抜ク零落ち度

伏潮朱遺

第1話 転写Transference

      1


 たまたま部屋に居たくらいで何だというのだ。それ以上のものはない。

 なんらおかしいことなどない。学生には日常茶飯事。レポートが間に合わない。テストが近い。ノートのコピーを届けただけ。

 嘘を吐くような意味もない。嘘を吐く利点が何もない。虚言癖もない。正直過ぎて顔に出る。見ているこっちがはらはらさせられるくらいに。

 しかし、他人が部屋に居たということは、部屋の主がわざわざ彼を部屋に上げたということ。招待したということ。寄っていたあいつだって無理矢理押しかけるような性格には見えなかった。引っ込み思案の大人しいタイプ。

 仲良くなった相手を自分のアパートに呼ぶくらい、よくある。

 吊り革を摑んでいる手が滑る。ぐっと力を入れなければ離してしまいそうだ。背が低いわけでもない。ぴんと腕を伸ばさずとも楽に届く距離。あらゆるものが乾いて見える。

 嫉妬なのだ。

 僕は嫉妬している。

 相手が色恋とは程遠い位置で生活しているせいで余計に気になって仕方がない。

 先輩と離れて何年経つのか。大学に通うに当たって先輩は一人暮らしを始めた。僕との距離は、新幹線で一時間半、そこから乗換えで半時間。合計二時間。たった、なのか、も、なのか判断しかねる。保留にしてある。

 一体何をしているのだろう。先輩の家に泊めてもらわなければ今夜は宿無しなのに。最初からそのつもりだったし先輩にもあらかじめ連絡してあった。それなのに僕は、訪問直後に、大した会話もせずに、先輩以外の人間がいるのを眼にした瞬間に。

 逃げ出した。

 先輩は追いかけてくれなかった。疑問に思ってくれてれば僕はまだ救われるが、おそらく望み薄。放っておけば帰って来るだろう、が関の山。もし追いかけてくれていたら、僕はこんな惨めな思いをせずに済んだ。急に走って逃げたなんて、どんな言い訳を。

 違う。僕が気にしているのはそんなことではない。言い訳くらい幾らでも、湯水のように出てくる。僕は言い訳が得意だ。言い訳まみれで汚い人間なのだ。言い訳のプールでぷかぷか漂ってる愚かな人間。

 このまま戻ってまだあいつが居座っていたらどうすればいい? 帰れない。意地になっているのはわかっている。だが、いまからホテルを探すのは面倒。先生は飲んだくれだから一緒にいると巻き込まれる。それが厭で先生と別行動をしているのだ。

 あいつは泊まるつもりだろうか。こんな夜に先輩の部屋に押しかけるなんて。虫も殺さぬ顔をして、気が弱そうな善人面して。一瞬しか見ていないからいけないのだ。僕は第一印象なんか当てにしない。これでも人を見抜く力は長けていると自負している。思い出せ。

 外見は平々凡々。可もなく不可もなくな服装。メガネをかけていて気が小さそうな。身長は僕より低い。体格はモヤシ。全力疾走したら間違いなく心臓麻痺で死ぬ。あいつは、僕と眼が合うなり会釈なんか。

 一気に血が上った。そのエネルギィをすべて逃走に利用した。どこをどう走ったかは憶えていない。街灯の頼りない明かり。静まり返った路地。電車に乗っていることにも、ついさっき気づいた。

 ポケットを探ったら切符が出てきた。誰が買ったのだろう。僕か。僕でないなら随分親切な人だ。280円。どうしてこの額なのだろう。この額だとどこまで行けるのだろう。もう随分長い間揺られているような気がする。駅に着いたら乗り越し精算しなければ。改札にシャットアウトされる。あれは結構凹む。世界中の機械から嫌われているような錯覚すら覚える。

 空席が目立つ。うとうとしている男。ぼんやりしている男。ケータイを弄っている女。僕は吊り革に摑まっている。

 あいつは床には寝ない。先輩は優しいから。先輩が床で眠るに決まってる。とすると、あいつは先輩のベッドで。

 減速する。ドアが開く。四引く二は。

 ドアが閉まって加速。

 降りる気力もない。このまま乗っていてもいずれ追い出される。次で降りよう。そして今夜の過ごし方を検討しよう。恐る恐るケータイを取り出す。わかっている。ディスプレイを確認しないほうがいい。見てしまったらもう。

 ない。

 来ていない。

 僕の番号なりアドレスなりをを知らないのか。いや、そうではない。先輩はケータイを家に置いていく人種なのだ。ケータイがどうしてケータイと呼ばれるのか、一瞬でいいから考えて欲しい。

 僕は自分で自分を追い込んだことに気がつく。先輩はいま、家にいるのだ。もしかしたら電源が切られていたり、バッテリィが切れている可能性は。

 ないか。

 先輩はケータイに頼らない生活をしているが、ケータイを放置しているわけではない。即かず離れず適度な関係。

 僕が掛けるべきなのか。

 出てくれるだろうか。無視されないだろうか。

 メールはやめたほうがいい。先輩はメールを面倒だという。メールを送ると返信してくれない。下手をすると電話もくれない。

 知っている。先輩の思考パターンはすべて。

 きっと、僕が考えすぎなのだ。先輩はなんとも思っていない。気にも掛けてくれない。近いうちにテストだのレポートだの、いろいろ立て込んでいるから。

 わかっている。先輩は僕のことなんか。

 え。

 いま。

 角度的に窓ガラスに映らない。後ろを振り向けない。

 怖いわけではない。満員電車ならともかく、ラッシュ時ならあり得るが。

 おそらくこの車両には僕と。

 もう一人。

 やめてくれと言うべきだろうか。接触している手を退けてくれと言うべきだろうか。こういう場合は。

 叫ぶ?

 いや、駆けつけてくれる他人が誰もいない。だからこれは、僕が対処しなければいけないのだ。後ろに手を回して。

 手首を。

 ない。後ろを振り返ったが誰も。

「う」

 今度は。

 前。

 僕はうっかり反射的に眼を瞑ってしまった。相手はそれを見越した上で好き勝手やっている。慣れていないのだ。こんな状況に慣れている人間は限られてくると思うが。

 実は初めてではない。幸か不幸か、この手の経験はしばしば。僕の外観が、その手の趣味の人に好かれるらしい。余談だが、僕は異性に人気がある。顔とうわべの性格には自信があるので、相手がころりと騙されてしまう。僕としては騙したつもりも付き合うつもりも毛頭ないのだが。

 断るのが面倒だった。

 先輩はそんな僕を非難していた。遊ぶくらいなら一人に選べ。ずるずる関係を続けるよりは、はっきり言ったほうが誠実だ。僕は貴女とは付き合えません、とたった一言伝えればいい。

 世界中の人間から好かれたいなどとは思っていない。嫌われるのが怖いわけでもない。だから僕は、はっきり断ることも出来たのだと思う。相手を極力傷つけない方法でやんわりと断る方法だって心得ている。

 先輩に相手にしてもらいたかったのだ。そうゆう女の敵みたいなことを続けていれば、先輩は確実に僕を叱ってくれる。僕を気にかけてくれる。僕を眼中に入れてくれる。いじめっこが好きなこをいじめるのと大差ない。僕の場合は、本人にアプローチする勇気がないので、赤の他人を傷つけることでその恩恵を受けていた。

 最低。外道。

 どう貶されようと構わなかった。それが先輩の口から出る言葉ならなんだって。

 まずい。

 最近回数が少なかったせいか、今更やめてもらいたくなくなってきた。

 所詮男はこんなものだ。誰でもいい。いや、なんでもいい。快楽の捌け口になり得るならどんな微生物だって。地球外生命体だっていいかもしれない。

 上手だ。慣れている。

 たぶん誰もいない。誰かいたとしても、もはやどうでもいい。見たければ見ればいい。通報されるとしても僕は被害者だ。言い訳なら任せて欲しい。

「出してくださいます?」

 今の声を聞いて僕は我に返った。それでも僕の脳中枢の影響を受けない器官は別行動だったわけだが。

 とにかく背が高かった。僕とほぼ同じ位置に顔がある。大きな眼。だけど針のような鋭さを兼ね備えている。

 僕は声が出なかった。得意の言い訳も何も浮かばない。いまの音声で一瞬にして白紙にされてしまった。

「案外少ないのね」

 白い手についた白い粘液に舌が這う。

 艶のある栗色の髪は腰を覆うほど。鎖骨と肩、両腕が完全に露出している。中央に大きなスリットが入っているため、ほとんどミニスカートにしか見えない。エメラルドのドレス。太腿にはガータベルト。全体的にスレンダな体型だが、出るところは出て、くびれるところはくびれている。

「あなたが思ってること、言って差し上げますわ。わたくしは女です。セックスもジェンダも」

 僕の思考は読まれていた。

「もしご希望ならば確かめてみます? お時間はよろしい?」

「い、いえ結構」

 うっとりするくらいの美人。耳に心地いい高い声。街を歩けば視線を須く独り占め。

「あの、すみません。ごめんなさい、その」

「破廉恥な痴女になど謝らなくて結構ですわ。それにあなたが心配されているようなことは御座いませんことよ。お金も戴きませんし、わたくしの背後にガタイのよろしい殿方が控えているなんてことも」

「い、いえすみません。本当に申し訳ない」

 僕が謝っているのはそんなことではない。彼女は、僕の出したものを。

「細かいところを気になさるのね。裁判も賠償金もありませんわ。それにわたくし、知っていますのよ。あなたが今夜、お泊りになるところがないことを」

 アナウンスが終点だと言っている。僕は彼女に頭を下げて電車を降りた。階段を駆け上がるときにようやく気がつく。ズボンのファスナ。情けない。一気に哀しくなってくる。改札に嫌われるのがわかっていたので、脇の機械にお伺いを立てる。

「お待ちになって?」

 彼女が追いかけてきた。しかし彼女はまったく急いでいない。優雅そのもの。追いかけるほうの余裕だろうか。綺麗な歩き方だった。

 僕は改札に切符を奉納して駅名を確認する。

 知らない。

 聞いたこともない。ここが何県なのかもわからない。

「ミカサキ先生ですね?」

 聞き間違いかと思った。頭がパニック状態になったときに聞く幻聴。しかし、僕はまだ先生と呼ばれるほどの経験も技量もない。願望か。

「先生。こちらです」

 テノールの声。先ほどの女性ではない。券売機と窓口の間の壁に青年がいる。

 細くさらさらの黒髪。細身で背丈はそれほどない。長めの前髪の合間からノンフレームのメガネがのぞく。シンプルなワイシャツだが、多少変わったデザインだった。少なくともそれと似たタイプのシャツを着た人間には、唯の一度もお目にかかったことはない。

 僕と眼が合うとニッコリ微笑んだ。その笑みが、僕の足を床に縫いつける。青年はゆっくりと距離を詰める。健康から不健康というメータがあったとしたら、彼は確実に不健康に傾いている。どちらかというと人工的と言ったほうがいいか。異様に白い肌の色がそれを物語っている。

「僕でお役に立てることがありますか?」

 ヒールが床を叩く音。真後ろから。青年の焦点が僕の後方に合う。

「多少強引過ぎたのではありませんか? ほら、先生が怯えている」

「だって仕方ないでしょう? 実物があまりにも素敵なんですもの」

 青年は大袈裟に肩を竦める。やれやれ、といった具合に。

 彼らは知り合いらしい。

 しかも、僕のことを知っている。僕以上に。

「ミカサキ先生。今夜の宿泊は僕らに任せてはいただけないでしょうか?」

「それはどういったプランで?」

 僕はつい冗談を言ってしまった。追い詰められるとジョークが思いついてしまう。

 僕の腕に柔らかいものが押し付けられる。それが彼女の胸だとわかるまでに余り時間は要らなかった。

「わたくしと一晩同室してくださいます?」

 外耳に生温かい呼気がかかる。

「ハリさん、無理矢理はいけないと思うなあ」

「あら、無理矢理かどうか、先生にお伺いしては如何かしら」

 青年はメガネのフレームに触って僅かに困惑の表情を浮かべた。僕に向けられたものなのか彼女に向けられたものなのかはわからない。両方かもしれない。

「ショーコさまのお話によれば、先生は僕のほうが適任だと」

「それはミズアキくんの解釈の問題では御座いません? 認知の」

「そういわれるとツライけど。一応、僕だって先生と会うの楽しみに」

 彼女と僕との接触面積が増える。認めたくないけど、たぶん僕は確実に性的に興奮している。

「わかったよ。でもショーコさまに訊いてから」

「ええ、どうぞご自由に」

 だから男というのは厄介なのだ。このあと僕はとんでもないことに巻き込まれる。一生逃げられない烙印を脳内に刻まれる。遺伝子レベルで作用する絶対命令を植えつけられる。

 こんなことなら、先輩の部屋に居座っていたあいつに一言言ってやればよかった。先輩には好きな人がいる。お前なんかじゃない。勿論僕でもない。

 それが誰か、僕も知らない。


     2


 僕はぎりぎりで会場入りしたというのに、先生はまだ来ていなかった。旅行気分で飲みすぎて、二日酔いでふらふらなのだろう。想像に難くない。

 発表も後半に差し掛かった頃、先生は一番後ろの扉からこっそり入ってきた。なんだか僕はとても恥ずかしかった。遅刻がどうこうではなく、先生があまりにも寝起きそのものだったからだ。

 終わるのが待ち遠しかった。発表なんか耳から耳に抜ける。我先に廊下に出て、先生の身だしなみを整えさせた。しかし、先生は鏡を見てもそれが誰の顔なのかわかっていないような寝ぼけ状態で、結局僕が一通り面倒見てしまった。おまけに、君と一緒の宿にすべきだった、と真顔で主張される始末。もう厭だ。どっと疲れた。

 どうせ僕は先生のお守り役という名の鞄持ちとして派遣されたに過ぎない。当然だ。僕はつい最近まで院生の身分だったのだから。

 新参者は潰すか伸ばすかといえば、先生はおそらく後者だとは思う。だが、僕はこの会場にいることが苦痛で仕方ない。呼吸も胸も苦しい。決して面白くないわけではない。とても興味深いはず。

 ここで議題に上っていることは権力以外の何物でもない。それ以外はオブラート。ガムや飴の包み。中身を取り出してしまえば要らなくなる。ゴミ箱行きが決まっている。それでも過剰包装をし続けるのだ。うんざりする。先生は終始ぽわぽわ欠伸をしているし。

「君も遅刻をすればよかったんだ」

 会場を出て、先生の開口一番がそれだった。

 僕は言葉を失った。責める気力も勇気も権利もない。

「面白くないと言ったろう。聞いてなかったのか?」

 先生はごく普通の口調でそう言った。窘めというより純粋な驚きに近かった。

「で、でも」

「何を食おうか。せっかく旨そうな店が並んでる」

 先生は両側の建物を順番に冷やかす。店員が迷惑そうな顔をするたびに、ここはよくないなあ、と呟くので最悪だった。すべて僕にとばっちりが来る。

 いつもこうだ。自分で話題を振っておきながら次の瞬間には違う話題になっている。省みることはない。絶対に後戻りはしない。先に先に進んでしまう。腕はいいのだがよくわからない。しかし、これで腕もよくなかったらただの変なおやじだ。

 でも僕は最近わかってしまった。おそらくいい線いっていると思う。先生が口に出したときには、すでにその議題は終わっている。

「ここがいい。ミカ、入ろう」

 先生は僕のことをミカと呼ぶ。僕の名字はミカサキなので間違ってはいないが、そうゆう短縮のされ方をすると返事をしづらい。

 実は先生の娘の名前がミカである。眼に入れても鼻に入れても痛くないくらいに溺愛しており、先生のデスクにはミカさんの写真がクロニクル的に飾ってある。つまり、僕も溺愛の対象になっているようで居た堪れないのだ。

「奢ってやるぞ。何でも好きなものを頼め」

 僕はあまり腹が減っていなかった。それを言い出そうと思って、メニュと先生の顔を見比べていたら、遠慮しているのだと思われて適当に注文されてしまった。

 どうして言い返さないのか。そんなことをしても無駄だからだ。一度やってみるといい。残るのはどろりとした疲労。

 残すのは悪いと思って無理して飲み込んだのがいけなかった。胃がもたれる。食道に何かが詰まっている感覚。

「まずまずだったかな。さて」

 先生はすたすたと行ってしまう。それが駅と逆方向なので僕は溜息をつくしかない。溜息と一緒に違うものまで逆流しそうだった。

「先生、そちらではなく」

「いいだろう、こっちで。こっちに行こう」

 よくない。ますます駅から遠ざかる。

「帰るんじゃないんですか?」

「帰るさ、帰るよ。だがなあ、つまらんじゃないか」

 わかった。

 先生はお酒が飲みたいのだ。

 時刻なんか関係ない。先生は飲みたいときに飲みたい人なのだ。勤務中は我慢できるのに、それを終日適応して欲しいものだが。

「ミカも飲みたいだろう。酒に弱いわけでもあるまい」

「先生、僕はそろそろ」

 先生はああそうか、と呟いてぽんと手を叩く。

「それはすまんかった。仕方ないなあ」

「ごめんなさい」

「いやいや、そんじゃまた明日。遅刻していいぞ」

 僕は先生に頭を下げて駅まで駆ける。

 一秒でも早く会いたい。

 先生は、僕が遠距離恋愛をしていると思い込んでいる。間違っていないので僕も訂正しない。しかし正しくは、遠距離片想いなのだ。遠距離恋愛自体が長続きしないのに、僕なんか片想い。二重に厳しい条件が重なっている。

 足がそわそわする。先輩が僕を見たときの第一声を思い浮かべてにやにやしてしまう。

 実は先輩は、先輩ではない。

 変な文だがその通りなのだ。先輩は僕の先輩でもなんでもない。むしろ僕のほうが先輩なのだ。僕のほうが四つ上。同じ小学校を出ていたことは、あとで明らかになった。僕が先輩に出会ったのは、大学一年のとき。先輩は中三。

 先輩というのは、僕が勝手にそう呼んでいるだけ。最初は怒られもしたが、そのうちに訂正が面倒になったらしく黙認された。

 先輩は料理が出来ない上に掃除もしないため部屋は散らかしっぱなし。つまりは家事が壊滅的。僕は家事が嫌いじゃないから、先輩のゴミ部屋を片付けるのは僕の仕事。特権ともいう。食事も出来合いのもので済ませているはずなので、そこそこに掃除をしたら買い物に行こう。ちょっと遅い夕食とだいぶ早い朝食は僕が作ればいい。これも楽しみ。

 先輩の部屋は一階の隅。休日だから寝ているかもしれない。この瞬間が一番どきどきする。しかし気取られてはいけない。表情にも素振りにも出さない。

 鍵を開ける音。

 僕はまだ告白をしていない。するつもりもない。

 ドアが開く。先輩の顔がのぞく。

「早かったな」

 しても叶わないから。

「何してました?」

「べんきょーだ。べんきょー」

「それは珍しい。明日は嵐ですかね」

「うっせ」

 髪が少し伸びている。ショートボブくらいはある。散髪が面倒なのだろう。しわしわのシャツとジーンズ。取り込んだばかりの洗濯物山を崩したのがバレバレだ。

 先輩のにおいがする。

 遠距離でも片想いでもどうでもよくなる。

 僕は見覚えのない靴があることに気がつく。土埃ひとつないローファ。先輩の靴はこっちの汚いスニーカだろうから。

「ああ、うっかりな、月曜がテストだってこと忘れててな。助っ人」

「え」

 助っ人?

 それは。

「誰ですか?」

「コーハイだ。ったく優秀で助かるよ。あいつがいなきゃ俺は単位とれねえから」

 奥に進みたくない。

 助っ人や後輩という言葉の意味を取りたくない。

 どうしてこんなに片付いているのだろう。足の踏み場があるなんて。

「んだよ変な顔しやがって。俺だってたまにゃ片付ける」

 どうして片付けたんだろう。

「なんで」

「なんでって、あいつ呼ぶのに散らかってたら悪ィしさ」

 僕のときは散らかっているのに。散らかっているのを片付けるのは僕なのに。

 この部屋に入っていいのは。

「おーい、どうだ? 出来そうか?」

 声がする。先輩以外の声。

 部屋の奥に。

「お前も突っ立ってねえで手伝えよ。レポートの締め切りも近えんだ。もう間に合わ」

「ご飯は?」

「こいつと喰ったよ。そんな時間じゃねえだろ? 何言ってんだよ」

 誰と一緒に。先輩と一緒に夕食を採ったのは。

 シンクに食器が。

「一応自己紹介しとけ。ほら、ちょい休憩」

 先輩は。

 脚の短いテーブルで書き物をしている青年に。

「こいつ、優秀な後輩」

 そいつは僕におずおずと会釈した。

 なんで。

 なんでこんなやつが。それに僕はそんなことをしに来たわけではなくて。

「先輩、私はレポートなんて」

「いーだろ? どうせすることもねんだし。ケチるなよ」

 することはある。あったのだ。ここに来る前は確かに。

 掃除も料理も必要なくなってしまった。

「え、あの、先輩なんですか?」

 そいつは僕と先輩の顔を見比べる。

 僕は答えない。答えられない。答えてしまったら。

「違ェって。よく見ろ。こいつのほうが老けてる」

「え、でも先輩のこと先輩って」

 先輩?

「んなのこいつが勝手に呼んでるだけに決まってるだろ。迷惑なんだよ。いちいち誤解されて」

 迷惑?

 僕がこいつ?

 こいつはそっちの。

「何やってんだよ。座れって、ほら」

 座布団が座布団として機能している。

 こいつが来たから片付けたなんて。どういう気の迷い。

 先輩はキッチンなんか使わない。だからキッチンだけはいつも綺麗なのだ。使わないから。使わない場所なのだ。使わない場所ならどうして。

 使用後の食器なんか。

「先輩、あの、僕も実はテストなんですけど」

 そこは僕の席。

 僕はそこに座るべき。そこに座るべきは僕。

 僕が座って、先輩がその隣で。

「んなの余裕だろ? 知ってんだ俺は。お前が出来がいいことくらい」

「そんなこと言われましても」

 出来がいいなら僕だっていい。

 ずっとそうだった。先輩は僕に頼って。僕だけに頼って。不良学校出身のくせに大学に行きたいて言って頼ってきたのは僕の頭。ケンカばっかしてたくせに、内申だって全然よくないのに、それでも大学に行くと言って。

 そうだ。

 そうなのだ。

 先輩と呼んでいいのも。先輩の部屋に入っていいのも。

 先輩と話していいのも。

「ちょ、おい」

 最後に聞いたあれは、呼び止めてもらったと取っていいのだろうか。

 そう取りたい。そう取らなければ僕は。

 走って逃げた。

 悔しい悔しいくやしい。

 確かに僕は勝手に先輩と呼んでいる。勝手にもほどがある。四歳も上なのに。

 ニセモノなのだ。僕の呼び方はニセモノ。

 それに引き換えあっちは正真正銘の。

 先輩、後輩。

 同じ大学。同じ学部の。

 僕だってテストやレポートくらい手伝える。そんなの僕に言えばいい。僕が先輩の家に行くといったときにそう伝えれば二つ返事で。

 駄目だ。

 駄目なのだ。僕では手伝えない。だから先輩は言わなかった。言っても無駄だから。

 僕は医学部なんか出ていない。

 先輩を医学部に入れたのは僕なのに。手の付けられない不良で名を馳せていた先輩を、超難関私立の医学部に入れたのは他ならぬ僕。僕は先輩の家庭教師だった。僕が教えたから先輩は医学部に現役で受かったのに。

 とられた。

 僕の居場所を。僕の存在意義を。

 僕の、先輩を。


     3


 廊下の窓から海が見えた。いや、海の絵だったかもしれない。嫌味なほどに写実的で、幻惑させるほどにトリックアート的な。

 音がしなかったのだ。海の海的な音が何も。

 単に僕の耳が詰まっていただけかもしれない。それを確かめる術は今のところなさそうだった。生憎僕は、自分の声を出すことを忘れていた。自分の口から声が出るという機能をすっかり失念していた。

 足音も呼吸の音も衣擦れの音もしなかった。

 心臓の鼓動さえ消えていた。

 気味の悪い建物だった。火事では燃えない。水害に流されない。地震でも壊れない。

 ここは、建物という概念なのだ。建物という概念がそのまま建物の形をとって僕を収容しているに過ぎない。完璧な建物であるがゆえに、それは揺るがない。言葉が滅ばない限り。言葉が滅ぶ?

 考えられない。大いなる矛盾。

「おはよう」

 廊下の突き当たりに少女が立っていた。少女と言う概念だった可能性もある。

 僕はおはよう、と返したかもしれない。

「話がある」

 少女は突き当たりのドアを開けた。僕は吸い込まれるようにそこへ移動する。実際に吸い込まれていたようにも思える。

 暗い部屋だった。でもすごく眩しい。光が乱反射している。遊園地の鏡だらけのアトラクションに迷い込んだみたいに。

「ミカサキ先生、はじめまして。私はショーコ」

「ショーコ、ちゃん?」

「さん」

「ショーコさん」

 全身が黒一色だった。胸に細いリボンとレース。ワンピースは黒い蝶の印象。膝上までの長いソックス。バレエのトゥシューズのような靴。とにかく腕が細すぎる。骨だ。髪は耳の後ろで二つに結わえている。

「ショーコさまでもいいけど、ショーコさんでも呼ばれてみたい」

 眼がビィドロ。声は風鈴。

「結局ハリにした」

「はあ」

「返事ははっきり」

「はい」

 少女は、玉座に腰掛けて肘掛に骨をのせる。

「ハリは私の性欲」

「随分と凄い性欲ですね」

 またやってしまった。僕は追い込まれるとジョークで応じてしまう。

 少女は笑わない。

 よかった。むしろ無視してくれたほうが。

「性欲はバッテリィ。私の場合は外部バッテリィ。収まりきらないから」

「量が多いんですね」

「ミズアキだと思ってた。ミカサキ先生、好きな人」

 ぐらりと眩暈がした。

 そうだ。そっちのほうが重要だった。

 先輩の。

「ふられた?」

「そもそもふられてるんです」

「本当?」

「たぶん」

 不良そのものだった先輩が大学なんかに行こうとした理由。偏差値という言葉すら知らなかった先輩がよりにもよって医学部を選択した理由。

 医者になりたい。

 その根底に、先輩にとって重要な何者かが関わっているとしか。

「知りたい。先生は、好きな人の好きな人を殺したい?」

 少女は顔色一つ変えずにそう言う。

 僕は痙攣的に首を振った。

「殺すだなんて」

「消したい。要らない。その存在のせいで先生は哀しい思いをしている」

 僕は床を見た。アリの行列が横断したような幻覚。

「先生はそれを望まない。わかってる。私はあなたのことを知ってる」

 僕は頷いた。重力に屈しただけかもしれないが。

「調べるだけにする。でも条件がある。先生は私の欲しいものを手に入れる。それと引き換えに私は先生の欲しいものを持ってくる。出来る?」

「どうして僕に?」

「あなたが適任。ミズアキを選ばなかったのは予定外」

 また思い出してしまう。僕はあのあとずっと彼女と一緒だったのだ。名前はハリ。針と糸のハリではなく、瑠璃も玻璃も、のハリらしい。眼が覚めるとハリはいなかった。少なくともベッドの上には。下にいたかもしれない。寝起きだったのでそこまで気が回らなかった。

「ミズアキは好きじゃない?」

「おそらく」

 玉座の背後の窓からも海が見えた。エメラルドグリーンに輝く水面。ハリのドレスを思い出す。同じ色だ。しかし、やはりどことなく現実感が薄い。波音も潮のにおいもゼロ。写真より克明で、映像より忠実。僕は騙されているのだ。五感すべてを人質に。

「山がよかった。私は山が好き」

 思考が読まれた気がした。気のせいではない。たぶん本当に、少女は僕の思考を読んだ。

「あれが手に入ったら移動する。それまでの辛抱」

 独り言なのだろうか。

 少女は玉座から飛び降りて僕に近づいてくる。

「朝食。ついてきて」

 風が通る。廊下に出て曲がり角をくねくね進む。コンクリートのような木のような石のような。薄暗い。蛍光灯より松明がよく似合う。ランプもいいかもしれない。

「ショーコさん、質問をしても構いませんか」

「つまらないことだったらお仕置き」

 どうしよう。お仕置きが怖いわけではない。この空間は少女が統べている。つまりは少女の機嫌次第で僕の運命がいくらでも捻じ曲げられる。垂直にも平行にもねじれの位置にだって。

「僕に仕事を辞めろということでしょうか」

「先手を読みすぎてる。ネス先生はいい人」

 やはり僕のことを知っている。あれはブラフでもなんでもなかった。

 私はあなたのことを知ってる。

 天井の高い広間に出た。中央にぽつんとテーブルが設置されており、椅子が四つ。こちら側に二つ、あちら側に二つ。周囲の壁には所狭しと額縁がかかっているが、そのいずれにも絵が入っていない。

 鏡だ。

 絵画の代わりに鏡が飾られている。

「先生はあっち」

 少女が指したのは、あっち側の椅子でもこっち側の椅子でもなかった。

 突如キッチンが出現したように見えた。

 どうやら僕に調理をしろという意味らしい。確かに少女は朝食、と言っただけであり、待っていれば給仕してもらえるなんて考えた僕が浅はかだった。

「メニュはこだわらない」

 冷蔵庫と戸棚を確認する。食器も器具も一通り揃っている。僕は先輩に作ってあげようと思っていたメニュを再現する。出来上がる頃には、少女のほかにハリと青年が集合していた。少女の向かいに青年、その隣にハリ。少女は空白を呈している。体外離脱中かもしれない。青年の名前は確かミズアキ。しきりにハリと討論を交わしているようだが、僕にはその議題がわからない。

 食事中は気持ち悪いくらいに静かだった。食器が接触する音や咀嚼音でさえ憚られる。たまにハリが眼を合わせてきたが、僕はとても決まりが悪かった。あからさまに眼を逸らすのも失礼だと思ったため、余計に緊張してしまった。片付けも僕がした。少女はその体格に相応しいくらい少食だったし、ハリもミズアキも決してたくさんは食べなかった。先輩換算で作ったのがいけなかった。ほとんど残ってしまった。

 洗った食器を拭いていると、少女が僕の傍らに来て呟いた。

「先生はドーナツ作れる?」


     4


 典型的な核家族の住居だった。モデルハウスや分譲という言葉が頭の中を席巻する。ここは果たしてニュータウンなのか、はたまたオールドタウンなのか。

 住所はここでいい。髪形と服装を整えていざ。

「こんにちは」

 僕は怪しまれない程度に丁寧に自己紹介する。笑顔には自信がある。例え画面越しだろうが。

「新しい方ね。お待ちしておりましたわ。さあどうぞ」

 声だけならきびきびした印象だったが、実際に姿を見てみるとそうでもなかった。フォーマルな服装に幼い中身が追いついていない。このアンバランス加減が計算だとしたら、かなりの強敵だろう。戦うつもりもないが。

「お若いのね」

「そうですか?」

「ええ、いままでいらっしゃった方はほとんど」

 彼女は困った顔を浮かべて首を傾げる。緩いウェーブが肩にかかる。

「ようやくそれがわかったのではないでしょうか。だから僕みたいな」

「そうね。私もそろそろ疲れちゃったわ」

 リビングからウッドデッキが見える。雨曝しの椅子とテーブルが多少哀れだ。天井がやけに遠いと思ったら、リビング部分は吹き抜けだった。僕がソファに腰掛けると同時に彼女が紅茶を運んできてくれた。訪問時刻はあらかじめ告げてあったので仕込み済みだったのだろう。いいにおいがすると思ったらアップルパイだった。

「ついさっき焼きあがりましたのよ。お口に合えばいいのだけど」

「あの、特にお構いなく」

「お話しする間のつなぎですわ。沈黙したときお互い困るでしょう?」

 ダイニングキッチンは遠目に見てもぴかぴかだった。建てて間もないのだろう。そうでなければ凄まじいハウスキーピング力だ。彼女は黒いプリーツスカートの裾を整えながら、僕の左斜め前に座る。

「それで、息子さんは?」

「随分単刀直入ですのね。母親の私の思いは聴いていただけない?」

「いえ、すみません。訂正致します」

 僕は申し訳なさそうな状態を表す動作をする。彼女の口元が上がる。

「あの子は地下におりますわ。いままで何人も先生をお呼びしたけれど、ちっとも。ヤブと申しましょうか、こう言ってしまうと失礼ですけれど。仕方ないわよね。結果が出ないのだもの」

「同業者の僕が言うのもあれなんですが、確かにヤブと呼ばれても仕方ないようなインチキセラピストは存在します。いままで苦労されてきたんですね」

 彼女は紅茶を一口啜る。僕にも飲めといっているようだったが、僕はどうしてもそれに従うわけにはいかない。カップの淵に口紅が付く。彼女はそれをすぐに拭き取る。

「冷めてしまいますわ」

「そうですね。熱移動的に」

 僕は頭の中でショーコさんの忠告を反芻する。

 出されたものに手をつけるな。

「せっかく焼きましたのに」

「息子さんは、地下で何をなさっているんでしょうか」

「なんでしょう。私は入れてもらえないの。扉の前で方向転換。もう厭ですの。私だけこんな」

「だけ、と申しますと、ご主人は」

「さあ、ずいぶんと留守をしておりますので。私も詳しくは」

 最初はこんなもんだろう。前日に連絡を入れてあったとはいえ、完全に初対面の赤の他人だ。それでも僕の肩書きを過大評価してべらべらと話し捲くるタイプもいるが、そういう場合、単に溜まった鬱憤を吐き出したいだけなのだ。壁に怒鳴りつけるのと変わらない。

「実はご主人には先ほど」

 彼女はかなり驚いたようだった。息子に付きっ切りの母親を差し置いて、息子のことなど気にも留めない父親のほうに先に面会したという不当な扱いに対する憤りではない。表向き滅多に捉まらないことになっている夫に、どんな伝やコネでアプローチ出来たのか、その方法論と手回し自体に疑問を抱いたようだった。

「本日僕が訪問させていただいた理由をご理解いただけましたか?」

 彼女はしばらく黙っていた。沈黙することで会話の主導権を握ろうとしている。しかしもう遅い。主導権は、僕がここを訪れる前、電話を掛けることが決った時点で僕の手中にあった。

「そうでしたの。道理で今までの方と違うと」

「お会い出来ますでしょうか?」

「そのつもりでいらっしゃったんでしょう? わかりました。でも何か御座いましても私は」

「心得ております。僕は男ですから」

 彼女は階段まで僕を案内すると、さっさと二階に行ってしまった。逃げたのかもしれない。外に出ないのは、息子が心配だからだろう。捨てて逃げることが出来たなら、最初から僕らセラピストは呼ばれない。

 ゆっくり階段を下りる。スリッパのサイズが小さめなので歩きづらい。踊り場で脱ぎ捨てた。実は僕は、スリッパほど嫌いな履物はない。暗順応に時間がかかった。お昼に飲んだ付け焼刃的キャロットジュースでは駄目か。奥が納戸。向かって左のドアが目的地らしい。異臭はしない。やはり僕の鼻は正常に機能していない。

 ショーコさん情報だと。

 ホームシアタ。

 微かに音が漏れている。なんだろう。悲鳴のような。ぎい、という気味の悪い音とともにドアが開いた。

 僕は無意味な笑顔を作る。

 扉の隙間から黒い髪がのぞく。かなり長い。前髪とその他の区別がつかない。BGMは耳を劈くような悲鳴。スプラッタ映画の類を連想させる。

「はじめまして。僕はミカサキ。そっち入っていいかな」

 本当は入りたくない。スプラッタ映画なんてご免だ。

「いい?」

 少年は何も言わない。僕を見ているのどうかすら危うい。あちらからは見えるがこちらからは見えないという絶対不利な条件。ワンサイドミラ。

「えっと、キリコくん」

 突然凄まじい力で腕を引っ張られた。ドアが閉まる。鍵も閉まる。僕は床に膝を付いてしまう。真っ暗だ。スクリーンだけが異様に明るい。映し出されているのは。

 血と死体。

 圧倒的な黒。総体は部分になっている。

「こうゆうの好きなの?」

 本当は知っている。少年に関するあらゆる情報を、ショーコさんによって強制入力させられている。

「僕は苦手だなあ。ちょっと気分悪くなってきたよ」

 床に何が散らばっているか考えないようにしながら座りなおす。硬いものと柔らかいものと冷たいものと生温かいものが同時に僕の指に接触している。映像を見ているだけで鉄のにおいがしてくる。実際にこの部屋も血まみれという可能性だってある。暗くて見えないというのも考え物だ。

 僕を摑んだ手はほとんど骨だった。

 この少年も骨。

「映画かな? それとも」

 実際の。

 僕は思考を凍結させる。

 出来るだけ映像に集中しないようにしているが、感覚遮断というのは危険なのだ。外部の刺激をシャットアウトするわけだから、内部の刺激に敏感になる。変性意識状態はまさにこのときに起こってくる。僕を洗脳するならいまだ。

 ああまた人間が部分に。

 インチキセラピストが一目散で逃げたくなるのもわかる。たらい回しにされないのもわかる。こうゆうケースは回らないのだ。インチキセラピストでなくても、これを担当したら業界から離れたくなる。ショーコさんはこれを見越していたのだろう。たぶん僕は、近いうちに先生のところに辞表を出す。

「おにーさん」

 幻聴かと思った。僕の脳から聞こえているわけではなくて、僕の外耳で受け取った音声だとわかるのに時間がかかった。その隙に、少年は僕のポケットに手を入れる。上着のほう。ケータイをとられた。

「これ欲しい」

 きちんと喋れるじゃないか。誰だ。緘黙なんて言ってたのは。

 いや、選択性緘黙だったか。

「買ってあげるよ。だからそれは返してくれないかな」

「これがいい」

 人のものを欲しがる。

 その人にとって大事なもの。

 さすがショーコさん。僕は財布や時計を取られるよりも、ケータイをとられたほうが断然ダメージが大きい。先輩とつながる線を絶たれてしまう。

 また新しいものを契約すればいいとは思えない。もちろん番号もアドレスも長期記憶に入っている。いま暗唱しろといわれれば何千回でも唱えることが出来る。例え一瞬でも、その線を切られてしまうことが僕には耐えられない。

 僕はケータイは常時接続だと思っている。意味合いが異なるが、これさえあればいつでも先輩の声が聞ける。一緒に住んでいても毎日話が出来るとは限らない。先輩は僕の電話を無視したことはない。メールは鬱陶しがるが、どんなに忙しくても電話には出てくれる。いま忙しいから後にしろ、と怒鳴るだけだとしても。

 おそらく先輩は応答メッセージの存在に気づいていない。メールを嫌がるのだって、使い方がわからないことを知られたくないだけに決まっている。アドレス帳も使いこなせていないし、マナーモードに設定することも出来ない。音が出てうるさいからケータイを置いていくのだ。不携帯な人なのにおかしい、と思われるかもしれないが、そこは僕の経験則。先輩が家にいると思われる時刻にかければいい。ただそれだけのこと。

「ちょーだい」

「頼むから返してくれないかな」

「やだ」

 ヤダはこっちだ。

 少年は僕のケータイを握ったまま両手を後ろに回してしまった。力づくで奪うことも出来なくないが、それはやめたほうがいい。インチキセラピストが逃げ出した経緯を思いださなくても自明だ。僕は少年を叱りに来たわけではない。仲良くしに来たのだ。

「じゃあ貸しとくだけね」

「やだ」

 子ども相手に泣きそうだ。昨日のショックがまだ抜け切れていないというのに。

 僕は急いで作戦を練り直す。

 そうだ。それがあった。

「ドーナツ作ってあげるよ」

「ほんと?」

「だからそれは貸しとくだけね」

 少年はケータイと僕の顔を見比べる。BGMが金切り声だったことを抜かせばなかなか心温まる情景だったと思う。長い前髪の合間から黒目が見えた。

「ドーナツくれる?」

「いま食べたいかな?」

 少年が僕の手首をつかんで、その手を開かせる。

「返してくれるの?」

「ドーナツとこーかん」

「わかった。ちょっと待っててね」

 僕は足元に気をつけながら手探りで廊下に出る。金切り声は最高潮に達する。ドアの隙間から少年がのぞいている。僕を見張っているつもりだろうか。約束を破らないように。契約違反をしないように。

「おにーさん作って」

「もちろん」

 階段を上がってリビングに戻る。彼女はダイニングテーブルに突っ伏していた。どうやら僕を待ってくれていたらしい。僕を置いてさっさと二階に上がってしまった理由はすぐにわかる。眼の周りが薄っすら腫れていた。自分の部屋で泣いていたのだろう。今日初めて会ったばかりの出所不明極まりない僕なんかに泣き顔など見られたくない。

「何も言わないでね。何も聞きたくないの」

 声はさっきのままだった。表情も全然崩れていない。

 さすが強敵。

「いまは、という限定付でしたら」

「キッチンよね。いいわ。自由に使って」

「ご存知だったんですか?」

 彼女は当たり前でしょ、という顔をして僕に向き直る。間違いなく今日のベストショットだった。

「私はあの子の母親です」

 なんだか僕はすごく悪いことをしているように思えてきた。

 確かに僕はセラピストだが決して世間一般で言われているような、いわゆるセラピストではない。ショーコさんに見初められたときすでに、ただのセラピストから脱していた。僕はこの家族を修復しに来たわけではない。ほとんど家を空けている父親を連れ戻し、母親に笑顔を取り戻させようだなんて考えていない。息子を地下から引っ張り出すという点では間違ってない。いわゆるセラピストと一緒だ。しかし僕はそのあとが違う。

 僕はあの少年を、言葉巧みに家の外に誘い出さなければいけない。二度とこの家に戻ってきたくなくなるような美味しい餌をちらつかせて。

「私は手伝わないほうがいいのよね?」

「すみません。そうゆう約束で」

 ホットケーキミックスを用意してもらって、ボールに粉と牛乳と卵を入れる。彼女はダイニングテーブルで頬杖をついている。

「あの人もね、よく作ってくれたの」

「ご主人ですか?」

「本当に上手でね。その辺で買ったのなんか食べれないくらい」

 ハードルが上がっている。プレッシャをかけられている。僕は一夜漬けのレシピを反芻する。

「あの人は帰ってこないわ。あの子がいる限り」

 理由は尋ねない。

 知っているから。

「ねえ、あの人私のこと何か言ってたかしら?」

「よろしく、と」

「それだけ?」

「僕の口から聞かないほうがいいと思います」

 掻き混ぜる。生地を延ばす。型を探そうとしたら、目の前に出現した。

「とってあってよかったわ」

「どうも」

「未練があるってことよね。あの人のドーナツに」

 旦那よりもドーナツのほうが重要度が高いらしい。先に向こうに会っておいてよかった。うっかり口を滑らせてしまいそうだ。

「生きてるうちに食べれればいいのだけれど」

「そうですね」

 壊れかかったこの家庭は、徹底的に崩壊する。

 もし世の中に善いセラピストと悪いセラピストがいるのなら、僕は断然。

「あなたに頼んでも無理よね」

 悪いほう。


     5


「きみに頼んでも無理だろうね」

 僕は視線を手元から外した。

 簡易アルバム。

「あいつより先に私に会いに来たのは悪い選択とはいえないが、正解でもない。よくわからないよ、心だの精神だの。もう懲り懲りだ」

「僕にもわかりません。心や精神を解明出来たら確実に僕らは廃業です。学問だって廃れます。画一的だったら機械に頼めばいいんです。彼らは僕らよりよっぽど正直で素直ですから」

 僕はアルバムを彼に返す。表紙は無地。何の変哲もないハードカヴァ。日焼けなのか手垢なのか、多少、いやかなり年季が入っている。大切なのだろう。彼と家族をつなぐ唯一の物品だから。

「僕に任せていただけませんか?」

「私に許可を取ったところで何の意味もないさ。黙ってやればよかったんだ。どうしてこんな」

 彼は苦渋の表情でアルバムを受け取る。別にアルバムを返還するタイミングいけなかったわけではなく、況してや僕の顔が気に障ったわけでもなく。

 すっかりセラピストアレルギィだ。

「迷惑でしたね」

「迷惑だよ。わかってるなら帰ってくれないか。私だって仕事が」

「僕も仕事です」

 すぐ横を人が通る。ガラス張りの社長室。壁が著しく少ない開放的なオフィス。

「あの、誠に失礼ですが、しづらくないですか?」

「秘密主義なきみらには居心地が悪いだろうね。でも慣れればそうでもないよ。私もこれに慣れるまでにだいぶかかった」

 第一印象を過信しないことにしている僕も、彼においては特に文句の付けようもなかった。フランクでも高圧的でもなく、馴れ合いも妥協もない。ストイックで真摯な男。彼は決して知らない領域に踏み込まない。相手を熟知した上で、対等な勝負を申し込む。しかしルールは無用。勝ったほうが勝ちなのだ。

 おそらく自分の息子がどんな状態なのか、独学で調べたのだろう。彼は心理学を正攻法で齧った。真っ直ぐに、それでいて貪欲に。そうでなければ、心だの精神だのがよくわからない、だなんて発言は出てこない。

「というと、社長の提案ではないんですね?」

「きみに社長と呼ばれたくないよ。正直に言おう。金輪際の付き合いにしたいんだ。ここを出たらきみは私のことを忘れるし、私は速やかに業務に戻る。コーヒーを飲むついでに耳に入った他愛無い会話にしておきたいんだ。わかって欲しい」

 彼は手を挙げた。その動作があまりに絶妙すぎて、僕は息を止めてしまった。これならタクシーも試験官も一挙捕獲可能だ。時計も止まってくれるかもしれない。女性がコーヒーを持って入ってきた。僕と彼の前にコーヒーカップを置くと一礼して退室する。言語行動を封鎖された代わりに、容姿の美しさを極限まで磨き上げられた彫刻のようだった。

 彼は口内に液体を流し込むと、無感動にカップをソーサに戻した。車に燃料補給しても何も言ってくれない理由が、少しだけわかったような気がした。

「砂糖かミルクか」

「いえ、特にお構いなく」

 僕はショーコさんの有り難いお言葉を脳内で詠唱する。

 出されたものに手をつけるな。

「期待はしない。それで散々な眼に遭った」

 彼は上品に立ち上がって、大事なアルバムをデスクの引き出しに閉まった。眼の前にあると自動的に思い出してしまうのだろう。インチキセラピストに受けた不当な仕打ちの数々を。

「どこかに出掛けた帰りだった。場所は忘れたよ。どうせ代替可能な行楽地だ。小腹が空いてドーナツを買ったんだ。しかしそれがあまり美味くなくてな。無駄に甘い。捨てるのも勿体ないから我慢して食べたんだが、あの子がね」

 相槌は必要ない。

 彼は壁に話しかけている。僕よりも千倍は人間的な壁に。

「じっと見ているんだ。もの珍しそうに。じっと。私は試しに欠片を口に入れてやった。そうしたらとてもうれしそうな顔で笑うんだよ、あの子は。口にまだ残ってるのに、私の食べかけが欲しくて手を伸ばすんだ。こんな不味いもんを美味そうに。何だか悔しくなってね。どうせならもっと美味いドーナツを食わせてやりたい。そう思って練習したよ」

 微かに声が震えていた。もしかしたら泣きたかったのかもしれない。彼は僕に背を向けているためよくわからない。社員も天井も空気でさえも、彼の表情を捉えることはできない。

「試行錯誤の末、ようやくものにした。ドーナツってのは見た目よりずっと難しいな。単に私が不器用なだけかもしれないが。そして完成品をあの子に上げたよ。今度は食べかけじゃなくて丸々一個。まだ食べてもないのに、とてもうれしそうなんだ。あの子はじっとドーナツを見てね、小さい口で齧りつく。でも一口食べて私に返した。何故だと思う?」

 自問自答。時間制限。

 たぶんここは、喋る壁が相手したほうがいい。

「お父さんにあげたかったんじゃないですか? お父さん渾身の出来ですからさぞ美味しかった。または、息子さんはドーナツが欲しかったわけじゃなくてお父さんが食べているものが欲しかった。だからお父さんが口をつけていないものは要らないと」

 彼は僕の向かいに腰掛ける。ニュートラルに、ナチュラルに。

「これからあいつの所か」

「そのつもりです」

「しばらく帰ってないんだ。住所はそのままだとは思うが」

「違ったらその時は交番にでも行きます」

「それがいい。警察は一応市民の味方だ。悪いことをしない限りは」

 彼は、たぶん初めて僕の顔に注意を向けた。僕の顔に接触している空気だったかもしれないが。

「あの子は悪い子じゃないんだ。あいつも、妻も悪くない。悪いのはすべて私だ。命が惜しいばっかりに私は、あの子を」

 知っている。

 これから会う少年が父親に何をしたのか。

「きみは何も訊かないんだな」

「口を開くと余計なことしか言わないので、極力黙っているんです」

 きっと彼は笑おうとした。笑うという行動にブランクがありすぎて切り替えがうまくいかない。

「喋らないセラピストなんか無用の長物だろうに。無言でカネを取るのか。いい商売だな」

 やはり彼はセラピィを理解している。セラピストは助言をしない。助言をするセラピストがいたら、それはセラピストではない。人生相談か占い師だ。ただのお節介。標榜を誤っている。

 僕らは耳を傾ける。人間的な壁になる。

「僕の師匠は相槌だけですよ? うんとかほおとか」

 今度はうまくいった。彼の顔以外は笑っている。

「妙なのが来たもんだ」

「一つ教えてもらっていいですか?」

「きみはまだ師匠の領域に達していないようだね。いいよ。何だ?」

「ドーナツを作るときのコツを教えてください」

 最初にこっちを訪ねた理由はすべてこの質問に集約される。僕はこれを訊くためにわざわざ面倒な会社訪問なんて。それもガラス張りなんていう限りなく居心地の悪い陳列ケースに押し込められて。

 僕に与えられたコーヒーカップを、彼が口元に運ぶ。無理して飲んだのだろう。冷めたコーヒーほど不味いものはない。

「あいつに訊いてくれ」

 勿体ないから。


     6


 足の指が根こそぎ持ってかれる感覚。心配になって自分の足の指を数える。そもそも何本あったのか思い出しているうちに、再び指がなくなってしまう。海水のエクスポージャ。

 繰り返し、繰り返す。

 黄色いアヒルのおもちゃが僕の足に当たる。

 ショーコさんが僕の脳に指令を送る。従属変数が僕、独立変数が彼女。

「ありがとう」

 アヒルが分裂する。大海に放たれる。

 カタカタカタカタ。

「いまなら答えてもいい」

「お仕置きは?」

「なし」

 砂が飛んできた。膝に付く。払おうと思った瞬間に先ほどより大量の砂が飛んでくる。仕方ないのでそのままにする。少年は穴を掘る。地球の反対側に抜けるまで。

「どうやったんですか?」

「おカネ」

「もう少し詳しくお願いできませんか」

 水も飛んでくる。水鉄砲から。

 鼻に入りそうになったので僕は射撃者を睨む。

「ごめんなさいね」

 ハリは悪びる様子もなくふふと微笑む。エメラルドのワンピースの裾を結んであるが、あまり意味をなしていない。海水が滴るほどに濡れている。

「ショーコさま、まだですの? わたくし、先生に泳ぎを教えていただきたくて」

「私は着衣水泳の上達を求めていない」

「着替えてきます。それでよろしい?」

 ショーコさんが何か答える前に、ハリは建物のほうに歩いていった。急ぐでもなくゆっくりでもなく。ショーコさんは特に何も言いたくなかったのかもしれない。あのビィドロの眼はおもちゃのアヒルしか捉えていない。

 アヒルは遠泳を開始する。

「子どもなど、またつくればいい」

「ご冗談を」

 笑えない。

 最悪のジョーク。

「先生があの家族について何を感じたのかは知らない。先生は私の思い描いたとおりに道を造ってくれた。それがバイパスでも王道でも、道が見つかればあの家族はそこに進むしかない。そもそも袋小路だった。下り坂も上り坂も光に見える」

「よくわかりませんね」

 いくらカネを積まれたって思い出をゼロにはできない。父親も母親もこの少年を大事に思っていた。だから何もできなかった。自分たちでは何もできないということを熟知していたからこそ、僕らセラピストに託すしかなった。母親は物理的な近さを保てていたが心理的には著しく遠い。その反対に、父親は物理的に遠い距離を余儀なくされていたが、心理的には密着するほどに近い。

 僕は少年の掘った穴をのぞいてみる。さっきよりだいぶ深さが増している。傍らの砂山の高さからもそれがわかる。ショーコさんなら埋まってしまうのではないだろうか。

 眼が合った。

「面白いかい?」

「これつまらない」

 少年は僕にスコップを投げる。

 危ない。脚が切れるところだった。すれすれのところを狙ったのか、たまたま僕がよけれたのか。どちらにせよ、この少年は相当扱いづらい。

 ハリは自己完結タイプなのでいいかもしれないが、ミズアキは周囲が気になって仕方ないタイプなので、新規参入者との距離のとり方で苦労している。みんなが海岸に出ているのにひとりだけ建物内に残っているのはそういう理由だろう。

 ショーコさんがスコップを摑んで少年に渡す。

「待てないならあげられない」

「やだ」

「黙れ。ドーナツもあげない」

「やだ」

「えっと、話を戻してよろしいでしょうか」

 少年は穴からすっと出てきて、ショーコさんを引きずり込む。

 一瞬の出来事だった。

 なぜか僕は、電車のホームから線路に突き落とす光景が浮かんだ。少年は岩場のほうに駆けていく。電車が通過する。ショーコさんは尻餅をついたままぼんやりしている。目測どおり、ショーコさんなら埋まった。

「大丈夫ですか?」

 僕の差し出した手をショーコさんは無視する。穴に嵌ったまま遠方のアヒルを見ている。

「私も先生に誠意を見せる」

 アヒルが波にさらわれる。

「先生の好きな人は、私の嫌いな人」

「お知り合いってことですか?」

「もうすぐ知り合う」

 ショーコさんは自力で穴から這い出た。体中が砂だらけ。黒いワンピースがぼんやり白くなっている。砂をぱっぱと払って、何事もなかったかのように僕の向かいに佇む。

「次はスパイ。ネス先生に辞表出して」

「いますぐに、でしょうか」

「一ヶ月待つ。私も早急にここを脱する。海なんか嫌い」

 そのあとショーコさんは、二度と海岸に出なかった。

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