夢限の追想

林きつね

夢限の追想

「──さい。──ぱい、起きてください。せんぱーいおーきーろーよー」

「んぁ──……あれ、ここって──?」


地震かなにかかと間違うような揺れを体全身で感じながら、ゆずるは目を覚ます。

ぼんやりとした意識の中、ここが自分の通っている学校の視聴覚室だということを理解するまで、十数秒ほどの時間がかかる。

そして傍には、「やっと起きましたか先輩。女の子を待たせるのは評価が下がりますよ」などと抗議をしてくるショートカットの、全体的に小柄な女の子がいた。

脳は既に覚醒しており、その女の子が中学の頃に出会った、一つ下の後輩、春川はるかわ 真子まこであるということはすぐさま理解出来た。

しかし、何かが妙だ。

何が妙かはうまく表すことが出来ないが、頭の中にモヤがかかっているようで、酷く不確かであると、そんな気持ちに弦は襲われていた。

なぜ自分はここにいるのか、そしてなぜこいつがここにいるのか──。

疑問に対する回答を自分の中で求めるも

、そんな状態では出てくるはずもない。


「なあ、真子ちゃんよ──」

「なんですか、先輩?」


ほかにやりようもないため、傍でポカンとした顔で立っている後輩に聞くという手段を取る。


「ここは、高校の視聴覚室だよな──?」

「ええ、そうですよ」

「なんで俺はこんな所にいる?」

「は?」

「え?」


なぜと、理由を問うて返ってきたのは、『なにいってんだこいつ』と言わんばかりの怪訝な顔だだ。


「え?え?マジで言ってます?」

「はあ──?真子ちゃんよ、そういう抽象的な表現で先輩を混乱させるのはやめるんだ。もう少し具体的に頼む」

「まじですか……。先輩がなにをとち狂ったのか、女子の間で話題沸騰中の『視聴覚室で彼岸花を机に置いて、その席で眠ると不思議な夢を見る』っておまじないを実行したんですけど……覚えてません?」


弦は自らの記憶を模索するも、でた回答は、全く覚えがないであった。

そして、再度後輩に問う。

自分はなぜそんなことをしたのかと。「知りません」

そしてなぜお前がいるのかと。「そりゃまあ、先輩がいますから」

返ってくるのは答えになっていない答えで、弦はガクリと肩を落とす。

ただ一つ理解出来たことは、自分を襲っているなんともいえない妙な違和感の正体は、記憶の不確かさだということだけ。

そして、その不確かさはなにも事の前後というだけではない、自分のこれまでの人生──覚えていて然るべき事象が酷く不安定で揺らいでいる。

そしてそのわかりやすい例として、目の前にいるこいつ──真子という後輩。

彼女に関することも、どうにもあやふやだ。

彼女と弦は親しい。先輩と後輩という関係から友達へと、傍から見ればそれ以上の仲であると感じられるほどに。

だが、そんな仲のいい後輩との出会い、これまで二人で少なからず作り上げてきたであろう思い出、そんな忘れるはずのないものが、今の弦の中からは欠落していた。

それは駄目だ──と。

どの記憶が失われようとも、こいつに関する記憶だけは失っては駄目だと、弦は必死で自分の中で真子という後輩の存在を手繰り寄せていく。

結局、確かにあるはずの出会いも思い出も見つけることは出来なかった。しかし、甲斐あってか一つだけ思い出せたことがある。そう、確かこいつは──


「なあ、真子ちゃん……お前今日、身体大丈夫なのか?」


真子は身体が弱い。

彼女にはそれを感じさせない天真爛漫さがあるが、事実彼女はよく中学を休んでいた。

高校に入ってからは──まだ、思い出せない。


「見ての通り、今はバリバリ元気ですよ。ほら、高校の制服似合ってるでしょ?」


そう言って、その場で可愛らしく一回転をする真子を見て、弦は少しの安堵を覚え、そのまま「可愛い可愛い」と相槌をうちながら、視界に映る映像に少し違和感を感じる。


「真子ちゃん真子ちゃん」

「なんですか先輩先輩」

「今、何時だ?」

「えーっと……時計は短い針が4の所のまま止まってますね。時計自体が」


正確な時間は不明……だが冷静になって考えると、時間なんて意味が無いのかもしれない。

もし今が真夜中であろうと、街には街灯だとかいくらかのビルの明かりだとか、ある程度の光が溢れているものだ。だというのに、この視聴覚室の窓から見える景色は──否、景色など見えない。黒い──景色はおろか、光の一筋さえ通さないというように、真っ黒に塗りつぶされていた。

そしてそれは、廊下側も同様に。


「ちゃん真子……これ……一体どうなってんだ……?」

「どうってパイセン。そりゃあ、これはあれですよ。おまじない通り『不思議な夢』って奴を見ちゃってるんです痛い痛い痛い痛い──!」


『不思議な夢』という単語を聞いた途端、弦は思いっきり真子の耳を引っ張った。勿論、これが夢かどうかを確認するために。


「真子ちゃん、痛いってことは夢じゃないってことなんじゃないか?」

「私で試さないでくださいよ?!試すんなら普通自分でやりません?!」

「落ち着け。こんな状況で混乱するのはわかるが、まずは冷静になることが重要だ」

「なんだこいつ!」


夢ではない──。

それだとなおのことタチが悪い。

そもそも自分は本当にそんな女子の間で流行っているというようなおまじないをやったのだろうか。これは手の込んだドッキリで、後輩が自分を驚かすために色々細工をしていたのではないだろうか。

そこまで考えて、弦はイヤと首を振る。

たとえ記憶が乱れていてもわかる、知っている。この後輩は嘘なんてつけるような性格ではない。

第一、どんなに手の込んだドッキリでも、人の記憶を弄るなんてことは不可能だ。


「先輩、せーんぱーい」


真子に呼び掛けられ、弦は思考を中断する。


「とりあえず、ここにいても埒があかないので、外でません?」

「外?」


言われて、弦は真子の指さす方を見る。

すると、今までなぜ気が付かなかったのか、黒板側の扉がこちらですといわんばかりに開いていた。

あの扉を抜ければ、元通りの学校──なんてことを考えるほど、弦は楽観的な性格ではない。

しかし、確かにここにいてもどうしようもないなと、指示を待つかのようにこちらを見る後輩に声をかけ、共にその扉の先へと抜ける。



わかりきっていたことだが、視聴覚室を出て見えた風景は異常だった。

弦の通う高校は、そこまで大きいわけでもなく、廊下の端からもう片方の廊下の端がぼんやりとではあるが見える程度の広さだ。

だが今は、右を見ても左をみても、延々と視界の限界が来るその先までも伸びるように、廊下が続いていた。

窓も先程と同じように、景色など見えずに、電源を入れていないテレビのように黒を湛えていた。


「とりあえず、歩いてみましょうか」


そう言って、真子は先立って右方面に迷わず歩き出す。

この異常事態に困惑することなく、きびきびと行動する彼女に弦は疑問を覚え、問うてみるも、「そりゃあ、先輩と一緒ですから」なんて答えが返ってくる。

なんだそりゃと、弦は苦笑いをして、 そして気合を入れるように小さく「よしっ」と呟き、駆け足で先を行く真子の隣に並び立つ。


そのまま二人はしばらく、他愛ない雑談を挟みながら、普通であればとっくに壁にぶち当たっているであろう距離を歩いていた。


「真子ちゃん、この廊下いつまで続くんだ?」

「私が知るわけないじゃないですか。第一これは先輩の──」


途端、今の今まで黒く沈黙していた廊下の窓、正確には弦と真子の二人が今歩いていたすぐ近くに位置する窓が、テレビの電源が入ったかのように白く光る。

弦に驚きの声はない。

状況に慣れたから、驚きが一周して逆に冷静になっている、そんな理由からではなく、ただ意識が別の方向にいっているという理由で。

窓が白く光った瞬間、弦の記憶の一部分がが、欠けたピースが補填されていくように埋まっていく。

そしてその記憶は、そのまま映像として、窓をスクリーン代わりに二人の目の前で流れ始める──。


「うわあ──見てください、懐かしいですねえ」


確かに懐かしいと、弦は思う。

それは二人の出会い。5月に入った頃だっただろうか、弦は中学二年生で、真子は一つ下の学年だから当然一年生。それは弦がいつも通り自転車で登校している最中の出来事だ──。



『おい、大丈夫か──?』

『っ──ハァ……ハァ……大丈夫、です。……はい、軽い発作ですので慣れてます。もう収まりました』

『慣れてるって……。君、うちの中学の一年生だよな?』

『制服が一緒ですのでそういうことになりますかね。わざわざありがとうございます、先輩。もう大丈夫ですので』

『大丈夫ったってなあ……。そうだ──、乗れよ』

『はい?』

『自転車の後ろだよ。送ってやるよ』

『いえ、ほんとに大丈夫ですから。もう学校見えてますし』

『見えてるっても歩いたら五分以上は絶対かかるぞ?大丈夫、大丈夫、安心しろ。履歴書の特技欄に書けるぐらいには二人乗りは得意だ。それに、さっきの見て放っていったら俺がモヤモヤする』

『──はあ、わかりました。それならお願いします』

『おう、しっかりつかまっとけよ。目指すは一分以内に校門通過だ──!エンジン全開ぃ!』

『え、ちょ、速っ怖っ!私の身体気遣ってくれてる意味ありますかぁ?!』

『あっはっはっはっはっはっは──!』


そこで上映は終わり、スクリーンはまた黒を湛えた窓に戻る。

中学二年生の時の自分を客観的に見せられるというのは、はっきり言ってとても恥ずかしいもので、弦は複雑な表情で顔を赤らめていた。


「俺、こんな馬鹿だったのか……」

「え?気が付いてなかったんですか?この時の私は、うわ、面倒なのに絡まれたな。断るとさらに面倒くさそうだがら素直に言うこと聞いておこう──って思ってましたよ」

「え……まじで……?」

「マジです。でもまあ、今はとても感謝してますよ。あの時声をかけてくれてありがとうございました!」


そう言って、真子は深々と頭を下げる。

それが余計に気恥ずかしく、弦は顔を赤らめたまま視線を逸らし、「お、おう」と情けない返事を返すことしか出来なかった。

それを見て真子はクスリと笑う。


「さ、先輩。歩きましょう。さっき見たいな映像を見続けてればいずれ元に戻れますよ」


そう言って先に歩き出す後輩に、弦はまた早足で横に並ぶ。


終わりの見えない廊下を歩きながら、弦は考える。

噂になっているおまじないをやって、本当に不思議なことが起こった。

これはもういい。考えたってどうにもならないからこそ不思議なのだと自分を無理やり納得させた。

わからないのは──なぜ、自分は女子の噂程度のおまじないを実行したのか。それに、真子は、この後輩は、どうにも何かを知っている様子だ。

それを聞いても、「とりあえず先に進みましょう」とはぐらかされるばかりで、答えは出ない。

この後輩に誑かされて、それに自分が付き合っているのだというのならわかる。だが最初に目が覚めた時、教室でのこいつの言い方はその逆だ。

あらゆる意味で、わからないことが多すぎる──と、その時、弦の視界に光が飛び込んでくる。

見ると、真子の方はもう窓の方に体を向けていた。

そして、弦の欠けたピースは埋まり、記憶は補完され、上映が始まる──。


『あ、この前はどうも……』

『おおっ!この前の……ええっと、名前そういえば聞いてなかったよな』

『──春川真子です』

『そうか、真子ちゃん。まだ三時半だぜ?折角の新入生なら部活の一つでも入ったらどうだ。青春楽しもうぜ!』

『……いえ、私生まれつき身体が弱いので、部活は入らないよう言われてるんですよ。というか、そういう先輩こそなにしてるんですか?』

『ん?俺は部活とかより帰ってゲームしたいし』

『そうですか……』

『というか方向一緒?なんならまた乗っけてやろうか?』

『それだけは結構です!』


こんなやり取りがきっかけで、二人は登下校時に会えば言葉を交わすようになっていく。

初めは弦の一方的ともいえるようなやり取りも、次第に二人の会話になっていった。

ありふれているが、とても大切な青春の一幕。


「なんかアレだよな。真子ちゃんずっと元気なイメージあったからこう、なんか新鮮だ」

「身体弱いって言ってるじゃないですか」

「そういう意味の元気でなく」

「あとこれ遠慮してるんじゃなくて、引いてるんですよ?」

「え?マジで?」

「ええ、いきなり下の名前ちゃん付け呼びとかないでしょ」

「ご、ごめん春川さん……」

「今はいいんですよもう!」


お互いの時間の経過と絆の深まりを感じながら、また二人は歩く。なんてことない会話を交わしながら。

そして、三つ目の上映まで辿り着く。


『先輩先輩!このカバンすっごく可愛くないですか?!私誕生日来月なんで買ってくださいよ』

『はしゃぐとまた体調崩すぞ……。あとそれを言うなら俺の誕生日は先週だった』

『え嘘?!なんで言ってくれないんですか?!』

『いや、言おうと思ったんだけど、その時お前熱出てたろ?言うの忘れてた』

『私のせいだったなんて……。すいません、先輩。お詫びと誕生日プレゼントとして今すぐこのカバン買ってきます!』

『いや、俺はそれいらないから。別にいいよ誕生日なんて毎年くるんだし。来年祝ってくれ来年』

『えー、もったいないものの考え方しますね先輩は。私は勿体なくないので来週は盛大に祝ってくださいね!』

『へいへい』


会話を重ね、親しくなり、そして何度目かは元々覚えていなかったのか、映像を見たあとでも思い出せないが、なにせ何度目かの遊びだ。

気がつけば、弦は同学年の友人を差し置いて、真子と遊ぶことが一番多くなっていた。

真子の身体のこともあり、あまりはしゃぐような真似は出来なかったが、それでも弦は、その時その時を快活に過ごすこの後輩と一緒にいる時間が、なにより心地よかった。


「さっきとはうってかわってはしゃいでらっしゃいますな」

「あはははは、楽しいんですししょうがないですよ」

「しょうがないか」

「しょうがないんです」


二人は笑い合う。心から、楽しそうに。

その後も、数回に渡り上映は続いていく。

文字通り、その一つ一つに思いを馳せながら二人は進んでいく。

結局、今の状況がなんなのかは弦にはわからない。だが、決して悪いものでは無いのだろうと、この頃には感じ始めていた。

そして上映は、気がつくと弦は中学三年生、真子は二年生の夏になっていた。

弦の高校受験が本格化すれば、あまり遊べなくなるだろうからと、隣町で行われていた夏祭りに二人で行った時の映像だ──。


『花火綺麗ですね……』

『ん?ああ、そうだな……』

『ん?いやいや、先輩。今は君の方が可愛いよ〜とかそういうことを言う時じゃあないんですか?』

『うーん、でも花火の方が綺麗じゃない?』

『……だから彼女出来ないんですよ?』

『うっせえ、ほっとけ』


上映が終わる。

弦は今、酷く自分の顔が熱を持っているのとを自覚する。

上映が始まれば、欠落していた記憶が、取り戻される。そして、その時感じていた感情が鮮明に蘇る。

この夏祭りの時──、いや、この夏祭りよりもっと前からそうだったのだろう。ただこの夏祭りの時に、ようやく自覚したのだ。

この真子という後輩のことが、異性として好きであると。

その想いが鮮明に蘇り、つい今しがたまで特に何も無く見ていた真子の顔がまともに見れなくなる。


「先輩……花火じゃなくて私の方ばっかり見てませんでした……?」


少し弱い声で、真子が言う。

流れる映像は、二人を客観的な視点で見たものだ。だから当時は相手に伝わっていなかった自分の挙動も、全て相手に伝わってしまう。

見ると、真子の顔も赤みを帯びていた。

気のせいだろと、辺りを包み込む恥ずかしさから逃れるように弦は早足で歩き出す。

真子は何かを言いかけたが、無駄だと思ったのか、ふくれっ面でその後を追いかける。


その後も、若干のぎこちなさを残しつつ二人はまた映像を眺めていく。

受験勉強に励む弦に、応援やちょっかいをかける真子。

たまの息抜きで遊びに行く二人。

試験当日、合格発表、お祝い。

二人の思い出を、二人で噛み締めていく。

そして結局、在学中に弦が真子に告白することはなかった。勉強でそれどころではなかった等と、言い訳のしようはいくらでもあるが、実際のとこはビビっていた。ただそれだけのことだ。

今の関係が壊れることを恐れていたら、卒業という形でそれは無くなってしまった。

弦が高校生になり、真子が三年生になった後も、二人は頻繁に交流していたが、それでも同じ学校の先輩後輩の関係では無くなったことは、喪失とも言えるような寂しさがあった。

そして、それは真子も同じだったようで、真子は弦と同じ高校へ行くことを決める。

真子の学力では、厳しいと周りからは言われた。言われたから真子は必死で努力をした。それこそその努力が祟り、体調を崩す頻度も増え、受験そのものが危ぶまれるぐらいには。

弦もできることは全てやったと言ってもいいぐらい、真子をサポートした。そしてついに決める。

真子が合格したら告白しよう──と。


そこまでの映像を見て、弦は疑問に思う。

自分は結局、真子に告白していないのだろうか?と。今の真子はこの学校の制服を着ている。

ということは、合格したということだ。しかし距離感は以前のままで、彼氏彼女という風ではない。

自分は結局、告白しなかったのか。それとも、告白してNoを貰ってしまったのか。

今も自分の目の前で笑顔を浮かべている後輩に聞けばわかるのだろうか?

しかし、それはせずにまた次の上映を目指して歩く。答えはいずれこの窓が映してくれるだろうから。


そして上映は、ついに真子の合格発表へとたどり着いた。

いつものように、白い光が溢れ、それと同時に記憶のピースは埋まり、思い出す。思い出してしまう。

映像が流れ始めるその時、弦の顔は青ざめていた。

弦はもうこれから流れる映像の記憶は既に蘇っている。だからその先を考える。この後どうなったのか、どうなってしまったのか。もはや、目の前の映像に弦の意識はない。


『受かってる……ほんとに……受かってる……先輩……ちょっと思いっきり耳引っぱってくださあぁ──超痛いです。夢じゃ、ないんだ──!よっしゃあ!先輩私やりましたよ!』

『あっはっはっはっは!お前すげえ真子ちゃん!さすが俺の後輩!ばんざーい!ばんざーい!』

『やった──!これでやっと……先輩と同じ学校に……嬉し……』

『ぬぅあ?!お、おい真子ちゃん?いくら嬉しいからってそう堂々と抱きつかれるとその俺も男だから……。あと俺お前に言いたいことが……真子ちゃん?おい、どうした?……おい!真子!どうしたおい!真子!!』


真子は無事、弦と同じ高校に合格した。そしてその日、真子は倒れた。

積もりに積もった今までの無茶の代償は、最も訪れて欲しくなかった時に訪れた。

そしてその時が訪れるまで、弦は真子が無茶をしていることに、欠片足りとも気が付けていなかったのだ──。


「あれ?ちょ、先輩?!」


上映が終わった瞬間、弦は走り出した。

この後どうなったか、記憶が欠けたいまの状態では考えるだけ無駄だ。だから、はやく見なければならない。見たくはない。少なくとも、この後が救いのある結末では無いことだけは、なんとなく理解出来た。だが、走る。自分の一番見たくないものを見るために。

走って、走って、やがて限界が来て立ち止まり、手を膝につけて荒い息を吐く。

その立ち止まっていた時間で、真子も追いついてくる。しかし、彼女は別段走るわけでもなく、ゆっくりと歩いて弦に近付く。

そして、目の前の窓が白く光る。弦の理解をそのまま言葉に表すように、真子が言う。


「これが、最後ですよ──」


上映が、始まる──。


『先輩、もう謝るのやめてくださいよ。先輩のせいじゃないじゃないですか。いつも見たいに笑ってくださいよ』

『でも、俺がちゃんと気が付いてれば……』

『騙したのは、私です。お父さんとお母さんにも必死でお願いして。どうしても先輩と同じ学校行きたくて、でももう無理っぽいですけどね。あはは』

『無理って、そんな』

『もう長くないんですって、私。むしろよく持った方ですよ。先輩のおかげです。先輩がいっぱい楽しい思いをさせてくれたから、だから、私は大丈夫です』

『真子……好きだ……』

『先輩……』

『俺と付き合ってくれ……もっといっぱい楽しいことしてくれ……。……頼む』

『そんな酷い顔した告白あるんですねえ……。先輩、私もうすぐ死ぬんですよ。これから生きていく先輩のおもしにはなりたくありません。だから、その気持ちには応えられないです。ごめんなさい』

『そう……か……』

『ええ、ごめんなさい。それより私をそんな死人よりも死んだような顔で看取る気ですか?いつも見たいに笑ってくださいよ、ほらほら』

『そんなの……無理だよ……』


弦は廊下を進む。真子の手を強く握りしめて。

きっと離せば、この夢から醒めてしまうから──。

このまま手を繋いだまま、この無限の廊下を進み続ければ、ずっと、一緒に──。


「いい加減にっ、してくださいよ!」


だがその手は真子自身から無理やり解かれる。


「もうわかってるでしょ?!私はもうとっくにいないんですよ、ただの先輩の夢なんですよ。先輩はもう夢から醒めて、これまでのことを思い出にしてこれからを進んでいくんですよ!」


弦はなにも答えない。

記憶の追想は終わった。不思議は終わった。あとは一人で、夢から覚めるのみ。


「先輩だって立派な男子高校生なわけでしょ?好きな人の一人ぐらいいるでしょ?」

「お前だ……」

「……。クラスで気になってる女の子ぐらいいるでしょ?」

「お前だよ……。好きな人も気になってる人も一緒にいたい人も全部全部お前だよ……!忘れられないんだよいつまでたっても!それこそ、わけのわかんねえおまじないみたいなもんにまですがるぐらい、お前がずっと好きなんだよ──!」

「ッ──!」


破裂音が響く。果てなく続く廊下で、その音は反響する。

頬を張られた弦は、なにも感じていないようにその場に立ち尽くす。一方、頬を貼った真子は、目にいっぱいの涙を溜めながら、しかしその目に確かな怒りを宿しながら、弦を真っ直ぐに見据えていた。


「私は、先輩のこと嫌いです。大嫌いです」


その言葉で、引っぱたかれた数倍もの痛みが弦を襲う。

自己嫌悪だ。どこまで自分は愚かなのか。一番言わせたくない言葉を、一番言わせたくない人に言わせてしまっている。


「いつまでもいつまでもウジウジウジウジかっこ悪い。そんな男からの告白、たとえ身体が元気でも断ってますよ……。それに結局……あの後最後まで私に笑顔見せてくれなかったじゃないですか……」

「ごめん……」

「もう、遅すぎます」

「ごめん……」


言うべき言葉は決してこれではないと分かってはないがら、それでも弦は「ごめん」と繰り返す。

それに業を煮やしたかのように、今度は両手で弦の両頬を挟むようにして思いっきり張る。


「痛いな……夢なのに……」

「痛いように力入れてますから。夢からはまだ醒めませんか?」

「醒めなきゃ、駄目なのか?」

「駄目です。先輩はもう、私の先輩じゃありませんから。だから今度こそ、きっちり笑顔でお別れしましょう」


声は明らかに震えている、目からは少し緩めば涙が溢れそだ。けれども真子は笑っている。ずっと弦に見せていた、見せていたかった笑顔で笑っている。


「ははは……俺はどんだけ……情けないんだよ……」


力なく笑う弦に、真子はなおもその笑顔で力強く言う。


「ええ、本当に情けないですよ。だからこれから頑 張ってください。目標、来世で私が惚れるような男──!」


最後の最後まで、結局弦は、この元気な後輩から貰ってばかりで、最後の最後にあげられたはずの笑顔さえ与えることが出来なかった。

今回もきっとそうなのだろうか……いや、そうありたくはない。こんなにも好きだから、来世で惚れられたい──。


「真子ちゃん、もう一発殴ってくれ」

「え、まさか先輩ってMだったんですか?」

「さっき目覚めたんだ」

「うわあ……」

「あははははは」


うん、これなら大丈夫だ──。


「こんな感じで、大丈夫か?」

「バッチリです。目に溜めてる涙が少し惜しいですけど」

「それはお互い様だろ」

「は?私が嫌いな先輩のために泣くわけないじゃないですか」

「俺は大好きだけどな。うん、大好きだ。お前が大好きだよ。それは一生忘れない。けど、ちゃんと前に進む。それで、いいか?」

「情けないですけど、先輩ですからそれでいいですよ」

「それじゃあ──」


「「さようなら」」


別れの言葉を交わし、二人は終える。今度こそ、ちゃんと笑顔で。

弦は一人で歩き出す。一本一本進むごとに、無限に続いていた廊下は形を失っていく。

最後にもう一度だけ振り返って、真子の顔が見たい──が、やめておく。

辛い顔はもう見せないと、やっと、決めることが出来たから。

幻に背を向けて、力強く一歩一歩、現実に向けて足を踏み出していく。今から、そして、これからも──。

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夢限の追想 林きつね @kitanaimtona

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