【創作断片】人質の王子

s.nakamitsu

闇の中より

 細長い月が鋭く光る濃紺色の夜だった。夜空の下は仄かに明るくとも、小さな明り取りの窓しかない石造りの居城のなかにあっては目を凝らさなければ何も見えない。その暗い部屋から部屋へと灯も持たずに歩く人影があった。影はやがて古びた扉の前で足を止めた。染み入るような静寂が場を支配していた。あたりに人気はない。鍵は開いている。そういう手筈になっている。慎重に扉に触れ、細く開けた隙間に体を滑り込ませると、そこは快適そうな広い寝室だった。

 貴人たちの狩りの様子を描いた絢爛なタペストリーが壁面を飾り、今時期使われていない暖炉は大理石の彫刻で縁取られている。蜜蝋蝋燭の残り香が空間を静謐な趣で満たしていた。部屋の中ほどに大きな寝台が置かれており、天蓋から重厚な絹織物が美しい襞を作っている。その奥の窓から月明かりが差し込んで、寝台と石の床を青白く照らしていた。


 後ろ手に鍵をかけてから音もなく寝台へ歩み寄り、天蓋の布地をそっと手繰ると、さらに濃い闇の中にしどけなく眠る気配があった。影は躊躇いもなく枕に沈む白い喉元へ手を伸ばした。ところがその革手袋の黒い手が皮膚に触れるより早く、ふいに開かれた瞳がちらりと光った。侵入者は咄嗟に寝台の上に馬乗りになってその右腕を抑え込み、ナイフを握っていた左手をふりかざした。しかしおそるべき速さでその手は弾かれて視線がかちあった。一瞬の沈黙の後、場違いに落ち着いた男の声が夜の静寂を破った。

「テオ、君なのか」

 驚きに目を開き、言いながら寝室の主は自由な方の肘を張ってすこし体を起こそうとした。彼の体から毛布が滑り落ちて、鍛えられて引き締まった素肌の胸元が現れた。

「ずいぶん久しぶりだ」

 わずかに微笑むその様子は、まるで小鳥の囀る昼の回廊ですれ違いでもしたようだった。

「騒ぐな、ミハイル」

 テオは短剣の刃を突きつけて凄んだが、彼は動じなかった。そして、まるで喜ばしいことのように呟いた。

「私を殺しにきたんだね」


 ミハイルはなぜかそのまま大きな枕に再び体を沈め、息を吐き、期待に満ちたような、穏やかな眼差しでテオを眺めた。テオは不可解な行動に警戒しながら短剣をミハイルの顔のそばへ寄せたが、心臓は早鐘のように鳴り、息が苦しかった。なぜ抵抗しないのか。簡単に押しのけられるとでも思っているのだろうか。たしかに彼は武術に優れているが、テオも力で負けるつもりは無い。

 しかし彼の腕を押さえつける手に力を込めながら、ふいにテオは、彼のいう通りミハイルと随分長いこと顔を合わせていなかったことを思い出した。テオがミハイルを思い描く時、いつも彼はまだ幼さの残る少年の姿をしていた。テオはまじまじとミハイルの顔を見た。部屋に満ちた淡い月光が細やかな皮膚をしっとりと照らし、波打つ濃い金髪が枕の上に広がっている。その煌めく波に縁取られるようにして、くっきりとした目鼻立ちの端正な顔立ちは穏やかに、透き通るような碧眼がテオに視線を投げかけていた。少年時代の繊細さを残しているところといえば、男にしてはやや線の細い顎と首の輪郭だったが、それも滑らかに肩と胸へ繋がって清々しい逞しさへと変わる。どこもかしこも整って、気品のある線でできている。

 テオはその姿を美しいと思った。そして彼はミハイルのその美しさを憎んでいた。無意識に奥歯を噛み締めながらテオは思った。今この美しい生き物の命を終わりにするのだ、この俺が。短剣を固く握る手の感覚はもはやほとんど失われていた。呼吸を整えようとしているとミハイルが目を細めて呟いた。

「死ぬ前に君の顔が見れてよかった」

 突如、テオの胸の内に激しい怒りが湧き上がってきた。お前など脅威にすらならないと言われたように思えた。人質としてこの城で暮らすテオに幼い頃から浴びせられた無数の悪意が蘇ってくる。かつて友人面していたこの男も、裏ではテオを嘲笑っているに違いなかった。テオはこの城での忌まわしい過去から自由になるために、唯一の幼少の思い出を、自ら殺しにきたのだった。テオは憎しみに顔を歪ませた。

「馬鹿にしやがって……」

 テオはいよいよ怒りに任せて彼に剣を突き立てようとした。しかしその言葉を聞いたミハイルの瞳に、初めて見る深い憂いの色があらわれた。

「最後に、手に口づけをしても?」

 ミハイルはなにか縋るようにたずねた。テオは意味を図りかね、動きを止めて黙った。答えなかったのを肯定と受け取ったらしく、ミハイルはゆっくりとテオの短剣を握る手をとり、手袋越しにテオの指を自らの唇に押し付けた。テオはその様子を雑多な感情に混乱しながら見ていた。音を立てて唇が離れ、彼は静かに言葉を紡いだ。

「テオ、君に神のご加護がありますように」

 真摯な瞳がテオを射抜いた。硬直したテオの手からミハイルはそっと手を離して体の横へ下ろす。

 これはなんの真似だろうか。聖人気取りだろうか、それとも命乞いか。テオは答えを探すことなど放棄するべきだと思ったが、頭の中とは裏腹にその視線から逃れることができなかった。真っ直ぐにテオを見る濁りのない瞳の中に、青い光が細く煌めいている。その輝きを縁取る切れ長の目はくっきりと見開かれて揺らがない。時を止めるような眼差しだった。しかしやがて彼はテオを促すかのように、ゆっくりと瞼を閉ざしてその煌きを隠した。

 テオは眩暈を感じた。はげしい寂寞感に襲われて、閉ざされた瞼からも目が離せなかった。テオが長年妬み、憎んで、目を背けてきた彼の美貌は、生まれ持った見かけの良さのためばかりではなかった。ましてや錦織の衣服や上等な毛皮だとか、燦然と輝く宝石、もしくは黄金の装身具のためなどではなかった。今、裸同然の姿にもかかわらず、彼は過去にテオが見たどの晴れ姿よりも美しかった。人が目を向けずにいられないその光輝は、彼の内側から放たれていたのだということを今テオは突然に知った。

 彼は本当に抵抗しないつもりなのだ。なぜか?自分は重大な過ちを犯そうとしてはいまいか。突然湧き上がった疑念は打ち消すことができなかった。彼がテオを嘲ったことが、本当にあっただろうか?


 その時、遠くから金属の震える音が響いた。ミハイルも再び目を見開き、警戒を露わにする。それから問いかけるようにテオを見た。彼は無関係だということだろうか。テオは咄嗟に身を翻して窓へ駆け寄った。そして、王宮の其処此処が不思議と赤く照らされているのを見つけた。

「反乱か……!」

 テオは嚙み殺すように呻くと、すぐに踵を返して窓から離れた。

「まさかこんな時に……」

 振り返ると、ミハイルは寝台の上に半身を起こし、やや呆然とした表情でテオを見つめていた。

「反乱……」

「イグローシュ公の一派が謀反を企てているという情報はあった……彼は周到だ。失敗はあり得まい」

 テオは扉へ戻って閂をかけ、次にミハイルの衣装箱に手を突っ込んで何枚か布地を掴むと彼にむかって投げつけた。

「あなたを殺すのはやめた。そんなに死にたいなら勝手に死ねばいい。だが、もし生きる気があるのなら……服を着て、ついてこい」

ミハイルは驚きの表情を浮かべたが、すぐに凛々しく微笑んで答えた。

「もちろん、君と共に行こう」


 テオは彼の言葉に内心安堵した。彼を連れて行くことが正しいのかどうかはわからなかったが、他の選択肢はどれも確実に彼を死へ誘う道のようにテオには思われた。しかし、彼を生かしてここに残すならテオの身にも危険が及ぶ可能性がある。もしもここに残ると言われたら、テオは彼を殺さなければいけなかっただろう。だが、テオにはもうミハイルを殺すことはできないように思われた。

 テオは壁のタペストリーに近づいて端を捲り上げた。裏を覗き込むと壁の隅に膝の高さほどしかない四角い穴を見つけた。近づいてもその中は黒々とした闇がわだかまっているばかりで中の様子は何も見えない。ただわずかに冷たい風が感じられた。

「抜け道を使うつもりか?」

 上着を羽織りつつ、ミハイルがテオの後ろから覗き込む。テオは答えずにその闇の中へ自分の体を押し込んだ。

 存外すぐに足が地面について、テオは密かに安堵した。その穴の中はちょっとした空間になっているようだったが、全くの暗闇でなにも見えなかった。灯をつけようと腰の鞄を探っていると、上方が仄かに照らされてランプを持つ手が伸びてきた。

「これを使え。私も下へ降りるから避けてくれよ」

 ミハイルから受け取ったランプを翳しながら移動すると、四角い穴は階段の途中、踊り場の壁に開いたものであったことがわかった。情報によると、この階段の先は市壁の外側の海辺までつながっているはずだった。下りてきたミハイルがテオに先立って闇の中を進んだ。

「本来の入口は上階にあるんだ。だがそれも王族以外には秘密にされている。これを知られてしまっていたとは……。どうやら私は刺客が君でなかったとしても、今夜死ぬ覚悟を決めなければいけなかったらしいな」

 冗談ともつかない調子でつぶやきながら、ミハイルは初めてこの通路を使うわけではないらしく、慣れた様子で階段を下っていく。いつのまにか主導権を握られていることに苛立ちを覚えながらも、テオは黙ってその後を追った。

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