自衛散ル栄位照ル

伏潮朱遺

第1話 軽装水素

     0


 ハンガドライヴは飢餓動因と訳す。交感神経優位の場合、空腹を感じない。そんなことを感じていられない状況にあるのだから。戦わなければならない逃げなければならない。そんな状況で腹が減っただの考えていたら負けるし捕まる。肝臓の貯蔵グリコーゲンは十二時間しかもたない。よってそれを超過した場合は筋肉を分解してエネルギィを取り出す。生命維持が最優先だから、運動するしないの筋肉に構っていられない。

 余計なことを考えないとおかしくなりそうだ。きっと腹が減っているのだと思う。腹が減っているという段階なんかとっくに通り越したという可能性もある。腹が減ったという状況を越えたらどうなるのか。簡単だ。

 ふらふらする。頭がくらくら。胃の感覚が空洞。喉はからから。手が動かなくなる。歩行速度が壊滅的。しかし一度足を止めたらもう二度と動かせなくなる。だから止められない。そんなにしてまでどこへ行こうというのだろう。知らない。一体ここはどこなのだ。それを初めて意識する。生まれて初めてそんな事を考えた気がする。

 まずい。常軌を逸する前兆だ。

 目が霞んでくる。薄い霧がかかっているように見える。水晶体を覆う透明な膜が汚れている。

 動物ではないから植物なのだろう。他の範疇をついぞ失念した。緑だから植物か。緑色の動物はいるか。思い出せない。

 回路遮断。思考停止。生命維持のためすべての余剰行動は制限させていただきます、どうかご了承ください。

 ああはいはい、いいですよ、死ぬよりはマシですからね。

 冷たい。

 脳が、ではなく顔だ。水だろうか。冷たい液体なら水か。水が欲しいと考えたからそういう幻覚が現れたのかもしれない。

 顔に手をやる。手はどこだ。手は手首の先についているから腕を動かせば一緒に動くはず。手の動かし方がわからない。説明書が欲しい。手の動かし方。まず手首の先に手がついているかを確認します、目を開けてください。目が開きませんけど。では説明書の前に戻って目の使い方を参照してください。

 ばらばら。目の使い方。まず瞼を開けます、瞼が開いている場合は何かが見えるはずです。見えるという状況がわからないんですけど。

 そうですか、それなら。

「死体かな」

「違うような気がするけど」

「目が白い。黒くない」

「つついてみようか」

「おいこら蹴るな」

「叩いてるくせに」

「夕立がくるよ」

「濡れるね」

「これは?」

「濡れるか見てようか」

「傘はない?」

「欲しい?」

 冷たい水滴。泥のにおい。湿った空気。

 重い。

 想い。

「おにーさん、死ぬ?」

 背中が重い。

 頭に当たる液体が少なくなった。他はそのまま。

 泥と水。

「助けてあげようか」

「やめとけって」

「ビョーキ?」

「寝てる?」

「息はあるみたい」

「もう少し様子見る?」

「運んで」





 第1章 軽装水素



     1


 背中が痛い。

 身体中がぺらぺらになってしまった。押し潰されて圧迫。質量は紙一枚に劣る。

 そういえば空腹だった。空腹の意味がわからない。ソラのハラ。ますますわからない。

 鼻の辺りがむずむずする。いいにおい。

「生きてる?」

 少年だった。私の腹の上に跨って身を乗り出している。彼の手には特に何の装飾もない典型的なドーナツ像。それのにおいだったのか。ようやくわかる。

 押し潰された感覚も彼の体重によるものだった。ようやくわかる。

「欲しい?」

 少年は口の端を上げてにいと笑う。その口でドーナツを頬張る。四分の一ほど消える。欠片が私の首に落ちる。

「あとあげる」

 少年は私の口に無理矢理ドーナツをねじ込んで退室してしまった。私は有り難くそれを戴く。揚げたてのようでまだ温かいが、ぱさぱさしていてうまく飲み込めない。

 咀嚼しながら周囲を見回す。白い天井に蛍光灯の列。白い壁に大きな窓。ベッドに白い布団。その上に寝かされているらしい。やけにスースーする、と思ったら衣服を身に付けていなかった。私が脱いだ憶えはないので私以外の誰かに脱がされたのだろう。その他謎がいろいろ浮かんだが喉がイガイガしてそれどころではなかった。

「お加減は如何?」

 少女というには大人びて、大人というには若い女性の声。先ほどの少年が消えた方向から聞こえた。床と調和を拒むような靴音が近づく。

「服は洗濯してさっき干したところです。泥だらけでしたので。ポケットの中身はこちらに」

 女性が屈むと露出した両腕に長い髪がかかる。白いロングドレスは中央にスリットがあるため、ほとんどミニスカートの延長だった。

 扉の脇のミニテーブルに見覚えのある財布とキーホルダ。

「どうも」

「ここはどこ、とかあなたは誰、とかお訊きにならないの?」

「喉が渇いてる。水をもらえないだろうか」

「お水でよろしい?」

 私が頷くと、女性はコップを持ってきてくれた。八分目ほど水が入っている。一気に飲み干す。冷たくて美味しい。涸れ井戸に雪解け水が流れ込んだみたい。

「ろなしあ、と申します。あなたをこちらに運んだのも私です。何かお気に召さない?」

「特に」

「寡黙なのですね」

 寡黙だ無口だ、の類は言われ慣れている。私は話したくなかったり話すのが億劫なわけではない。これと言って表明したいことがないだけで。

「お名前を言っていただけない?」

「陣内」

 ぱたぱたと落ち着きのない足音。スリッパが足の動きに追いついていない。

「ろなしあ、これでいいか」

「ありがとう」

 走ってきた少年はろなしあに何かを手渡す。衣服のようだった。ろなしあはそれを布団の上に広げる。Tシャツとジーンズ。男物の下着もある。

「とりあえずこれをお召しになって」

「どうも」

 私は少年の視線を感じる。先ほどの少年より年上のように思える。身長と口調のせいかもしれない。ろなしあが退室しても彼は私を睨んだまま部屋の隅に立っている。

「何しに来たんだ」

「さあ」

「さあ、じゃねえだろ。服乾いたら帰れよ」

「そのつもりだが」

 私は衣服を着て体を動かしてみる。Tシャツはサイズがかなり小さく、肩を回しただけでみし、と聞こえそうだった。ジーンズは立っている状態で足首が見える。しゃがんだら脛まで出る。気温が高いのでTシャツは脱ぐことにする。

「おい、せっかくろなしあが」

「破きそうだ」

「ろなしあが困るだろ。俺らはいいとして」

 やはり最も重症なのは背中だ。脚も腕も首も動く。皮膚に擦過傷があるが放っておけば塞がる程度だ。唾液が酸っぱい。

「聞けよ。お前みたいなのは」

「さっき私にドーナツをくれた少年に会いたい。案内してほしい」

「ちょい待て。なんでお前がそれ、あ」

 少年は何か思いついたように部屋を飛び出していった。私も廊下に出る。古びた病院のようなにおいがする。薄暗くて軋む廊下。両側に等間隔で幾つかドアがある。私のいた部屋は突き当たりだったのでそこよりはやや小さめだろう。

 土の上にすのこが十文字に敷かれた場所に出た。前にも右にも左にも似たような建物がある。後ろを振り返ってもそっくり。航空写真を取れば建物も十文字になっている。四つが交わる部分が屋根を残して正方形に切り取られ、そこにすのこがあるのだ。

 向かって右側の建物からさっきの少年が現れた。私に突っかかってきたほうだ。

「勝手にうろうろすんなよ」

「ドーナツをくれた少年を探している。知らないか」

「知るかよ。そんなの俺が探してんだ」

「それなら一緒に探そう。手分けしたほうがいい」

「だから、勝手にうろうろすんなって言ってんだよ」

 私は自分が素足だということに気づく。

「靴を知らないか」

「知らねえっての」

 向かって左側の建物からろなしあが顔を出す。手に分厚い本を抱えていた。

「ふつち、あんまり邪険にしないで」

「だってこいつ」

「靴なら一緒に洗ってしまいましたわ。いまスリッパをご用意いたします。お願い」

「何で俺が」

「あなたがいま、スリッパに一番近いの」

 ふつちは建物の中に引っ込む。がさがさという音がしてすのこにスリッパが投げつけられる。学校なんかでよく見かける茶色いあれだ。片方が土の上に落ちた。私はそれを拾って履く。これも小さい。足が半分くらい外に出てしまう上に、爪先が痛い。

「これもサイズが合いませんのね。困ったわ」

「裸足でいいなら」

「構いませんけれど」

「さっさと追い返せよこんな奴」

 子どもがはしゃぐような高い声が聞こえる。ばしゃばしゃと水の音もする。

「またかくれんぼ?」

「いんや、追いかけっこだよ」

 全速力で駆け出すふつちをろなしあが見送る。

 田という漢字の口の中の十が建物だとしたら、その十によって区切られている四つの部分に何かあるのだろう。建物同士も厳密には接していないので、すのこのあるこの場所からそちらに行き来できる。私が寝かせてもらっていた部屋のある建物を十の縦棒の下半分とすると、ふつちが向かったのは左上の□。

「プールがありますのよ」

「ドーナツをくれた少年はそこにいるだろうか」

「行ってみたら如何です?」

 私は裸足のまま土の上を歩く。ぬかるんでおらずひんやり気持ちがいい。

 確かにプールだった。ビニールか何かの簡易式ではなく、学校にあるようなきちんとした二五メートルプールと、浅そうな遊び用の丸いプール。地面より一メートルかそこら高い場所にある。丸いほうに頭が二つ浮かんでいる。

「あ、お前また」

「ここにはいないようだ」

「そんなこたわかってんだよ。大体そんなカッコでうろうろしたらろなしあが」

「何も言わなかったが」

 コンクリートの階段を上がってプールサイドに踏み込む。敷き詰められた石がすごく熱い。太陽光線がぎらぎら降り注ぐ。水面に反射して眩しい。丸いプールにいた二つの頭が私を見る。宙を舞っていたボールがワンテンポ遅れて水飛沫を上げる。

「入る?」

「いや、結構」

「だって裸」

 両方とも女子だった。喋っているのは手前にいるほうで、奥にいるほうはちらちらと私を見るだけ。背丈は奥にいるほうがやや大きい。両者とも二つに髪を結わえているが、手前のほうは耳より上、奥のほうは耳より下だった。

「放っとけよ。すぐ帰んだから」

「泳げる?」

「なんとか」

「だから、こいつは」

 ろなしあの呼ぶ声がする。私のために食事を用意してくれたらしい。そういえば空腹で倒れたのだった。思い出した途端胃が収縮した。弱々しい音が鳴るがあまりにも弱々しかったため私にしか聞こえなかったようだ。

「またとられた」

「ちげーよ。こいつが裸だから服持って」

「じらふはいつもの」

「ちょ、お前ら知ってるんなら」

 奥にいるほうが首を傾げる。ふつちが苦々しい顔を浮かべてプールサイドを駆ける。手前にいるほうがゆっくりプールから上がる。

「ジンライてゆうの?」

「陣内だ」

「そあん。あっちは、しは」

 女子二人がシャワーを浴びる。私はすのこの場所まで戻る。ろなしあが用意してくれた雑巾を使って足の裏を拭く。

 ふつちがスリッパを出した部屋のある建物に入る。私が寝かされていた部屋のある建物とまったく同じ造りだった。扉の並びも内装も。突き当りが食堂だった。大きなテーブルに椅子が八つ。

「お口に合えばいいのですが」

「いただきます」

 窓から物干し竿が見える。シーツやらTシャツやら洗濯物が風と一緒に揺れている。どこかで見覚えのある服、と思ったら自分が着ていたものだった。靴も吊るされている。

「陣内さまはどうしてこちらに?」

「迷った」

「まあ、素敵な冗談」

「本当だ」

 ろなしあがふ、と口を緩ませる。笑ったのではなく単に筋肉が弛緩しただけのようだった。

「ここを出ましたら私たちのことは忘れてください。それを約束していただけるのなら何も致しません」

「悪いが興味ない。洗濯と食事は感謝する。それだけだ」

「助かります」

「ドーナツの少年なんだが」

「ふつちがドーナツを揚げるとぱっと持っていってしまうの。それをお召し上がりになって?」

「ぱさぱさしていた」

 食事が終わる頃に男子が食堂に入ってきた。メガネをかけていたが私の顔を見るなり外した。

「なんで裸? え、しかも裸足?」

「サイズが合わないの。早く乾けばいいのだけど」

 ふつちとろなしあの間くらいの年齢に見える。ふざけたように笑って私の向かいに座った。

「えっと、僕なぼの。通称なぼちゃん」

「陣内だ」

「で、にーさん何しに?」

「迷った」

「え、どういうこと?」

「本当みたいね。あり得ないと思うのだけど」

 なぼのは眉を寄せてもう一度メガネをかける。私の全体図を見ているようだった。観察を終えるとまたぱっとメガネを外す。

「でっけ。二メートルはあるよ。あ、あとで頼みあんだけどいい?」

「可能ならば」

 食器を片付けようと思ったらろなしあに首を振られた。なぼのに連れられて再びすのこの場所へ。さっきの基準のままなら、今度は田の左下の□。校庭のような雰囲気だった。遊具も何もないがスペースだけはある。野球とサッカーとテニスを同時にしても充分おつりが来る。

 建物から離れたところに背の高い木立が茂っている。

「この上にさ、引っ掛かっちゃったんだよね。にーさん取れない?」

 大木の枝に何か人工物が見える。よじ登るには高すぎる。私がジャンプしても届かないのだから。木陰から幼児くらいの少年が出てきた。私の顔をじい、と見て木の上を指差す。とってくれ、と言っているらしい。

「いける? にーさん」

「離れてろ」

「へいへーい」

 なぼのが少年の手を引いて木立から離れたのを見計らって、私は木の幹を思いっきり蹴った。木の葉と一緒に人工物が落下する。シャトルだった。

「さっすがお見事」

「バドミンドンか」

「そう見えるだろうけどね。肝心のラケットがないからこうやって」

 なぼのはそこまで言って、大木と空の境目掛けてシャトルを放り投げる。放物線の途中で運動が已み、シャトルが枝の先に引っ掛かる。先ほどより低い位置だった。

「おわかりの通りさっきのは僕じゃあない。こっちのあいる。で、取ってもらったとこ悪いんだけどもう一回頼むよ」

 今度は私の跳躍で届いた。あいるの手のひらにのせる。

「にーさん、じらふ探してるんだって?」

「どこにいるかわかるか」

「あいつ神出鬼没だからね。そあんとしはにも会ったんだって?」

「そあんはいつもの、と言っていたが」

「ああ、なーる。で、ふっちが捜索に出かけた、と」

「その場所を示してもらえないだろうか」

「じらふにドーナツもらったんだってね。にーさん、まんまと餌付けされてるよ」

 なぼのはへ、とけ、の中間の音で笑って腕を組む。

「じらふに会ってどうすんのさ」

「お礼を言うのを忘れた。急いでいるわけではない。見かけたら教えてほしい」

「りょーかい。てっぱやく服乾くといいね」

 私はなんだかひんやりして振り返る。あいるが私の腰にぎゅうぎゅうシャトルを押し付けていた。投げて、と言っているようだった。

「やめたほうがいいよ。にーさんが投げたら誰がとんのさ」

 あいるは躊躇うことなく私の顔を指差す。

「とかいうことだけどにーさん、やる?」

「手元に戻る保証がない。それでもいいなら」

「それは困るなあ。あいる、シャトルって一個しかないんじゃないっけか」

 あいるはぶんぶんと首を振る。何について首を振ったのか私にはわからなかったが、なぼのが大げさにうっそぉと呟く。このふたりは言語以外で意思疎通が出来るようだ。

 私はいまさら腕時計をしていないことに気がつく。最後に見たときは右手首にあったはず。落としたのだろうか。ろなしあに訊けばわかるだろうか。日の差し方から考えて午前中だろう。建物内に時計がなかったように思う。

「ホントはさ、バドやりたいんだよね。いわばラケットのためのシャトルなわけでさ。そのシャトルを失うとなると」

 あいるは私を見上げる。何を訴えているのか汲み取れない。

「わかったよう。なぼちゃんが百と一歩譲ってシャトル投げを許す。それでいい?」

「保証はないが」

「いいよ。運よく、てか運じゃないんだけどね、ラケットが手に入ったとしたってちょっと考えたらバドの相手がいなかったって気づいた」

 私はあいるからシャトルを受け取る。この遊びの趣旨は如何に高度を確保するか、だと認識したのでそれを最大限発揮できるよう姿勢をとる。なぼのが声援らしきものを送る。あいるは木立と空の境界を見つめている。

 投げた。

 案の定、シャトルは行方不明になる。


     2


 私は彼らの要望で一緒に遊んだ。別段道具も要らず、かつ広い空き地ででき得るすべてのことを試した。既存の遊びになぼのが不可思議なルールを付け加えるので、そのルールを呑み込むまでが難儀だった。私はそれほど物覚えがよくない。一を聞いたら一しかわからない。稀に二が脳裏をよぎることもあるが、よぎったそれを捕まえられない。それの動きが素早いのか、私の動きが鈍いのか。

 途中そあんとしはも加わり、一段と賑やかになった。だが一段と賑やかになった要因はそあんのみであり、しはは一言も口を利かなかった。あいるもそうだ。この二人は声と呼ばれるものをまるっきり発しない。しかしこの二人には大きな違いがある。あいるは、言わんとしていることを非言語によってなんとか私に伝えようとしているが、しははそれがない。半日一緒にいればあいるとは意思疎通が可能になるが、しはは不可能。しははそもそも何も言おうとしていない。

 ろなしあが服が乾いたことを告げに来てくれた。そこで遊びはお開きになる。そあんの勧めでシャワーを借りることにした。確かに汗まみれだ。最初に寝ていた部屋のある建物の向かいの建物の突き当たりが浴室。その右隣がシャワー室だった。そもそも着ていた服を身に付けて外に出る。

 ろなしあに腕時計の所在を訊いたら知らない、と言われてしまった。

「倒れていらっしゃった場所にあるかもしれませんわね」

「案内してもらえないだろうか」

「ではお帰りの際にそちらへ寄りましょう」

 ろなしあの呼びかけのため、なぼの、あいる、そあん、しは、遅れてふつちが見送りに来てくれた。ついにじらふには会えずじまいだ。それが心残りだが、ふつちが帰れ、という強力な視線を私に向けているということもあり、伝言を頼んだ。なぼのとそあんが手を振る。私は彼らにさよならを言った。

 多少涼しくなってきた。食堂がのぞける窓を右手に進むと畑があった。きゅうりやらナスやらトマトやらがなっている。ろなしあが用意してくれたサラダの野菜はここで育てたものだろう。水田のあぜ道をひたすら歩く。米もここで収穫するのだろうか。

 小高い山の傾斜を登って平らな場所に出た。ここが天辺のようだ。私はずっと下を見ていた。失くした時計を探すためだ。ろなしあが足を止める。

「ここですわ。どのような時計でしたの?」

「黒くてアナログの」

 木の根っこが隆起している。すごく大きい。地中に収まりきらないから已む無く出てきてしまったみたいだった。

「ありませんわね」

「もしどこかで拾ったらもらっておいてくれないか。木や土にくれるよりいい」

 ろなしあとはここで別れる。ここから先は行きたくない、と言われた。道を訊いたから何とかなるだろう。林を抜けると大きな岩がごろごろしていた。反対側は崖。脇の狭い道を通って徐々に崖を下る。余裕が出てきたせいか、下の様子が見えてきた。アスファルトと黄色い標識。カーブだらけの道を下る。

「おにーさん、帰る?」

 センタラインの上に少年が立っている。私はアスファルトに足を着ける。ドーナツをくれたじらふだ。

 彼は私に右腕を見せる。バンドが緩いようだった。時計が重力によって手首から腕の関節まで滑る。私の失くした時計にそっくりだった。

「俺のか」

「拾った」

「ありがとう」

 じらふは腕を後ろで組む。返してくれないようだ。時計をしていない左手でポケットを探ってシャトルを取り出した。私が投げたシャトルだろうか。

「落ちてた」

「なぼのに渡してくれ。それは俺の時計だと思う。見せてほしい」

「帰る?」

「持って帰りたい」

「ちょうだい」

「確認だけさせてくれないか」

 じらふは右手をポケットに入れる。深めなのか手首がすっぽり隠れる。

「大事?」

 私は頷く。

「どのくらい大事?」

「私以外のものの中で一番」

「じゃあやだ」

 力ずくで取り返すことも勿論出来る。しかしいまはそれをすべきではない。ドーナツの恩だとか、そういうことではなく。

「言い忘れていた。ドーナツをありがとう」

「おにーさん四分の三。僕は四分の一」

「食べた量のことか」

「おにーさん、本当に迷った?」

 私は頷く。

「ふつちに追い出された。そあんに誘われた。しはに無視された。なぼのにひやかされた。あいるに遊ばれた。ろなしあに騙された」

 意味がわからなかった。尋ね返そうとしたとき、じらふは私の進もうとしていた道路の先を見遣る。右手をポケットから出したが時計はしていなかった。

「こっち行き止まり。崖を飛び降りれば近道。だけど血が出る」

「この道では帰れないのか」

「どこ帰る?」

「ここではないところならどこでも」

「ここいや?」

「俺が居てはいけない」

 じらふは崖を見上げる。焦点は崖の向こうの何か。

「出口あっち。ろなしあが許さないと帰れない。おにーさん、引き返す?」

「引き返したほうがいいのか」

「肩車」

 私はじらふを背負って坂を上る。


     3


 日が翳ったところで建物が見えてきた。手前にプールがあるので間違いなさそうだ。じらふは私が腰を落とす前に肩から飛び降りてどこかに走って行ってしまう。追いかけるには遅すぎた。背中を捕らえることも叶わないほど素早い。タクシー乗り逃げのよう。

「何でお前」

 ふつちの声だ。建物の窓が開いている。

「帰れって言ったろ。それにろなしあが送って」

「じらふに会った。彼が言うには出口は反対側だそうだ。ろなしあを呼んでほしい」

「いやだね。とっとと帰れ」

 私はすのこの場に踏み入り、大声でろなしあを呼んだ。ふつちが私の真後ろから、続いて四方の建物からそれぞれ四人が顔を見せる。彼らの表情はまるで違った。少し間を置いて最後にろなしあが現れる。

「俺を騙したのか」

「道案内にご不満?」

「騙したのか、と訊いている」

「私の好意は受け取ってもらえませんのね。一番の近道でしたのに」

「もう少し安全な道を教えてほしい」

「ご自分でお探しになっては?」

「あなたに許されないと帰れない、とじらふから訊いた。どういうことだ」

「陣内さまがお求めになっている帰り道は私しか知らない、ということかしら。ですがよくじらふがそこまで話しましたね。ああそうでしたわ、腕時計は見つかって?」

「じらふが拾った。だがまだ返してもらえていない」

 ろなしあ以外と目が合わない。すぐ後ろにふつちがいる。なぼのは壁に寄りかかっている。あいるは手悪戯をしている。そあんは私が口を開くたびに笑い声を上げる。しははいつの間にかいなかった。

「夜は出掛けたくありませんの。今日は泊まっていかれては?」

「周囲を散策しても」

「ええ、狼男に襲われないようご注意」

 広場はやけにしんとしている。木があるから虫が鳴いてもいいのに。水田があるから蛙が鳴いてもいいのに。足音がついてきたので振り返るとなんとしはだった。手に何かを持っている。魔法瓶。銀色が反射する。しはは魔法瓶の蓋を開けて、その蓋に中身を注ぐ。薄暗いので液体の色がわからない。一口飲んで私に手渡す。

「中身はなんだ」

 尋ねても無駄だということに気づく。しははぼうっと佇んでいる。私は液体のにおいをかぐ。無臭。蓋から伝わる温度からなら液体は相当冷たい。しはは相変わらず私以外の物質を見つめたまま動かない。私は迷った挙句それを地面にくれることにした。

「悪いが信用できない」

 しはは何の反応もしなかった。私が蓋を返すとそれを元のように被せる。シャトル投げをした木立の前で立ち止まる。しははまだついてくる。私が足を止めるたびに魔法瓶の蓋を取りその中に液体を注ぐ。一口飲んで私に手渡す。私は一言謝って地面にくれる。それを三回繰り返したところでしはが蹲った。

「どうした?」

 しはは両手を使って地面に穴を掘っている。柔らかいので土の山があっという間にうず高くなる。穴が出来たところで顔を上げる。やはり私以外のものを見ている。穴の中に魔法瓶を埋めて丁寧に土をかぶせる。それが済むとすっと立ち上がって足で固める。いにしえの儀式のようだった。私は気味が悪くなる。皮膚をびりびりと剥ぎ取られてそれを目の前で葬られたみたいだった。このようにして埋められた皮膚がまだまだたくさんあるような気がした。その推測はたぶん合っている。歩き回ってわかったのだが土が不自然に固められた跡が点々としている。

 私はそれを見ないように山の中に入る。しははやはりついてくる。喉が渇いて唾液が分泌されない。先ほどの水が思い浮かぶ。しかしあれだけは飲みたくなかった。例え身体中の水分が蒸発して干からびようともそれだけは厭だ。毒入りとかそういうことではなく。

 木の幹を引っ掻きながら歩いた。たまに振り返るとしはがぼうっとしている姿が目に入る。道は歩きにくくはないが視界が狭い。ほとんど夜になってしまったらしくさらに周囲の状況がわかりにくい。生物の気配がしない。大樹自体が生き物のようにも見える。

 こちらも違うのか。畑からも出た道は地上への最短ルート。その逆を進むとプールにつながっている。だから広場から攻めてみたのに。とするなら物干しの場所か。

 引き返そうと思って引っ掻き痕を探したがつけたはずの木にそれはなかった。しはが手に何かを持っている。光った。ガラスの破片か。

 わかった。それで私の引っ掻き傷を消した。

「帰れなくな」

 しはは私に向かってガラスを投げる。顔を庇うために腕を切ってしまった。黒い血が滲む。ハンカチで心臓に近いほうを縛ったが、案外深く切ってしまったらしい。私がよろよろと座り込むとしはが正面に立った。

「君は何がしたい」

 怪我のせいか弱気になっている。しはは体操座りをする。スカートの丈が短い。腿の上までの長い靴下の脛が所々破けていた。しはは特に気にしていない様子で落ちた小枝をぽきぽき折る。

 ここで眠っても平気だろうか。


     4


 海の底を抜け出す感覚。

 首周り。潮流。

 ざわざわ。

 逆巻け渦巻け。

 そわそわ。

 湿った空気が圧し掛かる。

 体積ナノ。

 密度ミリ。

 ぎいぎい。

 ぎい。

 耳の外から聞こえる。

 脳の中から響く。

 知っていた。

 お前だけ。

 だから。

 無い。

 無い。

 ひとつ奪え。

 ぜんぶ剥げ。

 我のもの。

 所有独占。

 欲望欲求。

 誘因動因。

 油は浮遊する。

 水は沈澱する。

 漂う。それは。

 もの?

 ひと?

 わかっている。

 お前だけ。

 ゆえに。

 有る。

 有る。

 転落の予感。

 堕落の予兆。

 明け渡せばいい。

 差し出せばいい。

 委譲移譲。

 異状異常。

 以上。

 余剰。

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