第2話 翻訳Translation

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 あれから先輩は一度も連絡をくれない。しかし、先輩が僕に電話をくれたことなんかそもそもなかったことに気づいて、僕はさらに落ち込む。いつも僕が一方的に電話をしていた。うるさいだの鬱陶しいだのと怒鳴られたいだけ。電話をしたところで、先輩は五分も相手をしてくれない。会話が続かない。無言になるのが怖くて早々に切り上げてしまう。何のために掛けてきたんだ、と怒られたいがためにやっているとしか思えない。

 指摘されたこともある。ああ見えて先輩は勘が鋭い。

 それはそれ。僕は得意の言い訳で回避する。

 伝えたいことは出会ったときから一つなのだが、それを伝えたらおそらくすべてが終わってしまう。友だちでも他人でもないこの微妙な距離も。僕は先輩にとって、鬱陶しい大学生でしかなかったのだ。お世話になった家庭教師、くらいに格上げしてもらえれば僕はそれ以上望まないのに。

 忘れられることが一番苦痛。思い出にされることが耐えられない。

 あの日先輩の家に居座っていたあいつのほうが、大学生になったいまの先輩にとって近い存在なのだ。厭だ。本当に厭だ。

「先生のことは聞いてましたよ。自慢の弟子だって」

「はあ」

 発言時にはすべてが決まっている、とはいえ、さすがにやりすぎではないだろうか。仕事が終わって先生と話をしているときに知らされた。時刻と場所。

「そんなこと急に言われましても、僕も予定が」

「さっき決まったんだよ。遅刻はせんようにな」

 遅刻常習犯の先生がよく言う。それに僕は一度だって遅刻なんかしたことない。小学校からいままでずっと。待ち合わせ時刻の十分前には到着するように心掛けている。

 場所柄厭な予感がしたが、僕は一応訊いてみた。

「行って何をするんですか」

「お楽しみだ」

 というわけで、僕はその場所に相応しい格好に着替えて厭々出掛けた。逃げることはできない。明日朝一で先生に報告しなければいけない決まっている。

 やはり予約が入っていた。席について待っていると、見知らぬようなどことなく見覚えのあるような女性が僕の名前を呼んだ。彼女は和服柄のドレスを着ていた。黒を基調としたマーメイドタイプ。あまり見かけない衣服だったが、最近の流行なのだろうか。よくわからない。彼女に自己紹介をしてもらうまでもなかった。僕は彼女の名前を知っている。顔もよく知っている。しかもクロニクル的に。

 先生のデスクだ。

 常々似ていないとは思っていたが、実際に眼の前にすると、先生の片鱗すら存在しないことが高々に表明できる。母親似なのだろうか。それとも隔世遺伝。

 しかしこうなると、この運びは絶対に本気。自分の引いたレールに無理矢理他人を巻き込む先生が、用もない駅に止まるはずがない。気紛れ運転。快速時々特急。

 なんだろう。何がいけないのだろう。

 僕は遠距離恋愛をしていることになっているのに。

「心理学ってどんな感じですか?」

 こいつは心理学も漢字で書けないのか。

 と思ったが、そうではない。心理学という学問の内容を訊いたのだ、彼女は。

 駄目だ。僕を目下苦しめていることが、現在行われていることと激しく対立するせいで余裕を醸し出せない。どこぞの先輩のようにケンカ腰になってしまう。あり得ない。至って平和主義の僕が。

「先生ってのはやめていただけると」

「父がミカって呼ぶんです。もう、私のことなのかあなたのことなのか」

 クロストークだ。心理学の話題は消滅している。確かに消滅に導いたのは僕だが、いまの僕はまともな思考ができないのだ。それを察してくれ。

「お付き合いされてる方がいるんでしょう?」

 来た。

 どうしよう。何て答えるべきか。

「遠距離恋愛って」

「よくご存知ですね」

「どんな方ですの?」

 言わなきゃいけないのだろうか。だんだん腹が立ってきた。僕と付き合いたいならはっきりそう言ってくれたほうがすっきりする。むしろ最初からそのつもりではないのか。遠回りだ。イライラする。

 ずかずか人のプライヴェイトに踏み込んでくるくせに、決してそんなつもりではないかのごとく振舞う。意識していても意識してやってなくても不快だ。謙虚を装っている。演技をしたいならもう少しうまくやれ。僕を騙せるくらいに。

「実は今日は私の希望で。父に無理を言ったんです。会いたいって」

 手元の料理に手をつける気力も失せる。ワインも要らない。酔いたくない。

「思ってた通りでした。先生はすごく素敵で」

「何が目的でしょうか」

 彼女の動きが止まる。

 僕は可能な限り最低の言い方をした。口調も表情も切り出すタイミングも。

 もうどうにでもなれ。僕だって都合がある。

 どうせあと一ヶ月もしないうちに辞める。

「あの、私」

「僕に付き合ってる人がいるのがわかっててこんなところに呼び出すなんてちょっと正気じゃありませんよ。僕が遠距離だからその淋しさに付け込もうと思ったんですか? もしそうだったらやめてください。先生が僕のことをどう宣伝したのか知りませんが、あなたは僕の幻想に焦がれているに過ぎない。そういうのを心理学で投影というんです」

 出来るだけ感情を封印して淡々と喋った。

 彼女は何も返せない。僕は相手に返答をさせないために喋ったのだから。

「帰ります。さようなら」

 たぶん呼び止められた。でも僕はその聴覚刺激の一切を無視した。

 彼女は泣いただろうか。泣くくらいなら最初からこんなことしなければいい。本当に気分が悪い。いままでそうやって僕にアプローチして来た女性の中で一番最悪だ。パワハラではないのか。父親の権力を利用して。師事している僕が逆らえないのをいいことに。

 眠る寸前まで破壊衝動に囚われていた。夢で何か壊したかもしれない。思い出せない。思い出したって仕方ない。

 僕は姿なき敵と戦っている。

 誰なのだ。お前は誰だ。

 ショーコさんは教えてくれない。ハリやミズアキが知っているわけがない。彼らはサブ以下。もし彼らが役に立つのなら、僕はショーコさんに攫われたりしなかった。

 着信が入っている。

 先生だ。

 僕はいつもより早めに職場に向かった。電話ではないほうがいい。呼び出すための電話。ドアをノックする。

 返事があった。普段なら絶対にあり得ない。

 僕はちょっとだけ力が抜けた。

 先生もまともなところがあるじゃないか。

「適当に座っとくれ」

 てっきり入室一番で殴り掛かられると思っていたので、またしても拍子抜けだった。先生は扉に背を向けて座っていた。僕はソファに腰掛ける。先生から遠くもなく近くもなく。

「悪かったなあ。悪いことをした」

 どうして先生が謝るのだろう。確かに先生は僕に不当なことをしたが、僕もだいぶ酷いことをした。もう少しやんわり断る方法だって。

 いや、違う。そうじゃない。そうではない。これは先生の作戦だ。自分から折れることで僕の罪悪感に訴えている。ワンダウン。

 危うく乗せられるところだった。

「ミカがなあ、会いたいといってな。会うだけなら、と思った私がいかんかった」

「ミカさんは」

「気にせんでくれ。きみは悪かない」

 彼女が、僕がいなくなったあと真っ先に、父親に告げた状況が眼に浮かぶ。涙を流しながら、嗚咽交じりで。

「何であんなことをしたんですか」

「ふられたのかと思ったんだよ」

 こうゆうところが先生らしいと思う。普通はこんなストレートに言わない。

「こないだからきみの様子がおかしいように思えてな。あの時からかなあ。きみを付き合わせたつまらん茶番会の辺りの」

「先生は僕を励まそうと思われたんでしょうか」

「ミカが会いたいと言ってこんかったらなあ、こんなことせんかったんだよ」

 先生がゆっくり振り返る。ひどくしょんぼりした顔で。

 親に喜んでもらいたいがためにやった最高の試みが思うとおり運ばず、一方的に親に叱られた子どもみたいだった。

 なんだか僕は居た堪れなくなる。これでは僕が悪いみたいではないか。

「すまんかった。このとおりだ。ミカにも言っておいたよ」

 先生はぺこんと頭を下げる。

 いいことをしたつもりでいたのだろう。先生は悪くない。その娘もすべてが悪いわけではない。単にタイミングが悪かっただけで。

 しかし、先生がやったことは僕にとって最悪の結果しかもたらさなかった。

「僕はふられてません」

 腹立たしい。不愉快極まりない。

 僕は先輩にふられてなんか。

「そうみたいだね。よかった。ミカが元気がないと私もなあ、なんというか」

「心配掛けたみたいで申しわけありませんでした。でももう」

 ここにはいられない。いるつもりはない。

 僕は鞄から辞表を出す。

 先生が泣きそうな顔になった。

「短い間でしたがいままでお世話になりました」

「どうしてだ? いいんだよ。ミカのことは私が勝手に」

「一身上の都合です。別にミカさんのことがきっかけじゃありません。その前からこれを用意してました」

 先生は辞表を見ようとしない。

 必死に空気を否定している。

「考え直してはくれんか。何が気に入らんのだ。言ってくれ。改善するよ」

「先生こそ考え直してはどうですか。幾らでも代わりのきく駆け出しの僕なんか呼び止めなくても」

 想定済みの沈黙。質も長さも。

 先生は、デスクに飾ってある写真立てを弄ぶ。

「行く当てはあるのか?」

 フレームを指でつうとなぞる。丸なら丸、楕円なら楕円、長方形なら長方形に。

「なければここにいます。辞表のじの字も思いつかなかったでしょうね」

「私じゃあ駄目なのか? ミカは私の傍にはいてくれないのか?」

 先生はたぶん泣いている。

 何故だ。泣かれるようなことだろうか、たかが辞表くらいで。

 僕は先生の顔を見ないように立ち上がる。

「別に今生の別れじゃありませんよ」

「いつでも戻ってきていいんだぞ? 私はずっと待ってる」

 転移か。

 としたら誰だろう。同じ呼び名の娘か。いるのかいないのかわからない妻か。それとももっと深い。

 いずれにしろ、すでに関係ないこと。

 僕はその顛末をすべてショーコさんに話した。誰かに聞いてもらいたかったのだ。先生のところを出て、最初に会ったのがたまたまショーコさんだっただけのことであって、もしそれが壁だったら壁でも構わなかった。僕はただひたすらに壁に語りかけることも厭わなかった。

「先生が好き」

「え?」

 ショーコさんは、僕のことも先生のことも先生と呼ぶのでどっちのことかわからない。しかしそれが僕のことだったとしたらなんとも唐突な告白だ。ショーコさんらしいといえばらしいのだが。訊き返そうと思ったら、絶妙な間合いでショーコさんが口を開いた。

「ネス先生は、ミカサキ先生が好き」

「またまた。単に転移でしょう」

 先生は、僕ではない誰かとの別れのシーンを、僕に重ねて見ていただけではないのか。誰かに一方的に別れを突きつけられてツラかった情景がダブって。

「本当に?」

「本当にって、ショーコさんが辞めろといったから僕は」

「私は辞表を出せといっただけ。私は先生があの仕事を辞めることを求めていない。私が知りたかったのはネス先生の気持ち。ネス先生は先生に愛娘を近づけさせて婚姻を狙っていた。そうすれば先生はネス先生から離れられない」

 僕は返答できなかった。

 意味が取れない。脳が意味を取ることを拒否している。

 先生が?

 僕を?

 遠くで破壊音。ガラスが粉々に砕かれたような音。

 ショーコさんは玉座から飛び降りる。すたすたと廊下に出てミズアキの名前を呼ぶ。

「うるさい。黙らせろ」

 少年のお守り係は、ミズアキが抜擢されたらしい。おそらく消去法だ。ハリが駄目なら彼しかいない。ショーコさんは少年に好かれていない。むしろ嫌われている。

「僕が行ってきましょうか?」

「まだ話」

 また破壊音。今度はさっきより近い。ミズアキの声もする。

「ドーナツ切れでは?」

「作って」

 僕はキッチンを借りて手早くドーナツを揚げる。どれだけ大量に作っても、あっという間になくなる。

 実は少年はドーナツを消化していないのではないか。あの鏡絵画の部屋のテーブルに皿にのせて放置しておくと、そのうちぱっと持っていく。どこぞに隠しているだけではないか。小動物のように。

「ということはですね、僕はあのまま先生のところに」

 ショーコさんは部屋の入り口を見つめている。睨んでいるのかもしれない。僕らは罠を張って、少年が掛かるのを待っている。

「いていい。居られるのなら」

 さて、どうしたものか。

 ショーコさんの思考はどんな突飛なことだろうと絶対真理だと思うので、僕はあの説を信じなければいけくなくなる。先生は自分の娘を宛がって僕と親戚関係になることを望んでいた。いや違う。先生が本当に心から求めているのは親戚関係ではなさそうだ。

 確かにショーコさんは、僕に仕事を辞めろとはひとことも言っていない。単に僕が深読みしすぎただけで。試しにショーコさんの有り難いお言葉を思い出してみる。

 先手を読みすぎてる。ネス先生に辞表出して。

 ほら、やっぱりショーコさんはそんなこと言ってない。

 してやられた。まんまとショーコさんの手の平の上で踊ってる。

 入り口付近に黒い頭がちらちら。少年だ。

 テーブルの上のドーナツは欲しいが、その先にショーコさんが待ち構えているので近寄れないのだろう。両者睨み合いの膠着状態。

 いつの間にか、ミズアキが僕の隣にいた。

「ご苦労様。たいへんだね」

「こんなんじゃ、僕はそのうち殺されますよ」

 ミズアキは傷だらけだった。特に手がひどいが、服の下も似たようなものだろう。隠れて見えないだけで。ガラスで切ったような痕。絆創膏とガーゼだらけ。

「この部屋は無事なんだね」

「時間の問題です。それか、ここを壊すと先生がドーナツを作れなくなるので」

 なるほど。一応分別はあるらしい。

「ああもう、メガネまで。ひどいよ」

 レンズにヒビが入っていた。小さい亀裂ではない。もう使い物にならないだろう。

「よければ買ってあげようか?」

「いいんですか?」

 ミズアキがうれしそうな顔をした。僕は初めて彼の笑顔を見た気がする。

「ありがとうございます」

「いい加減にしろ!」

 ミズアキの声は、ショーコさんの怒鳴り声に掻き消された。僕は思わずドーナツを数える。ひいふうみいよういつむうななや。

 一つ足りない。

 僕らは、餌だけ持って逃げられた釣り人の気持ちを味わう。

「ところでハリさんは?」

「シャワーじゃないでしょうか?」

 なんとも統率の取れない。

 そんな、統率の取れてない一員であるらしい僕は、その日のうちに先生のところに戻った。ショーコさんの絶対真理は、すぐに確信に変わる。

 僕は先生と寝た。


     2


 もうだいぶ長い間先輩の顔を見ていない。声も聴いていない。電話もしていない。

 会いたくないわけではない。

 万に一つもありえないが、例えば先輩が僕の家を訪ねてくれたとする。そうしたら僕は舞い上がるほどにうれしい。僕の部屋に招待して最大級の持て成しをするつもりだ。先輩はビールが大好きだけど、すぐに酔っ払ってしまうので、飲みに付き合うと必ず寝顔が拝める。その顔をずっと見ていたいので、僕はその夜一睡もしない。一日くらい徹夜したって平気だ。それに徹夜するだけの価値は充分にある。

 避けているのは僕だ。

 会えないのだ。僕はそれどころではない。忙しい。

 いやいやそれは言い訳。得意の言い訳。

 会ってもどんな顔をすればいいのかわからない。何て言えばいいのかわからない。あの真っ直ぐな先輩には、いまの僕は毒でしかない。

 家庭教師をしているときには、いくらでもチャンスがあった。時間通りに来ても居眠りしていたり、ちょっと眼を離せば居眠りしたり、勝手に自主休憩とか言って居眠りしたり。僕に多少でも悪意が芽生えれば、先輩なんか。

 僕は先輩の睡眠時に、先輩に指一本も触れたことはない。幸せそうな寝顔を見ていただけ。本当に何もしていない。髪を掻き上げたり、頬に触れたり、手を握ったり、況してやキスなんか出来るわけがない。

 腰抜けなのだろうか。勇気がないのだろうか。見つかったときのデメリットの大きさに、恐れをなしていたのだろうか。

 得意の言い訳をするなら、相手が無防備のときにそんな無理矢理。非人道的だ。先輩は僕を信用している。勉強以外のことは極力考えなくてもいいように。家庭教師として依頼された僕の精一杯の配慮。

 告白の保留は、いつの間にか封印に変わっていた。

 忘れもしない。高二の春、といっても六月になっていたと思うけど、突然先輩は僕を呼びつけた。僕は心臓が飛び出そうだった。呼吸だってまともにできない。おかしい。たまに会うだけでも鬱陶しがられる僕が、こともあろうに呼び出された。

 僕はその日入っていた講義をすべてサボって、先輩の家に駆けつけた。卒研もゼミもどうだっていい。いままでまともに出席しているとこういうときに役に立つ。

 するなら今日だろうか。してもいいということだろうか。

 期待などしても意味がない。そうではなかったときにつらいのは自分だ。それでも僕はやめることができなかった。電車内も歩行中も、ずっとシミュレイションしていた。

 そして、過剰な期待は潔く裏切られる。

「医者になりたいから、お前勉強教えろよ」

 僕は放心していたと思う。

 医者?

 不良で有名な先輩が?

「んだよ、いいのか悪ィのか、はっきり」

「それって私に家庭教師になれと」

「そうじゃなきゃなんだ。替え玉でもすんのか」

 先輩のためなら替え玉でも何でも、と言いそうになって僕は必死に抑えた。僕が代わりに受験してどうする。先輩は正々堂々が好きなのだ。ケンカだって奇襲も心理戦も、作戦すらない。身一つで真っ向勝負。

 いやいや、その前に不正行為は駄目だろう。最初にそれをツッコむべきだった。あまりに清々しいふられ方で頭がまっさらになっていた。僕は、受験に負けたのだ。受験だけではない。医学部や大学や、先輩の夢に。

 勝てる見込みなどない。僕はそれを応援する。先輩がすでに決めている。先輩の予定に組み込まれている。僕はそのレイルに乗らせてもらうだけで、涙ぐんで諸手を挙げて大喜びしなければいけない。

 だから僕は、想いを告げることを諦めた。あらかじめ玉砕がわかっていたからしなかったのではない。断じて違う。勉学と関係ないところで先輩の気を揉みたくない。余計なことなのだ。受験に色恋は要らない。

 それでもやっぱり、ふられたことには変わりない。そのショックから僕は、いわゆる女遊びに手を出した。そうすることで気を紛らわせたかったのではない。先輩に怒られたかったのだ。気を引きたかったのだ。悪循環。ますます僕は、先輩から遠くなる。

 魔が差すことだってあっただろう。憶えていないだけで。都合の悪いことや後ろめたいことはすぐに忘れる。記銘すらしない。先輩は、ちょっと留守した間に、先輩の部屋で待っていた僕がしていたことを知らない。先輩は、シャワーを浴びている間に、僕が何をしていたのか知らない。先輩は、うっかり居眠りしている間に、僕が先輩にしたことを知らない。僕だって知らない。知るわけない。

「次は」

「終わり。ありがとう。これで私の欲しいものはすべて手に入った」

 僕は息を吐く。緊張していたことにいまさら気づく。手の汗がじっとりしていて気持ちが悪い。足元でかたかた稼動するアヒルのおもちゃが停止した。ショーコさんはそれを大事そうに拾い上げて膝にのせる。

「おカネ持ちなんですね」

「いくら?」

 それが報酬のことだとわかるまでに時間がかかった。

 僕は、先生から貰ってる給料の三倍を提案する。

「先生は謙虚。一人当たりこれだけあげる。掛け算。加えて」

 破壊音。聞こえてきた方向から判断するに、ついに鏡絵画が壊された。

 ショーコさんは開いていた手を閉じる。

「ドーナツ分」

「畏まりました」

 天井の高い鏡絵画の間は惨憺たる様子だった。辛うじてキッチン部分は無事だったが、他はほぼ壊滅的。鏡絵画はすべて叩き割られ、その破片で床がきらきら輝いている。少年は素足だったはずなので、僕はちょっと心配になった。

 ショーコさんは、お守り係に事情を問いただしている。叱りつけているわけではないのだが、ミズアキは萎縮しているようで哀れだ。彼は見るたびにぼろぼろになっている。ただでさえ血の気が無いのに。こないだ買ってあげたメガネは無事だろうか。

「まあ綺麗。天の川みたいですわ」

 場違いな人がやってきた。案の定ショーコさんに睨まれている。ハリはそんなことお構いなしに、僕の手元を覗き込む。

「先生、わたくしクレープが食べたいの。作っていただけます?」

 僕はショーコさんにお伺いを立てようと思ったが、答えは聞く前にすでに出ていた。

「遣えないおもちゃは壊す」

「それはアヒルさんのことですの?」

 ミズアキは、ひとりでせっせとほうきで鏡の破片を集めている。僕もあとで手伝おう。

「キリコを捕獲しろ」

 おそらくショーコさんは、苦肉の策だとわかって言っている。すでにミズアキの手には負えない。もちろん僕の手にも。ハリは首を傾げながら退室した。てっきり文句の一つでも言うと思ったのだが。

 僕は横転したテーブルを元に戻す。駄目だった。脚が折られていて、がたがたするどころの傾きでは済まされない。

「先生、引越し」

 この状況でそれを命令なさるかショーコさん。

 僕の悪のセラピスト的所業と、ショーコさんの莫大な財源によって、新たに四人の少年少女がこの建物で暮らしている。

 といっても、キリコ少年の大暴れに懲りたのか、ショーコさんは、他の四人を各部屋に軟禁することに決めた。しかしこれも苦肉の策だったらしい。ショーコさんは、あくまで彼らと自然な形で対話をしたいようだが、ここに強制連行した時点ですでに不自然ではないのだろうか。逆らっても仕方ないので特に意見しないが。

 僕の両手は真っ黒になってしまった。

 こんな手を先輩には見せられない。きっと腹の中も黒い。内臓が真っ黒だ。

 そして、脳でさえも。

 僕の仕事は、彼らの保護者に会って、彼らと仲良くなることだった。これだけ聞けば対して悪いことをしていないように見えるが、僕のこの行動は、これから行われるショーコさんの絶対シナリオの中核をなす大事な一手である。僕には、彼ら保護者の表面しか見えていないことになっている。だからこそ汚いのだ。僕は至って善人面で彼らに近づいて、さも目下困っているお子さんを援助するような素振りを装って、ちょっとだけいいことをした未熟なセラピストの顔で退場する。

 彼ら家族の綻びが明確になったところで、我らがショーコさんの出番。言ってしまえばおカネなのだろうが、僕はそれ以上にえげつない方法を他に知らない。ショーコさんは、実際に保護者の家には出向かない。彼女には、まだ僕に知らせていない一面がある。その一面をフルに利用することによって、彼らは保護者の元を離れ、ショーコさんの箱庭で暮らすように仕向けられる。

 引越し先は、ショーコさんの希望通り山だった。山の概念をそっくりそのまま提示されたかのごとく、完全なる山だった。持ち主は勿論ショーコさん。気に入った山を見つけて、即日購入したらしい。

「ここでいい」

 山道の入り口で、僕はお払い箱になった。手伝えることがあるような気がしたが、荷物も何も持ってきていない。完全に手ぶらピクニック。荷物らしい荷物と言えば、少年少女合計五名プラス青年二名。若干一名をのぞいては大人しいものだった。その若干一名は、眼を離した途端に行方不明。

「放し飼い」

 言いえて妙。キリコ少年にはそれが相応しい。

「住居があるんですか?」

「今度呼ぶ。呼んだら来て」

 ここから先輩の通っている大学が近い。

 だからどうというわけでもない。足を運んだって仕方ないし、見学もしたくない。

 僕はしばらく先輩に会えない。会うべきではない。それが、僕が計五組の家族を崩壊させたせめてもの償い。意味がないことはわかっている。僕が先輩に会おうが会わまいがすでに通過した結果にはなんら影響しない。

 しかしそうでもしないと、僕の良心が軋み破裂する。インチキセラピストやいわゆるセラピストよりよっぽど悪質だ。僕は絶対にやってはいけないことをやってしまった。心理学はそうゆう使い方をしてはいけない。最も倫理に気を遣わなければいけない身分のくせに、承知の上で倫理を踏みにじった。怨んでいるだろうか。あの夫婦は。憎んでいるだろうか。あの家族は。

 自分への罰。そう思ったのに。

 最寄り駅まで来てしまった。

 先輩の大学は、東口から出て徒歩一分。先輩のアパートは、西口から出て徒歩十分。どうしよう。

 ところで僕は何を悩んでいるのだろう。行くべきか行かざるべきか。いや違う。

 どっちに行くか。

 どちらに行けば、先輩に会える確率が高いか。

 大学の敷地から徒歩三分の距離に総合病院がある。大学とは異なる名前が冠されてはいるが、事実上は付属病院だ。先輩はここに出入りしているのだろうか。

 突如、僕に見えない敵が襲い掛かる。

 この近くにいる。

 大学か、病院か、関連施設か。

 先輩を医師にさせようとしているのは誰なのだ。勉強なんか大嫌いだった先輩に受験勉強なんか強いたのはいったい。学校だってまともに行ってたかどうか危うい先輩を。

 どうしてもあのわけのわからない後輩が気になる。だがあいつのはずがない。たぶん先輩よりも年上の誰か。先輩はああ見えて礼儀は心得ている。権力にはとことん歯向かうくせに、女性や病人には優しいのだ。

 病院の待合室でうだうだしてみる。売店の脇に喫茶店があったのでそこでコーヒーを飲んでみる。味は期待していない。もし先輩がここに勤めるようになったときのことを考えて、僕はここで時間を潰す方法を編み出しておく必要がある。思考が飛躍しすぎているかもしれない。捕らぬタヌキのなんたら、と莫迦にされるかもしれない。しかし、僕はそう思えて仕方がない。

 先輩をこの地に呼び寄せた何者かがここにいるのなら、先輩をむざむざ手放すはずがない。僕だったらそうする。手元に置いておきたい。すぐ手の届く範囲に。

 もう誰でもいい。誰でもいいから、どうして先輩を医師にしようとしたのか、それだけでいいから僕に教えてほしい。僕はそれが知りたい。

 何科の医師になるつもりだろう。

 見当も付かない。僕には情報が少なすぎる。先輩は口が堅い。酔った勢いでべらべら喋ってくれるタイプだったらどんなによかったか。

 酔ったら爆睡。

 駄目だ。アルコールを奢った僕への報酬は寝顔だけ。

 コーヒーカップも空になったのでそろそろお暇しよう。

「おい、見掛けねえ顔がいるじゃねえの」

 聞き間違い。いや、僕がその声紋パターンを聞き逃すはずがない。一気に交感神経優位に押し上げられる。落ち着け。大丈夫。何もやましいことは。

「いちお元気な奴は来ねえことになってんだけどな」

 先輩は、淡い空色のシャツに皺だらけの白衣を羽織っていた。ボタンなんか完全無視。病院内の派閥には一切関与しません、みたいに如何にもなアウトロー像がすでに完成していた。

「失礼ですね。曲りなりもお医者さんになる人の発言とは思えませんよ。私だってたまには故障します」

「へえ、どこが壊れてるって? 頭か?」

 僕は何故かショーコさんに感謝していた。確実にお門違いなのに。僕が無宗教だからかもしれない。

「残念だったな。病院じゃ頭は治せねえ。出直しな」

 ああすごい。こんなにうれしいことはない。僕はにやける顔を必死に堪えてそそくさと建物の外に出た。数メートル後から先輩がついてくる。僕が寄り道しないように監視するつもりなのだ。自分のサボりを棚に上げて。

「講義はいいんですか?」

「さあな。耄碌じじいの話がつまんねえから悪いんじゃね?」

「そんなことやってるから単位が足りなくなるんですよ。せっかく私が医学部に入れてあげても卒業できなきゃ」

「知るか。俺は解剖なんざしたかねえっての」

 おや。これはもしかしたら絶好のチャンス。いまの発言から考えるなら外科医の線は消えたか。

「じゃあ何がしたいんですか?」

「笑うなよ」

「内容次第ですね」

 先輩は例の鋭い眼で僕の顔をぎいと睨みつけてから駐車場の端まで移動した。人のいないところで二人っきりになると緊張してしまう。ただ単に先輩は、自分がおサボりだったり白衣だったりして、病院の入り口付近だと居心地が悪かっただけなのだろうが、僕の脳は完全に違う内容で占拠されていた。

「え? なんです?」

 小さい声だったので聞こえなかった。僕の注意がそちらに向いていなかっただけかもしれない。先輩はやけにばつの悪そうな顔になって僕の脛を蹴った。

「痛いんですけど」

「ったく一回で聞け。もう言わねえ」

「ごめんなさい。あの」

 先輩は面倒くさそうに頭を掻く。いままさに、先輩の中では恥ずかしさが最高潮に達しているのだ。僕には手に取るようにわかる。

「親父とおんなじだよ」

「それじゃわかりませんて」

 先輩の母親なら小児科なのだが。

「あれ、先輩のお父さんて確か」

 別居中で、子育てにはほとんど関わっていない。顔も名前も知らないし、どこにいるのかも、生きているのか死んでるのかすら知らないとぼやいていたのを聞いたことがある。先輩には父違いの弟がいるが、それでも両親は離婚をしていないらしい。でもその母親も一時期先輩を放ったらかしにして家を空けていた。弟が小学四年になったときにひょっこり戻ってきて三人で暮らすようになった。先輩が不良になってたのは、そんな家庭事情のせいもある。

「親父があまりにもヤブだからな。俺がなんとかしてやるんだ」

「だからつまり何科なんです?」

「精神科」

 たぶんこれが、心底悪いセラピストに染まった僕への最上級の天罰だった。

 そのあと先輩は僕の専門、つまりセラピィについていろいろ訊いてきたけど、僕は生返事すらできなかった。先輩が何か言うたびに僕のやった悪事の数々が一枚一枚剥がされていくみたいだった。もしかしたら先輩はとっくに気づいているのかもしれない。先輩の勘の鋭さは僕が一番よく知っている。見抜かれている、僕が先輩に会わない間に何をしてきたのか。

 知られたくなかった。例え全世界の人間に僕の非倫理的な所業を露見されることになったとしても、先輩だけは眼を瞑ってて欲しかった。耳を塞いでいて欲しかった。もう僕は、先輩に叱られるだけの価値もないのだから。

 先輩に気にかけて欲しくてやった女遊びなんか比べ物にならない。最低の外道よりもっと下。僕は合計五組の家族の生活を台無しにした。粉々に破壊した。二度と修復が効かないように、彼ら夫婦の宝とも言える子どもを連れ去ることによって。

 身を引き裂かれる思いとはこのことだろう。何らかの問題行動を起こして、世間から見放されても、それでも子どもを何とかしたくて、僕らセラピストに頼ってきた彼らの思いを解したようなふりをして。やっていることはインチキセラピストやいわゆるセラピストより格段に劣る。怨まれて憎まれて呪われて当然だ。先輩と同じステージに立てるだなんて、考えることすら憚られる。

「あー眠ィ。寝るぞ、寝るねる」

 とか言ってる間に、先輩は眠りに落ちてしまう。

 せっかく久しぶりに会えたというのに、僕は何を話したのかまったく思い出せない。だいたい床に転がっているこの缶を、いったい誰が購入したのかもわからない。僕はビールを飲んだのだろうか。ビールのせいで酔ったのだろうか。それにここはどこだ。誰の家。誰の部屋。誰のアパート。僕の隣で気持ちよさそうに寝ているのは。

 だれなのだ。

 名前は。所属は。年齢は。性別は。

 確かめなければ。

 心理学は仮説と検証の科学。

 どうする。どうすれば確かめられる。

 記憶は駄目だ。あれほど曖昧なものはない。何か他にあるはずだ。ここにいる人間が誰なのか確かめる、画期的でコロンブスの卵的な方法が。

 あった。

 あるじゃないか。

 火照った頬。白い首筋。第二ボタンまで開いたシャツ。

 心臓の鼓動を手の平で感じる。

 この人は、生きている。

 それからどうする。どうすればいい。

 わかってるじゃないか。惚けている。酔いが回っていて脳がおかしくなっている。あの時と同じだ。いつだったか。そうそうあの時。アルコールはなかった。でも状況はまったく同一。

 僕が起きていて。

 もう一人が寝ている。

 いや、逆だったかもしれない。

 僕が寝ていて。

 もう一人が。

 嫌味な音で目が覚めた。すごく陰険でとにかく悪質なあの音がする。僕は音源を探す。手探りで。眼がまだ稼動しない。耳も半分閉じている。

「っせえなあ。なんだよ」

 僕はようやくその音を消すことに成功する。

 ポケットから落ちて畳の上。

「ふわああぁ」

 よかった。特に二日酔いはなさそうだ。早く仕事に行かなければ。いや、学校だったかな。違う違う。病院だ。それも違う。

 僕は、いったい。

「あり、俺、なんで」

「あ、おはようございます」

 朝は挨拶をしなければいけない。僕は礼儀正しく品性方向の。

 なんだ。

 なんだっけ。

「ちょいお前、俺の服は?」

 僕が挨拶したその人は。

 なぜか。

 肌の露出が異様に多くて。

「っかしいなぁ。酔っててどっかやったかな。知らねえか?」

 知ってるような気がする。

 その人が着ていた服は確か。

「あーてめ、俺のシャツ。ズボンも」

 僕の寝ていた下に敷いてあった。

「座布団代わりにしたろ? っくそ、滅茶めちゃじゃねえか」

 僕の手に何か当たる。

 冷たいような、生温かいような。

 その人が眼を見開く。僕はようやくこの状況がどれほどまずいのか理解できた。

「え、なんで?」

 僕らは同時に覚醒した。

「え、お前酔うと脱ぐ奴だったっけ?」

 僕は首を振れない。

 違う。そんなわけ。

「ねえよな? だいたいてめえが酔ってるとこなんか俺は」

 見たことがない。

 そうだ。僕は酔ってなんかいなかった。いたって素面のまま。

 先輩の。

「じゃあ、俺が自分で脱いだか? でも」

 先輩は厭そうな顔で僕を見遣る。

 僕も何も纏っていない。

「ま、まあいいやな。とにかく服着ねえと」

 先輩はそう言って、衣類山を崩して適当に服を引っ張り出した。

 そのシャツを僕は知らない。そのジーンズを僕は知らない。

「あの、先輩」

 昨夜。

 僕は。

「なんだよ変な顔して。てめえもさっさと服」

「僕です」

 先輩の顔が曇る。

「はあ? え、なんだって?」

「僕です。ごめんなさい。僕があの、先輩の」

 服を。

 剥いで。

 先輩は鼻で嗤う。

「まさか。んなの酔ってて」

「酔ってません。僕は酔ってなんかいない。この缶はぜんぶ先輩が空けて」

 先輩は瞬きを数回。数秒絶句。

 駄目だ。

 得意の言い訳が何も浮かんでこない。

「ごめんなさいごめんなさい、その、僕はせんぱ」

 顔なんか上げるんじゃなかった。もしこのとき顔を上げずに僕が先輩に想いの丈を伝えていたら。

 どうなっていただろう。

 どうもならない。何も進まない。

 後退だ。

「おまえ、おれに」

 なにをした。

 先輩の口がそう動いた気がした。

 僕は自分の服を掻き集めて、適当に羽織って外に飛び出す。財布も時計もケータイも、忘れ物なくすべて持ってたのは、何をして身に付けた能力だろうか。考えたくない。考えないほうがいい。

 意味がない。もう何もかも意味がない。

 先輩には。

 二度と会えない。


     3


 そのあと僕がどうやって生命活動を続けたのかよく憶えていない。

 どうでもよくなっていた。

 先輩以外なら誰でも同じ。女でも男でも高齢でも小児でも。いや、人に限らない。何だって一緒だ。微生物だって地球外生命体だって。

 たぶん僕以外の現象は、順調に過ぎていった。ショーコさんは、山奥で少年少女と青年たちを管理していた。管理ではないか。隔離された場所での養育。ショーコさんは悪いことをしていない。彼女がやることは絶対真理なのだ。

 ちょくちょく僕は、ドーナツを作りに足を運ばされていたのだが、少年の一人が僕の仕事に興味を示した。名前はクラテル。漢字にすると蔵照だろうか。お蔵の照明みたいになってしまったが、したがってアクセントはラ、にある。

 新規参入組の中で二番目に年齢が上。常にぶすっとしていてぽつぽつとしか口を利かないくせに、いざ口を開くと結構ひどい内容だったりする。語彙数が少ない中で出来る最大限の工夫なのだろう。他人の気を引くだけなら、褒めるより貶したほうがいい。

「やってみるかい?」

 クラテルは、ダイニングテーブル付近をうろうろしていた。腹が減ったわけではなさそうだ。ついさっき食事が終わり、他の子どもはそれぞれ銘々散っていったのに、彼だけはひとり残っていた。聞こえたのか聞こえないのかわからないが、返事をせずに僕の顔を睨みつける。僕はドーナツの型抜きをやってみせる。クラテルに見えるように。

「簡単だよ。ほら、もう出来た」

「やらねえよ。んなつまんねぇこと」

 口ではそう言っているが、眼は僕の手元に釘付けだった。なかなか素直ではない。

 あまり熱心に勧めても逃げ帰ってしまいそうだったので、僕はいつものように着々とドーナツ作りをする。距離は二メートル弱。じろじろ見られているわけでもないのにやたら緊張した。どこぞの先輩に似ていたせいかもしれない。

 あの人も、こんな少年だった。

 油で揚げるじゅうという音に吃驚したのか、クラテルは徐々に距離を詰めてきた。周囲にキリコ少年がいないのを確認して、僕は第一号を進呈する。彼は受け取らなかった。やはり彼は、作品自体ではなく製作過程に興味がある。

 翌日また同じことが起こった。その翌日もその次も。呪いみたいに同じ日を繰り返してるのかと思ったがそうでもなさそうだ。だんだん口数が増えている。

「なんでそんなことしてるわけ?」

「僕の仕事なんだ。きみも手伝ってくれるかな」

 たぶん僕はそろそろお役ご免になる。だから、ここにいる誰かに僕の役割を継いでもらわなければいけない。いまはそのための期間。

 クラテルは覚えが早かった。手先も器用で、思うようにいかなくても投げ出さない。粘り強いし頑固。教え甲斐のある生徒で、僕はすごく楽しかった。先輩の家庭教師をしていた学生時代に戻ったみたいで。

 そして、すべてのレパートリィを伝授し終わった日、僕はショーコさんに呼ばれた。

「お別れ」

「パーティとかは」

「したいの?」

 そんなふうに言われてしまうと、気の小さい僕は何も言い返せなくなってしまう。

「ぜんぶ忘れなさい。私のことだけ憶えていて」

「えっとそれはつまり、僕のことが好きという」

「つまらないことをほざくな愚か者」

 今日のショーコさんはいつにも増して冷たい。軽いジョークのつもりだったのに。お涙頂戴的お別れシーンは演じてもらえないらしい。最後の最後までショーコさんらしくて、むしろ喜ばしい。

 一人ずつ挨拶して回ろうと思ったが、案の定ショーコさんに止められた。そんなことをすれば今以上に情が移ることも、余計に寂しくなることも、僕は重々理解している。

 それでもやはり、短期間とはいえ一緒に暮らした仲だ。向こうはそう思ってないかもしれないが、僕は家族のように感じていた。幼稚園でも学校でもない。ここはショーコさんが家主の。

「おにーさん、かえる?」

 木の上に何かいる。がさがさという音がして、何かが落ちてきた。

 キリコ少年だった。Tシャツがぶかぶかすぎて片方の肩がはみ出している。わざと大きいサイズを着ているのか、それしかなかっただけなのかは定かではない。黒いショートパンツにスリッパみたいな靴。走ってもいっこうに脱げないのが不思議で仕方ない。足の裏と靴の中底を接着剤か何かで固定しているのかもしれない。最初にあの家の地下で会ったときとまったく同じ格好だった。唯一違うのは髪の長さ。ショーコさんに頼まれて僕が切ったのだ。おかっぱがショートになるくらいに。彼と眼が合わせられるように。

「かえる?」

 まずい。こんなところをショーコさんに見られでもしたら。

「ドーナツない?」

「ダイニングにあるよ。それに明日からは僕じゃなくて、クラテルくんが作ってくれるからね」

 キリコ少年は自分の背中に手をやって、何かを取り出した。黒くて長いもの。身の丈以上ある。

 日本刀。

「こんなものど」

 まで言って、僕はようやく思い当たった。これは兼ねてよりキリコ少年が所望していたもので、ショーコさんはこれを条件に彼の叛逆を封じることに成功した。あまりいい顔をしていなかったことから、またしても苦肉の策だったことが伺える。彼女が造らせたくらいだから、おそらく絶対に真剣。

 僕の背筋は氷点下に達した。

 キリコ少年は鞘を抜いて白刃を曝す。切先が僕以外に向けられていたことがせめてもの救い。

「おにーさん、ぼくきらい?」

「そうじゃないよ。僕の仕事は終わったんだ。だから残念だけど」

 頼むから僕を安全に下山させてくれ。刀もショーコさんも同じくらい怖いのだ。

「ごめんね。じゃあね、元気でね」

 僕は走って逃げた。足音。まさか。

 ついてきている。

 あのスリッパみたいな靴で。僕を追い越さん勢い。

「やだ」

 キリコ少年は僕の前に立ちはだかる。

 ついに切先が僕に向けられてしまった。

「もっといて」

 嘘も言えないし、絶対真理のお嬢さんに逆らうわけにもいかないし。

「いて」

 鼻先三センチ。息も吸えやしない。

 僕は得意の言い訳を考えた。

「僕はね、きみが嫌いになったわけでもなければ、ここに居たくなくなったわけでもない。出来ることなら、ここできみたちとのんびり暮らしたい。でもそういうわけにはいかないんだ。僕にはやることがある。どうしてもやらなきゃいけないことがある。それはここじゃ出来ない。だから僕はここを離れることにした。ごめんね」

「なにする?」

「なんだと思う?」

 キリコ少年は首を傾げる。

「おもしろいこと?」

「面白くはないね。でも面白くないわけでもない」

「わかんない」

「僕にもわからないよ」

 刀が僕から離れる。キリコ少年も僕から離れる。

 さっと駆けていってしまった。

 あっという間に見えなくなる。彼はまだ放し飼いなのかもしれない。この山全体が彼の縄張りであり、彼の家なのだ。

 彼は自由なのだろうか。両親の家の真っ暗な地下でただひたすらスプラッタ映像を観賞していた以前とどちらが自由だろうか。彼は自分を含めて自分の周囲は、すべて自分のものだと思い込んでいる。しかし実際は、大好きなドーナツも、ドーナツの材料も、ドーナツを作ってくれた人間も、極めつけは自分の体でさえも、ショーコさんが購入した物品でしかない。

 自由を支配する絶対者ショーコさんは、自由を享受する叛逆者キリコ少年を手懐けられるのだろうか。

 その答えは、程なく出る。

 その日は、なにかとついてない日だった。もともと運がいいわけではないのに、輪をかけて悪くなってしまえば、することなすこと散々で惨憺たるものであり、世界一マイペイスな先生といえど、弟子に小言をぼやきたくなる。

 僕は、普段では万に一つもあり得ないようなポカをやらかした。しかもそのポカはそれの発生に気づこうが気づかまいが、一度起こってしまったら二度と修復不可能といういわば致命的な最悪のポカだった。

 初めて先生に叱られた。注意されただけなのかもしれない。次は気をつけて欲しい、と言っただけだったかもしれない。でも僕は、すごくショックだった。まるで僕の中の明かりがぱっと消えてしまったみたいだった。お坊ちゃん育ちの僕は、親にさえ叱られたことがなく、学校でもまさに聖像の如く丁重に扱われていたため、叱られることに慣れていない。叱られるという言葉は僕の辞書にはない。ないのだ。この僕が叱られるなんて。

 泣きそうだった。

 先輩にふられたときだって、先輩が大学に受かった時だって、先輩を新しい生活に送り届けたあとだって泣かなかったのに。

 職場を放棄して自分のマンションに逃げ帰ることさえできなかった。エネルギィ切れです。バッテリィを取り替えるか、充電をして下さい。そんな無感情なメッセージが、僕の頭の中で延々リピートされていた。

 空き部屋で僕が泣き崩れているのを発見した先生は、僕を抱き締めてくれた。言い過ぎた。ごめん。そんなつもりじゃなかった。先生は僕以上に泣いていた。先生の嗚咽で僕が泣き止んだくらいだから。

 そして、また僕は先生と寝てしまった。

 善いことなのか悪いことなのかわからない。それを判断するだけの経験も知識も力量も僕にはない。セラピストはクライアントと関係を持ってはいけない、という決まりがあるけれど、スーパーバイザとスーパーバイジは関係を持ってはいけない、なんて決まりは聞いたことがない。成文化する必要もなく、常識で判断して駄目だということなのだろうか。

 わからない。なにも。

 僕は先生から離れるべきなのか。

 先生のベッドで眼が覚めた僕は、ふと枕もとのケータイを見た。ちょうど着信が入る。非通知。掛けてきた相手が誰なのか、僕にはわかっていた。おそらく電話がかかってくるタイミングも。

 僕は電話に出る。

「いますぐ来い」

 たったそれだけだった。それだけ言ってぷっつりと切られてしまった。

 僕は先生を起こさないようにそっとベッドから出て、散らばった服を掻き集めた。ホームに入ってきた電車に飛び乗って、全速力で海岸まで駆けた。

 海岸?

 山ではなく?

 これでいい。合っている。僕が間違えるはずない。

 廃墟だった。

 そこは最初から廃墟だった。僕がそれに気づかなかっただけで。

 床に散らばるガラスの破片を踏まないように、静かに中に踏み込む。

 ぱりん。

 不可能だった。砂粒を踏まないように砂浜を進め、と言っているようなもの。海水に触れないように海で泳げ、と命令されているようなもの。

 薄暗い廊下の壁に、例の写実的でトリックアート的な絵画がかかっている。僕はそれをついつい横目で見てしまう。

 針葉樹林と落葉広葉樹林。

 なにが真実でなにが偽りなのか。

 ここにはその両方がある。両者が絶妙な化かし合いをしている。莫迦試合ではない。交じり合い混ざり合って自他の区別がつかなくなっている。

 メガネだ。

 木を隠すには森の中。死体を隠すには戦争を起こせばいい。しかし、メガネのレンズを隠すためにわざわざ窓ガラスを割っても、メガネは隠せない。メガネにはフレームがある。僕はそれを拾う。その際に指を切ってしまった。赤黒い液体が膨らんで玉になって、耐え切れなくなって床に落ちる。

 ミズアキに買ってあげたメガネのフレームだ。

 ひどい。

 形状記憶合金にすればよかった。あれなら元に戻ったかもしれない。レンズなんかまた買えばいい。フレームさえあればレンズなんか。

 僕は、床に倒れているものを見つめる。

 もの。

 ものだろうか。

 細い黒髪がぼさぼさ。白いシャツは黒く染まり、蒼白い肌に穴が空いている。

 動かない。

 動いて欲しい。

 いま動けば、これはものではなくなる。

 僕はメガネのフレームをその傍らに置く。供物ではない。そもそもこれは彼のもの。僕は拾ってあげただけ。返してあげただけ。手元に置いただけ。

 ミズアキは、死んでいる。

 コーナを曲ると脱衣場。水の流れる音。ざあざあと、意味もなく排水溝に引き寄せられる。浴室につながる戸が開いている。

 綺麗な長い髪。白く透き通る肌。

 そのすべてが、黒い液体に穢されている。

 クレープくらい作ってあげればよかった。天の川みたい、と言った時にそうですね、と返してあげればよかった。着衣水泳なんか一日中でも付き合ったのに。

 僕はシャワーコックを捻ってお湯を止める。エメラルドのドレスの裾を直して綺麗な脚を隠す。中央にスリットが入っているので、限界があった。

 ハリは、死んでいる。

 さらに廊下を進むとダイニングキッチン。鏡的絵画は一枚もなく、それを飾っていたはずの額縁が主役の座を乗っ取っていた。仄かにいいにおい。プラスティックのまな板の上に生地が伸ばしてあった。ドーナツの型抜き。揚げ物用鍋がコンロにのっている。火はかかっていない。調理の途中で緊急事態があって已む無く放棄したかのように。

 脚の折れたテーブルは横転。椅子も四方八方に。乱闘後。

 僕は、ドーナツを一つだけ揚げてから、ショーコさんの部屋に向かった。

 ノック。

 返事なし。

「失礼します」

 入ってすぐに僕は眼を背けてしまう。鼻を塞いで耳を閉じて、ようやく眼を開ける勇気を手に入れる。

 玉座に君臨しているのは、黄色いアヒルのおもちゃ。

 首から上と胴体が切り離されている。

 カタカタカタカタカタ。

 残像なのか投影なのか。

 僕は、床に転がっているものを抱き上げて、玉座に座らせる。ここが相応しい。彼女の居場所はここしかない。彼女はこの場所で世界中を眼下に収める。

 ショーコさんの膝の上が、きみの居場所だ。

 そんな闇黒色のプールでなんか泳ぐのはやめて。

 湿った潮は幻臭、寄せて返す波は幻聴、海と空の境界は幻視。

 あらゆるものが厳格な幻覚。

 私のことだけ憶えていて。

 忘れるものか。あなたのことは永遠に忘れない。忘れろといわれても忘れられない。

 すべて忘れなさい。

 忘れられたくなかった。思い出にして欲しくなかった。

 先輩の真っ直ぐで綺麗な思考に、鮮烈で生々しい治療不可能な傷をつけたかった。僕の歪んだ穢い嗜好で。あの出来事は、もしあのままその場の流れに任せていたら、その日の午後には先輩の記憶からすっぱり消え失せているような些細なことにすぎなかった。僕はそれが許せなかった。厭だった。そうなるくらいなら、いっそ。

 壊そう。

 徹底的に。土台から何から。

 僕の真っ黒な脳はそう考えた。脳は命令した。全器官に。中枢から末梢に。これでよかった。これが正解だった。唯一で絶対の真理。僕はそれを手に入れた。

 でも、僕はそれと引き換えにすべてを失った。

 僕が生きている意味は、もうない。僕はいなくなりたかった。いなくなるためにのそのそ出掛けて行った先の河川敷は、その日妙に騒がしかった。

 ケンカだった。

 怖い。僕は橋の上に避難して、その恐ろしいことが終わるのをひたすら待っていた。早く居なくなって欲しい。なんのために僕がこんなところまで。早く、早く終わらせて。

 よく見ると、一対その他だった。多勢に無勢でたった一人に襲いかかっている。彼らはその少年に向かっていく際に何かを叫んでいるが、ちっともわからない。それは僕が知ってる日本語とはほど遠い発音。方言?

 いつの間にか、暴れていた面々はこぞって草や泥や川に顔をつけていた。

 たった一人を除いて。

 彼は肩を回して大きな欠伸をする。

 そして、振り返る。

 僕は反射的に腰を屈めたが、そんなことは何の意味もなかった。彼はケンカの最中にすでに、僕の存在に気がついていた。

 鋭い眼が射る。僕は恐る恐る欄干の上に顔を出す。制服ではなかった。中学生? 高校生? 身長はさほど。

「おい」

 低い声だった。僕を威嚇するには充分な。

「こいつらの仲間じゃねんだろ。とっとと失せろ」

 手に怪我をしているようだった。手だけではない。体中。

 顔だって。

 顔は。

「いつまで見てんだ? 失せろっつって」

「ケンカお強いんですね」

 僕は自分でも吃驚していた。窮地に追い込まれるととんでもないことを口走ってしまう体質は、おそらくここで発症した。

 彼はさらに強い口調で僕を威嚇した。帰れ、消えろ、と。

 でも僕は全然帰りたくなかった。もっと間近であの顔を見るにはどうすればいいか。それだけを必死に考えていた。きっとあの人は、好きでケンカをしているわけではない。何か已むに已まれぬ事情があって仕方なく、特売大安売りのケンカを買い漁っているに違いない。僕はその背景が知りたい。理由とか原因とか過程とか、とにかくなんでも。それを推測し得る手掛かりになるのなら。

 僕は、あの仮面不良少年の歴史が知りたい。彼の生活の一部になりたい。

「聞こえねえのか。ぶっ殺されてえかてめ」

「先輩と呼ばせてください」

 少年は虚を突かれた。当然だ。僕は虚を突きたかったのだから。

 一目惚れだった。

 彼の世界で生きてみたいと思った。彼の世界に含まれたいと思った。彼は生きるためにケンカをしている。そんな圧倒的で禍々しい生の近くにいれば、きっと僕はいなくなりたいなんて考えなくて済む。

 ケータイの着信によって、僕はこっちの世界に引き戻される。非通知。廊下に出て深呼吸をして全感覚の麻痺を解消してから、耳に電話を当てた。

 ノイズ。

「ドーナツ、なくなった」

「どこにいるんだい?」

 ノイズ。

「みんないない。ぼく、つまんない」

「念のために訊くけど、きみは誰だろう」

 ノイズ。

 ざじじざざざざ。

「おにーさん、しぬ?」

 切断。

 僕は窓を開ける。窓を開ける前と後で景色が変わるなんてどんな錯覚だ。さっきは生い茂る木立の群れ。いまは海岸が見える。

 黒くて長い棒を使って穴を掘っている少年。僕に気づいた。僕は窓枠に足をかけて砂浜に着地する。キリコ少年は、ショーコさんのケータイを穴の中に捨てて砂をかけた。埋める。埋葬。

「いらない。ばいばい」

「クラテルくんは?」

「いない」

「イシヒデくんは?」

「いない」

「バンカちゃんは?」

「いない」

「ビンくんは?」

「いない」

 キリコ少年は、僕の手の上からドーナツを掻っ攫う。

 ひとくち。ふたくち。

「美味しい?」

「おにーさん、かえってない」

「呼ばれたんだ。でもちょっと遅かったみたいだね」

 みくち。

「それでやったんだね」

 キリコ少年はこくんと頷く。

 黒くて長い棒は日本刀の鞘だった。中身のほうは彼が提げている。ドーナツを持っていないほうの手でしっかり。どす黒い粘液がこびりついている。ぶかぶかのTシャツにも似たような文様がちらほら。

「僕を呼びたかったの?」

「きらい。みんなやだ」

「僕も嫌い?」

 ドーナツのすべてがキリコ少年の体内に収まった。ひとつでは足りないといわんばかりに僕の顔を見上げる。黒くて大きな眼。瞬きもしない。

「ショーコさんが嫌いだったんだね?」

「ドーナツ、ほしい」

「わかった。でもひとつお願いがあるんだ」

 彼岸へと続く橋を渡る途中で僕は、此岸にいた先輩に恋焦がれ、うっかりこっちの世界に戻ってきてしまった。此岸に心残りが出来てしまった。先輩の記憶に留まりたい。それはすでに達成された。もうこっちの世界に未練はない。

 満足だ。僕は先輩に触れることが出来たのだから。

「僕も殺してくれるかな」


     4


 これをぜんぶ揚げ終わったら、僕の命は尽きる。

 カウントダウンをしよう。ロケットの打ち上げみたいに。

 じゅう。

 きゅう。

「おにーさん、ぼくすき?」

「どうだろう。好きの定義にも依るかな」

「てーぎ?」

「意味だよ。好きの意味」

「いみ?」

 はち。

 なな。

 キリコ少年は揚げたばかりのドーナツに手を伸ばす。

「熱いから気をつけてね」

「おいしい」

 ろく。

 ご。

 よん。

 キリコ少年は、床に座ってドーナツを頬張っている。たまに、食べる動作をいったん止めて僕の顔を見上げる。監視しているつもりなのかもしれない。僕の命を管理する者として。

「生地はクラテルくんが作ってくれたんだろうね」

「おいしくない」

「そうなの?」

「まずい」

 免許皆伝の域まで達したと思ってたのだが。

「おにーさん、じょーず」

「ありがとう」

 さん。

 に。

「あげる」

 キリコ少年は僕にドーナツを差し出す。食べかけだった。四分の一ほど欠けている。

「いいの?」

「いっぱいある」

 いち。

 僕はそれを受け取る。

 外はカリカリ。中はしっとり。程よい甘さで食べやすい。

「おいしい?」

 ゼロ。

「うん」

 僕はドーナツを盛った皿をキリコ少年に渡す。

「できた?」

「できたよ」

 キリコ少年は首を振る。

「ドーナツちがう。おにーさん、やることある。それ」

 僕は驚いた。

 まさか憶えているなんて。

「もういいんだ」

 あんなのは、その場から去るための言い訳。

「いいの?」

「いいよ。出来なくなっちゃったから」

 ドーナツは見る見るうちになくなる。僕はじっとそれを待っていた。

 もう一度カウントダウンをしながら。

「終わったよ」

 キリコ少年は満足そうに口の周りを舐める。

「殺してよ」

「やだ」

 即答だった。何の躊躇いもなく彼はそう言った。

「どうして?」

「おにーさん、ころさない」

 見捨てられた気がした。

 キリコ少年は、僕のことなんか。

「ねえ、どうして? いいんだよ? ショーコさんたちみたいに」

 いないのだ。

 もう誰も僕の傍には。

「ぼく、おにーさんきらいくない」

 僕は、床に転がる日本刀を見遣る。

「だめ」

 僕が手を伸ばそうとした瞬間、彼は刀を抱きかかえた。

 凄まじい反応速度だった。潜時。RT。

「殺してよ。簡単だよ。それを僕のここに突き立てればいい。それだけでいいのに」

「やだ」

「お願いだよ。僕はもう厭なんだ。なにもかも厭なんだ。何が厭で何が厭じゃないのかわからないくらい、厭なんだ。だから」

 あっちに行きたい。ショーコさんや、ハリや、ミズアキや、クラテルや、イシヒデや、バンカや、ビンがいるところに。あっちのほうが心地よい。こっちには居たくない。

 だってこっちには先輩が。

「なかないで」

 床に丸い跡。大きい円と小さい円。

 キリコ少年は、僕の目尻を押してくれた。

「とまった」

 留まってなんかいない。

 そう言おうと思ったら、僕は腕を引っ張られた。凄まじい力。あの時みたいだった。地下で最初に会ったとき。部屋に招き入れてくれたときみたいに。

 僕らは廃墟から脱する。

 海岸で解放される。僕の腕にはくっきり指の跡がついていた。

 此岸に繋ぎ止めるためにわざとつけた傷。

「ぼくは、いきてるひとはころさない」

 彼は知っていた。

 僕も知っていた。気づいていないふりをしていただけで。

「おにーさん、いきてる」

 そうか。そういうことだったのか。

 日本刀はそのために。

 ショーコさんは、文字通り墓穴を掘ってしまった。その穴にはケータイが埋まっている。相手を操縦しようと思って手に入れた最終兵器で、あっけなく殺されてしまった。

 僕は腰をかがめて、彼と同じ高さになる。

「きみは、クラテルくんたちを逃がしてくれたんだね?」

 キリコ少年は頷く。

「ぼくもいく」

「どこに?」

「おもしろいとこ。おにーさん、おもしろくなくないことやる」

 彼は身の丈ほどの刀を背負って駆け出す。

 二十メートルほど走ったところで止まる。振り返って手を振ってくれた。

「ばいばい」

 僕も手を振る。

「元気でね」

 それっきりだった。その後、キリコ少年並びに少年少女四名がどうなったのか、僕は関知し得ない。わかるわけない。ドーナツ作成係でしかない僕は、とっくにお役ご免だったのだ。ショーコさんに内緒でこっそり準備していた殺戮解放作戦が、キリコ少年の脳に閃いたときから。

 あれから何年経ったのだろう。残念ながら僕は数えていなかった。

 でも、だいぶ経った。だいぶ。すごく長いような気もするし、ほんの一瞬だったような気もする。

 まだ少し肌寒い日もあるものの、徐々に陽気が暖かくなりそろそろ桜が咲く。そんな季節の折、僕はひとりで新幹線に乗った。学会に参加するためだ。本来は先生が行く予定だったのだが、生憎風邪を引いてしまった。先生は直前まで行くといって聞かなかった。熱でふらふらなのに。そのくらい楽しみにしていたのだ。

 しかし、茶番会嫌いの先生が、こんな大きな学会に足を運びたいなんておかしい。小さな会議の最中でさえ、見せつけるように欠伸をし続ける先生が。

 有名な教授が顔を見せるらしい。

 心理学といえば、まずその教授を抜きにしては語れない。大学や院で心理学を専攻しなくても、例え微かでも心理学が掠れば、どの分野であっても必ず名前が挙がる。曲りなりにも心理学に両足を突っ込ませてもらっている僕みたいなはみ出し者でさえ、もちろん知っていた。名前だけだけど。

 僕の想像では、仙人みたいな超然とした人。それか、頭髪から髭まで真っ白でふがふが言ってる隠居老人。または、どっしりと踏ん反り返り、てこでも動かない頑固爺。

 その教授は、学会はおろか会議にすら顔を出さないことでも有名だった。人に会うのが面倒で拒否しているらしい。どこぞの風邪っ引き先生よりひどい。あの人は一応、席には座る。

 顔を知らなかったので会えるかどうか心配だったが、それは杞憂に終わる。凄まじい人だかり。まるで僕だけ、信仰の違う異星人みたいだった。先生も物好きだ。珍獣お披露目会じゃないんだから。つまりこれは学会とは名ばかりの、偉大なる教授を讃える会にすぎなかった。こんなことを延々三日も繰り返すのか。変性意識状態を引き起こして洗脳でもしたいらしい。そうやって着々と確実に信者を増やすのだ。

 いますぐにでも帰りたかったが、熱にうなされている先生のことを思うと心が痛む。僕は適度な距離を保ちつつ、傍観者と狂信者の狭間を行ったり来たりしていた。バーコードや後退気味の頭髪たちの合間から見えた姿に、僕はビックリした。想像とまるで違う。

 教授というよりは研究者。すらりと身長が高く、物腰の落ち着いた青年といった雰囲気だった。人違い、或いは代理の助手か何かだろうと思ったが、群がっている人々がしきりに教授の名前を呼んでいる。彼も律儀にそれに一つ一つ応じているので信じるしかなさそうだ。

 年齢は僕と四つしか違わない。群がってる奴らのほうが格段に高齢だ。まだ三十代じゃないか。僕が大学に入った年に院に行ったと考えると計算が合わない。彼は、凡人が一段ずつ地道に上るしかない階段を一気に駆け上がり、勢い余って飛び越えてしまった。

 喉が渇いたふりをして、僕はこっそり抜け出す。得意の言い訳を考えながら、美味くもないコーヒーを流し込む。

 先生、ごめんなさい。あまりに人が多くて僕は具合が。

 駄目だ。いまは先生のほうが具合が悪い。仮病は使えないから。

 安心してください。先生のこと、ちゃんと言っときました。

 何を? そもそもどんな関係だよ。聞きそびれていた。それがわかっていればある程度説得力のあるものを披露できたというのに。

 そんなこんなで一日目終了。なまじ先生と一緒にいるより疲れる。僕は自動的にあの時の学会を思い出す。もう笑い話だ。先輩のところにいた正真正銘の後輩。逃げ出した僕。電車内でハリに悪戯され、改札を飛び出したところでミズアキに呼び止められ、ショーコさんの下に連行された。キリコ少年を地下から誘い出す。ドーナツを作らされる重労働の日々。

 みんな、いなくなってしまった。

 二日目はサボった。どうせあの教授が質問攻めにされるだけだ。滅多に顔を見せないからいけない。集中砲火的歓迎に遭うのだ。その辺を適当に観光する。特に目的もなくぶらぶらと。桜の名所は吐き気がするほど混雑している。春休みだから余計いけない。修学旅行生もぞろぞろ。学会とどちらが疲れるだろう。

 どっこいどっこいに千票。

「おや、えっときみは」

 彼が僕に声を掛けているのだと気づくのに時間がかかった。なぜなら、彼はいまここにいてはいけない。彼は今頃会場で。

「すまない。名前がわからない」

 僕は名前を言った。自己紹介ともいう。

「そうか。やはり昨日会場にいたね。よかった。そんな気がしたんだ」

「目立ちますか、僕」

 教授は僕の隣に座っていいか尋ねる。僕は花びらを退けて場所を作る。

「ありがとう。まさかきみに会えるとは思ってなかった」

「どうして僕が昨日会場にいたとわかったんですか?」

 人形みたいな人だった。表情がまったく変化しない。でも眼には人を惹きつける何らかの力が宿っている。人を超越しているのかもしれない。

「どうしてだろうね。なんとなくそんな気がした、では駄目だろうか」

 駄目なわけがない。僕は首を振る。

「いいんですか? あの人たちは先生が目当てですよ」

「きみは私が目当てではないんだね」

「え、あ、その」

 僕は自分がどれだけ失礼なことを言っているのか、いまさら理解できた。得意の言い訳が封じられる。何を言っても不適当だった。どうしよう。除名とかされたら。

「私の息子がね、来月中学に上がる。毎日毎日勉強ばかりしているらしいよ。私のことなんか忘れているだろうね。滅多に帰らないから」

 まさか既婚者だったのか。初耳だ。しかも来月中学に上がる? いったい何歳のときの息子だ。二十歳前後で生まれていないと計算が。

「妻は別れたよ。出て行ったんだ。私があまりにも無責任だから。あれも私も捨てられた。あれは私のことが嫌いだろうね」

 僕は違和感を覚えた。

 息子のことを「あれ」と呼ぶ父親。

「私はね、喋る教科書なんだ。講義のときに仕方なしに相手にしてもらえる存在。だから私に興味を持たれてもね、死んだ情報しか得られない」

「つまりは、逃げ出してこられたと」

 教授はゆっくり頷く。生きている人形のように。死んでいる機械のように。

「見つからないようには祈ってるけど、どうだろうね。ミカサキ君」

 僕は苦笑いすら出来なかった。あの会場に屯っていた全人類が、教授を探して町中を駆け回っているかと思うと哀れで。どうしよう。戻れというべきか、そのまま逃亡すべきと勧めるか。どちらも不適当に思えて仕方ない。

「もう少し逃げてみることにするよ。ありがとう。私の話を黙って聞いてくれたのはきみが初めてだ。うれしかった」

 教授は無感情にそう言うと、桜並木のほうに去っていった。すぐに人ゴミに紛れてわからなくなる。そのくらい透明な人だった。僕はその場でしばらくぼんやりしていた。放心。第一印象で判断しないことにしている僕の政策が、改めて支持されたと思う。

 彼に関しては保留だ。わからない。これほどわからない人も稀有。

 帰ってからそれを先生に話した。先生は相当吃驚したらしく風邪が治ってしまった。蒼ざめただけかもしれない。血の気が引いて熱も引いた。

 それから一ヵ月後だった。

 僕に通知が届く。至急、しかも拒否権なし。

 教授が過労で倒れられたらしく、そのピンチヒッタ的講師。

 僕は何かの間違いだろうと思った。彼の代わりなら学会の会場に掃いて捨てるほどいただろうに。よりにもよって何故に僕なんか。確かに教授の専門領域は、僕のしてきたことに重なるところは多々あるが。きっと何かの手違いに手違いが重なって、運悪く僕の宛名が書かれてしまっただけだ。なんとも遣りきれない。

 すぐに大学に問い合わせた。教授の助手、と名乗る女性は大真面目な声で肯定する。しかも教授直々に僕を指名しているらしい。とにかく早く、と催促された。

 嘘だろう。全世界が僕を騙そうとしているに違いない。

 しかし、僕を騙したって大したものは得られない。迷惑するとしたら先生だ。いや、先生は喜ぶかもしれない。そんな凄まじい役割に抜擢されたのだから。

 実際、先生は大喜びした。いますぐ大学に行けと僕を送り出す。

「え、いいんですか? 仕事は」

「大丈夫さ。ホスガ先生が回復されるまでの話だ。なあに、すぐだよ」

 やはり先生は、僕を辞めさせるつもりはないようだ。

 半信半疑で僕は大学に向かった。教授の助手と名乗る女性と話をしているうちに、ようやく現実味を帯びてきたように思う。僕はあのとき教授に気に入られてしまったらしい。桜の名所における、たった十分かそこらの傾聴如きで。

 私の話を黙って聞いてくれたのはきみが初めてだ。

 もしそれが、誇張でなく真実だとしたら。

 彼はひとりぼっちなのだ。

 ショーコさんを連想した。彼女も彼と似た雰囲気をもっている。彼岸から生を見つめる死の人形。僕が教授の隣に座っているときに考えていたのは、実はショーコさんのことだった。彼女の発言が思い起こされる。

 次はスパイ。

 まさに時限爆弾的プログラム。さすがショーコさん。抜かりない。

 この驚天動地の人事の背景には、ショーコさんという絶対真理が潜んでいる。僕はそのベルトコンベアにのせられて次のステージに運ばれる、ただのパーツに過ぎない。

 実を言うと、僕はこの破格の待遇に最初から乗り気だった。願ってもないチャンス。これを逃したら一生巡ってこない最高の。

 教授の君臨する大学が、先輩の母校だった。

 これで僕はまた彼の傍に居られる。彼の周囲をうろうろする正当な理由が出来る。家庭教師をしていたときのような甘美な時代に戻れる。

 先輩は、大学と眼と鼻の先にあるあの総合病院で外科医をしている。

 外科医?

 しかも地域でも有数の名医と評判だ。

 名医?

 評判?

 僕と先輩の距離は、新幹線と電車の合計二時間から、徒歩三分まで縮まった。何を躊躇うことがあろうか。訊けばいい。わからないことは本人に直接。心境の変化をそれこそ事細かに。しかしあな哀しや、先輩の思考パターンを知り尽くした僕には見当がついている。先輩には精神科医は向かない。あの人は優しすぎる。

 人を、人として捉えるか、物として捉えるか。

 その両極しかとれないのだ。前者をとれば精神科医は破綻する。後者をとれば外科医で成功する。先輩はああ見えてプライドは高い。破綻より成功のほうが断然いい。

 ショーコさんは、死の湖沼から尚、僕に命令している。

 私の嫌いな人の素性を探れ。報告は先生が死んでから聞く。

 なんともはや。

 僕が彼女の元に駆けつけるのが遅かったことへのお仕置きだ。なによりひどい。僕を苦しめるにはどうすればいいのか、本当によくわかっていらっしゃる。

 僕は先輩の想い人について知らなければいけない。ライバルではない。僕はそのステージからとっくに降りている。

 神だ。

 先輩は絶対に忘れている。思い出になっている。僕のことなんか記憶の一断片でしかなくなっている。それでいい。僕はそれを待っていた。リセット。セーブなんかしてない。再びスタート画面からやり直し。僕はわくわくして仕方ない。

 そして、記念すべき第一幕が始まる。

 先輩は、すこぶる機嫌が悪そうな顔をした。

 先刻まで、隣の区で起きた交通事故の怪我人のオペを担当していた。原因は脇見運転。しかも、普通乗用車がトラックに挑んでしまった。大きい車の運転手は軽症で済んだが、小さい車に乗っていた方は凄惨なものであった。そこにいた誰もがもう駄目だ、と思った。しかし、担ぎ込まれたのがこの病院でよかった。いや、わざわざこの病院が選ばれた。なぜか。そんなの自明。わざわざ尋ねるな愚か者。

 先輩がいたからだ。

 言わずもがな、絶望的であった筈の運転手は一命を取り留め、病院に駆けつけた彼女の関係者すべてから感謝された。誰だって感謝されるのはさほど悪い気はしない。だから本当は割と機嫌がよかったのだと思う。そう、この椅子に座らされるまでは。病院に似つかわしくない、なんとも浮かれた喫茶スペースに連れて来られるまでは。

 そして、それすら凌駕する、最たる根源のすべてがここに。

 僕だ。

「お久しぶりです先輩。いやあ、さすがさすが」

 まず先ほどの奇跡の手術のことを褒め称える必要がある。僕は最上の微笑を浮かべた。先輩は僕のこの新しい装備は知らない。僕だってただ安穏と、先輩の記憶が引き出しの奥に追いやられるのを待っていたわけではない。

 以前とちょっとだけ違う。それが重要なのだ。

「帰れ」

 痺れるような低い声。僕の背筋は得もいわれぬ恍惚感を味わう。ああすごい。僕はまた、あなたの正面に立てる。

 髪が少しだけ短くなっていた。初めて会ったときと、何年か前に会ったときとの中間。その眼つきはサービス業として壊滅的だ。相手は漏れなく命の危険を感じる。医師に対して抱くことのある感情のカテゴリにはない。

 すっかり白衣が板についている。着方は相変わらず投げやりだが、きっと病院的権力に対して歯向かっているつもりなのだろう。早速ケンカを売っている。これで仕事も投げやりだったら真っ先に追い出されているが、さすが先輩、そこまで浅はかではない。

 先輩は熱く黒い液体を蓄えたカップを睨みつけている。カップが割れそうだ。手をつける気などこれっぽっちもない、といわんばかりの激しい不可視光線を発している。

「飲んでくださいよ」

 僕は自分のカップを持ち上げる。カップで飲み物を体験したことのない人間に、その方法を伝授するみたいにゆっくりと。もちろんわざと。僕は熟知している。こうゆうやり方が、先輩の短い導火線に火を点けるにはもってこいだということを。

 案の定先輩は、僕のその動作でイライラの臨界点を超えた。

「何企んでんるのか当ててやろうか?」

 自分から話しかけるのは屈辱であったが、このにやけた面を一秒でも早く視界から消したほうがよっぽどマシだ、と顔に書いてある。このパターンは慣れっこでマンネリ。無視すればいい。

「私、この春からそこの大学で非常勤講師をしてまして。感動ですよ。あのユリウス博士の母校ですからね」

「そんなこと言いに、わざわざ、俺んとこに下らねえツラ見せに来やがったのか?」

 語尾にかけて、明らかに声色が変わった。周囲の客やら患者やらがこぞって彼に注目する。驚愕している。実はこれが、名高い外科医の本来の語調とも知らずに。

 先輩には愛想というものが標準装備されていない。腕は確かだが、なんとも無愛想で近づきづらい医師なのである。だが、いざ指摘されると鬼のように憤るから僕は敢えて言わない。僕だけの秘密にしておきたい。誰が教えてやるものか。きみたちは適当に誤解していればいい。

 僕は呼吸を整える。破格の異動を命じられてからいまのいままで何千回もシミュレイションしてきたのは、すべてこの一瞬のため。この一瞬を全身で感じたいがために僕は、先輩の縄張りに飛び込んだのだ。そう、あなたが言うとおり、わざわざ。

 さて、そろそろ本題ですよ。

「伺いましたよ。ユリウス博士の〈息子〉さん」

 先輩は驚いた。

 僕はこの顔が見たかったのだ。僕の一挙一動であたふたする先輩。こんなに幸せなことはない。先輩が僕なんかに脅かされている。あの綺麗で真っ直ぐで穢れない先輩が。

 いくら凄んでも嘘は吐けない。出会ったころからまるで変わっていない。変わったのは僕だけ。先輩はそのままでいてほしい。永久にそのまま。

 僕はこっそりほくそ笑む。さらに追い討ちをかけようか。

「なぜ、という顔をなさっていますね。ははは」

 先輩は、急いで表情を元の無愛想医師に戻そうと躍起になっている。先輩の頭の中で今どんなことが行われているのか手に取るようにわかる。お望みなら再現できる。誰にも見せないけど。

 もう遅い。後戻りも出来ない。

「知ってますよ。学会中大騒ぎですからね」

「なるほど、スパイか」

 駄目だ。最高。

 僕はもう死んでもいい。

 周囲の客やら患者やらはすでに優秀な外科医を見るのをやめたようだ。幻覚か何かだと思ったのだろう。それでいい。先輩のことは、僕が一番よく知っている。

 先輩は平常を装って嗤う。如何にもな悪人ヅラで。

「ずいぶんとまあ、いい仕事に就いたな。ミカサキ?」

「いえいえ、あなたほどではありませんよ。先輩」

 再びここに存在できている。僕はその喜びを噛みしめる。

 僕らは、大真面目な顔で皮肉を言い合う関係でしかない。どうしてそれに気がつかなかったのだろう。以上も以下もない。現状に満足していればよかったのだ。そこから先は用意されていなかったのだから。

 先輩はすべてを察した。わかってくれると思っていた。泣きそうだ。でも我慢。うれしいときは泣いてはいけない。

 それでは、締めの合いの手といこう。

「情報は、常にオープンでフリーであるべきだとは思いませんか?」

「日本語で言え」

 それを捨てゼリフにし、先輩はこの弛みきった空間を後にしてしまった。白衣の後姿が消えるまで僕はニヤニヤが止まらなかった。いや、見えなくなったいまも、ついついやけてしまう。すべてシナリオどおり。内容もその口調でさえ、僕は予想してあった。

 上手くいった。いきましたよ、ショーコさん。見ていてくれましたか。

 浮かれるな莫迦者。次の手は考えてあるのだろうな。

 ええ、もちろん。すべてこの僕にお任せ下さい。

 先輩は口が堅い。噂はおそらく本当だ、と確信が持てたところで、第一幕は大喝采で幕を下ろす。僕は、指紋すらつけてもらえなかった哀れなカップを眺める。

 出されたものに手をつけるな。

 僕が出したようなものだからいいですよね?

 一気に飲み干す。不味い。キリコ少年の父親の気持ちがようやくわかった。

 確かに勿体ない。

 実はこの闇黒色の液体の登場も、僕のシナリオにあった。先輩はコーヒーが大嫌いなのだ。においで頭が痛くなるらしい。心理的なものなら僕が治してあげたい。たぶん断られる。絶対に拒否される。だって、僕が治療できるはずない。

 コーヒーと僕が、記憶の連合で結びついているがゆえに、コーヒーのにおいを嗅ぐと僕のことを思い出してくれていると分析する。

 それでは最後は勿論、ショーコさんの有り難いお言葉で締めくくろう。

 廃墟に強制連行された僕は、ショーコさんの恐るべき計画を聞かされる。とても信じられない。非人道的にもほどがある。僕は必死に断った。でもそんなことは無意味。

「連れてくるって、そんな。人の子攫ってどうする気なんですか?」

「育てる」

 従うしかない。この人は絶対真理。人間が決めたちゃちい倫理観なんか、彼女の前では霧散する。諦め。僕に足りなかったのはそれだ。僕は限界を思い知る必要がある。

「育てるって、何に」

 ショーコさんは、玉座から僕を見下ろす。

 慈愛に満ちた、ビィドロの眼で。

「人間」

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抜ク零落ち度 伏潮朱遺 @fushiwo41

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