7.4 謝らなければならない

 コールが鳴った。

 視界の右端にナイトウと表示されている。僕がオンラインに繋がったことで、探知できたのだろう。


「出るの怖いなぁ」


 ネットワークに繋がる視界が随分久しぶりに思えて、見つめる操作が二度もズレた。落ち着いて照準を合わせ、コールに出る。


「やぁ、どうも。元気?」


――今からそちらに向かいます。


「あぁ、位置も分かったんだ。ちょうど帰りの飛行機を呼ぶところだったから、助かるよ」


――到着までに、言い訳を考えておいてください。


「あの」


 コールが切られた。

 丁寧な口調だったが、それが余計に凝縮されたエネルギーを連想させる。音波から、それが測定できた。


 部屋を出て、階段を降りようとしたら、踊り場に妹がいて鉢合わせになった。最初にこの屋敷に来た時と逆の立ち位置だ。階下にはサンダもいて、こちらを見上げている。二人とも解放されたようだ。もう僕たちどころではないのだろう。


「怪我はない?」


 僕が尋ねると、妹は頷いた。やけに素直だな、と驚く。


「なら良かった」


 僕に怪我はないか、訊いてもらえるだろうかと期待したが、妹はしばらく僕の様子を観察すると、興味を失ったかのように再び階段を下りてしまった。


「代表、もうオンラインに繋がりますよ」


 サンダは耳の裏に手を当てながら言った。踊り場の僕を見上げているせいで、首を寝違えた人のように見える。


「ああ、さっきナイトウがコールがあったよ。こっちに来るって」

「なら帰りは俺が運転しなくて済みそうすね」

「シリカさんたちは?」


 エージェントたちは、とは訊かない。僕にとって、彼女は最後までシリカ・ライゼルという一個人だった。もし彼女が間に入っていなければ、もっと強制的な交渉だったのではないか。


「さぁ」サンダは肩を竦める。「シリカさんは見てません。サングラスの男たちは俺たちを解放して、そのまま飛行機に帰っていきましたよ」


 そういえば、ロイド君はどこにいたのだろう。

 まだお別れの挨拶をしていない。彼にとっても、誰とも挨拶せずに一人で飛行機に乗り込んだとも考えにくい。シリカさんが僕の所にいて、飛行機から降りてきたエージェントたちが妹とサンダを拘束した。その間、彼は自由になってしまう。しかし、他のエージェントが彼を押さえつけるような真似をシリカさんが許すとは到底思えなかった。


「こんにちは」


 声がして、僕たちの視線が一点に集中する。

 僕の疑問に答えるように、そこにはロイド君がいた。

 彼の父親に抱かれながら眠っている。


「息子を預かっていただき、ありがとうございました」


 セドリック氏は爽やかな表情で、空いている方の手を挙げた。

 階段を降りて、彼の前に立つ。妹が一応の敬意を払い、彼に頭を下げる。サンダはセドリック氏の登場に恐縮した様子で、壁際に逃げていた。


「いらしたんですね」

「はい。飛行機で、迎えに。大体のことは、シリカから聞きました」

「お母さまのこと、お悔やみ申し上げます」

「とても残念な結果です。私は気付けなかった」


 それは、どちらの意味なのか。僕は聞けなかった。

 セドリック氏の表情が曇っていた。ロイド君の頭を撫でる優しい目は、彼の母親によく似ていた。


「今にして思えば、父の立体映像を見せたのも、覚悟を促すためだったのでしょう。あれは、私にとって父がどういう存在かを知っている人物にしかできない事だった」

「これからどうするのですか?」

「多分、オノデラさんと同じですよ。資本構成と投資の比率を変えます」


 セドリック氏が応える。支配者の顔をしていた。


「もう世界が父の遺伝子に頼る必要はない。専門外ですが、自分のクローンか、あるいは、人工的にもっとクリーンなα細胞を作る方向で、各国に研究所が乱立するはずです。為替も株価も大きく動きます」


 二国の独占的機能が失われることで、僕も同じような動きを強いられるだろう。今の生活を維持したければ、もっと懸命に脚をバタつかせるしかない。セドリック氏と僕だけが持っていたビート板は、もう無くなってしまった。


「ロイド、起きなさい。もう帰るから、皆さんに挨拶を」


 セドリック氏がロイド君を揺すった。目尻をこすりながら、ロイド君が目を覚まし、周囲を見回す。妹とサンダも呼んで、彼の前に並んだ。


「じゃあ、ロイド君。また遊ぼう」

「あぁ、うん」ロイド君は眠そうだった。状況を理解して、かろうじて朦朧とした意識を保っているように見えた。「また遊んでね。次は負けないから。パパにも負けないよ」

「何かスポーツでもやったのですか?」


 セドリック氏が不思議そうに僕を見る。そういえば、色々あったせいで説明していなかった。近日中に、シャトルで大地を割るぐらいまで上達してもらわないと、僕が嘘つき呼ばわりされてしまう。


「えぇ、まぁ。後でメールします」


 大地を割ってください、と。


「お姉ちゃんも、サンダさんも、バイバイ」


 夢見心地の様子で、ロイド君はゆらゆらと手を振る。

 妹は黙ったまま、同じ速度で手を振っていた。サンダは目を潤ませている。一番懐かれたのは、サンダだったのだ。転職して彼の執事になると言い出しかねない様子だった。


 ライゼル親子が去って、僕たちは別荘に取り残された。


 ナイトウが乗った飛行機が到着するまでのロスタイムは、9日間に積み重なった決裁処理で大半が消費された。それ以外にも、サンダの奥さんに彼が音信不通になったのは業務上極めて重要な事由によるもので、彼には大変感謝していると説明したり、ツチヤ君がうっかり公安の秘密基地にヘリを墜落させて燃料をぶちまけてしまった些細な事故を穏便に解決するために弁護士チームからの報告を受けたり、まぁ色々だ。


 こんなにも平和なひと時を生きていたのに、オンラインになった途端、やらなければいけないことに忙殺されてしまう。


 いつもどこかで何かが起きていて、その度に周囲との摩擦が引き起こされる。未発見の無人島にでも引きこもらない限り、自由で解放された生活というものはやってこないのだろう。


 誰も彼もが、しがらみにまみれている。


 何もかもが、つながりに縛られている。


 僕が理想とする生き方は、完全になめらかな社会という幻想においてのみ成立するのだろう。


 川上から海に出るまで、何とも接触しない石ころが存在しないように、僕が生き続ける限り、浮かび、洗われ、転がって、ぶつかって、削れて、止まり、角が取れて、流れていく。


 選べるのは、その軌跡を愛するかどうかだけ。


 今の僕は、ほんの少しだけ、まぁ、悪くはないかなと思えるようになった。ここ最近の出来事によって、そういう僅かな軌道修正が発生した。


 例え1度のズレでも、長く続くのであれば、やがては大きな差異になる。その時になって、ようやく、振り返って今の判断を評価することになる。


   *   *   *


「では、言い訳をお聞きしましょうか」


 ナイトウは座席を回し、僕の前に座った。妹たちは別室で休んでいるのに、僕だけが着席を指示された。


 こめかみを指で叩きながら、僕を睨んでいる。感情を制御できる限界のラインを、もう少しでオーバーしそうな様子だった。仮に爆発したら、今度は上空3万フィートからダイブする羽目になりそうだ。


「勝手な事をして、すみませんでした」


 僕は起立して頭を下げた。90度腰を曲げ、その姿勢を維持する。

 謝罪は社会人の常識である。謝って許されそうになくても、謝らなければいけない。そういう不毛さが許容されているのはコミュニケーションにおけるバグだとは思うけれど、それが仕様になっている。


 ナイトウは大きく息を吐いた。空気に苛立ちの成分が気化して多量に含まれていそうだ。溜飲を下げてくれたのかと期待してチラ見したが、まだ目が据わっていて、慌てて目線を戻す。


「心配しました。非常に」


 強調語が後付けにされるところに、まだ冷静でない感じがした。慎重に地雷原を歩かなければならないと覚悟を決めて、再び座席に腰を下ろす。


「僕にとって、最優先は妹の心のケアだった。それは僕の価値観であって、結果的にナイトウたちの期待に沿わなかったのは、悪かったと思っている」

「でも後悔はしていないんでしょう?」

「また同じ事が起きれば、同じ事をすると思う」


 正直に答えた。間違いなくそうするだろう。

 社会的な規範が、僕個人の価値観を超えることは絶対にない。なるべく両者が一致するように願うしかない。


「まぁ、あちらの国からも接触があったようですし、お話を聞く限りでは我々の側に立っていただいた点は評価できます」

「そう言ってもらえると」大袈裟に嬉しそうな顔をしてみた。効果は未知数だ。「とても助かる」


 思いもよらぬところでポイントを稼げた。シリカさんの誘いを断ったのは、僕の我が儘でしかなかったのだけれど、説明以外のものを汲んでくれたらしい。


「次からは、どうか先にご相談ください」

「うん、まぁ。できれば僕もそうするよ」


 公安を信頼していないわけではない。今回は特殊な状況だった。この点はどこまでいっても平行線で理解してもらえない。


「あ、ところでさ」


 話題を変える。空気を換気するように、それが何かしらの改善に繋がるかもしれないと考えた。


「妹に耳打ちされていた時、本当は何を言われたの?」

「え」ナイトウが目を丸くする。

「ほら、セドリック氏の家に向かっていた時の飛行機で」

「あれは、前にもお伝えした通りです。公安局の内部情報ぐらい把握できる、とうようなことを言われました」

「それ、ディティールが省略されてるんじゃない? 様子がおかしかったから」


 それぐらいの脅しなら、あの場で耳打ちしないだろう。ナイトウ以外は僕と部下なのだ。この疑問は、密かに持っていた隠し玉だった。


「スズさんから、何も聞いていませんか?」

「何を?」


 僕が訊き返すと、ナイトウはじっと僕の顔を見た。疑心暗鬼のようである。しばらくそうしていたが、やがて情報が不足していると判断したらしく、会話に戻った。


「スズさんは、貴方と私を仲違いさせたかったのだと思います。元はと言えば、私がスズさんの能力を疑ったのが原因かもしれませんが」

「悪口でも吹き込まれたの?」


 だとしたら興味があった。妹が僕のどの部分を悪いと評価しているのか知ることができる。


「いえ、そうではなく」ナイトウは否定した。言うべきかどうか迷っている様子だった。

「公安程度の情報は何でも知ることができる。私の下着の色まで分かる。兄に教えておく、と言われました」

「それはまた」吹き出してしまった。ナイトウが真剣な表情で言うので、それがまたおかしかった。

「信じたの? それ」

「あの会議室の情報を引き出せる程の能力なら、それぐらいはできるかもしれないと思わされました」


 真面目な口調で返される。いくら妹でも、オフラインの衣類までは無理だろう。公安の私室に監視カメラが仕掛けられているかもしれないという心理を利用したに過ぎない。


「黒、とか」


 言ってみる。


「は?」

「いや、ごめん。忘れて」


 失言だった。両の掌をみせて、降参する。


「黒がお好きなのですか?」

「悪かった。本当に」


 ナイトウが脚を組み直す。妹の目的が仲違いなら、その目的は遅れて達成されたことになる。ナイトウの態度が冷淡なものに変わっていく。


「本当に反省してます?」

「してる。今度は本当に」

「今度は?」


 火に油を注いだと気付く。


「先程は反省していなかったということですか?」


 僕が原因で、更に自分の言葉でヒートアップしているようだ。けれど、マッチポンプだと指摘したら、間違いなく爆発する。


 パラシュートはどこだろう。

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