第2話 扮装炭素
1
視界が白い。眩しいわけではなくて白い。
また背中が痛む。今度は腹も痛い。胃の内部がしぼんでいる。そうか。空腹なのか。腕を怪我した気がする。血は止まったろうか。触ったらハンカチがなかった。右手首がやや重い。なんだこれは。硬い。
腕時計だ。じらふが返してくれたのだろうか。しかしそんな記憶はない。知らないうちに右手首に戻ってきたとでも。まさか。私が眠ってるうちに腕に嵌めてくれたと考えることにする。
時刻を確認しようと思ったら針が止まっていた。ぴったり九時で止まっている。止まった時計一分早い時計はどちらが正確か、という意地悪クイズが浮かぶ。
またあの部屋だった。突き当たりのベッドの上。おかしい。広場から山に入ってそのまま眠ってしまったはず。しはが連れてきた。まさか。体格差がありすぎる。
腕に包帯が巻かれている。曲げるとやや痛むからそのままにする。ベッドの下に靴があった。
「ろなしあが泊まれって言ったろ」
ふつちが部屋に入ってくる。トレイの上に皿がのっている。炭のような黒い塊。どことなくドーナツのように見えなくもない。ふつちはそれをドア脇のミニテーブルに置く。私は反射的にポケットを確認する。財布もキーホルダもあった。
「ハンカチなら洗濯。血は落ちねえぞ」
「すまない。どうして俺はここに」
「そうそれ、ろなしあに感謝しろよ。ろなしあがお前を探しに行ってくれたおかげでお前は狼に食われずに済んだんだ。今頃消化液でどろどろのぐちゃぐちゃだったぜ」
「しははどうした」
「ちょ、なんでしはが出んだよ。関係ねえだろうが」
「一緒に山に入った。俺の近くにいなかったか」
「さあな。俺がお前引きずってきたわけじゃねえし」
混乱してくる。ろなしあは私を連れ帰りどうしようというのか。
「帰り道を知らないか」
「知ってても教えねえよ。昨日だって探せなかったんだろ」
そあんがドアの隙間からのぞいている。ふつちは気にしていないようだった。私が声を出すたびにくすくすと笑うというのに。何かが転がってくる。缶のようだった。それをふつちが拾う。
「飲めよ」
コーラだった。しはにもらった水を思い出す。
「せっかくそあんがくれたってのに飲まねえのか」
「これはどこで手に入れるんだ」
「そんなのどうだっていいだろ。炭酸飲めないとか、あれか」
どう見ても自動販売機で売られている二五〇ミリリットル缶。この建物は偏狭にあるようだが電気やガスは完備されている。もちろん水道も。
「飲まないなら振っちまうぞ」
「好きにしていい」
ふつちは口を尖らせる。どうしても私に飲ませたいようだ。缶はふつちに進呈して廊下に出る。ドアを開ける際に炭のようなものをつついたら崩れてしまった。
「おい、なに勝手に」
「これはなんだ?」
「ったく、見りゃわかるだろ。きりん捕りだ」
二重に意味がわからない。背中に怒鳴り声を浴びながらすのこ場に。向かって左側の建物に入っていないことに気づく。
「あっちは何だ」
「なんだってなんだよ。いいだろなんでも」
やはり部屋の配置はまったく同じ。ピアノの音が聞こえる。入ってすぐの左の部屋だ。入ろうと思ったらふつちに止められた。
「誰が弾いてる?」
「だから、誰だっていいだろ」
私は隙をついてドアを開ける。窓際に黒いグランドピアノ。いまいる場所からは演奏者が見えない。演奏が已む。拍手をしたら椅子を引く音がした。
「いやいや、どーもどうも」
なぼのだった。私の顔を見るなりメガネを外す。
「わ、腕どうしたのさ。痛そ」
「切った。もう塞がっている」
「一曲どう? ばしばし何か弾いちゃってよ」
「いや、弾けない」
「そんなこと言わず。なぼちゃんせめてもの思い出に」
「ピアノは押せば鳴るんだよ。弾けないやつのほうがおかしいんじゃねえの?」
ふつちがずかずか部屋に入ってくる。なぼのはいま気づいたようだった。メガネをかけて眼を見開く。ふつちの身長を測っているみたいに見える。
「ふっちうるさいよ。にーさんが嫌いなら離れればいいと思うけどなあ」
「俺はこいつ見張ってんだよ。妙なことしねえように」
「あ、それコーラ? なぼちゃんにおくれよ」
ふつちは缶を力の限り振ってなぼのに渡す。
「ほーら、くれてやるよ」
「さんきゅ」
なぼのはピアノから離れてそれを開ける。勢いよく液体が飛び出す。なぼのが着ていた白いシャツがコーラ色になった。
どうして開けたのだろう。私はそれがわからない。ふつちはこっそり缶を振ったわけではない。なぼのの目の前で振った。炭酸水を振れば開封時に飛び出すことくらい推測できるだろうに。
「うーわ、なんだろこれ」
「ばっかじゃねえの。てめえで片付けろよ」
ふつちはげらげら笑いながら退室する。床よりもなぼの自体のほうが悲惨だった。プルトップを顔に向けていたのだろう。髪から雫が滴る。メガネも液体まみれ。缶の中身はほとんどなかった。
「べたべたじゃんかあ。ひっどいなあ」
「何か手伝うか」
「んじゃあ脱がせて」
ワイシャツのボタンを外して袖から腕を抜かせる。たったそれだけの動作にすごく時間がかかった。なぼのは混乱しているのか、どうすればいいのかわからなくなっている。ドアの隙間からまたそあんがのぞいている。私が喋っていないのでくすくす笑わない。
「すまないが濡れたタオルを借りたい」
「いいよ」
私はそれでなぼのの髪と顔を拭く。そあんはてきぱきと床に雑巾がけをしてくれた。なぼのにバスタオルを羽織らせてシャワー室に向かう。
「なぼちゃん裸」
「なーる、泳ぎたいわけだな」
「今日はダメ。寒い」
そあんはなぼのの服を取ってきてくれた。気が利く。くすくす笑いさえしなければもっといいのに。なぼのはなかなかシャワー室から出てこない。様子を見に行ったらシャワーノズルをじろじろ観察していた。
「何してんだ」
「ううん、それがよくわかんないんだよね。どうやったっけか」
私は返答に困る。
「これさ、何するものだったかなあ」
私は返答できなくなる。脱衣場にそあんの姿はなかった。どこからか衝撃音がする。なぼのはシャワーノズルを床に叩きつけていた。金槌のように。私は慌てて腕をつかむ。
「それはそうゆう風に使うものじゃない」
「そうだっけ? あれえ、僕って何してんのかな」
どういうことだろう。コーラが飛び出したくらいでそんなにショックを受けたのか。この状況が通常なのか異常なのかわからない。誰かを呼ぶべきだ。私は怖くなる。水の音。なぼのが偶然コックに触れたらしくビックリして尻餅をついている。
「ね、見て。何か出ちゃった」
ダメだ。私のほうがどうすればいいのかわからない。脱衣場に出ようと思ったら腕をつかまれた。ちょうど傷口に爪が当たっている。白い包帯に赤が滲む。
「いっちゃやあ」
幼児の声だった。時間軸に従って年齢が逆戻りしているような気がする。私は呼吸を整える。そあんはここにはいない。さっきは会話も出来たのに。
「ちょっと待ってくれるか」
「どこもいかない?」
「行かない」
なぼのは私の眼をじいと見つめてうん、と頷き手を離してくれた。私は服を脱いでから、暴走するシャワーノズルを捕まえて温度調節をする。お湯が入ったらしくなぼのが眼を擦る。そのうち愚図りだした。まるで赤ん坊のようだ。また私の推測が当たってしまったのか。身長から判断するならろなしあの次くらいの年齢なのに。いまは誰よりも幼い。これなら七人の中で最も小さいあいるのほうが年上に思える。お湯がかかるたびに腕が痛い。なぼのはちらちら私の傷口を見る。
「あかい」
「血が出たんだ」
「いたい?」
「痛い」
眼を瞑らせて泡を流す。べたべたしなくなったのでいいだろう。脱衣場に連れて行って体を拭く。なぼのは本当に何も出来なかった。唯一有り難かったのは直立二足歩行。ハイハイまでされたら私は耐えられそうになかった。
服を着せてからがまた大変だった。私の衣類を持って走り回る。素早さが凄まじい。疲れる上に傷口が化膿しそうなので私は早々に諦める。相手にしなかったらなぼのは申し訳なさそうな顔をして服を返してくれた。私が服を着終わる頃に、なぼのは床ですやすや眠っていた。眼を覚ましたらすべて元に戻っていることを期待し、私はなぼのを背負って廊下に出る。
すのこ場にそあんがいた。コーラの缶を持っている。そあんが私に転がして、私がふつちに進呈して、ふつちがなぼのに与えた缶が一周してそあんの手元に戻ったのだろうか。事情を話したらなぼのの部屋に案内してくれた。私が寝かされていた部屋に向かって右隣。
入ってビックリした。ベッドも家具も何もない。あるのはぬいぐるみだけ。おそらく地球上すべての動物がここに集っている。とにかく足の踏み場がない。歩くと必ずぬいぐるみを踏んづけてしまう。ぬいぐるみの断末魔も聞こえる。私ではないからそあんがやっている。腹部を押すと鳴き声を出す種族を狙って攻撃している。天井から鳥のモービルが吊る下がっており、私の頭に引っ掛かった。
「どうすればいい?」
「てきとーてきとー。メガネこっち」
私はなぼのを一際巨大なぬいぐるみの上に降ろす。クマとゴリラの混血だろうか。彼はまだ眠っていた。メガネをどこに置くのかと思ったらそあんがかけている。
「似合う?」
「度が入ってないのか」
「入ってるよ。ぐーらぐら」
そあんはメガネを外してオカピに託した。オカピをなぼのの隣に置いて部屋を出る。すのこ場に戻って物干し竿を見に行く。私のハンカチは新たに血の模様が追加されている。干してある布団にそあんが殴りかかる。サンドバックなのかシャドウボクシングなのか。
私はそあんに見つからないようこっそり昨日の仮説を確かめに行く。林の間を進むと湖があった。比較的透明度が高い。湖岸を歩いても全然生物に出会わない。鯉やフナの一匹くらいいてもいいのに。小石を投げ込んでみる。波紋ができるだけ。
「残念だったな。こっちじゃねえよ」
ふつちだった。なにやら得意そうな顔をしている。私はなぼののことについて尋ねる。あの状態は頻繁にあるのかどうか。
「俺が知るかよ。そあんが慣れてんじゃね」
半周した。木々に取り囲まれているがその間に入っていけそうだ。
「おい、ちょっと」
昨日の山を髣髴とさせる。歩けば歩くほどそれを強く感じる。ふつちが幹の印を消さないのを確認して木を引っ掻く。
「そんなん意味ねえよ。迷ったら案内してやっから」
「悪いが信用していない」
「そりゃ賢明だ」
妙なにおいがする。ふつちが小型スプレーを吹き付けて何かを散布している。虫を追い払っているなら特におかしくないが、私が見たところ特にやぶ蚊もいない。
「何を撒いてる?」
「あんま吸わねえようにしろよ。癖になる」
「薬物か」
「俺の燃料」
ふつちは自分に噴射口を向ける。それを鼻と口から摂取している。一本目が空になったらしく、ポケットからもう一本同じものを出してしゅうしゅう撒く。
「俺のいないところでやってくれないか」
「てめえが吸わなきゃいいだけの話だろ」
「有害な気がする」
「じゃあ引き返せ。俺はこっちに用がある。三秒息止めろ」
私のすぐ隣をふつちが通過する。確かに止めていなかったらどうなっていたかわからない。すでに私は吐き気を催していた。幹に手をつけて体を支えないと倒れそうだ。ふつちが摂取していた物質は何だろう。背中が見えなくなる。尾行すればよかった、と思うがもう遅い。仕方なく湖まで戻る。この方向でもないとしたらいったいどこから脱出できるというのだろう。
地下。いやまさか。
2
干してあった私のハンカチがない。飛ばされるような風は吹いていないはずなので誰かが持ち去ったのだろう。布団叩きに勤しんでいたそあんを捜しにすのこ場に向かう。ぐるりと見回しても誰もいない。ふと気になったのでなぼのの部屋をノックする。鍵はかかっていない。
「あれえ、にーさん」
すのこ場になぼのが立っている。私と眼が合うとさっとメガネを外す。あいるが傍らにいる。
「平気か」
「あ、うん。ごめん。そあんに聞いたよ。恥ずかしったらない」
「よくあるのか」
「うー、わかんないや。途中から記憶がぼやけてんだよね。コーラこぼしちゃって拭いてもらって」
「いや、無理に思い出さなくていい」
あいるが棒つきキャンディを口の中でころころ転がしている。歯に当たる音がする。もしかしたら噛み砕いている可能性もある。
「そあんを知らないか」
「さっきまで一緒だったよ。しはがさ、プールに入りたそうだったからそっちかも」
あいるが私の包帯を指して眉をひそめる。血が滲んだままだった。なぼのもそれに気づいて一瞬眼を逸らす。
「あのさ、僕に洗わせてくれると、えっとうれしいっていうか」
私は包帯を外して渡す。なぼのはもう一度謝った。瘡蓋が形成しかけている。あいるがますます眉を寄せたため私はそそくさと退散する。
石段を上がってプールサイドに踏む込む。しはが二五メートルプールの飛び込み台に座っている。第1のコース。視線の先におもちゃのアヒルが浮かんでいる。
「そあんが来なかったか」
一応訊いてみたがやはり無駄だった。しはは私がすぐ後ろにいることになんら関心を寄せない。黄色い無生物のほうが魅力的なのだろう。
「君のせいで散々だ。腕が痛くて仕方ない」
反応なし。私は諦めてプールから離れる。開いている窓からろなしあがのぞいている。昨日の夕刻ここに戻ってきたときにふつちがいたほうの建物ではななく、ピアノがあった建物。
「お目当てのものは発見できて?」
「降参する。教えてほしい」
「実は私たちも知りませんの」
「嘘は」
「嘘ではありませんわ。私たちが好きでこのような場所に居るとお思い?」
「好きで居るものだと」
「ひどいお話」
ろなしあはページを捲る。桟の上に分厚い本をのせている。
「本当にあれだけですの。帰り道に相当する」
「どのくらいの高さだ」
「どうでしょう。飛び降りたことも覗き込んだこともございませんので。けれどもう一度行くのはおやめになってね。特にお一人では」
「理由を訊く」
「忠告は素直に受け取ったほうがよろしくてよ。そうですわ、つい失念しておりました。何かお食べになります? 早急に用意しますわ」
ろなしあは真後ろの本棚に分厚い本を押し込んで部屋を出る。窓は開けたままだった。私はすのこ場経由で食堂に向かう。テーブルにドーナツがあった。大きな皿に山盛り積まれている。
「おひとつどうぞ」
「ふつちは」
「お気になさらず。食べるために揚げたのですから」
ほんのり温かかった。おそらく湖で出くわす前に揚げたのだろう。じらふを思い出す。やはりひとつぱっと持っていったのだろうか。
「夕餉もいらっしゃってね。皆で食べたほうが美味しいわ」
「揃うのか」
「揃うことになってますの。そんなに意外かしら?」
テーブルに料理が並ぶ。野菜と米は出所が判明したとして肉はどこから取ってくるのだろうか。獲ってくるのか、家畜なのか。牛乳も卵も。昨日はパンももらった。魚介類と海草。怪しいといえば缶コーラ。棒つきキャンデイ。ドーナツだって。
「心配なさらないで。致死量に至るほどの毒等有害な物質は入ってません。それに私たちが口に入れる食べ物は完全な自給自足をしない限り基本的に出所不明ですのよ」
「悪いが」
「信用なさらなくて結構。腹が減っては、と申しますでしょう」
「本当に帰り道を知らないのか」
「ええ」
私は食事を終えてすのこ場に戻る。どうしたものか。苦し紛れによぎった仮説が鎌首をもたげてくる。ここは外界と断絶されているように見えて、どこかに接触点があるのかもしれない。肉やらなんやらはそこから運ばれてくるとすれば。
地下だ。
地下とつながる出入り口がどこかにある。
全員が知っているのか。限られた誰かだけなのか。ろなしあは確実に知っていると思っていいだろう。しかし口を割りそうにない。しはも不可能。口を利いてくれないばかりか存在すら無視されている。言語行動をしないあいるは難しい。そあん、もしくはなぼの、またはふつち。じらふに会えたら彼でもいい。ハンカチの行方も気になる。もう一度見たが物干しにはない。
誰かいないか見回す。声を出してみる。四人の名を呼んでみる。私が求めたときに限って他人に会えない。畑も広場も無人。プールには相変わらずしはがいた。黄色いアヒルはふたつに増えていた。
便宜上、私が寝かされていた建物を土舎、食堂のある建物を火舎、シャワー室のある建物を水舎、ピアノのある建物を風舎とおく。土舎と火舎の間が畑、火舎と水舎の間が物干し竿、水舎と風舎の間がプール、風舎と水舎の間が広場。土舎の向かいが水舎、火舎の向かいが風舎となる。どの建物も基本的に部屋の配置は同じ。中廊下式で、両側に三つずつ部屋が並ぶ。突き当たりが最も広い。
風舎は入ってすぐの左がピアノの部屋。音楽室のような雰囲気で壁が防音仕様になっている。その隣が絨毯敷きの部屋。脚の短いテーブルが壁に立てかけてある。談話室に近いかもしれない。その隣がデスクと椅子が並べられた教室のような部屋。黒板もあったので授業が出来そうだ。突き当たりは図書室のようだった。先刻ろなしあがいた部屋だ。背の高い本棚が整然と並べられていて、閲覧のためのテーブルもある。その隣は鍵がかかっていた。図書室らしき部屋にあったドアの配置から見てそちらにつながっているのだろう。そちらも鍵がかかっている。その隣は教室のような部屋に似ていたが、黒板の代わりにホワイトボードがあった。デスクも壁に向かい合う形で並べられている。自習室かもしれない。その隣が最後になるが、ここも絨毯敷きだった。談話室らしき部屋と違い、ステージがある。そのステージに巨大なスクリーン、天井にプロジェクタがあり、視聴覚室のようだった。風舎は学校を思わせる。
水舎に入ってすぐ左は女子トイレ、向かいが男子トイレだった。そこだけプレートが貼ってある。女子トイレの隣に水道、その向かいに洗濯機が設置されている。両方の部屋に大きな棚があり、タオルや洗剤、歯ブラシ等生活雑貨が陳列されていた。洗濯機の部屋の隣がシャワー室、その向かいが脱衣場。シャワー室の中にも脱衣場があるので、そちらの脱衣場は外のプールや突き当りの浴場のためのものだろう。その証拠に、脱衣場には廊下に通じているドアの他にふたつ出入り口がある。また水舎の廊下突き当たりにドアはなく、脱衣場からでないと浴室に入れない。水舎という名は言い得て妙か。
火舎に入ってすぐ右は食料庫のようだった。薄暗くひんやりしている。あくまで仮説として考えた地下から運ばれてきた食料は、いったんここに収められるのだろう。しかしみっしり食料が詰まっているわけではなかった。とすると一度にまとめて、ではなく定期的に補充するのだろうか。その向かいはふつちがスリッパをとりだしてくれた部屋。雑庫らしく、掃除機やら雑巾やらの掃除用具入れと、すぐには使わないが必要になるときもある物品が収まる物置を合体させたかのような部屋。その隣は大きなスピーカと座り心地のよさそうなソファがあり、壁は音楽室のように防音仕様だった。オーディオルームだろうか。その向かいは鍵がかかっている。その隣は台所だった。内部から隣の食堂につながっている。冷蔵庫やオーブンレンジ、炊飯ジャーもある。食堂を挟んで反対側は居間のようだった。隣のオーディオルームとの違いは照明が明るいことと、スピーカがないこと。勿論防音壁ではない。なんだか違和感を感じる。テレビだ。ビデオデッキはあるかもしれないがテレビがない。電波が届かないのか。
土舎は入りづらかった。古びた病院のようなにおいも厭だが、なぼのの部屋があるということから考えて個人の私室が並んでいることになる。気が引けるのでノックだけにする。しかしどの部屋も返答がなかった。おかしなことに気がつく。部屋は全部で七つ。人間の数は七人だが突き当たりの部屋は二日とも私を寝かせた。とすると、そこはそもそも無人なのか。いや、ベッドがある。しかしベッドしかない。誰かの部屋だろうか。考えられるのは一番最初に会ったろなしあ、基本的に建物内に居ないじらふ。
誰とも出会わなかったのが不気味で仕方がない。この近辺にいないのか、それとも鍵のかかった部屋や自室に隠れている。隠れる? なぜ。私が帰り道を探しているから。考えすぎだ。ろなしあは望んでここに居るわけではないと言っていた。それがとても引っ掛かる。彼らは強制的にここに移住させられたということだろうか。誰が何のために。
ろなしあはぼやけるが、他は全員十代と見ていい。身長の高い順に並べると、ろなしあ、なぼの、ふつち、しは、そあん、じらふ、あいる。駄目だ。やめろ。興味がないといっておきながらしっかり探っている。本当は興味などない。帰り道を発見する手掛かりになればいいと思い探検させてもらったにすぎない。収穫は限りなくゼロ。建物の内装がわかったって大したことない。
ここには時刻がない。日付もない。極論すると過去も未来もない。同じ日常を繰り返すのではない。それぞれが干渉しあわないよう、緩い縄張りを保ちながら生きている。たまたま同じ場所で暮らしているから言葉を交わしたり一緒に遊ぶこともあるだけで、本来彼らは至極個人的に生活している。そしておそらく名前もない。私に知らされた名はそれぞれが自らつけた便宜上の呼び名だろう。
本名と偽名の違い。
そんなものはない。
3
たなびく洗濯物を眺めてぼんやりしていたら、ふつちが帰ってきた。スプレーの代わりに金属バッドを持っている。なにやら愉快なことがあったらしく、それを振り回しながらげらげら笑っている。
「おう、しょぼくれてんなあ。ホームシックかよ」
「湖の向こうに何がある」
「森林だよ。し、ん、り、ん。そっから先はしーらね」
「何をしてきたんだ。そのバッドも」
風を切る音。ふつちがバッドの先を私の鼻先に向ける。すれすれの距離。
「バッドつったら野球だろうが。かっきーんてぶっ飛ばしてきたってわけだ」
「試合でもあったのか」
「ま、そんなとこ。俺のホームランで一発逆転。あ、俺さいこーに気分いいから沈んだてめえのためになんか作ってやるよ。出してったドーナツ食ったか」
「ああ。しかしドーナツより帰り道が知りたい。何か教えてもらえないだろうか」
「そうさなあ。俺だってこんなとこ、出れるもんなら今すぐにでも出てえ。しっかしなあ、いまのセーカツもそこそこ悪くねえんだ。むしろ前よりずっといい。無理にこっからでて前みてえなことになるんなら、俺は死ぬまでここにいる」
「この水準が保たれるなら外に出たい、ということか」
「ありえねえよ。だから俺はここがいい。野球も出来るしな」
ふつちはまた楽しそうに素振りをする。バッドが物干し竿に当たりそうになった。
「ろなしあはおそらく無理だ。君も知らないなら誰に訊けばいい?」
「は、てめえで探せよそんなん」
「ここに、地下通路はないか」
「ねえだろうな。あったら俺ら自由に逃げれるじゃん」
「では食料はどこから」
「しーらね。食えればいいじゃん。どうだっていんだよ」
ふつちも無理そうだ。それにいまは機嫌がいいのか、嫌いであろう私の話にいちいち応じてくれるが、殊のほか高揚していて返答が痙攣的。考えもしないで浮かんだことをぱっと答えてしまう。これは早押し問題ではない。むしろ熟考してほしい。
「建物を見てきたんだが、鍵のかかった部屋は何がある」
「ろなしあに訊けって。それに俺はあんま行動範囲広くねえし」
「君の部屋はどこだ」
「教えね。寝てるときに殺られるのが一番てっとりばええもんなあ」
「君の部屋が駄目なら他の人間でも」
「やーだね。なぼんとこ入ったんだろ。いいじゃねえか、なぼだけ知ってりゃ。それより腹減った。何か作るから来いよ。いまなら特別ダイヤモンド入りにしてやるぜ」
特に腹も減っていないが付いていくことにする。思わぬ情報は何かの拍子、ということもある。バッドはすのこ場に放られた。つい食堂の窓から物干し竿に目がいってしまう。ハンカチの行方がどうなったのか気にしているのだろうか。ハンカチを取り戻したいというよりは、誰が持っていったのかを知りたいように思える。
しばらくしてふつちが丼を持ってきた。インスタントラーメンだった。私の分も作ってくれたので有り難くもらうことにする。確認しながら口に入れたがダイヤモンドは混入していない。
「てめえ、ジンライとか」
「陣内だ」
「どっちでもいいだろ。嫌いなもんとかあるか」
「いや特に」
「あるだろひとつくらい。弱点教えとけよ」
「思いつかないが」
「俺に殺されんのは?」
私は返答できなくなる。何かの冗談だろうか。ふつちは割り箸を持ったままげらげら笑い出す。椅子がぎいぎい軋む。
「だいじょーだいじょー。いま機嫌いいからそんなことしねって。けど夜るんなると興奮する奴いっから。カギかけたって無駄だぜ。扉ごとぶち壊す。あ、でもろなしあが怒るから窓かもな。気ィつけろよ」
「忠告か」
「親切だ。俺はいま機嫌がいい」
丼を片付けてから、ふつちに付き添って広場に行く。バッドを持っていくからてっきり野球だと思ったが鬼ごっこらしい。二人だと面白くないのでは、と提案したが。
「二人でやるからおもれえんだよ。ターゲットは一人。単純でいいじゃねえか」
「どっちが鬼だ」
「俺。五秒やるから距離とれ」
ふつちが数を数える。ダルマさんが転んだ、を思い出す。広場は何もないから純粋に足だけで逃げなければならない。私は走って出来る限りふつちから離れる。傷が塞がったので腕を振っても平気だった。
「ご」
と聞こえた瞬間ふつちが見えなくなった。
「言い忘れたがな」
後ろだ。加速。
「鬼はバッド持っていいことになってる」
足の先を掠めた。ふつちはげらげら笑っている。眼に宿る無形物が常軌を逸している。笑顔なので確かに機嫌はよさそうだったが何か違う。様子がおかしい。私を殺さんばかりにバッドを振り下ろす。相当の力で振っているので空気が切れる。私が寸前のところでかわすとふつちは舌打ちする。さも殺し損ねた、と言わんばかりに。
「おらおら、逃げろ」
声に狂気と狂喜を見る。もしかすると本気で殺すつもりかもしれない。まずいことになった。躊躇いなくガラスの破片を投げつけたしはと同じ雰囲気を感じる。
「制限時間は」
「ねえよてめえが死ぬまで」
「冗談にしては」
「本気でやれよわかってんだよそのために来たんだろ俺の遊び道具さんよお」
言葉で止めることは不可能だ。バッドを奪えば治まるだろうか。ふつちは相当興奮している。時々足を止めてげらげら笑う。腹を抱えて苦しそうにのた打ち回る。その隙に私が休憩を取ろうとすると途端復活して全速力で駆ける。眼を見開いてバッドを振り回しながら。なぼのの場合一過性だった。ふつちもそうだといい。しはのように普段から恐ろしいと警戒もするが、ふつちは波がある。普通、機嫌がいいなら人は襲わない。
「もおらったあ!」
背中に衝撃波。痛いを通り越して熱い。傷を庇って腕でガードできなかった。遠くでげらげらげらげら笑い声がする。すごく愉しそうな。俺に殺されんのは、というあれは許可を得ようと思って訊いたのだろう。
答えはノーだ。
私はまだ死にたくない。
4
「避けてる?」
空間支配。
律動鳴動。
「なんで」
「返答によってはこれから時間が欲しいかな」
「話すことはないが」
「そっちになくてもこっちにはある。一度ゆっくり話してみたかった」
無風無音。
揺れぬクリーム。
偶然偶像。
留めぬプリズム。
「ここでは話さないほうがいい」
「じゃ外」
「暑い」
「遠回しに断ってる?」
「そうとっても構わない」
漏水漏電。
「何語?」
「馬鹿にしてるのか」
「そうとっても構わないよ」
模倣模造。
「怒った?」
「どちらかというと不快だ」
「快感にしたい。どうすればいい?」
「俺から離れろ」
「口封じしなくても済むんなら」
記憶記銘。
検索検知。
「忘れてた?」
「言うつもりはない。それに」
「ショーコなし?」
「何の用なんだ」
触覚触法。
冷血冷凍。
「うち来ない?」
「行きたくないな」
「どんな釣り餌なら引っ掛かる?」
「悪いが」
「コレクションを見て欲しい。解説付きで」
分離分化。
迷路迷走。
逆戻りメビウス。
「トラウマにしたかな」
呼吸鼓動。
酸欠鬱血。
酸塩基アルカリ。
「あーあ、お昼台無し」
「帰れ」
「それいくら。払うよ」
革嘗め。
皮剥ぎ。
「これで足りる?」
「要らない」
異物感。
拘束梗塞。
光速。
「すっぱ」
絞殺。
射殺。
撲殺。
扼殺。
薬殺。
刺殺。
「怒りで声も出ない?」
「俺を殺したかっただけだろ」
「さあ、どうだったかな。欲しかったのは手に入ったけど」
視線耳栓。
「それで隠してるつもり?」
「不便なんだ」
「返さないよ」
「どうでもいい」
包帯大砲。
代用容態。
「帰れ」
「死にたくなったらおいでよ。殺してあげる」
永劫強欲。
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