがいる。そあんが私の頭を水の中に戻す。両手なのか足なのか。凄まじい力で押さえつけられる。息が吸えない。代わりに塩素の水を飲み込む。鉄の味。誰の血。誰の血だろう。これはいったい誰の血なんだ。吐きたい。水を吐き出したい。不味い。水の中にいたくない。外気に触れたい。そあんはそれを許さない。苦しい。肺の中に気体を取り込みたい。
私は脳天を押さえつける何かを必死に掴む。それを力いっぱい引っ張る。残っていた最後の力を振り絞って。これが失敗したら私は確実に。泡。水中でそあんの顔が見える。笑っている。無音の世界でくすくす笑っている。私は必死に水を掻く。息が耐えそう。吸っている時間が惜しい。とにかく水から離れたい。岸に着いたが手に力が入らない。脚に何かが絡まる。
「だあめわたしとあそんでよ」
そあんは私の身体を伝って水から上がろうとする。膝。腿。背。私はそれを振り払えない。水溜りで滑ったところを仰向けにされる。腹にそあんがしがみ付く。二本の腕が私の首を拘束する。振り向けない。耳に生温い息がかかる。
「ずぶぬれたにーさんもいいね」
唾液だけで発された音声。なぼの。声でわかったのではない。そあんの口がなぼちゃん、と動いたような気がした。だから私を羽交い絞めにしている人間が誰なのか私にはわからない。皮膚を毛虫が這っているような悪寒。私の服の下を何かが這いずり回っている。それが私の内股に辿り着く。私は視覚映像の認識を放棄する。私は聴覚音響の認識を拒絶する。私は感覚刺激の認識を。
「でた」
私は胃の中のものをすべて吐き出した。入っているものは血液の塩素水割り。胃液も混ざっている。口の端にぬらぬらしたものが当たる。私を羽交い絞めにしている人間が私の顔や首筋を舐めている。私の吐瀉物を啜っている。酸性の雨水と共に。
「あーずるい」
「そっちのほうがずるいよぼくだってそれほしいもういっかいでたらこうたい」
「やあだからだじゅうさわってもらったくせに」
「そあんはからになるまでしぼりとってちょっとでもでがわるくなるとためらいなくころすからひじょうだよぼくのばんになるまでに」
「へんたいせいとうさくやろう」
「いやいやそれほどでも」
「しきゅうもないくせにえらそうなこというなよ」
「そあんにないけどぼくにはあるものがあるんだけどなあ」
「そんなものいらないわたしはじんらいさんがいい」
「ぼくだってにーさんすきなんだからはやくかわってよほらおわり」
「いやだあゆびでもかりてなぐさめろ」
轟音がした。雷ではない。私の膝に乗っていたそあんが私に向かって倒れてくる。赤い線が滲む。頭頂が私の肩に触れる。私の服がたちまち赤く染まる。
「こりゃあでっどぼーるだなうげえきしょくわりいおまえらなめくじかよ」
「さんきゅうかんしゃああもしやしきゅうとかけた?」
「はあいみわかんねだれがおまえなんかたすけるかよみるにたえねえからぶんなぐっただけにきまってるだろなにぜんらですりよってんだよこのにんふぉまにあ」
金属バッドの先から赤い液体が滴る。私は顔を上げられない。足が見える。泥だらけのサンダル。金属バッドから浮かぶ人間は一人しかいない。ふつち。しかし声が大量に降り注ぐ豪雨に掻き消されてよく聞こえない。外耳が音を拾うのを放棄しただけのようにも。水飛沫が上がる。そあんがプールに投げ捨てられる。誰がやったのかわからない。私の膝の上がまた重くなる。
「やったあこんどぼくねうれしいなあぼくはおっさんとかじじいとかよりにーさんくらいのほうがこのみだから」
破壊音。石が粉々になるような凄まじい音。金属バッドが雨を切っただけではこんな音はしない。プールサイドに敷き詰められた石だ。それを金属バッドが砂に変えている。
「うるさいよふっちほかでやってくれないかなあ」
「てめえのきがちりゃとちゅうでやめんだろはやくそこどけよあのしきじょうきょうみてえになりてえか」
「どうせししせつだんごうもんするんだよねだったらこれもそのてだすけにならない」
「さあなあろなしあにきけよおれはそいつのずがいこつたたきわりたくてしょうがねえんださっさとほーむらんうちてえ」
「ろなしははもうたべちゃってるんだよさいしょににーさんひろったときにじぶんのへやにはこんでかんびょうするとかうそついてさそういうのひきょうだとおもわない」
「それをのぞいておなってたてめえはなんだよせっししょう」
「せっししょうはそあんだよぼくはそんなしんだんついてないかいはつされたかなあまりにもおやじしかもらえないから」
「じらふはどうしたよいねえじゃねえか」
「ろなしあがたべてるんじゃないまえからかわいいていってたし」
「うわきもちわりいとうとうほうかいだなまあさいしょからきょうぞんはふかのうだろうよでもじらふならおれがかちわってやりたかったまだまにあうかあいつのうのなかぜってえどーなつだらけだぜみてみてえ」
私はまた嘔吐しそうになった。しかし吐くものは何も残っていない。口腔内にぬめぬめしたものが入ってきて出口を塞がれてしまう。錆びた鉄の味がする。私は鼻で呼吸するしかないがプールに落とされたときに片方詰まってしまった。苦しくて仕方がない。歯ががちがちする。金属バッド。げらげら笑いが雨音と合唱する。
「げろはあとにとっとけよぱくぱくすっからこれでもしゃぶってろそこでうかんでるはつじょうおんなのけつえきついてるぜ」
「ありゃりゃありっぱにへんたいだよねふっち」
「うーわつねづねのうがいかれてるんじゃねえかとおもってたがやっぱりいかれてたかそんなにくわえてえならおれのくわえさせてやってもいいんだぜ」
「ぼくのはじょうぶだからかみきっちゃうよ」
「やってみろよほらせ*えきのみたくてきんだんしょうじょうでてるくせによお」
「あれえあいるじゃん」
「まじなんであいついましょくじ」
バッドを押し付ける力が弱まる。ようやく吐き出せたが頭がずきずきする。酸素が足りない。咳き込みたくても吐き気のほうが勝っていて嗚咽になってしまう。画面に白いものがちらつく。飛蚊症アメーバが縦横無尽に動き回る。赤い斑点が飛び散る。視線。悲鳴と笑い声が同時に聞こえる。私の腹部がいやに重い。その鈍く光るものは何だ。小さい後頭部が見える。
「ったたいたいたいああああああいたいよいたいいあいやだっやああっあああやめてやだかえしてかえせぼくのそれはぼくの」
「ぎゃははっはっはははわっはっはうわざまあみろいいじゃねえかどうせおまえつかってねえだろうがよおおはっははあっはは」
「やめてはんれろやあだやだっやあ」
あいるの顔は血だらけだった。私の腹部も血だらけ。私の膝に座っている人間の下半身も血だらけ。なぼのらしき悲鳴が途切れ途切れになってくる。そこに転がっているものに見覚えがある。人体の一部。誰の。誰が切り取った。赤い線と白い線。あいるが私の首筋に歯を立てる。痛みは感じない。麻痺。麻酔。
「げえてめえまさかそれくうのわりいがおれのみてねえとこで」
3
鼻に水が入る。むせる。少しだけ空気を取り入れる。鼻に水が入る。むせる。少しだけ空気を取り入れる。私はそればかり繰り返す。鼻の奥が痛い。仰向けなので吐いたものは私の顔に留まる。雨はなかなか流してくれない。酸い液体が垂れる。黒のような白のような。刺激臭はもう感じない。順応。
「もういいかあだいたいおまえめしくってたんじゃなかったのかよ」
金属バッドがあいるの頭を小突く。手加減しているのだろう。順番待ちでイライラしているようにも見える。なぼのは私に密着して僅かに痙攣している。幼子が覚えたての経を唱えるが如き奇怪な声が徐々に沈静化する。ふつちはなぼのをバッドの先で乱暴に剥がしてプールに落とす。水飛沫。降り注ぐ雨粒が大きくなってくる。
死体が三つ。
「かいたいはおまえにまかせるとしてどっからぶっこわそうかあたまはさいごだろでもまずいっかいくらいいしきぶっとばしてもいいか」
あいるの唇の間に何かがのぞく。爪。指先。唾液とも血液ともつかない粘液が私の鼻に落ちる。それが雨水と混ざって口に入る。私はまた嘔吐する。あいるは何者かの指を舐めている。私は嫌でもあの時の棒つきキャンディを思い出す。蛇の舌のように出たり入ったり。誰の指だ。それは誰の。左手の感覚がなくなってくる。げらげら笑い。ふつちが私の左手を潰しているらしい。腕に激痛。
「なんだこいつねえじゃねえかああなんだおまえいつのまに」
がり、という音がして私の頬に塊が落ちてくる。あいるの顔が見えなくなる。ふつちの持ったバッドが鼻先を掠める。
「ちがうちがうわけねえだろおまえじゃなきゃだれがきりおとしてくったりそのゆびこいつのじゃねえのじゃあなんでねえんだよもとからってことか」
エメラルドの傘。白い脚。
「運んで」
どうして探偵小説の探偵は探偵という職業を続けられるのだろう。使命感。正義感。犯人と対峙するのがそれほど快感なのか。ありもしない真実探求に魅せられているのか。フィクションだからと言ってしまえばそれまでかもしれない。それでいい。私は探偵ではない。探偵と名乗った憶えはない。私を探偵と呼ばないで欲しい。
背中が痛い。身体中がずぶ濡れで擦り切れている。頭に激烈な熱を感じるたびに私の意識が飛んだ。ずるずる。おそらく引きずられている。草と泥のにおい。とても息が出来る状態ではない。しかし呼吸をしなければ生きられない。せめて嗅覚が麻痺すれば。順応できる領域のにおいではない。顔に冷たい水がかかる。鼻にも口にも水が入る。水の勢いが強いので頭が割れそうに痛い。もう割られてしまったのかもしれない。ふつちがかち割りたいと言っていたのを思い出す。痛い。手首を後ろで拘束されている。脚に力が入らないのでたぶん座らされた。私の身長のせいか。熱い。懐中電灯にしては光が小さい。ペンライトか。熱い。冷たくない。水をかけられているのに。熱い。熱い。
「かじになったらどうするのだめよそんなにちかづけたら」
「うっせえなあもとはといえばおまえがこいつつれてきたんじゃねえのかよ」
「せっかくのおきゃくさんなのだからおもてなししたくなって」
「おもてなしじゃねえだろそろそろどうやってまよいこませたかおしえてもいいんじゃねえ」
「しるわけがないでしょうじんないさまがかってにまよわれたんだからわたしのこんとろーるかにいないわ」
「あそうだおれはしらなかったんだがこいつゆびねえのなてっきりかにばりずむのせいかとおもったが」
「あいるね」
「ちげえってよてめえもしらねえのかよ」
「わたしにだってしらないことはあってよ」
瞼が痙攣する。瞬きのたびにぴくぴくする。下半身がすごく重い。こちらも固定されているのか。狭い視界に足が四つ。雨の音がしない。雨水が顔に当たらない。空気の閉塞感と独特の黴臭さから何となく地下のような気がする。血液と薬品と体液が混ざって。じらふは地下に行くなと言っていた。私は地下に来てしまった。連れてこられたのだろう。寒い。足がもう二つ増える。
「なにおまえおねむのじかん」
「いいわよねてくればうごかなくなったころにまたおきてね」
六ひく二は。
「おーいくちきけるかきこえてたらしただせ」
私が言われた通りにしたら舌を何かで挟まれた。閻魔。
「げんきじゃねえのゆびいっぽんねえんだけどどうしたよどこでおとしちゃった」
私は首を振る。舌がさらに強く引っ張られる。
「ここきておとしたんじゃねえのかあいるがざんねんがってたぜぜんぱーついのなかにおさめられねえって」
「ふつちはなしをそさせたいならしたをはさむのをやめてあげて」
「はなしなんかしたかねえよくちきけるかどうかたしかめただけだほうらよ」
舌の上に何かをのせられる。味蕾がひりひりする。苦い。不味い。口を塞がれる。飲み込めということらしいが絶対に飲み込みたくない。苦しい。それは私の口の中でどんどん溶ける。すぐに唾液と混じり液体になって私の食道に流れ込む。
「はくなよはいたらあとみっつのませっぞこれはしんせつでおしえてやるがみっつものんだらてめえしぬぜちなみにげざいじゃねえからあんしんしろおれはそういうしゅみはねえよかったなおれがやさしくてよ」
「なあにそれは」
「みてりゃわかるそっこうせいのえらんできたから」
息苦しい。すべての感覚が鈍磨になってくる。寒かったはずなのに頭は熱い。身体も熱くなってくる。蝋燭が近いせいだ。ふつちが私の顔を見ながらげらげら笑う。金属バッドを壁に衝突させて振り上げる。空気の鳴動を覚悟したのにそれが来ない。金属バッドが床に転がる。何かが倒れる音。くすくすという笑い声。ろなしあの声ではない。白い塊が視界の隅で蠢く。ふつちの背中に染み。その鋭く光るものは何だ。そあんはそれを何度も上下させて背中に突き立てる。染みが増える。
「ふっちきらいきらいきらいきらいしねばいいしねしねしね」
「あらしんだんじゃなかったのかしら」
「おまえもしねきらいいちばんにじんらいさんと」
「いっかいくらいでなあにあなたも」
「ろなしあだいきらいりょうりもつくってふっちもいっしょにらーめんたべたどーなつがいちばんいやだじらふじらふでてこいいるんだろいるのわかってる」
そあんが包丁らしきものを振り回してろなしあに襲い掛かるのがぼんやりと見える。暑い。熱い。蝋燭をどかして欲しい。耳が熱い。咽喉が乾く。
「おにーさん、逃げる?」
私は頷く。
4
無機質コール音。
出たくない。
電話線を切ってもかかるなんて。あいつしか。
うるさい。放っておいてくれ。
厭だ。厭だ。
黙れ。静まれ。
電話落下。
受話器が外れ。
手が。指が。
伸びて。
「絶対出てくれると思った。おひさあ」
「なんでここ」
尋ねても無意味。すべて知っている。あの世でもこの世でも知らないことはない。パノラマ千里眼。パラボラ地獄耳。
「なんだか面白いことに関わってるらしいけど、名探偵クン?」
「探偵じゃない」
「出掛けた先で、なんてまさに探偵だと思うな。それともお宅が起こしてんなら」
「違う。俺じゃない」
「ショーコなし?」
「やってない。俺は」
「じゃあ予知なのかな。ワタシがやったら駆けつけてくれる?」
「やったのか」
「やってるよ。忘れたの?」
海と指と白。
コロナのような眩暈。マグマのような吐き気。
「トラウマ開封かなあ。左手を見てよ。親指から順番にさ、折って」
「どこにいる」
「お蔭サマでつつがなく。お宅殺すまでねちねち付いてくつもり。分析するとさ、ボクから逃げてるわけだよ、あっちこっち転々と。外国まで行ったこともあったっけ。さすがにフランスで殺人は犯さなかったらしいけど」
情報収集能力はもはや人外。
「だから俺は」
「どこ行ったってどうせおんなじとこに戻ってくんだから意味ないって。どうすんの、もしオレがお宅の隣住んで」
窓を閉める。鍵をかける。カーテンを引く。
「ムリムリ。丸見え。カメラとか盗聴器とかさあ」
布団をひっくり返す。テーブルを倒す。部屋をぐるりと見回す。
「荒い粗い。もっとずっと執念深く念入りに探さないとねえ。お宅自身に発信機とかつけたら終わりじゃんかあ」
「どこだ。どこに」
「ないない。冗談だよ。ちょっとからかってみただけ。ああもう、おっかし」
受話器を投げ捨てる。コードを抜く。本体を踏みつける。
おかしい。おかしいのは俺じゃない。
おかしいのは。
「壊れちゃったあ?」
電磁波ノイズ。
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